第一話 ☆あいさつ☆

XEBEC TOYS デビルマンシリーズについて、わたしの知る限りの情報について、公開したいと思います。なるべく詳しく、情報の発信源も記すようにしますので、新情報や訂正情報等がありましたら、連絡書き込みよろしくお願いします。

第二話 ☆カラバリ☆

XEBEC TOYS デビルマンシリーズが始まったのは1998年の夏、それから2000年の夏までおよそ2年間続きました。
その間、同じ型から14種類のカラバリ(カラー・バリエーション)が発売されたのです。その彩色の見事さは、玩具の域を越えた仕上がりと言えるのではないでしょうか。そして、それらを並べ一望に眺めた時、アンディ・ウォホールのポップアートを彷彿とさせる美しさなのです。そのどれもが素材を侵すことのない自然な仕上がり、他に類を見ない商品、いや作品でしょう。
このような商品が生まれた背景、そこにはフィギュアというよりも、ガレキ(ガレージ・キット)における技術の集大成、進化の形を感じてならないのですが、それについてはここでは語らずにおきます。

第三話 ☆フィギュア☆

AF(アクション・フィギュア)とは、古くはGIジョー、変身サイボーグ、ミクロマンといったものを想像していただければよいと思います。(そんなもの知らないという方は、全身可動人形と思ってください。)サイズは15Cm前後で、ブリスター・パック入りの商品、値段は三千円前後というところでしょうか。
GIジョー、変身サイボーグと異なる点は、着せ替えセット(別売り)がないというところです。一般に衣服が本体(人形)と別の材質で、取替え可能なものをドール、同じ材質もしくは一体成型のものをフィギュアと呼んでいますが、区別は定かではありません。

第四話 ☆ブリスターパック☆

ブリスターパック入り商品について。ブリスターパックとは厚紙の台紙に透明なカバーが被せられ、その中に商品が入っているものです。この形式は、商品が不定形となるために在庫保管や流通時に扱いにくいものですが、店頭に陳列される際には、商品の中身を余すところなく確認でき、ディスプレイの観点からは優れています。通常は上部にフックがついており、重ねて吊り下げされるので、店内ではそれほどスペースは必要ありません。
もうひとつ重要な点は、不定形なため壊れやすく、たとえば透明カバーが破損したり、台紙が折れてしまったりすることです。さらに、この商品で遊ぶためには、ブリスターパックを破り、商品を取り出さねばならないわけですが、一度ブリスターパックを開けてしまった商品は、傷ひとつ無い物であっても、使用済みという判断になります。
以上の理由から、ブリスターパック入り商品は、美品(完全な状態の商品)のまま保存するのが難しいのです。
このように面倒なアイテムですが、そんなところがマニア心をくすぐるとも言えるでしょう。
マニア・コレクターは常に完璧なものを追い求めているのです。

第五話 ☆レアその1☆

前回説明した通り、このシリーズには14種類のカラバリが存在し、一度生産したカラーの商品は二度と造らないのが建前となっています。さらに生産数も少ないもので300個、多いもので6000個ほどが造られています。
市場の需要にもよりますが、この種の商品に関しましては、およそ三千個の生産で、慌てなくとも入手希望者の手に届くのではないでしょうか。(もちろん、発売から半年、1年と経過すれば、捜すのに手間がかかることもあります。)
この中で、レアと呼べるのは生産数がおよそ千個以下のものです。それでもイベント会場でもない限り、一気に品切れとなることは少ないのではないかと推測されます。

第六話 ☆レアその2☆

この商品は、同じ物を再生産せず、原則として生産量も限定されていますので、ある一定期間が過ぎれば、やがて店頭からは姿を消していきます。そうなれば、後はマニア・コレクター間や、中古玩具市場、オークションなどでしか取引されないものとなります。

生産数の多寡もありますが、実際に未使用で美品(良い状態)が、どれほどあるのかは、誰にもわからないのです。
希少度(レア度)の高い商品ほど、一般には評価が高いとされています。しかし、単純にそれだけで評価を下すのは難しいようです。同じ型から少数生産して、シリーズとして売れば簡単にレア物を造ることができますが、その出来具合、質を十分に吟味する必要があるでしょう。
とは言っても、完集(シリーズの商品をすべて集める。)を目指すマニア・コレクターにとっては、見逃すことのできない、泣き所のアイテムです。その仕上がりと評価額の間にあまりの隔たりがあると、興醒めしないわけではありませんが。

第七話 ☆初版物☆

次に初版物という評価基準。書籍などでは一般的な評価基準となっているようです。書籍の場合は、装丁や本の後ろで確認できますが、このシリーズの場合は、その色で発売順序を知ることができます。
商品は、時とともに生産技術の向上、市場の意見を反映した付加要素を盛り込み、形を変えて進化していきます。
それならば、新しいものほど優れているのか。いや、そんなことはありません。
特にシリーズ化された商品というのは、その原点にこそ成功の秘訣があり、その進化の過程を見ることによって、商品の素晴らしさを再認識することができるのです。あくまで初版あってのシリーズ化なのです。
一般論として早く出たものほど価値があります。発売順序について知識を持つことは、マニア・コレクターにとっての楽しみとも言えるでしょう。

第八話 ☆シリーズ☆

次にシリーズ物という評価もあります。もちろん、単品でも優れたものはたくさんありますが、単品ではそれひとつ手に入れた時点で完集ということになります。これではマニア・コレクターを満足させることはできません。
この XEBEC TOYS デビルマンであれば、カラバリの14種類がひとつの括りとなりますし、 XEBEC TOYS というブランドにより、さらに大きな括りができるのです。
(XEBEC TOYS にはタイガーマスク、北斗の拳、ガメラ、エヴァンゲリオン、ゲッターロボなどのシリーズがある。)
さらに、アクション・フィギュアという分野で括ってみるのも面白いかもしれません。

第九話 ☆話題性☆

愛好家を満足させるためには、飽きさせず、質を落とさず、ある期間内に注目を集め、魅了しなければなりません。話題性、そして、記憶に残ること。それが成功した時、はじめてその商品は後世に付加価値を持った商品として復活することができるのです。
話題性、その商品が後世に付加価値を得るためには、ある程度の知名度が必要になってきます。その認知度が一般的なものなのか、愛好家の間でのものなのかは微妙な問題ですが、そういった付加価値を尊重するのが愛好家であることを考えると、後者の方が重要な気がします。
その商品が、ある一時期、熱狂的な愛好家に支持され、その脳裏に熱く焼き付けられることによって、その想い出が後に付加価値を産むことになるのです。

第十話 ☆イベント☆

この XEBEC TOYS の商品は、東京ビックサイトで、年2回行われている、ガレキの国内最大級のイベントで、数年に渡り会場限定商品として販売されました。(イベントの主催企業が、XEBEC TOYS のメーカーでもある。)
つまり、マニア・コレクターに、十分に認知されたメーカー、ブランドの商品なのです。
けれども、これだけの条件をすべて満たしていれば良いというものではありません。最初から狙ってできるものではないのです。後世の愛好家によって、どれだけの支持が得られるのか、それは誰にもわからないのです。

第十一話 ☆ネットの力☆

XEBEC TOYS はメーカー直営店、ホビー専門店、某全国チェーンのおもちゃ屋などで買い求めることができます。但し、生産数の少ない限定商品などは、直営店でないと買うことは難しいようです。
そのような商品は、特別なイベントやフリーマーケットで求める他にはありません。かつて、愛好家はレア・アイテムを求めて、商品代金より経費がかさむのも、ものともせず各地を転戦したものです。目当ての商品に出会った時、ここで買わなかったら、今度はいつ出会えるのか。などと、つい高額商品に手を出していたのです。
しかし、それも今は昔。
ネットを活用すれば、いとも簡単にしかも幾分お安く、欲しいものが手に入るのですから、良い時代になったものです。
決して商品の価値が下がったわけではありません。今までの苦労(経費)がなくなり、額が下がっただけなのです。愛好家にとって、多分喜ぶべきことなのです。

第十二話 ☆流行☆

限定生産などの場合、その商品が発売されると同時にプレミアがつくことがあります。人気絶頂期に起こりうる現象です。流行に乗った商品は、その期間内は無敵状態とも言えます。誰がなんと言おうとも最高なのです。
しかし、往々にしてそれは一時の熱病であり、いや単なるインフルエンザの如きものかもしれません。(定期的にやってきては、ひととき人を狂わせる。)少し、時間をおいて冷静にその商品を鑑賞してみようではありませんか。嵐のような流行の過ぎ去った、静けさの中で、手元に残ったガラクタ、いや商品と戯れるのも一興でしょう。 高付加価値商品と、ガラクタは紙一重なのです。そして、そのガラクタを愛せるようになった時、あなたは愛好家と呼ばれることになるのです。

第十三話 ☆時代☆

時代、時の流れによる評価の変化と確定。
その商品を正当に評価するためには、やはり十分な時間が必要ではないでしょうか。時が立ち、忘れた頃にまた出会う。その頃の想い出がよみがえる。熱くなった自分が照れくさくもあり、いとおしくもある。
時間をおくことによって、どれだけ深く想い出に刻み込まれているか、再確認できるのです。
ここでひとつ、誤解を招かないように付け加えておかなければなりません。古ければ古いほど良いということではないのです。古いということは、破損や遺失などによって数が減るということ、想い出によって商品が美化されるということ、歴史によって重みが加わるということ、などの利点があります。
但し、あまり時が立ち過ぎると、本当に忘れ去られてしまうという欠点があります。たとえば、ビートルズという音楽。その音楽を熱狂的に支持した世代がいます。その人たちの成熟とともに、ビートルズの評価は最盛期を迎えるでしょう。しかし、やがて年老いて消えていった時、その音楽は純粋に音楽として評価されることになります。
その時代を象徴したクラシックになっていくのです。

第十四話 ☆物語☆

その商品、フィギュアが全くのオリジナル作品である場合、造形作家の想像力から生み出されたもの、もしくは知名度の低い題材を取り上げた場合は、作品の出来具合だけで、評価をしなければなりません。
もちろん、造形作家自身にネーム・バリューがあれば、評価はプラスされるわけです。
そのフィギュアが、すでに確立されたキャラクターである場合、ある作品(マンガ・アニメ・映画・TV・ビデオなど。)によってストーリーを与えられた存在である場合は、フィギュアとしての造形以上の付加価値を得ることができます。
フィギュアに、単なる造形として以上に、物語としての背景があれば、イメージはさらにふくらみ、もしそれが名場面、重要シーンの再現であるならば、物語をも取り込んだ造形となるのです。造形と物語は、相乗効果をもたらし、新しい世界を構築するのです。
永井豪の、このデビルマンという作品は、70年代前半にこの作品と衝撃的な出会いをした者たちにとって、忘れ得ぬものなのです。その思いが、このフィギュアの価値をより一層高めるのかもしれません。

第十五話 ☆復刻版その1☆

再販という問題があります。かつての人気商品に対して復刻の要望が強い場合、メーカーの判断で絶版・製造中止となっている商品を再度販売することです。言葉にすれば簡単なこの復刻、愛好家にとっては恐怖と歓喜の入り混じった複雑な行為なのです。
定価100の商品があります。二十年の年月を経て、現在愛好家の市場で150の評価を得ているとします。製造中止になってからも、すでに十数年が過ぎました。ここで、市場の要望が高まり、メーカーがその商品の復刻を決断したとします。
その時、この商品の評価はどうなるでしょうか?もし、復刻版の定価が100だとすれば、おそらく原版も100まで評価が急落するに違いありません。復刻版が原版と全く同じ仕様、パッケージであるならば、新しく綺麗な分だけ、復刻版の方が良いため、原版の評価は100を割ることもあるかもしれません。
しかし、このような行為は長い間、商品を大切に保存してきた愛好家の信頼を裏切ることになり、そのメーカーは愛好家によって評価を下げる結果になりかねません。愛好家の市場において、そのメーカーの商品には付加価値が付きにくくなるということです。

第十六話 ☆復刻版その2☆

メーカーも商売です。市場の需要があるのならば、復刻したい。売れるものなら売ってしまいたいのが人情です。まして、プレミアというのは、愛好家の市場での話。それで、メーカーが直接潤うわけではありません。(宣伝効果はある。)あくまで、メーカーは定価販売なのです。
そこでメーカーも復刻版を販売する際には、原版と一部仕様を変更する。製造年月日を入れる。パッケージに復刻版であることを明記する、などして、判別が付くように工夫をします。さらに原版の定価にプレミア分を付加した価格設定を行う場合もあります。
これで原版の評価急落を幾分防ぐことができますが、そこまでしても復刻版の販売は、多くの場合原版にとってプラスにはならないようです。
持つ者、持たざる者、前者は恐怖し、後者は歓喜する。復刻版とは、そうした存在なのです。

第十七話 ☆儚さ☆

儚さという言葉がある。形あるものは全て壊れる。だからこそ古いものを大切に守っていかなければなりません。ダイヤモンドは傷つかないけれど、その価値は美しさと圧倒的な希少性に由来するものです。ほとんどのものが、造られた後、老朽化への道を辿る運命にあります。長い年月、損ずることなく最良の状態で保存され続けたものにこそ価値があると言えるでしょう。逆に言えば壊れやすいものほど、評価は高くなるのです。
書物などは、その代表と言えるでしょう。その昔、人は書物に知識を求めて写本を繰り返しました。印刷技術の発展により、誰もが簡単に同じ書物を手にすることができるようになりました。そして、今やデジタルの時代です。一度、原版をデジタル化してしまえば、いつでもどこでも要望に応じて、複製可能なのです。
デジタルは二次元(平面)の世界だけではありません。三次元(立体)にも適用可能なのです。材質でも、色でも、数値化することができます。デジタルはものに永遠の命を与えます。
しかし、できないこともあるのです。ものの儚さを愛でる心だけはデジタル化できないに違いありません。

第十八話 ☆材質☆

素材による感覚。玩具と言えば古くは木製・土製・紙製、大量生産時代になってからは、ブリキ製やセルロイド製、そして今はソフビ(ソフトビニール)にプラスチックです。プラスチックは素材が固めなのでプラモデルなど少々年長者向け、小さな子供にはソフビといったところでしょうか。しかし、そのソフビも一部で有害性が指摘され、今後どのようになるのかわかりません。
それぞれの素材によって時代が反映され、その手触りが玩具の味わいを演出しています。ブリキの玩具は、今では少々高級な骨董玩具となり、現在の主流はやはりソフビということになるのではないでしょうか。
プラモデルも根強い人気、愛好家が厚い層を形成していますが、あくまで未使用、未完成品にしか価値がないため、飾ることができない分、損をしているかもしれません。
ガレキの世界ではレジンキャスト製(プラスチック樹脂)の重量感溢れる素材を用いた商品がありますが、原価が高いことと、製作時の難易度が高いため、ソフビほどの人気は無いようです。
現在のソフビ人気を作り上げたのは、かつてマルサン、ブルマークが販売したソフビ怪獣人形の功績であることは言うまでもありません。

第十九話 ☆寿司のネタ☆

寿司のネタは高級食材です。けれどもネタは新鮮さが命、古くなったら客には出せません。だからと言って、閉店間近に安売りしたら店の信用に関わります。そこで泣く泣く、裏のどぶ川に捨てるというわけです。
再販制度(再販売価格維持制度)と言って、出版物なども同じ様なことを行い、価格の安定を図っています。売れ残り商品は、すべて出版元が引き取って処分するのです。そうでないものは、小売店が自ら買い取りで販売します。安売りが可能ですが、売れ残りは自店責任となります。
ほとんどの商品は宣伝を行い、ある期間を商品寿命に設定して販促を行います。常に売れ続ける商品など稀であり、その寿命の過ぎてしまった商品は、当然店頭のお荷物となります。メーカーに引き取ってもらうか、安売りする他ありません。
言いたいことは、何となくわかっていただけると思いますが、玩具・キャラクター商品も、時の勢いに乗って発売されますが、やがてゴミ、ガラクタになります。余剰感のあるうちは商品に付加価値は付きません。それらがすべて一掃され、高い付加価値を持った商品として甦るかどうかは、愛好家次第なのです。
桜の花もいつかは散ります。忘れ去られたおもちゃを手に取り、もののあはれに想いを馳せてみるのも悪くはないかもしれません。

第二十話 ☆完成品☆

完成品とは、塗装済み完成品(スタチュウ)を指し、ごく一般的な商品です。それに対して非完成品、組み立てキットというのがあります。プラモデルを想像していただければ良いと思いますが、実はこの組み立てキットが、フィギュアには存外多いのです。
まず、この点についての評価ですが、原則として塗装済み完成品が前提となります。メーカー製造による一定品質の商品が、一定の数量だけ市場に出回るからです。幾ら希少でも、知名度の低い商品では評価は難しいでしょう。
次は、組み立てキットです。組み立てキットは未使用(未組み立て)が絶対条件となります。一度、組み立てられた商品は製作者の技量により、まったく別のものとなり、プロもしくはそれに準ずる者の作品でないかぎり、商品とはなりにくいのです。造るという楽しみを、すでに消費してしまったのですから、価値云々については、望むべきではないかもしれません。
では、組み立てキットの評価は低いのでしょうか?そうとばかりも言えません。箱に描かれたイラストで中身の雰囲気を味わう。おもむろにふたを開け、設計図を眺めながら、パーツをひとつひとつ確かめる。頭の中でキットの完成図を想像する。あそこにはこの色、ここにはあの色などとイメージを膨らませるのです。組み立てキットは、無限の可能性を秘めた未完成品とも呼べるでしょう。
但し、こうした楽しみは愛好家ならではのもので、お子様は決して真似をなさらないように、くれぐれもお願いします。

第二十一話 ☆仏その1☆

夏目漱石の小説に「夢十夜」というのがあります。ずいぶんと昔に読んだのですが、記憶の中ではこんな話になっていました。
十夜に渡って夢を見ます。さて、第何夜のことだったか、仏師の出て来る物語です。仏師とは、仏像を彫ったり仏画を描くことを生業にしている人のことです。
その夢の中で、仏師は次から次へと木片を刻み、「ここにはいない。ここにもいない。」と嘆いているのでした。
「一体、何がいないのです。何を探しているのです。」
仏師は答えた。「この中には仏がいないのです。私は仏を彫っているのではなく、この中に埋もれた仏を取り出しているのだ。」
人形を造ること、造形という行為は、このようなことなのかもしれない、という逸話です。
この話は、要約するために幾分内容を変えてあります。仏師というのが、実は運慶で鎌倉時代の人物、物語の舞台は明治ということになっています。このあと、男は自分でも仏を彫ってみようと試みるのですが、失敗します。
「やはり、明治の木には仏はいないのか。
 それで、運慶の生きている意味がわかった。」
本当は前半だけにしようと思ったのですが、面白いので後半も付け加えました。短い小説ですので、興味があったら読んでみてください。

第二十二話 ☆仏その2☆

いとうせいこう、みうらじゅん共著に「見仏記」というのがあります。内容は読んでのお楽しみというところですが、この本に出会い、ああそうだったのか、と目から鱗の落ちる思いを経験しました。
以前にも書きましたが、年に数回フィギュアのイベントが催されます。各地から大勢の人たちが集まり、長蛇の列をつくり、それを観ます。この姿こそ巡礼と呼べるのではないでしょうか。
そんな大袈裟なものでなくとも、最寄のフィギュア専門店の店頭にディスプレイされているものを観にいく。ひょっとしたら、これは「仏」を拝みに行くのだと、そう思ったのです。
もちろん、ここで言う「仏」は仏教とか、特定の宗教を指すものではありません。便宜上、「仏」という表現を借りているに過ぎないのです。「仏」とは、「魂」の宿ったもの、人により仮の命を与えられたもの、といった意味合いです。
たとえ、素材がプラスチックやソフトビニールだったとしても、それが人の形をした時、そこに「魂」が宿るものなのです。「仏」は見るものの「心」を映す鏡なのです。

第二十三話 ☆サイズ☆

フィギュアにとって、どれくらいの大きさにするのかは、永遠の課題なのです。
大きさ・材質・価格の間には、相関関係があり、この三つのうち二つの要素がわかれば、あとひとつは自ずと検討がつくものです。商品のキャラクター(例えば主役だったり、悪役だったり。)によって価格が大きく変わることはほとんどありません。人気の度合いによって、評価が異なるのは愛好家の市場であって、売価(メーカー希望小売価格)は原価(経費・労務費・材料費)プラス利益によって決まるわけです。
(塗装済み完成品は、組み立てキットより工数が多い分割増料金となる。)
それでは、サイズはどの程度が良いのか?どの大きさが良いのかは、一概には言えませんが、ここではコレクション(収集)を前提に考えてみたいと思います。
数多く流通している商品としては25Cm程度が上限でしょうか。それ以上は価格の面や設置場所に問題が生じます。下限は10Cm程度、理由は精密さにおいて無理があることと、塗装の難易度が上がる点です。もちろん、手間や工数を掛けた、小さく精度の高いものを評価するミニチュアの世界もあります。逆に小さいものでデフォルメ(変形)を楽しむこともできます。一個では、少し物足りないですが、数十、数百と揃えば壮観です。
次に縮尺問題。ミニチュア愛好家にとっては重要な要素です(ジオラマ作製等には不可欠。)が、フィギュア愛好家一般としては話が別。正確に縮尺表現するよりも、シリーズを通して同じ規格、同じ大きさに揃えてもらいたいのです。並べて飾った時、極端に凸凹するのは見栄えが悪いものです。(将来性のあるシリーズを選ぶことは、愛好家にとって必須条件です。)
あとは、自ら手に取り、感触、重量、色彩を確かめて好みの商品を選べば良いのです。

第二十四話 ☆鉄腕アトム☆

手塚治虫のマンガ、鉄腕アトムのことは誰でも知っています。そのアトムが成長すると人気が下がるという話があります。アトムを子供から少年へと少し背を伸ばして描くと人気が下がり、また元の子供に戻してやると人気が回復するというものです。
また、手塚治虫はマンガは記号だとも言っています。最低量の線を用いて、そのキャラクターを識別できれば良いということでしょうか。もう、近頃では珍しくはありませんが、SD(スーパー・デフォルメ)という2頭身のキャラクター・デザインの人気も息が長いようです。圧縮されたキャラクターには何か人気の秘密があるのかもしれません。
もっと突き詰めて考えれば、パソコンのアイコンです。いかに少ない文字数で情報を伝えるかという究極の形でしょう。アイコンは絵であり文字であり、限られたマスの中に凝縮された情報なのです。
日本にも短歌や俳句、限られた文字数で情景や心情などの情報をどれだけ伝えることができるかという趣向があります。
人形もまた、人を記号化したものです。その小さなヒトガタにどれだけの想い(情報)を込め、そして観るものがどれだけの想い(情報)を汲み取るかという遊びなのです。

第二十五話 ☆幻想文学☆

「夢十夜」を読んだのは、幻想小説名作選(半村良:選)の中のことなのです。文学の側面(小説や随筆)から人形を題材にしたものは多くあります。有名な作品に江戸川乱歩の「人でなしの恋」があげられます。(物語の中で描かれた人物もまた、作者によって造られた人形なのかもしれません。)
こうしてみると、何故人形を意識しはじめたのか、わかるような気がします。それは幼児期に怪獣人形で遊んだ記憶が基礎となってはいますが、それだけではないのです。少年時代に見たTV人形劇「新八犬伝」の衣装の美しさ。十台半ばに出会った幻想文学による影響の大きさも否定できません。そして、ガレキ(ガレージ・キット)の発見が、それを決定づけたと言っても良いでしょう。
それは単なる玩具というだけでなく、映像あり活字あり造形あり、何でもありの総合的な芸術を、人の形に集約したもの。だからこそ、そこに強く魅入られたのです。
入り口は人それぞれ、そしてまた何処へ辿り着くのかも、あなた次第なのです。

第二十六話 ☆付喪神☆

付喪神(つくもがみ)という、年古りた器物が変じて、妖怪になるという言い伝えがあります。
日常生活に使う何でもない茶碗や湯呑み、もうかれこれ十年も愛用しているだろうか。それがある日、何の前触れも無く壊れてしまった。安物である。また新しい物を買えば良い。どうということもないのだが、何故か心が疼く。一抹の寂しさを覚える。
付喪神が生まれるとは、そういうことなのです。
けれども、これは個人的な価値観で、どんなに長い間大切に扱っても、それだけで一般の評価が上がることはないし、付加価値が付くこともありません。
しかし、そうでないケースもあります。それを持つ者が著名な人物である場合です。それを持つ者の「名」が付加価値となるわけです。何かしら逸話があれば、さらに良いでしょう。加えて、それが多くの著名人の手を渡り、その来歴が明確になれば、もっと面白くなります。その来歴が、ものの素性の証ともなるからです。
物も人形も、人と深く関わることによって価値あるものに生まれ変わるのです。

第二十七話 ☆ギミック☆

ギミック、仕掛け・からくりという意味です。人形には、このギミックの付いたものが珍しくはありません。手足を動かす程度の動力を用いないギミックならば良いのですが、あまり大掛かりなものとなると、人形としての本来の姿とかけ離れてしまいます。フィギュアを鑑賞するうえで、少し邪魔な気さえするのです。
例えば、言葉を話したり、歩いたり、踊ったり、近頃では言葉を記憶し擬似的な会話が可能なものまであります。これらのからくり人形は、より能動的な存在なのです。これはこれで違う楽しみ方をするものとして、別の分野として捉えたいと思います。(からくり人形の項にて。)
人形の本質は、もっと受動的なものです。自ら動くことも、語ることもしません。ただ人に語り掛けられ、操られ、人の想いを受け入れてくれる存在なのです。誰にも見せない、もうひとりの自分を仕舞っておく器なのかもしれません。

第二十八話 ☆からくり人形☆

からくり人形、その言葉の響きだけで何故か胸ときめく思いがします。からくりとは「絡繰」、「絡繰る」糸を用いた仕掛けを操るというのが語源のようです。
からくり人形の歴史は古く、江戸時代にまでさかのぼります。当時のからくり師たちは平賀源内に代表されるような、万能科学者といった人たちだったようです。人形造りを生業としていたというより、いろいろな工夫発明をするかたわらで、その技術の応用や宣伝活動といった意味合いがあったようです。当時のからくり人形はあまりに高価で、玩具というよりは旦那衆相手の玩物(もてあそびもの)だったでしょうか。スポンサー集めにも一役買っていたかもしれません。
人形を動かすことによって命を吹き込む、という考え方もあります。人形が歩き出した時、何かを喋った時、やはりそこには驚きと感動があります。人形が人を楽しませる瞬間でしょう。人形がより人間に近づくこと。人間が自ら命を創造することは、尽き果てぬ夢に違いありません。

第二十九話 ☆びっくり箱☆

ふたを開けると、中からバネ仕掛けの顔が飛び出してくる。誰もが、そんな経験をしたことがあるはずです。びっくり箱に引っ掛かった者は、まだ知らない人を見つけては驚かせる。しかし、みんながその仕掛けに気づいてしまったら、この遊びは終わりなのです。
遊園地のアトラクションもこれに似ている。同じことを繰り返せば、やがて飽きられてしまう。最初の感動を、持続させることは難しい。
子供の頃、公園で友達と遊んでいて、楽しくて仕方がなかったことを覚えています。もうあたりは暗くなり、そろそろ家に帰らなければならない。名残を惜しみながらも、この続きは明日にしよう、と固く約束するのです。次の日、学校から帰って来ると、同じ仲間を集めて、同じ公園で、同じ遊びをする。何故かつまらない。昨日はあんなに盛り上がったのに、今日は楽しくない。いくら考えてもその答えは見つかりません。けれども、その時楽しかったという記憶だけは消えることはないのです。
いつかどこかで、子供の頃に遊んだびっくり箱とそっくりなものと出会う。何が面白かったのかわからないが、楽しかった想い出だけは、確かによみがえるのです。

第三十話 ☆仮想人形その1☆

人形は、必ずしも形あるものとばかりは限りません。仮想空間にも確実に人形は存在するのです。CG(コンピューター・グラフィックス)による立体映像を駆使したものがそれです。手で触れることはできませんが、そこには人形がいるのです。
これらのデジタル・フィギュア(仮想人形)はデータです。全く同じものを複製することもできれば、何らかのトラブルで一瞬にして消えることもあります。したがってその価値を評価することは難しい。厳重なプロテクトをかける、もしくはフィギュアのデータを、シリアル番号と所有者の関係で、メーカーが一括管理するような手法が必要と思われます。
もし、レア(希少)なデジタル・フィギュアを使って、オンライン対戦ゲームをプレーできたら、マニアにとって、これほどうれしいことはないはずです。誰も持っていないフィギュアで仮想空間を縦横無尽に駆け巡るなんて、想像しただけでわくわくするでしょう。

第三十一話 ☆仮想人形その2☆

仮想人形は、その視覚的要素すら排除することができるのです。一切の画像を持たず、ID(名前)と能力値、それにその他の特性だけで、キャラクター(駒)を表現することができるのです。
いったいどこが人形なのか、という疑問は当然あるでしょう。見ることもできない、ただの数字の集まりにすぎないのですから。しかし、そうとばかりも言えません。これは想像力を楽しむ遊びなのです。
この駒は、成長(能力数値の加減)したり、着せ替え(武器、防具、道具)したり、やり込むほどに変化していくのです。長い時間、この駒と、仮想空間を冒険していると、いつの間にかこの駒が自らの分身に思えてならない。その駒に、どっぷりと感情移入している自分に気づくのです。これもまた、付喪神(つくもがみ)的な感性であり、分身という名の器ということになるのでしょうか。
そんなことして何が面白いのかって、そこがそれ遊び心というものですよ。

第三十二話 ☆翼あるもの☆

これは何の根拠もなく、誰も認めたわけではないという、隠れた評価基準。いや、おそらくは基準などと呼べるものではないのですが・・・。それは翼あるもの。
翼あるもの、それは文字通り、羽の生えたフィギュアをさします。縁起物という一言では片付けられない魅力がそこにはあるのです。
あなたは、翼が欲しいと思ったことがありますか?非現実的な問い掛けではあるけれど、もし自らの翼で大空を舞うことができるのなら、という思いは誰にでもあるはずです。しかし、その翼と引き換えに、自らの二本の腕を失うとしたら、考え直さずにはいられないでしょう。そうなのです。われら人を含めた生き物(昆虫等、下等生物除く。)にとって、翼とは腕の変形、同一のものなのです。
翼と二本の腕を合わせ持つ者、それは創造上の産物。天使、悪魔、そしてドラゴン、そのどれもが究極の存在として描かれたものです。大きな翼を広げた、その姿こそが力の象徴とも言えるのではないでしょうか。
というのは、幾分感傷的な意見ではあるのですが、実際に翼というものが、フィギュア全体のバランスをとり、実際より大きく優雅に見せるという効果があるのは確かなようです。
翼あるもの、これからちょっと気にかけてみてください。

第三十三話 ☆心霊写真☆

写真の中に、白い塊が浮いているだけなら、現像、焼付けのミス、それとも撮影時の光のいたずらということになりますが、その形が人や顔だと、俄然話は違ってきます。それは何故か。人が人型のものや人面に対して特別な意味づけを求める習性を持っているからです。霊の存在については言及しませんが、写真の中にいないはずの人が写っているとか、顔が見えるというのは、人が無意識のうちにそれらを写真の中に探し求めているという事実が多分にあるからでしょう。平家ガニの甲羅にしてもそうです。自然の造形物の中にも、人は絶えず人型や顔を求めているのです。
ゴミ捨て場を見て何も感じなくても、人形が捨てられているのは印象に残ります。ものが壊れるのは仕方ありませんが、人形の首が取れているのは嫌なものです。
つまり、人は幼い頃の記憶、人形に対する郷愁や憧憬から抜けきれずにいるのです。だから、人は人型へのこだわりを捨てきれないのでしょう。

第三十四話 ☆平家蟹☆

平家ガニと言えば、こんな逸話があります。かつて、壇ノ浦の合戦で平家一族が滅亡しました。その瀬戸内海で奇妙な蟹がいるというのです。漁で獲れた蟹の甲羅に、人の顔が浮き出ていたのです。この話は瞬く間に広がり、誰言うと無く平家の祟りだと噂したのでした。漁師は祟りを恐れ、人面蟹を逃がしてやったそうです。普通の蟹は食べられ、人面蟹は生き延びることができました。そして人面蟹は、子孫を増やしました。この人面蟹こそが平家ガニなのです。
キャラクター物にも、似たような現象があります。悪役や脇役は人気が無いので、あまり売れません。当然、主役よりも生産量は少なくなります。しかし、これが後にコンプリート(完集)を目指す愛好家の標的となるのです。このような商品にこそ付加価値が付く可能性があるのです。
憎まれ、嫌われたために生き延びる、後にその評価価値を上げる。
禍福は糾える縄の如し、人間万事塞翁が馬なのです。

第三十五話 ☆埴輪☆

人形の起源を遡ると、土偶(どぐう)や埴輪(はにわ)ということになるでしょうか。それらは祭礼や儀式に用いられたり、偉い人が亡くなった時に、副葬品として、殉死させられる人たちの代わりを務めたのだと言われています。
埴輪と言えば、馬や武人の像が有名ですが、武人の像を見る度にある映画スターのことを思い出さずにはいられません。そうです。大映映画の「大魔神」です。あの埴輪のように優しいお顔の大魔神が、民衆の嘆きに答え、突如として憤怒の形相を浮かべて立ち上がるという、勧善懲悪の物語です。
この「大魔神」は三部作となっており、一作目「大魔神」、二作目「大魔神怒る」、三作目「大魔神逆襲」というのがタイトルです。ところで、この三作の大魔神、見分け方があるのですが、知っていますか。一作目は額に楔(くさび)、二作目は特徴なし、そして、三作目にしてついに怒りの宝剣を抜くというのです。
こうした同一フィギュア(キャラクター)のわずかな相違点を見抜くこと、これもまた愛好家の楽しみのひとつと言えるでしょう。

第三十六話 ☆ピノキオ☆

土偶と言えば遮光土偶、その膨らみをもった曲線や、宇宙服のようなデザインはとても印象的です。その遮光土偶で思い出すのが、石森章太郎の「人造人間キカイダー」の最終回なのです。そのキカイダーのモチーフとなっているのが、実はピノキオだったという話。
ピノキオは人形ですが、嘘をつくと鼻が伸びます。良い行いをして、いつか人間になる日を夢に見ます。キカイダーも不完全なロボットとして、造られました。善悪を判断するための「良心回路」が未完成だったからです。ジロー(キカイダー)は、「良心回路」の設計図を求めて旅を続けます。そして、感動の、いや衝撃のエンディングに到達するのです。(内容は読んでのお楽しみ。)
ロボットがより人間に近づくことが良いことなのでしょうか。目標である人間は、果たして完全な存在と言えるのでしょうか。この物語は、そんな問いを投げかけているように思えてなりません。

第三十七話 ☆ロボット☆

「鉄腕アトム」は科学省が技術の粋を集めて造ったロボットです。しかし、アトムは人間のように成長しないが故に、生みの親である天馬博士に疎まれ、サーカスに売られてしまいます。それから、紆余曲折を経て、たまたま、サーカスを見にきたお茶の水博士の目に止まり、引き取られ、「鉄腕アトム」の物語は始まるのです。
アトムは人型ロボットです。ロボットが人型である理由のひとつに汎用性があげられます。つまり、人間と同じ空間を共有し、人間と同じ道具が使えるという利点があります。もし、使用用途を限定した、専用機であれば人間の形をしている必然性はまったくありません。逆に効率を考えればマイナス要因になります。現実にはこのような専用機としてのロボットが一般的に活躍しています。
それでは、何故に人は人型ロボットを研究するのか。そこには、道具であることを越えた付加価値が求められているからです。人の精神を癒すための愛玩物でありながら、人の代わりを務める有能な道具でなければなりません。このふたつの欲求を満たすことが人型ロボットに与えられた使命なのです。
人はロボットに対して友人であることを望むのか、仲間であることを望むのか、はたまた奴隷、召使が欲しいのか、ということなのです。

第三十八話 ☆ソフトとハード☆

ロボットに例えるならば、外部の刺激に対して、どのような反応をするのか判断するのがソフト、それを実際に行動に移すための、手足の部分がハードということになります。
しかし、これが人形ということになると、少々難しい。頭(かしら)の部分を造る人形師がソフト、それを動かし操るための仕組みを考える、からくり師がハードということになるでしょうか。さらに、そのまた人形を操る人形遣いは、ソフトということになります。
それならば、もの言わぬ、動くこともない人形ならばどうでしょう。
ここにボールとバットがあります。ゲーム盤と駒でもかまいません。これをハードとするならば、ソフトは何でしょうか。それはルールなのです。ルールによって、その遊びは千変万化すると言っても過言ではありません。
つまりは、人形というハードに対して、どのように遊ぶのか、楽しみ方を考えるのは、あなた(ソフト)なのです。

第三十九話 ☆踊る人形その1☆

子供の頃、人形の絵を使って暗号を作ったことがあります。コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズの影響を受けてのことです。ひとつひとつの人形に、五十音を当てはめれば良いのですが、それだと自分でも覚えるのが大変です。それで、例えば腕の形を母音、足の形を子音という風にしました。濁音・半濁音は手に旗を持たせるのです。これなら、覚えなければならない人形も少なくてすみます。上半身を5種類、下半身を10種類で済むわけです。
これをローマ字風に二つの文字を組み合わせて、ひとつの文字を表す方法だと、最低7文字で五十音を全て表現することができます。7×7の配列の中に五十音を組み込めば良いのです。11ならば"あ"、17ならば"き"ということになります。このような手法は戦国時代の密書にも見られますが、コンピューターの無い時代から、人の頭の中にはロジック(論理)が存在していたに違いありません。

第四十話 ☆踊る人形その2☆

随分昔、はじめてパソコンでプログラムを組んだ頃の話です。当時はベーシックというプログラム言語が有名で、初心者はこれから始めるのが基本でした。と言ってもたいしたものが作れるわけではありません。思いついたのが、良く言えばアニメーション、つまりはパラパラ漫画の手法です。
何枚かの絵を書き、それで画面クリアと画面表示を交互に繰り返します。それだけで絵は動き出します。慣れてくると、絵全体を書き直さずに、腕だけとか足だけとか一部だけを書き直したものです。まさにTVアニメの手法ですね。
今ではAという絵と、その後のAの姿であるBという絵のふたつの絵があれば、そのAとBとの間にある動きを補完してアニメーションを作成してくれるというソフトもあるようです。
日進月歩、技術は絶えず進化していきます。
それでも、かつて作った、ドットの荒い積み木の人形の踊る姿を忘れることはありません。プログラムの最終行にあるGOTO文が先頭行へ飛ぶ。"RUN"という掛け声とともに、人形は死ぬまで踊り続けます。

第四十一話 ☆積み木の人形☆

踊り続けた積み木の人形も、やがて進化を遂げます。大きな積み木から小さな積み木へ、ドットは次第に細かくなっていき、より滑らかな曲線を描くようになります。三角形から四角形・五角形、そしてn角形へと、nの値が大きくなればなるほど角は増えます。角は増えるが、その形は限りなく円に近づいていくのです。この形は決して円になることはありませんが、nの値が一定値を超えた時、肉眼ではそれが円なのか多角形なのか判別することはできなくなります。
この多角形の角は「点」それを結ぶ辺が「線」なのです。「点」の数が多ければ多いほど、一本の「線」は短くなり、滑らかな「面」が作られていきます。積み木を組み上げただけだった人形は、マンガの絵ように、そして本物の人間と見紛うばかりの姿へと変貌を遂げていくのです。これを三次元に展開されたものがポリゴン、さらにそれをベースに絵や写真を貼り付けたものがテクスチャーということになります。
こうした、技術の進歩を目の当たりにした者にとっては、想像を絶する驚愕と衝撃なのでしょうが、最初から美しい三次元CGと出会った者にとっては、それが当たり前のことなのかもしれません。

第四十二話 ☆指輪物語☆

日本では馴染みの薄い、この長編ファンタジー小説も、このほどの映画公開により、ようやく日の目を見ることとなりました。この物語の世界観や、登場する人間以外の種族たちは、後のロールプレイング・ゲームやコンピューター・ゲームに多大な影響を与えていくことになります。
D&D(ダンジョンズ&ドラゴン)のような、テーブル・トーク型のロールプレイング・ゲームでは、その場の雰囲気を盛り上げるために、ミニチュアを作製し、プレイヤーの分身として、メタル・フィギュアを用いたりします。このゲームは、本来は形のないもので、用意されたシナリオとプレイヤー同士の会話によって成り立つものです。後は想像力によって、ゲームを造っていくわけです。
やがて、このゲーム・スタイルはコンピューターに活躍の場を移しました。不朽の名作「ウィザードリー」はその代表的な作品です。
何が変わったのでしょうか。今まで多人数でなければプレーすることができなかった点と、このゲームの複雑な部分を全てコンピューターが分担してくれるたのです。プレーヤー(ユーザー)は、与えられた仮想世界で、自らの分身とも言えるキャラクター(駒)を、ただひたすら育成し続ければ良いのです。
ひとつのゲームをクリアすれば終わりではありません。その自らが鍛え上げたデータ(駒)は、やがて新たな仮想空間(シナリオ)求めて旅立っていくのです。

第四十三話 ☆ガシャポン☆

昔はガチャガチャと言っていたような気もしますが、時代や地方によってさまざまな名称があるのかもしれません。要するに店頭などに置いてある、子供用のおもちゃがカプセルに詰まった、コイン投入型の小型自動販売機のことです。(今では、子供ばかりが利用するとは限りませんが。)
まず、商品の入った上部の透明なケースを眺め、その中からこれはというものに狙いを定めて、おもむろにコインを投入します。そして、レバーを捻るのです。ガシャポンは音というよりも、このレバーを廻す時の歯車の振動が、腕を伝わり脳に届く感覚をイメージした擬音ではないでしょうか。
さんざん胸ときめかせて、取り出し口からカプセルを取る。場合によっては、カプセルの中で丸められ、すぐには正体がわからない。カプセルを開けて中身を出したら、ほとんどがハズレという結果なのです。それでも、懲りずにまた挑戦する。それだけの魅力がガシャポンにはあります。
自分の眼で商品をじっくり見て、品定めする。やはり、それが基本なのですが、このような何が出てくるか判らないものもまた楽しいものです。欲しいものがどうしても手に入らない。ランダム(無作為抽出)である以上、どれだけ情報を集めても、必ず取得できるとは限りません。これもまたコレクターの意欲をそそるひとつのスタイルと言えるでしょう。

第四十四話 ☆花嫁人形☆

「きんらんどんすの 帯しめながら 花嫁ごりょうは なぜ泣くのだろ」。この「花嫁人形」という歌の詩を書いたのは蕗谷虹児(ふきやこうじ)という画家、今でいうイラストレーターです。叙情画というスタイルを確立したことで知られています。
「月の砂漠を はるばると 旅の駱駝が ゆきました」。「月の砂漠」の詩を書いたのも、加藤まさをという画家(イラストレーター)です。
絵を描くという作業の中から詩情が湧いてくるのか、文学的な素養の裏づけがあって、絵の世界が生まれてくるのか、互いに影響し合い、より豊かなものが育まれていくのは確かなようです。
このようなことを書いたのは、数年前に古書店で、拾うようにした購入した一冊、「大正・昭和少年少女雑誌の名場面集」(学研)を読んでのことです。この本の中には竹久夢二、中原淳一など有名画家の絵が溢れています。美少女もの、熱血若武者もの、秘境冒険ものなど、懐かしいけれども、決して古くはない。何とも心地良い世界が、こんなところにもありました。

第四十五話 ☆ちいたかわしわしごりらんらん☆

このタイトルでは、おそらくほとんどの人が、何のことかわからないでしょう。実は、この「ちいたかわしわしごりらんらん」というのは、絵本の名前なのです。作者は石森章太郎、発行されたのが「サイボーグ009」の後、「仮面ライダー」や「人造人間キカイダー」の前というのですから、かなり古い本です。
何故、この本を取り上げたかというと、その意味不明なタイトルが、その本の内容を全てあらわしているという、奇書だからなのです。子供心に、とても深い印象を受けた一冊なのです。
毎度のことで、本の内容には触れませんが、この本はサイボーグをテーマにした、子供向けの絵本です。登場人物は、主人公の少年、科学者である父、そして近所の子供たち。タイトルと登場人物からは想像もつかないような、恐い結末が待っています。
有名マンガ家の絵本としては、あまり知られていない逸品と思います。もし、再び出会えるならば、という思いもありますが、失望させられることもあるかもしれません。それでも、何か思い出の中に眠らせておくには、惜しいような気がするのです。

第四十六話 ☆我王☆

我王は手塚治虫の「火の鳥(鳳凰編)」に出て来る主人公の名です。この我王というのは、「火の鳥」のシリーズを通して転生を繰り返す主要な人物、「猿田彦」の系譜に連なる者です。その例に漏れず我王も深い業を背負っています。この物語の中でも、幼いうちに体に障害を受け、村の者たちからは疎まれ、長じて後は盗賊団の首領として悪事の限りを尽くします。やがて、我王は捕まりますが、僧良弁にその命を救われ、形ばかりの弟子となり、ともに旅に出るのです。
我王は、過去の悪事の報いのため、行く先々で迫害を受けます。そんな中、捕われの我王を見捨てて、僧良弁は姿を消します。絶望と悲しみ、我王のうちからやり場のない思いが沸々と込み上げてきます。「怒」「怒」「怒」、我王が大地を駆け回る足音、「怒」「怒」「怒」、我王の心臓の高鳴り。我王は無我夢中で「仏」を彫りはじめます。その時、はじめて我王は救われていくのです。
「怒」、怒りこそが我王を創造へと駆り立てていくのです。

第四十七話 ☆複雑と素朴☆

人は幼い頃は単純な形を好みます。けれども、その知能の発達に伴い、より複雑なもの、より精密なものを望むようになります。しかし、時としてその複雑さが妙に煩わしく思える時もあるのです。
以前にも書きましたが、多角形の角を増やせば、やがて円になります。多角形が円になるまでには、さまざまな経験、紆余曲折があります。最初からの円では駄目なのです。この円は、ただの円(まる)ではなく、大いなる複雑さを内に秘めた円と言えるでしょう。
数限りない線が引かれる。その中のどの線が、本当なのか。それとも全ての線が集まって、新たな線になるのか。唯一無二、そのたったひとつの線に出会えた時に、人はこころからの安らぎを得ることができるのです。
人は成長して、また子供へと帰っていくのです。

第四十八話 ☆戦争人形☆

まだキャラクター系プラモデルに熱を上げていた頃、「宇宙戦艦ヤマト」の放映が始まりました。突如、仲間うちではタミヤのウォーターライン・シリーズ(プラモデル)の軍艦が話題になり、皆競って集めたものです。駆逐艦に巡洋艦、戦艦に空母、中でも駆逐艦「島風」がダイキャスト艦底だったのを記憶しています。(平らな底が鉄製)余談ですが、この頃オイルショックの影響で物価高騰、プラモデルの箱にも小さなシールで値上げ価格が貼られました。
やがて、興味は陸戦にも移っていきました。シュビムワーゲン、キューベルワーゲンなどは秀逸な商品だと思います。付属の兵士に将校、バイクに装備品などの小道具、土のうに至る細部まで観察して楽しんだものです。どちらかというと戦車などの主戦力よりも、こういった補助的な小物、少し変わったものを集めたように思います。
そして、極め付きが88m砲。高価だったので買ったのは後のことですが、このパッケージ(箱絵)を見る度に、何かドラマを感じていました。
今、振り返って見ると、戦争ものの玩具に夢中になっている子供を見て、まわりの大人が何を思っていたか複雑な気持ちもします。今でも、将棋にはのめり込めませんが、ウォー・シミュレーション・ゲームがあれば、ときめく心を押さえることができないのですから、本当に困ったものなのです。

第四十九話 ☆ペーパークラフト☆

紙細工、紙の工作のことです。少年・少女雑誌の付録に付いてきた、あれのことです。そのペーパークラフトが、インターネットを使えば簡単に入手することができます。ホームページを検索して、気に入った型紙をダウンロードすれば良いのです。後はプリンターに打ち出すだけ。乗り物にロボット、さまざまなキャラクターが揃っています。普通のプリンター用紙では、薄すぎて工作には向きません。わざわざ、文房具店をまわってケント紙、それも指定された厚さの紙まで買い求めて作業に入るのです。
インターネットでなくても、本屋さんに行けば、そうしたペーパークラフト専用の切り抜く本が売っています。ちょっと暇つぶしにと思って始めるのですが、出来上がるにつれて、その出来栄えに驚かされることもあります。少し、離れて見れば紙製とはとても思えないような仕上がりなのです。
早速、部屋に飾りインテリアにします。紙製ですから、飽きたら処分も簡単です。但し、ヒトガタのペーパークラフトにはご注意を。あまり、気に入り過ぎて、思いが篭らぬうちに片付けた方が良いかもしれません。

第五十話 ☆トントン紙相撲その1☆

これもまた、ペーパークラフトとの一種です。この一冊と出会ったのも云十年前、これまでに二回も買って遊んだのですから、その入れ込み様も、生半可なものではありません。この本の著者徳川義幸さんの前書きに感銘を受け、自分でもこの様な世界が造れたら、と本誌付属の力士だけでは飽きたらず、随分いろいろな形の紙相撲を考案して試したものです。
新しい形の力士を、自分で考案する上で一番気を使ったのが、決まり手で「はたき込み」が出ないようにすることです。向き合った力士が、互いにお辞儀をしてしまうのは、興を削いでしまいます。互いに競りあがり、徐に(おもむろに)反転しながら相手をねじ倒す投げ技の豪快さを追求したかったからです。それから、本物の相撲と違って両力士が離れてしまうのもいけません。これらの問題を解決するには、力士の重心と組み手が重要になってきます。
一応の紙力士の規格を作りますが、その枠の中に書き込まれる力士は全て手書きです。廻しの色はもちろん、みんなそれぞれに体格や顔が違います。そして、最後に名前(四股名)が与えられます。四股名を呼ばれた紙力士は、紙ヤスリの土俵にあがり、小刻みな振動の中で、まるで命を吹き込まれたかの如く闘うのです。

第五十一話 ☆トントン紙相撲その2☆

改良に改良を重ねて造り上げた力士たち。やっと本場所を開催できるところまでこぎつけました。きちんと番付を作り、記録を取ります。単に力士の勝ち負けを見るだけでは、すぐに飽きてしまいます。その点で相撲の番付、星取り表のシステムは、とても都合の良いものです。星取り表を見れば、力士のランキングもわかります。それに何といっても過去の歴史が一目瞭然となるからです。数々の記録、スピード出世など、綿密に書き残します。このように、ただ一回きりの遊びと割り切るよりも、継続性や記録を重視する方がより深い楽しさを味わえることでしょう。
しかし、紙相撲には欠点もあります。時には、横綱よりも強い新弟子が入門してくることがあるのです。紙力士は、基本的に強くも弱くもなりません。強い力士は、最初から強いのです。これには、困ってしまいます。稽古を積んで、少しずつ番付を上げていく、強くなっていくというのが望ましいのです。逆に強い力士が、いつまでも頂点に君臨し続けるというのも、退屈なものです。
残念ながら、紙の力士は成長もしなければ、衰えもしません。これをどうやって表現したら良いのか。当時はひどく悩んだものです。今ではデジタルな手法を用いれば、擬似的な成長過程を再現することができます。けれども、どうやっても手作りの紙力士の持つ味わいは出せません。手間隙かけて作った紙力士には、それだけの思いが篭っているからかもしれません。

第五十二話 ☆折り紙☆

折り紙で人の形を折り上げるのは、とても難しい。折り紙と呼ぶ以上、基本は一枚の正方形の紙で、切り込みは一切無しということになります。この条件を満たして、なおかつ折られたものが、何であるかが一目でわからなければならないのですから、これは大変なことです。そんな折り紙の中でも、前川淳氏作の「悪魔」は最高峰の名にふさわしいものでしょう。ぜひ、その折り方を知りたいものだと切に願うのですが、その折り方の載っている本「ビバ!おりがみ」は十年以上も前に絶版になっているそうです。
折り紙には通常の一枚折りのものの他に、ユニット折り紙と言って、同じ形の折り紙を複数折って、それを組み合わせる形式のものがあります。単純なものならば「手裏剣」を想像してもらえれば良いと思います。同じ形の折り紙でも、組み合わせれば複雑な形ができます。そのひとつひとつの色を工夫すれば、鮮やかな幾何学模様を描くことができます。
折り紙と言えば、どこか古典的な雰囲気が漂いますが、このユニット折り紙などは斬新的な手法を用いた理数系の折り紙とも言えます。
あの名作「悪魔」でさえ、その設計過程においてコンピューターを用いているのですから、折り紙の可能性も時代とともに広がっていきそうです。

第五十三話 ☆ゴジラ☆

ガレキ(ガレージ・キット)の中で、これはと思うものをひとつだけあげるとしたら、迷わずファルシオンの初代ゴジラを選びます。イノウエアーツ原型のもので、雑誌やインターネットで、その映像を見ることはできますが、やはり実物を見ないとその感動を伝えることは難しい。ここで注意しておかなければならないのが、ゴジラの場合は全高と全長の二つのサイズがあることです。身長と、頭から尻尾の先までの大きさですので、間違えないように。
ゴジラと言えば1954年誕生、半世紀もの長きに渡り映画で活躍してきたわけですが、その容姿も時代や作品によって変化してきました。凶悪な人相で猫背のキンゴジ、ちょっと眉が太く撫で肩のモスゴジなどが有名です。しかし、何と言ってもすっきりと伸びた背筋、安定した下半身、そして知的に尖った耳、その気品漂う姿から言って初代ゴジラに勝るものはないでしょう。伊福部昭のテーマ曲まで聞こえてきそうです。
いろいろなものを評価する上で、必ずしも良いものが高い評価を得られるとは限りません。生産数が多かったり、シリーズ化などの企画がない単品の作品だったり、十分な宣伝がされなかった場合など様々です。けれども、やはり良いものは良い。余計な情報など持たずに純粋に自分の眼で確かめることも大切なことなのです。

第五十四話 ☆なみピカ☆

その名前で気づく方は、おそらくポケモン・ファンのひとりでしょう。その入手方法をご存知ならば、かなりのマニアかもしれません。ほとんどの方が、その名前の意味すら知らなくても当たり前なのです。そんな人でも、ピカチュウと言えば、ポケモン・キャラクターの代表的なものですから、知っているかもしれません。そうなのです。「なみピカ」は、そのピカチュウの中の限定バージョンなのです。(本来、覚えることのできない、「なみのり」という技を取得しているピカチュウ。)
とある古本屋で見つけた一冊の攻略本、その中になみピカの存在を発見したのです。このなみピカは、イベント会場まで足を運びデータの配布を受けるか、この攻略本に書かれてある方法を試す他には入手方法がありません。後者の方法では、一度成功すれば一時間足らずで「なみピカ」を作れます。(レベルは最低3で何匹でもOK。)
それから、ミュウの釣り方などもありますが、こちらの方は少々掟破りなのでやめておきます。
なみピカのどこが人形と関係があるのかですって。実はこの「なみピカ」わたしが愛用しているハンドル・ネームなのです。なみピカ取得時期とインターネットの開始が、たまたま重なりましたので、使わせていただきました。言ってみれば、ネット上で波乗りする、わたしの身代わり、腹話術の人形なのです。

第五十五話 ☆プロメテウス☆

ギリシャ神話の中の登場人物です。全知全能の神ゼウスに逆らい、人間に「火」を与えました。ゼウスは怒り、プロメテウスに、生きたまま鳥葬にする刑を与えて罰しました。しかし、プロメテウスは不死身であり、後にヘラクレスの手によって助けられるまで、苦しみ続けることになります。
「火」は、「知恵」であり「知識」であり、「文化」でもあります。
マニア(愛好家)は、自らのジャンルについて情報収集することに、労を惜しみません。それと同じくらいに情報の漏洩を嫌うものなのです。苦労して築き上げてきた世界の情報を、安易に公開することを、良しとはしないわけです。
この機密保護の考え方が、遊びをより面白くする要素でもあり、一般に普及しない一因でもあります。広く多くの人に伝えること、それはとても良い事のようにも思われますが、何か薄くなっていくような危機感が無いとも言い切れません。一気に広がる時、それは終息の前兆とも受け取れます。
「火」だけ与えられて、その用法を誤ると、大火事になります。慌てて消火するようなことにならないようにご用心。

第五十六話 ☆プロポーションその1☆

幼い頃、プラモデルを作りました。ガメラやサンダーバード、そしてマジンガーZなどです。小さいうちはそれで満足でした。フリクション・ギアやゼンマイで動く姿に、飽きもせず遊んだものです。しかし、10代になるとやがて胸のうちに疑問が湧いてきました。ゼンマイやモーター、電池によってお腹が膨れたり、手足が異常に変形するのが納得できなくなったのです。いや、許せなくなったと言っていい。(仮面ライダーのゼンマイBOXは画期的なアイディアだったと思う。)
遊ぶため、動かすために、美観を損なうことに耐えられなくなったのだ。そのキャラクターの持つ、本来のプロポーション、体の線を犠牲にしてまで、おもちゃに甘んじる姿に、プラモデルに対して失望したのかもしれません。やがて、ガンプラ(起動戦士ガンダムのプラモデル)が現れその問題はかなり解消しましたが、すでにプラモデルからの興味は消え失せていました。それから、しばらくの時を経てからのことである。ガレージ・キットと出会ったのは・・・。

第五十七話 ☆プロポーションその2☆

ウルトラマンや怪獣、そしてマジンガーZを含む永井豪作品、ゴジラなどが見事な造形で目の前に再現されていました。何故、このような商品と少年期にめぐり合うことができなかったのかと、怨んだほどです。きっと同じ思いで少年期を過ごした人たちが、大型メーカーにはできない商品作りに挑戦しているに違いない。寝た子を起こすとはこのこと、ふつふつとガレキに対する好奇心が沸き起こってきたのです。
しかし、さすがに価格は少々お高め、個人の趣味が発展して企業となり、商品開発をしているのだから、生産数も限られている。その分、商品に対する妥協がなく、品質は高い。大型メーカーにはない新しいスタイルの確立だったのです。
その魅力に取り憑かれ、雑誌を読み漁り、イベント会場を闊歩し、現在に到っています。けれども、不思議なもので、今になって振り返ると、プラモデルのマジンガーZの、電池のために膨れた足が、妙に懐かしい。下から棒が突き出して、不細工に歩く姿がいとおしくてならないのです。これはこれで良かったのかもしれない、と思えるようになったのです。これもすべて時のなせる業、何が良いかはわからない。すべては観る者の胸のうちで価値観が生まれ、育ち、形を変えていくからなのです。

第五十八話 ☆百物語☆

深夜、数人の者が集まり怪談を順に語ります。一話語り終える毎に蝋燭の灯りを、一本ずつ吹き消していく。百本目の蝋燭が消され、辺りが闇に包まれた時、妖怪が現れるという遊びなのです。
この"XEBEC TOYS"も、最初は特定の商品について語り始めましたが、いつしかその範疇を超え、フィギュアや人形について。果てはロボットにサイボーグ、デジタル・データにまで話が及んでしまいました。できることならば「人形」という制約を設けて、そこから逸脱しないようにと考えています。そうしますと、とりあえずこの辺にしておいた方が良いのかと思います。いつの日にか、さらに話を付け加え物語が百話に達した時、どんなお化けが現れるのか、今から楽しみでございます。
それでは、さようなら。

あまり定期的にではないのですが、心の赴(おもむ)くままに、目標100話を目指して書いていきます。多分、100を超えても終わらないとは思いますが、お付き合いをお願い致します。

第五十九話 ☆赤☆

98年に各社が一斉にデビルマン・フィギュアを発売しました。中でもブリスターパック入りの商品が目を引きましたが、当時はブリスターパックの保存状態が、後の商品評価に大きく影響するという認識が薄く、多くの方がブリスターパックを破ってしまったことと思います。
そういう意味で、XEBEC TOYSのデビルマンシリーズ、特に初版の物は、無傷で残っている物の残存数は、想像するより他ありません。初版では、カラーバリエーションで青と赤が発売されたわけですが、とりわけ赤は生産数が少なく、発売から数年の月日が流れていることもあり、完全な状態で保存されている物は希少と言えるでしょう。もはや、幾らの価値があるというものではなく、探すことすら難しいのが現状です。一度、マニアやコレクターの手に渡ったならば、二度と市場に現れない逸品なのです。そして、わたしが手に入れたこの品も、すでにこの世から消えたも同じなのです。

第六十話 ☆ドール(その1)☆

ガレージ・キットのメーカーの双璧として上げたいのが、海洋堂とVOLKS(ぼーくす)なのですが、このところVOLKSに異変が起きています。徐々にではありますが、フィギュアからドールへと商品の移行が始まっているのです。以前にも書きましたが、フィギュアとは着衣、頭髪が一体成型のもの、または同じ材質のものですが、ドールは違います。わかりやすい表現を用いるならば、着せ替え人形なのです。バービーやリカちゃん、GIジョーに変身サイボーグの類(たぐい)と言えばわかるでしょうか。ただ、それをそのままイメージしてもらったのでは、うまく伝わらない。VOLKSがやろうとしているのは、もっとすごいことのような気がします。
毎月雑誌で見るのと、年に1,2度ショールームを覗くだけなのですが、行くたびにドールのスペースが広がっていく。すでに大半がドールと言っても良いでしょう。
変わり者、変人と言われる、この私でさえ、その空間に踏み込むには、多少の勇気と気合が必要なのでありました。

第六十一話 ☆ドール(その2)☆

さて、いつ頃のことだったのかと、資料をひっくり返して見るのですが、どうやら98年の夏のことらしい。偶然のことですが、XEBEC TOYSと時を同じくしています。この時期を境にして、二大ガレージ・キット・メーカーは袂(たもと)を別ったのか、それぞれが違った意味を模索しはじめたのかもしれません。
今、思い起こしてみると、98年の夏は、いろいろな意味で、重要な転換期を迎えていたような気がします。ガレキによって、従来の玩具を脱却した、マニアを納得させる、採算を度外視した商品開発も、ここに至ってマンネリ化していたからです。質が落ちたわけでもなく、作品の量が減ったわけでもない。ただ、そこには驚きがなくなっていました。ただ、新しいキャラクターを、リアルに表現し、あるいはデフォルメしてみせる。その繰り返しに陥っていたのである。
見る者に、刺激を、感動を与えられなくなった、そんな時期に出てきたのが、アクション・フィギュア、つまりは XEBEC TOYS であり、ドルフィーだったのである。二つのメーカーは可動人形という手法を用いて、違った方向性に進んでいったのでした。

第六十二話 ☆イベント限定商品☆

通常市販される商品の他に、数量限定、期間限定、会場限定といった商品がある。これらは、その条件が過ぎてしまえば、販売は終了して二度と売られることはないのだ。だから希少(レア)な商品である、とは一概には言えない。その条件の厳しさ甘さを、十分に吟味しなければならない。
たまたま、99年の夏にWF限定で発売された商品を手に入れる機会に恵まれた。これは1日限り、しかも数量は500個の、かなり希少な商品である。東京ビックサイトに朝早くから並ばなければ買えない逸品であろう。その場で買い逃した場合、こうした商品を入手することは非常に困難となる。マニアやコレクター間で情報交換を行うか、多目の金額を提示する他はない。
今回は、ネット・オークションを通じて、入手に成功したわけだが、現在最も確率の高い方法はこれだろう。希少な商品が出品される確率、そしてその価値を知るものが見つける確率、それらを総合すると、まさに運命的な出会いという他はあるまい。

第六十三話 ☆カタログ☆

モノを蒐集する上で、欠かす事ができないもののひとつにカタログ(型録)がある。一体何をどれだけ集めようかという、目安になるものだ。マニア・コレクターの蒐集の最終的な基準となる完集も、カタログの内容をすべて網羅できるかにかかっている。
だからこそ、カタログに漏れがあってはならない。逆に載せるモノも厳選しなければならない。そのカタログに載るかどうかによって、そのモノがシリーズの一部と認められることになる。又はある規準によって括られた仲間であることが証明されたことに他ならないからだ。
蒐集を目的とする者でなくても、カタログを眺めるのは楽しいものである。子供の頃に昆虫図鑑や動物図鑑、植物図鑑を眺めながら想像の世界に浸っていたのと、似た面白さがある。美術品、芸術品の目録を観るのと同じなのである。たとえ、それが手に入れることのできぬ高嶺の花であったとしても、それは一向にかまわないのである。
商品宣伝の上でも、蒐集家の購買意欲を高める意味でも、是非きちんとしたカタログを発行してもらいたいものなのです。

第六十四話 ☆電気羊(その1)☆

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか。」、映画「ブレード・ランナー」の原作にあたる作品です。レプリカント(模造人間)に、人権はあるか、ロボットは人なのか物なのか、という命題を問い掛ける作品です。
このようなSF小説は過去において数多く語られてきました。日本のアニメ「鉄腕アトム」にしても、そのような題材の作品は少なくはない。アイザック・アシモフに至っては「ロボット三原則」という架空の法律まで制定しました。しかし、人権を持つべき存在はロボットだけなのだろうか?人の形をしていない、あるいは物でさえない存在にさえも人権は与えられるのべきではないか?少なくとも、心情的にはそうした考察が必要になってきます。
アンドロイド(ヒューマノイド)、人の形をしたロボット。仮にアンドロイドに人権があるとしたら、冷蔵庫のような形をしたロボットには人権が無いのか?人間と会話を交わすロボットに人権があって、黙々と人のために尽くすロボットに人権はないのだろうか?
そこから、この問題を語ろうと思います。

第六十五話 ☆電気羊(その2)☆

まず、順を追って説明しましょう。人は、新しい人形を手にした時、壊れた人形を見た時、人形を捨てる時に、喜びや悲しみの感情を覚えることでしょう。その延長戦上にロボットの存在があります。しかし、人の感情移入は人形だけとは限りません。例えば、十年間乗用した自動車、二十年使ったTV受像機、人の形をしていなくても想いが籠っていることはあります。少し調子が悪くても仕方が無い、と労(いた)わることさえもあるかもしれません。
つまり、人の形をしたものに対しては、比較的感情移入がし易(やす)いという傾向がありますが、そうでなくとも愛着が湧くという事象も無いとは言えません。特に、長い年月を共に過ごしてきた物に対しては何らかの思いや、心理的繋がりを持っても不思議ではありません。これは骨董品を愛するというのに似た感情になります。
では、"物"では無い場合はどうでしょうか?

第六十六話 ☆電気羊(その3)☆

形ある物に愛情を注ぐ。それは自然な行為かもしれません。それが人の形をしていればなおさらのことです。しかし、前述した通りに人の想いは時として、そのような"物"に向かうとばかりは言えないのです。その影も形も無い"言葉"、詩や文学を愛して止(や)まないという場合もあります。物理的には存在しなくとも、"言葉"として論理的に存在する。"言葉"によって紡(つむ)がれた人々や風景そして心情は、形としては無いけれど、人の心には伝わっていくのです。
ここで、言いたいのは、人が自分に似せた物"人形"に想いを寄せる、人型で人のように動き人と会話するロボットを身近に感じ、人の形をしていない道具にさえも愛着を覚えるとしたら、次の段階に何が来るのかということです。
データ主義、データ感覚、物理的には"存在"しないけれども論理的に構築された"存在"、形は無いけれども確実に数値化されたもの。そこに行き着くのではないか。
数字が羅列されただけのもの。けれども、それに愛着を感じる事は、人形を抱きしめることと少しも変わらないことなのだと感じる感覚。人の形をしているかどうか、形があるかどうかを超越した感覚、それを持てるかどうか。それが"もの"に対する愛着であり、"データ感覚"でもあるのです。

第六十七話 ☆金銭的価値☆

このフィギュアにどのくらいの価値があるかなあ?これはかなり珍しいねえ。結構レア(希少)だよ。じゃあ、幾らくらいする?そこで会話はストップする。ここで言う"価値"と"金銭的価値"は必ずしも同じものではないのです。
そこを誤解されては困るのですが、良い物で数も少ない、だから高値で取引されるというわけにはいきません。その価値を知る人、それを熱烈に欲しがっている人を、見つけ出さなければ取引は成立しないのです。一般の人が自分で、取引相手を探す事は難しいですし、取引価格も、不安定なものとなります。毎回、価格が異なるのが普通です。相場は無いに等しいのです。
価値はあります。けれども、それを金額に換算する事は難しい。そんな事に拘(こだわ)るよりも自らの眼と感覚を大切にするのが、本道なのではないでしょうか。

第六十八話 ☆オークション☆

どうしても、金銭的価値に拘(こだわ)りたいという方は大勢いると思います。収集家ならば、自らの収集品を数字で評価してもらいたい、そう思うのが人情です。それが収集家の楽しみのひとつでもあるからです。
そのような方には、ひとつの目安としてオークションの利用をお勧めします。インターネットのオークションならば、参加する事なく、出品状況や価格を随時確認することが可能です。但し、出品価格だけでは参考になりません。実際に入札されているかどうかがポイントとなります。同一商品や似た商品をチェックすれば、およその相場が見えてくるに違いありません。
オークションは正直です。実際にお金を払った取引が成立してこその"金銭的価値"です。論拠を上げて、いくら"価値"を証明しようとしても、取引が無ければ現金にはならないのです。売れなければ、"金銭的価値"ではないからです。

第六十九話 ☆R指定☆

最近はあまり見掛けなくなりました。フィギュアのイベント会場などでR指定の作品が、一般の作品と同列に展示されていることがあります。R指定というのは、年齢制限の意味です(XX禁とも言う)。あえて幾つからという年齢表示はしませんが、やはり未成年者には望ましくないものもあるでしょう。
表現の自由、芸術作品という観点から、R指定作品は決していけないものではないと思います。けれども、「鉄腕アトム」や「ウルトラマン」などの作品を眺めながら思い出に浸っている同じ場所に、R指定作品を並べるのは如何(いかが)なものでしょうか。今まさにのめり込もうとしていた気持ちが、一気に引いてしまう。他の人に薦めようかどうか迷う瞬間です。
キャラクター物、芸術性の高い作品、R指定、様々な分野があると思いますが、その辺の心遣いが欲しい。兎に角、参加希望者を集めて順番に店を並べるでは見る方も辛いところ。
これが博物館や美術館ならば当然のことかもしれませんが、イベント会場じゃ無理かなあ。

第七十話 ☆食玩☆

近頃は、フィギュアと言えば食玩(しょくがん)、ミニチュアが流行りのようです。各お菓子メーカーが挙(こぞ)って、シリーズ物を発売しています。ひとつのシリーズで5個から10個程度のアイテムがあり、一個300円前後とすれば、全アイテムを揃えるには、60cm級のフィギュアが一個買えるのじゃないか、と思うくらいの出費でしょう。
何故、そんなに出費が嵩むのか。それは、フィギュアがあくまでお菓子のおまけで、中に何が入っているか判らないからです。だから、アイテムの数だけお菓子を買っても、全品は集まらないのです。
これも、またガシャポンに似た楽しみがあるというわけです。
通常の商品は売れるキャラクターを大量に生産します。しかし、このようなマスク商法では、人気アイテムの少数生産が可能になるという利点があります。人気があって、数が少ない、これはきっと価値が出るに違いない。
でも、あまり熱くならないで、流行り病(はやりやまい)に罹(かか)らないように注意注意。

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