|
今日を限りでこの稲葉山城を去ることになる。明日からは、身代わりに弟の久作がこの城の人質となるのだ。半兵衛は、五つの歳から十になる今日までを、この稲葉山城で人質としての務めを果たしてきた。この美濃の国には居城稲葉山城を中心に幾つかの支城があり、それぞれの城を重臣たちが治めている。半兵衛は、その支城のひとつ大御堂(おおみどう)城を任せられている竹中重元の一子として生まれた。重臣たちは、斎藤家への忠誠の証を示す為に身内の者を人質として稲葉山城へ差し出すのである。 半兵衛は、暇乞(いとまご)いの挨拶をする為に、主君道三(どうさん)のもとへ向かった。五年前、泣きながら無理やりに連れてこられたこの城も、今となっては我が城も同然、去り難い思いである。
半兵衛は、主君斎藤道三に暇(いとま)の口上を述べた。
|
|
「それにしても光秀の奴、今頃どうしているであろうか。 其の方も知っての通り、光秀はこの国を去った。自らの運命を切り開く為に旅立ったのだ。天下を望んだのであろう。 わしは、あれを引き止める事ができたかもしれん。しかし、そうはしなかった。娘の帰蝶(きちょう)を尾張の織田信長に嫁がせずに、光秀に与えていれば奴の魂を繋ぎとめておくことができたものを。惜しいことをしたものよ。」 道三、さも大切な書画骨董を手放した時の様な表情を浮かべた。 「だがな、ひとつだけ忘れてはならぬことがある。光秀は一家臣であり、帰蝶は主君の娘、姫なのだ。姫を妻としたければ、一国一城の主とならねばならぬ。それ相応の力を持たねばならぬということだ。 ひとりの有能な家臣を手元に置くことと、自国にとって脅威となるであろう隣国と同盟を結ぶこととでは、到底秤(はかり)には掛けられないのだよ。」
半兵衛は、光秀について学問を学んだ。光秀は半兵衛よりも十五ほど年上で、文武両道に秀でた武将である。光秀もまた竹中家と同じく、美濃の国の支城のひとつ、明智城を任せられていた。光秀は温厚な人物で、幼いうちより学問に興味を示す半兵衛を、実の弟のように可愛がった。どちらかというと万事控えめな半兵衛も、光秀には様々な疑問を投げかけたのである。
|
|
その頃、隣国尾張の国では、織田信秀(おだのぶひで)が勢力を増し、美濃の国にも度々攻め込んでいた。その都度追い返しはしたものの、道三も寄る年波(としなみ)には勝てない。まして後継ぎの義龍(よしたつ)とは仲が悪い。ここは無理をして争うよりも、織田家と同盟を結びたいと考えたのだ。 丁度都合の良いことに、織田家には「うつけ」と評判の嫡男信長がいる。この時十五歳、娘の帰蝶と似合いの夫婦になるではないか。評判通りの男かどうかはわからぬが、それならそれで、いずれこのわしが織田家を乗っ取ってくれよう。 だが、今はまずい。息子義龍の不穏な噂が跡を絶たない。この問題を片付けねば、他国を攻めることなどできないのだ。 美濃の国を攻め倦(あぐ)ねていた織田信秀も重臣平手政秀(ひらてまさひで)を通じて、道三のこの申し出に即座に応じたのだった。こうして斎藤家と織田家の間に和議は成ったのである。
それから、五年の月日が流れた。織田信秀はすでに没し、家督を相続した信長は、同族との勢力争いに凌ぎを削る毎日であった。しかも、信長の乱行は修まらず、ついに主君信長を諌めて(いさめて)忠臣平手政秀が腹を切ったのである。
|
|
会見は尾張・美濃の国境にある富田村正徳寺で行われることになった。道三は光秀を連れ、事前に身を隠し遠目に婿信長を観察することにした。 織田の行列が、ふたりの前を通り過ぎて行く。当の信長はと言うと、高々と茶筅まげを結い上げ、腰にはたくさんの瓢箪を、そして虎と豹の皮を交互に縫い合わせた袴を身に付けて、逞しい駿馬に後ろ向きに跨っていたのである。 「光秀、あれを見てどう思うか。」 道三の問いに光秀は戸惑った。正直に言上(ごんじょう)して良いものかどうか。道三、そんな光秀の心中を察して再び忌憚(きたん)なく申せと付け加えた。 「恐れながら申し上げます。異装を好み、奇矯な振る舞いが目立つ、評判通りのお方とお見受け致します。平手政秀殿の命を賭した諫言も信長様の耳には届かなかったようでございます。」 「もうよいわ。」 道三、不機嫌そうに鼻を鳴らしたのだった。
会見の席上は緊張感を欠いていた。信長のあの姿を見ては仕方のないことかもしれない。半兵衛は小姓として、光秀も斎藤家の一族としてその会見の席に臨んでいた。道三の正室小見の方は、光秀の叔母にあたる。信長の到着は遅れ、斎藤家の者から欠伸(あくび)が漏れ始めた頃である。 |
|
半兵衛はと言うと、最初こそは信長の登場に驚きはしたものの、すぐに他の事に注意をひかれ、それどころではなくなっていた。それは、信長の伴をして現れた美しい姫に心奪われていたからである。日頃、合議の席上で交わされた言葉は、一言一句間違いなく諳(そら)んじると言われている半兵衛が、この日の会見では信長の「であるか。」の言葉以外に何も耳に残らなかったというのだから、相当のことであったに違いない。 ともあれ、会見は無事に終了した。道三は、婿信長に対する評価を改めねばならぬ口惜しさと、娘帰蝶の将来に対する安堵の入り混じった複雑な表情を浮かべていた。あの信長という男、やがては美濃の敵となるかもしれない。善く善く注意せねばならぬ、と監視を強めるように家臣に命じた。 帰りの道行き、光秀は半兵衛に、 「天下は広いものだな。」 と声を掛けた。その言葉を最後に光秀は美濃の国を去ったのである。
「其の方、あの姫のことを覚えているか。 |
|
「もう一度言おう。 信長殿の妹は姫である。姫を妻として迎えることができるのは、力あるものだけなのだよ。もし、どうしてもあの姫が恋しくば、一国一城の主となれ。それが適わぬならば、早々に諦めることだ。」 道三は、半兵衛を光秀に重ねていた。光秀も同じ様に、道三に問い詰められ、答えを出さなければならない所に追い込まれたのだ。 半兵衛は道三の言葉にただ項垂(うなだ)れるばかりであった。 自分も光秀であり、光秀が何故この国を去ったのか、子供心に少しだけ判ったような気がした。何やらやり切れぬ切なさが、半兵衛の胸に深く染みていった。 そんな半兵衛の思いを知ってか知らずか、道三は言った。 「最後にひとつ、御伽噺(おとぎばなし)を語って聞かせよう。」
昔、あるところにひとりの男がいた。 |
|
だから、寺もそうした者たちを優遇する。今は出家の身とて、当主にもしものことがあれば、将軍や大名にもなろうかという血筋なのだからな。 お前のような名も無き生まれの者が、この寺で修行できるだけでも有難いと思わねばならぬ。なあに、心配することはない。お前ほどの学問や教養があれば、いつかは小さな寺のひとつも任せられるようになる。辛抱しろ。真面目に務め上げるのだ。 身分が違うのだからな。」 男はその夜、寺を逃げ出した。 その後、男は油問屋に奉公して、油売りを生業(なりわい)とするようになった。 男には学才だけでなく商才もあったのだ。めきめきと頭角を現し、男は油問屋の主人に認められ、娘婿へと迎えられた。男の才覚により、その油問屋は瞬く間に店を大きくしていった。しかし、男は油問屋の商売が軌道に乗ると、家業を妻や店の者に任せて、またもや姿をくらましてしまったのだった。 男は商人としての成功に飽き足らず、侍への道を模索していたのである。 男は寺で高僧に言われたことを忘れてはいない。身分卑しき生まれの者には出世の望みは無いと言われたことだ。それなら、名も無き生まれの者がどこまでやれるものか、試してみたくなったのだ。 油問屋の成功のおかげで軍資金は潤沢にある。修行僧時代に培った"高貴な血筋"との縁を頼り、仕官の口を捜したのだ。かつての修行仲間は、今では高僧となっており、なかには還俗(げんぞく)して名だたる武将となっている者もいた。 男はいろいろな国を見てまわり、熟慮を重ねた結果、ついに美濃の国に仕官することに決めた。 男は、軍資金にものをいわせ、兵を蓄え、実力を身につけていった。手広く商売をしていたおかげで、男は都で顔が利く。さらに僧時代に身につけた教養や行儀作法を生かして朝廷との交渉も一手に引き受けたのだった。 美濃の国主は、日に日に男を重く用いるようになり、気がつくと国主に次ぐ権力者になっていた。もうすでに、美濃の国は男の力なしには、成り立たぬようになっていた。 |
|
ついに男は決心した。飾り物でしかない国主を追放しようと。 誰もが男のことを蝮(まむし)と呼んだ。そして、男が美濃の国主を名乗る日が来た。 下賎の生まれであるひとりの男が、自らの才覚ひとつで、一国の主にまで登りつめたという話である。
「どうだ、少し退屈だったかな。」 |
|
「殿、いつの日か、難攻不落を誇る稲葉山城を乗っ取り、美濃の国主になってみせます。」 幼い半兵衛にとって、稲葉山城こそが美濃の中心であり、斎藤道三そのものであった。そして、稲葉山城こそが権力の象徴。これを手にするものこそがこの国を支配する者だったのである。 「よくぞ申した。それでこそ、この道三の家臣よ。 わしに隙あらば、いつでもかかってくるがよい。我が身中を食い破り、より強き美濃の国を造るのだ。」 道三は笑った。すごい笑顔であった。一代で一国の主にまで駆け上がった男だけができる壮絶な笑顔であった。まさしく蝮(まむし)であった。
半兵衛は稲葉山城を後にしながら、目から涙が溢れて止まらなかった。
半兵衛、十歳の春である。
左下のバナーをクリックすると、現在連載中の「半兵衛の物語」(最新版)にリンクします。 |
|