| History of Egypt:(1)Ancient Times |
|---|
人類の曙から約四千年以上の歳月をかけて、西アジアやアフリカから渡来した諸民族によってナイル河畔の沼沢地が徐々に開拓されていった。これが古代エジプト文明のはじまりである。最初は単純な村落のちらばりにしかすぎなかったこうしたコミュニティは、次第に農業や機織り、牧畜、石器や陶器の製作といったさまざまな技術を覚えていった。やがて大集落がつくられ、人々は日干し煉瓦で家を建て、ナイル川のもたらす水で耕作地をうるおし、硝子や銅の加工を行うようになった。
古代エジプトは、大きく二つの地域に分かれて発展を遂げた。西アジアやリビアから大きな影響を受けたナイル川河口デルタ地帯“下エジプト”と、アフリカに近い南方の中流域“上エジプト”である。それぞれの地域には王国が成立したが、やがて紀元前3100年ごろ、上エジプトによって下エジプトが征服され、エジプト初の統一王朝が成立した。
エジプト最初の統一王はメネスという名であり、首都は下エジプトの南部に位置するメンフィスに置かれた。彼の後を継いだ二つの王朝は“初期王朝”と呼ばれ、王の墓所はサッカラやアビドスの地に造営された。
第三王朝から第六王朝までの時代を“古王国”と呼ぶ。この時期に世に言う大ピラミッドが建設された。サッカラに造営されたエジプト最初のピラミッドは階段状であり、建築家であり博学な書記でもあった賢者イムヘテプによって建設された。イムヘテプは医者、あるいは魔術師として名声を博し、やがて神格化されるに至った。古王国時代の技術進歩の多くは彼によるところが大きいといわれている。
現在最も有名なギーザの大ピラミッド群は、第四王朝期にクフ、カフラー、メンカウラーという三人の王によってそれぞれ建設された。当時は巨大な参道でつながった葬祭殿が河畔に併設され、非常な威容を誇っていた。また、王権の象徴であるスフィンクス像はカフラー王のピラミッドの参道を見下ろす位置にあたかも狛犬のように鎮座している。これらのピラミッドが建てられた時代は、古王国時代でも最も富裕で繁栄した時期であった。
第五王朝の頃から、神官も兼ねたエジプトの王たちは自らを太陽神ラーの子と称し、神々に捧げる荘厳な神殿を造営した。王は神々の力を受け継ぐ存在であると見なされ、強大な権力を誇ったのである。しかし、第六王朝に入ると、地方貴族の力が次第に増し、王権とともに国は弱体化していった。王の威光が薄れるにつれ、エジプトの統一は崩れていき、やがて群雄割拠の時代が訪れた。古王国はここに終焉を迎えた。
ナイル河畔の各地に有力な諸侯が乱立して覇を競った戦乱の時代は約百五十年の間続いた。やがて、ナイル中流域の都市テーベの諸侯が王国を再びまとめあげたことで、二度目の統一期が始まった。第十一王朝と第十二王朝から成るこの時代は“中王国”と呼ばれる。中王国のエジプト王たちは、反抗を続ける地方貴族たちを屈服させると同時に、アジアからの侵略に対抗するためデルタ地帯に防壁を築くなどして国の強化につとめた。また、大規模な都市計画も実行され、その代表がピラミッド建設のために造られた“労働者の街”(ワークスマンズ・ヴィレッジ)であった。また、この頃は美術工芸に大きな力が注がれ、その精華は現在もカイロ博物館などで見ることができる。
第十二王朝は、ナイル上流域にあってエジプトの威令に服していなかったヌビア地方の征服を行った。エジプトの領土はかつてないほど広がり、パレスチナをはじめとする異邦から数多くの貢ぎ物が王の宮廷に差し出されるようになった。
しかし中王国の繁栄も永続はしなかった。第十二王朝が途絶えるとエジプトは再び分裂状態に陥り、外国人であるヒクソス族による屈辱的な支配に甘んじることになった。ヒクソス族はエジプト文化を受け入れて統治を行ったが、この異民族支配はエジプト人にアジアへの抜きがたい遺恨を残すこととなった。
ヒクソス族の支配を脱して新たな王朝を築いたのが、テーベに拠点を置く第十七王朝だった。彼らは勇猛果敢に異民族と戦い、“新王国時代”の幕を開けた。これに続く第十八王朝は、デルタ地帯とパレスチナ南西部、そしてヌビアとリビアにおいて次々とヒクソス族を打ち破り、強大な統一王国としてのエジプトを取り戻すことに成功した。強大な王権のもとでエジプトは比類無い軍事大国となり、トトメス1世は遠くシリアやユーフラテス河畔にまで遠征を行うようになった。彼はまたカルナックにアメン神を奉じる大神殿を増築した最初の王だった。
クレオパトラと並んで有名な女王であるハトシェプストが登場したのもこの時期であった。継嗣であったトトメス3世をさしおいて女王に即位した彼女は辣腕ぶりを発揮し、侵略活動をひかえて国内の整備に力を傾注した。だが、その死後に実権を取り戻したトトメス3世によってハトシェプストは公式の記録から抹消され、建物からはその名前が削り取られることとなった。
後に最も偉大な王とも呼ばれたトトメス3世は、先王ハトシェプストとはうってかわって積極的な軍事行動に出た。エジプトの支配に反抗していたシリア、パレスチナへの大規模な遠征を行ったのである。この遠征は実に十七回にも及んだ。彼の軍隊によって征服されたアジアの各地は貢ぎ物と人質を強要され、エジプトの宗主権のもとに置かれた。トトメス3世大王の時代、エジプトははじめて世界帝国として覇を唱えたのである。
トトメス3世の二代後の王アメンホテプ3世は、ルクソールに大神殿を建設し、カルナック神殿もこのときに巨大な塔門やスフィンクスが付け加えられ、更なる威容を誇った。彼の時代は第十八王朝最大の繁栄期であり、諸国からの献納が引きも切らず王宮にやってきたといわれている。
その後を継いだアメンホテプ4世の時代、エジプトを揺るがす大宗教改革が行われた。突然、アメンホテプ4世はヘリオポリスの街で信仰されていた太陽神アテンを唯一の神とするよう全国に布令を出したのである。太陽円盤で表されたこの神以外への信仰は禁止され、特に古来、最高神として崇敬を集めてきたアメン神への信仰は厳しく弾圧されたのである。アメンホテプ4世自身もアクエンアテンと改名し、都もテーベから新しく造営されたアケト・アテンへと遷された。しかし国中がこの改革に忙殺されている間、エジプトの勢威はいちじるしく減殺された。西アジアの領土は無視され、やがて帝国の支配を脱していったのである。
そしてアクエンアテン王が没すると、すぐさま宗教的な巻き返しが始まった。新王ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)はアメン神および多神教への復帰を宣言し、省みられなかった諸神殿の修復や造営を精力的に行った。彼の早逝の後を継いだ二人の王もまた旧教への回帰を目指すとともに、失墜した対外的威信を回復するために遠征を行った。
続く第十九王朝は、創始者であるラムセス1世、その子セティ1世、そしてラムセス2世大王によって代表される。この三人の王の治世に、パレスチナやシリアは再びエジプトによって征服された。そして、再び帝国としての勢威を取り戻したエジプト王国は、その頃小アジアに興隆していたヒッタイト王国とたびたびぶつかるようになった。
ラムセス2世は古代エジプト史上最強の王であるといわれている。67年におよぶ治世と90歳という長寿に恵まれた彼は、百人以上の子供を残したことでも知られている。ラムセス2世の時代にエジプト王国は空前の領土と繁栄を極めることとなった。彼はまたアブ・シンベルの岩窟大神殿をはじめ、ラムセウム葬祭殿、カルナック大神殿の大柱殿などといった現代も数多くの観光客を集める壮大な建築物の造営者でもあった。ヌビア、リビア、シリア、ヒッタイトとの矢継ぎ早の戦いに赫々たる戦果をあげたラムセス2世の戦いぶりは、ヒッタイトとの「カデッシュの戦い」を描いた壁画に記されている。
ラムセス2世の栄光の後、エジプト王国はゆっくりとした衰退の道を歩み始める。第二十王朝には前代に匹敵するほどの偉大な王はついに現れることなく、王の威信の低下とともに国の統一は麻のように乱れていった。そして、この王朝の終わりとともに都はナイル中流域のテーベからデルタ地帯のタニスへと遷り、世界帝国の威容を誇った新王国時代は終わりを告げた。
タニス遷都以後、約750年間に渡る非常にゆっくりとした衰亡の時代を“末期王朝”と呼ぶ。タニスを都とした第二十一王朝(ちなみにこの王朝はヘブライのソロモン王と同時代である)が終わると、エジプトはリビア人の王によって支配されるようになった。だがエジプト全土に威令を発したわけではなく、テーベなどの上エジプトでは別の王朝が立つなど、常に対立する王朝が並立していた。
この王朝の後、エジプト王はほとんど諸侯を掌握することができず、首都もメンフィスやサイスといった街を転々として、ナイル川流域は事実上の分裂状態に陥った。特に奥ヌビア地方でクシュと呼ばれる強い王国が建設され、幾度となく川を下って征服活動を行った。また、西アジアに勃興したアッシリア王国の脅威はエジプトにも及んだ。紀元前671年、アッシリアはナイルデルタ地帯を奪取して貢ぎ物をとった。エジプト王朝はアッシリアの支配下に置かれたのである。
アッシリアの支配はまもなく終わったが、外国の侵略はこの後も続いた。紀元前525年、アケメネス朝ペルシアのカンビュセス王の軍隊がエジプトに侵入し、当時の王を追放してデルタ地帯を掌握した。以後、幾度かの反乱と再征服を経ながら、ペルシア帝国のもとでエジプトの王朝は細々とその命脈を保っていった。
末期王朝時代のエジプトは、王国としての勢威は退潮だったが、美術工芸など文化面では繁栄した。この時代に造られた美術品が現在もカイロ博物館の所蔵品の多くを占めているのがその証拠である。
ギリシアのマケドニア王国に現れたアレクサンドロス大王は、紀元前332年、エジプト人最後の王朝である第三十一王朝を征服し、エジプトはギリシア人の支配下に入った。大王はペルシア人からの解放者として歓迎され、彼自身もエジプトの文化に対して寛容な姿勢を見せた。アレクサンドロスは自分の名をつけた港都をデルタ地帯西部に建設した。これがアレクサンドリアである。
アレクサンドロス大王が紀元前323年に早逝すると、大王配下の将軍であったプトレマイオスがエジプトの統治権を握った。彼はやがてエジプト王を名乗って古代エジプト王国最後の王朝となった“プトレマイオス朝”を創始した。彼ら新来の支配層は地元民のエジプト人に比べて極めて少なく、ギリシア文化はエジプト人たちの生活にほとんどまったく影響を与えなかった。逆にギリシア人のほうがエジプトの文物を取り入れ、世に言うヘレニズム文化を生み出していったくらいである。地元民の蜂起もないではなかったが、前時代にペルシアの支配をはねのけたほどの反乱はついに起きなかった。
非常に有名な女王クレオパトラ7世はプトレマイオス朝最後の王となった。新興国ローマの伸張に対して、有力者ユリウス・カエサルと提携することで王権の存続をはかろうとした彼女だったが、カエサルがローマで暗殺されたためにその企図はついえた。そして、ローマ共和制末期の内乱で将軍マルクス・アントニウスに与したクレオパトラは、後に初代ローマ皇帝となったオクタヴィアヌスの前に敗北し、紀元前30年、アレクサンドリアで自殺を余儀なくされたのである。ここに三千年続いた古代エジプト王国は完全に滅亡し、以後、長きに渡る外国人支配の時代が始まったのである。
ローマによるエジプト支配は、クレオパトラが自殺した紀元前30年から紀元後642年のアラブ人による征服まで、実に七百年弱にわたって続いた。しかしこの間も、ギリシア人支配期と同様、支配層は外国人であったが、人口の大多数は地元のエジプト人で占められていた。決定的に変わったことといえば、エジプトはもはや一独立国ではなく、遠方のローマ皇帝によって総督を通して支配される一属州にしかすぎなくなったことであった。それでも、交易が盛んな上に肥沃で豊かなエジプトはローマ貴族にとって垂涎の的であり、帝国の歴史上、幾度となくエジプト総督による帝位奪取の陰謀が行われた。
ローマ支配の間、エチオピアをはじめとする外国の侵入は終息したわけではなかったが、エジプトの国境はアウグストゥス(オクタヴィアヌス)の定めた線からほとんど動くことはなく、安定した状態を保っていた。
一方、ローマ帝国で次第に勢力を強め、やがて国教にまでのしあがったキリスト教は、エジプトではアレクサンドリア教会が中心となって、コプト語(アルファベットを用いた古代エジプト語由来の土着語)を通して普及していった。このコプト派キリスト教会は、西暦451年に開かれたカルケドンの公会議でキリスト単性論を支持したために、ローマ・カトリックや東方正教から独立した存在となった。
ローマ人支配はあっけなく終わった。西暦395年にローマ帝国が東西に分裂した後、エジプトは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の保護下に置かれた。このとき、古代エジプトの宗教は帝国によって徹底的に弾圧され、かつての神殿はすべてキリスト教会や修道院に改修を余儀なくされた。しかし、イスラムを奉じるアラブ人の台頭は帝国をおびやかしつつあり、本国の防衛に傾注した帝国政府の方策によってエジプトは事実上無防備なまま見捨てられた。そして西暦640年、アラブ人の将軍アムルに率いられたわずか四千名のイスラム軍がエジプト侵攻を開始し、その二年後にはアレクサンドリアは和平条約によってイスラム勢に譲渡されるに至った。以後、エジプトは現在に至るまでイスラム教圏としての歴史を歩むことになったのである。
次へ(中世エジプト)