物集女城跡 

 (もずめじょうせき)

                       

応仁の乱の頃の国人物集女氏の居城跡

              
物集女城跡
土塁
土塁と堀
桜
□物集女城について
  乙訓の地は弥生時代から長岡京遷都そして近代に至るまで文化、交通の中心地として栄えた町であり各地に遺跡や文化遺産が多く残っています、その中で余り知られていませんが物集女城についてご紹介します、場所は物集女街道と久世橋通りが交差する御所海道の交差点を一筋南に下がり少し西に入った所です。今は土塁と城の池があるだけですが物集女公民館には城の復元模型もあり、阪急洛西口駅が出来てからはハイキングで訪れる人も増えてきました。  

■1 歴史
  時代は今から500年以上前の応仁の乱が始まろうとしていた頃です、この地域を本拠とした国人(土豪)物集女氏の居城跡と考えられ、石垣や天守閣がある城では無く居館には小規模な土塁や堀といった防御機能を備えた「土づくりの城」(城館)です。物集女氏はこの地を治めていましたが、織田信長が山城地域を鎮圧し後、細川藤孝がこの一帯の一職を与えられ国人らの領土を安堵しました、安堵を受けた国人らは勝竜寺城の藤孝のもとにお礼に参上しましたが、物集女氏の当主忠重入道宗入は代々自分の領土であり参上するいわれはないと拒絶したため勝竜寺で誘殺され以後衰退しました。城跡は土塁と濠により確認でき土塁は幅7〜12m、高さ1〜1.5mの規模で北東と東の45mが残っています、堀は5〜10mあり深さは1m以上あります、こうした遺構から城は東西100m、南北75mの規模を有していたものと推定できます、敷地内は中央で二段に分れており西側が城主の居館のあった主郭、東側が配下の者達の住居等の副郭で、大きなムクの木があり櫓跡と思われます、発掘により乙訓地域ではほとんど出土しない緑釉陶器などが出て有力者がいた事が伺えます。  

■2 現在
 10年ほど前に府道が拡幅され交通量が増え、阪急に続きJRにも新駅が出来る予定です、工場の跡地の開発も進みショッピングモールが出来る予定です、向日市の北部地域は活気があふれてきました、人口も増え道沿いには新しいお店も増えましたが、まだ田畑や竹やぶが残り緑も豊かです、調和のとれた街になりつつあります。

■3 散策
  また、この地域は中海道遺跡(弥生時代の複合遺跡)の中心であり1,800年も前から物集女集落の中心地としての人々の生活の足跡が残されている所でもあります。先日は学生のボランティアたちが土塁の竹林をきれいにして土塁ウォークもありました、ここより南には物集女車塚古墳や桓武天皇皇后御陵があり、竹林も竹の径として整備されました、写真の桜ももうすぐ咲きますし、みなさんも一度訪れられてはいかがでしょうか。   

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