『どこに消えたか三島の湧水』
本が完成しました。

編集にあたり

 

大沼 倶夫

 

はじめに

かつて三島は水の都だった。東海道三島市付近の湧泉は本邦最大級の湧出量を誇る湧泉群であり[1]その中でトップに値し昭和30年頃の湧出量は日量約180m3であった[2]。この富士熔岩流末端の小浜池(こはまいけ)一帯が明治23年に小松宮殿下の別邸となり、三島市立公園楽寿園に移行後の昭和29年に国指定天然記念物及び名勝となった。1940(昭和15)頃、小浜池と周辺の湧泉を合計すると毎秒3m31940621日実測の毎秒4.7m3が記録されている限り最大量)湧出していた2

昭和334月に東洋レーヨン株式会社(社名変更 東レ株式会社)三島工場が三島市から長泉町にかけて進出して操業を開始した。同年9月頃から、三島市内の湧水が減り始めた。昭和362月には、小浜池水位は満水時より約150cm低下して約30cmとなった。昭和37年3月26日、小浜池湧水がはじめて完全に涸渇した。三島の歴史に無い出来事であった。昭和38年に第2工場、昭和39年に第3工場が操業開始すると涸渇は更に深刻となった。その後小浜池の水位は一時的に約180cmになることもあるが、ほぼ周年池底を露出している。

図―1東レ三島工場・小浜池周辺の地図

原図 国土地理院1:25000 

昭和541228

東レは三島工場の揚水が原因であると認めていない。しかし、元東レ社員の松本博氏は原因が東レ三島工場の揚水であると認めている[3]。表2(11)は東レ三島工場操業開始による三島市内の湧水の消失状況を示す。東レ進出から半世紀、水の都三島は復活するどころか悪化している[4]東レ三島工場の進出以後、東邦ベスロン(社名変更 東邦テナックス)、三菱アルミニューム梶A矢崎部品梶Aトヨタ自動車梶A関東自動車工業梶Aヤクルト梶A御殿場日本電気梶Aショーワ梶A中外製薬梶A東芝機械梶Aウシオ電機梶Aトーホー工業梶Aリコー梶A四国化工機梶A岡村製作所鰍ネどの大工場が裾野市から御殿場にかけての三島地下川上流に進出してきた。蔵田延男氏は「かつて昭和30年ころには、1ヶ所日量20m3といった取水施設も十分機能しえたのであるが、取り口がワンサと増えてくると、さすが地下川もお手あげである。いまの勢いで、沼津から御殿場にかけての4市2町が、フルサイズの用水型都市となるように仕向けられると、取水の破綻は、火を見るより明らかなことになろう[5]。」と警告している。

地下川下流の沼津市、三島市、清水町は三島地下川水位低下を危惧しているため地下水の揚水規制を希望している。しかし、地下川上流地域の裾野および御殿場両市は企業誘致により地域の活性化をはかりたい意向であるのでこれからも多くの企業が両市に進出してくることが予想される。これに伴い当然、上水道利用人口も増えるであろう。従って地下水位がさらに低下することはあっても改善される見込みはない。平成8年3月、建設省沼津工事事務所(現国土交通省沼津河川国道事務所)は、今後無秩序な開発の進展や少降雨気象の継続によっては、大幅に地下水盆(柿田川及び三島周辺の湧水群として現われる地下水の容れものの範囲)からの拠出が上回ると推察されると警告した[6]。その直後の平成8628日、同事務所が柿田川河川環境対策本部を設置して企業や上水道管理者に節水を呼びかける事態に発展した 。近年、静岡県は医療・製薬・健康まで幅広い健康関連産業振興・集積を図るファルマバレー構想をこの地帯に設定した。そのために今後、当該構想に関係する企業などの進出も予想される。このまま地下水が減少すると法的揚水規制がない富士山南東麓の三島地下川はどうなるか。三島地下川最下流での揚水と更に下流の柿田川工業用水道を使用する東レの水事情はいったいどうなるであろうか。昭和45年以降の同流域の地下水利用状況を表1(10)に示した。近年は経済不況の影響であろう工業用水は減少したが反面生活用水は増加している。

2004年は多くの台風が日本列島に上陸して大雨をもたらした。統計的に現在は豊水期である[7]。この時期を見逃さずに、三島地下川を揚水する総ての企業、自治体、住民が一体となって合意できる揚水規制、節水・再使用、水源涵養のため植樹その他有効な対策・基準を早急に確立しなければ、まもなく到来する渇水期には企業活動は勿論、生活水に事欠く事態になるかもしれない。そのために三島自然を守る会が今後も努力をする事は当然であるが東レと契約書を締結した三島市はリオデジャネイロ宣言、環境基本法、三島市環境基本条例にある持続可能な社会の発展をめざした揚水規制のためのイニシアチブをとるべきである。平成161016日、最高裁判所が水俣病関西訴訟で行政の不作為を認めた。判決は「知らぬ存ぜぬ」では見過ごされない時代になったことをしめす。今後、EU(欧州連合)に広がる国際環境開発会議(UNCED)で採択された「環境と開発に関するリオ宣言」(アジェンダ21 1992年)、「ウイングスプレッド宣言」(1998年)の「予防原則」あるいは「予防的措置(あるいは予防的な取組方法)」の立場が行政や企業に早晩求められるであろう。

 

編集の目的

東レ三島工場が三島市に進出する以前の三島湧水群と関わってきた市民生活はどうであったか。東レ三島工場が三島市に進出した結果どのように変わったか。住民は石油化学コンビナート進出を阻止したのち水を守るために何をしてきたか。今後はどのようにするか。本編は以上のようなことを明らかにすることをめざした。収録したい記録、論文、報告書等は多く収録しきれない。それを補うために年表はできるだけ詳しく載せ、年表を読むだけで水を守る運動がある程度理解できるよう配慮した。住民が国の政策の石油化学コンビナート進出を阻止するという、これまでの日本の歴史にない運動をどのように進めたかについては多く著書があるので収録しない。しかし、三島市民の石油化学コンビナート進出阻止運動は、その後の三島市民の水を守る運動に深く関わっている。従って、年表は石油化学コンビナート進出阻止運動の概略が理解できるよう配慮して、石油化学コンビナート進出阻止運動に関する事項を入れた。

 

1章:三島地区の自然環境と市民生活

ここでは、範囲を広め富士箱根地域の自然環境と、三島市民の生活に関して述べる。三島市立図書館には富士山コーナーがあり富士山に関係する書籍が多数ある[8]

 

1節 水と生活

富士山・箱根山・愛鷹山に囲まれた地域の降雨は富士山・箱根山・愛鷹山の裾合を三島地下川となって流下し三島市内の小浜池、菰池(こもいけ)や柿田川など三島湧泉群を形成する。太宰治は昭和14〜5年頃の三島を「水量たっぷりの小川がそれこそ蜘蛛の巣のように縦横無尽に隈なく駆けめぐり、清流の流れのそこには水藻が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぷちゃぷ洗い流れて、三島の人は台所に座ったままで清潔なお洗濯が出来るのでした[9]と紹介している。市民は水を家の中に導入して炊事や洗濯、食物を入れた船を浮かべ冷蔵庫がわりに使用、くまなく張り巡らされた灌漑用水路は水田を潤し、最後に御園(みその)地区から狩野川に落ちる。灌漑用水路工事に関して「桜川の人柱」[10]がある。用水路は染色業[11]や精米用の水車の動力[12]にも活用され、川魚が生息、うなぎ料理を天下に知らしめた。水は市民の生活そのものであった。三島市南部梅名(うめな)集落の右内(うない)神社にうなぎが集まる梅津の池がある。村民は明治4〜5年頃までうなぎは神の使者として不食としていた[13]。水が豊富な三島市には第二次大戦後まで公営水道は無く簡易水道が約10あった。久保町簡易水道はその一つで、明治37年に三島市中央部の人々が私費で立ち上げ、最近まで利用されていた[14]三島用水誌[15]、三島風景[16]、裾野の水―三島一泊二日の記[17]、関野真紀子さん(不二聖心女子学院)が中学2年から高校3年までかけて書いた冊子[18]などは水に関する貴重な資料であり一読を薦める。

小浜池南部は以上であるが北部長泉町薄原から裾野市深良にかけての上流は反対に水不足で困難を極めた。江戸時代の寛文6年、箱根外輪山に隧道を堀り芦ノ湖の水を深良用水としたことは「箱根用水の話」[19]で広く知られるようになった。小説「箱根用水」[20]が映画化[21]されている。深良用水は三島地下川と関係がある。深良用水については長泉町町民図書館、裾野市鈴木図書館に多数の資料があるので参考にされたい。

 

2節 地下水

富士山・愛鷹山・箱根山を考慮せずに三島地下川を語ることはできない。富士山の降水が箱根山と愛鷹山の裾合を地下川となって三島に集中して柿田川となる。三島地下川については多くの報告書がある。石田泰治氏[22]、落合敏郎氏[23]、金子良氏[24]、蔵田延男氏[25]、尾崎次男氏[26]、土隆一氏[27]、西岡昭夫氏[28]、藤村郁雄氏[29]、松本博氏[30]、吉岡龍馬氏[31]、山本荘毅氏・北川光雄氏[32]などの論文・講演で知ることができる。

 

3節 官民有区分から

箱根山西麓は明治4年の廃藩置県、地租改正にともなう官民有区分で一時は官地に編入された[33]。しかし先人達の努力の結果、明治13年に漸く民有地第一種に裁定され豆駿一宿52ヶ村の入会地となった。同地は町村合併などの変遷をへて、三島市外五ヶ市町箱根山組合、三島市外三ヶ市町箱根山組合、箱根山禁伐林組合、箱根山御山組合、箱根山殖産林組合の入会地に分割名称変更された(以下五組合を略して箱根山組合という)。大正1012月、箱根山組合は同地約2,115haを箱根土地株式会社(現コクド)にレジャー施設建設用として賃貸した。その後、大正12年の関東地震、昭和5年の北伊豆地震、戦時体制移行、丹那トンネルの貫通等の社会・経済・政治情勢の変化から箱根山組合内で同地の賃貸契約解除の要求が高まった。昭和8年、箱根山組合は箱根土地(株)に契約解除を申し入れた。昭和11年、賃貸した土地の約35%を契約更改し約65%が返還された。昭和25年、契約更新した土地の返還交渉が再開された。昭和2811月、一部(箱根峠〜十国峠間の道路以東)166.8haを坪当り10円、計5,006,420円で譲渡し残は返還された32。箱根山西麓の入会地は箱根山西麓の開発や水害を考える上で特に重要であるので年表は官民有区分から始めた。

 

4節 地質・洞穴・生物

三島周辺の地質・地形については沢村孝之助氏[34]、宮本昇氏[35]、大野勝次氏[36]、蔵田延男氏[37]、土隆一氏[38] 、黄瀬川流域地形分類図説明書[39]その他がある。藤村郁雄氏が熔岩洞穴における形成過程、模型実験を発表している[40]

植生は古くはケンペエル、シーボルト、ツンベルグらが調査している[41]。富士箱根伊豆にはこの地にしか分布しないフォッサマグナ要素(富士箱根要素ともいう)がある。箱根付近山地の中腹以上における温帯性遺存種群、箱根山を境に東と西に近縁種又は亜種が分布を分ける動物群、東海沿岸を北上してきて箱根付近で分布の北限を示す動物群の存在など、ハコネコメツツジ、ハコネサンショウバラ、ハコネサンショウウオなど、アズマモグラとコウベモグラ、トノサマガエルとダルマガエル、シマキジ他である[42]。楽寿園の植物とその植生[43]、箱根原生林[44]、黄瀬川流域地形分類図[45]、東駿地誌[46]等を参照されたい。

 

5節 降水・水害

富士山・箱根山・天城連山の降雨量は日本でも多く[47]一帯の降雨は狩野川に集中して、三島南部をへて沼津市から駿河湾に流出する。三島市は昔から旱魃(かんばつ)は少なく、同じ水問題でも水害に悩まされてきた[48]。水害といえば、昭和339月の狩野川水害を思い出すであろう。狩野川水害以降、建設省が本流狩野川の河川改修と放水路を完成させたので本流の災害の危険性はなくなったが、支流流域では開発が進み支流域の災害の危険性がある[49]。三島自然を守る会は、箱根山西麓の開発による災害の危険を冊子「箱根山西麓と大場川 その開発と水害」にしてある。平成2915日の集中豪雨で民家が流出、テレビ放映され有名になった。平成14101日に支流の柿沢川・谷下川合流点で湛水災害が起きた[50]

まとめ

以上のように、多くの文豪たちに愛された水の都三島は、富士・箱根をはじめとする豊かな自然環境を背景に形成された。その中で人々は豊富な水とかかわり合って生活してきた。

2章: 東レの進出は市民生活をかえた

この章では、東レの三島への進出による湧水涸渇、行政の対応、市民生活について述べる。

第1節           東レ誘致

昭和29年頃、東レが帝国人造絹糸株式会社とテトロン生産競走をするにあたって、優れた立地条件の工業用地を物色していた。当時、滋賀工場や愛媛工場の水問題でこりごりしていた首脳部が思いっきり水に恵まれたところということで、蔵田延男氏に相談、氏は三島溶岩中の地下川を起用することを考え、野戦重砲兵連隊跡地(約10万坪の殆どが長泉町地籍、三島市地籍は極少)と組み合わせで、三島工場が建設されるようになった2

昭和31724日、斎藤寿夫静岡県知事立会のもと、東レ滑竕i常務取締役が松田吉治三島市長と永井保長泉村長にたいし三島・長泉地区へ工場設置の申入れと要請をした。三島市は東洋レーヨン建設協力事務局を設置した。三島市当局は税収入、地元からの社員雇用、社員及び工場関係者の購買力の向上などを期待して、誘致運動に極めて積極的に動いた。三島市は条例を制定し[51]、東レの三島進出に対し、固定資産税の3年間の免除など恩典を与えた[52]。誘致にかかる負担金合計1700万円は、静岡県負担金3,000万円、長泉町負担金5,600万円、三島市負担金2,100万円で三島市は東レからの借入金で賄った。昭和31年頃から県立三島北高校移転問題が持ち上がっていた。当時、私立三島高校が県立三島北高校跡地を払い下げてほしいと三島市に要望していた。三島市は県立三島北高校跡地5,700坪を3,000万円で静岡県から払い下げを受けたのち、東レに3,350万円で幹部社員住宅地として売却した。当時、私立三島高校が同地を3,500万円で買いたいと三島市に申し入れていた。三島市は、東レへの払い下げ価額が安すぎると批判があったにもかかわらず東レに払い下げた。さらに、三島市は三島市立北中学校東側の5,285坪も、当時、不動産業者の見積は坪7,000円といわれたが、社宅用地として坪3,500円で東レに売却した。この他、小・中学校に500600人増が見込まれ校舎増設など三島市の負担は大きかった。以上のように三島市は多大な負担をして誘致した。  

当時の三島市議会内には恩典を与えての東レ誘致に批判的な議員もいたが市政に反映されなかった。恩典を与えての東レ誘致に熱心だった松田吉治三島市長や市議会議員らは、東レの三島進出の真意、誘致の結果三島の地下水がどうなるか、深く考慮すべきであった[53]東レは喉から手が出るほど三島へ進出を渇望した。三島市は経済効果を見込んで誘致したが、後に述べるように経済効果は小さかった。

昭和2911月、三島商工会議所が地域経済活性化のために野戦重砲連隊跡地に自衛隊砲兵連隊を誘致することを三島市に要請する動きがあった。このような時期に東レ三島工場進出が持ち上がった。三島市議会全員協議会において、市長が「従業員3000人の半数は現地採用する。市民税は殆ど三島市の収入」と報告し、商工関係者、農業者を期待させ、浮ついたことは否めない。東レ誘致に関係して、三島市が静岡県立三島北高等学校の移転に伴う跡地を東レの幹部社員住宅地として東レに払い下げるか、或は私立三島高校に払い下げるか議会で問題になった。その時、宮町・東岩崎の代表が「東レに払い下げれば将来住宅地、商店街として発展を期待できる」と市長と特別委員会委員長に陳情したことにその一端がうかがえる。

 

第2節 契約書はどこにあるか

本書収録にあたって、三島市が東レを誘致する際に三島市・長泉町・東レが静岡県立会で締結した契約書

の開示を三島市、長泉町、静岡県に求めたところ、共に原本が存在しないとのことだった。三島市にはメモ様タイプ打ちのそれらしき文書の一部はあった。長泉町には当時の永井保助役の文書綴りに「決定」と筆書した綴りがあった。権利義務に係わる重要書類が三島市、長泉町、静岡県に存在しない無責任さに驚いた。三島市は重要書類をどうしたのか。紛失したのであろうか。不明を理由に開示を拒否したのか。余りにも無責任である。長泉町の書類と三島民報[54]の当時の記事を対比したところ契約書原本と同一であろうと推察されたので収録した。

 

第3節 誘致後の湧水量の変化         

昔から「三島の水は冬減っても田植え頃には湧いてくる」といわれ、小浜池は例年23月頃水位が最も低く4月には増水に移行、5月には日々増水して6月に満水となる。昭和334月、東レが操業を開始、生産量増大に対応して揚水量も増加していった。生産量増大に反比例するように三島市内の湧水、小浜池の湧水が消失または減少した。昭和37年3月26日、小浜池湧水がはじめて完全に涸渇、5月になってからもカラカラに涸れていた。湧水を農業用水とする中郷(なかざと)地区農民は死活問題であるので、農業用水組合は東レに揚水を一時ストップさせ、影響有無を調査するよう三島市に申し入れた。三島市は応急対策を講ずるなど事態は深刻になってきた。三島民報は「中郷地区11集落の水田400町歩の灌漑用水の水源地となっている楽寿園小浜池、セリの瀬は、苗代づくりの近づいた4月末になっても一滴の水もないため、たまりかねた関係農民約500名が51日早朝からスコップやクワを持って“セリの瀬”に集り、池の底を掘ったが約50センチ下に僅かな水があっただけで一同を呆然とさせた。午前10時から長谷川市長、関係課長、議員10余人が現地に集り、佐藤喜市中郷用水組合長から事情を聞いたのち、カラカラになったセリの瀬で開かれた“渇水対策会議大会”にのぞんだ。長谷川市長は《異常渇水のため1ヶ月ほど前から憂慮して対策を考えた、御殿川から源兵衛川にポンプで水揚げすることや、万一の場合は陸稲に切りかえる技術指導も進めたい、数日中に全員協議会も開き対策を協議するほか国、県にも頼み、全身をこの打開に打ち込みたい》と決意を述べた」[55]と書いている。

 第4節 最初に消えた自然環境

ミシマバイカモはキンポウゲ科の植物で唯一水中にあり、今は柿田川にしか見られない。バイカモの仲間は高地性で低地にあることは珍しい。バイカモとは花が梅の花に非常に似ているので名づけられた。ミシマが付いているのは、三島市の楽寿園で発見されたからである。水の汚染に非常に敏感であり、日当りのよい綺麗な冷たい水でないと育たない[56]。そのミシマバイカモが東レ進出以前は、小浜池や市内の小川でも見られたが絶滅した。同時に、太宰治9、小出正吾16がいう情景が消えた。当時、三島市内には公共下水道はなく、市民は生活・事業排水を昔から家の前の側溝、堀や川に流していた。これらの排水を側溝、堀や川に流すことに対し、時には自制や公共下水道の必要性が指摘されることがあった。しかし清流が豊富であったため顕著な汚染はなかった。ところが湧水量が減って淀み、堀や川が悪臭を放つどぶ川化した。減水した堀や川の水量では防火は不可能だった。

 

第5節 東レがもたらした市民生活

ついに三島市は生活水に事欠く事態になった。三島の歴史にないことだった昭和4014日、中郷地区の農民ら約600人がセリの瀬で三島地区生活用水確保住民大会を開催、東レの大量揚水が起因であると、損害補償をもとめて、耕運機約40台、のぼり旗で東レ三島工場までデモ行進した。1月末、東レは地下水汲み上げによる地域社会との無用な摩擦を避けるため、柿田川工業用水道から日量10m3の工業用水の供給を受ける施設計画を推進してほしいと静岡県に要請した。これは将来の生産増に対する工業用水を確保するためでもあったようだ。東レ三島工場の西側にある円形設備が工業用水タンクである。また、東レと農民は話し合い、東レの排水(冷却水)を源兵衛川に導入し、三島市南部の農業用水に使用することに合意した。3月に入るとタンク消防車による生活給水が始まり、427日、三島市は水不足非常事態宣言したが、その直後、三島市は裾野市伊豆島田に三島市営水道水源を完成させ給水開始して事態は収拾した。

節 因果関係

このような現象の直接の原因は東レにあったのであろうか。蔵田延男氏は東レに三島進出を勧めたので、湧水減少の真の原因が東レの揚水であったことを認識していたであろう。それは「静岡県三島市およびその近郊の地下水理」で知ることができる。当時、氏は富士山の降水(降雪)量減少が主原因であると唱えた。たまたま昭和37年頃は積雪が少なかった[57]。東レ進出時の契約書の立会人である静岡県は原因を調査したが、「枯渇の原因がはっきりしない」としている[58]。これに対し、三島市が田中茂氏らに調査を依頼した結果の報告書「三島市及び周辺の水資源調査報告書 昭和38年」は湧水減少の原因が「人為的要因」・「三島周辺の工業化(東レであると示唆)」と指摘している

            表1  地下水等の利用状況

地下水調査報告書(平成15年度版)静岡県環境森林部水利用室より
工業用水は「工業統計調査」の従業員30人以上の事業所の井戸水(湧水を含む)と工業用水道の計
御殿場市工業用水は地下水を水源として昭和60年から給水を開始している。
生活用水は「静岡県水道の現況」の上水道取水量と簡易水道給水量の地下水とその他(湧水)湧水の合計値(伏流水は含まず)
柿田川工業用水道は柿田川を水源として昭和44年から給水を開始している。
駿豆水道は柿田川表流水を水源として昭和50年から供用を開始している。
長泉町の50年の上水道は実績給水量ベース、また清水町の水道は沼津市に含まれる。
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窪田精四郎(医師・三島市議会議員)氏は原因が「東レによる地下水大量くみ上げ」
[59]であると指摘した。元東レ社員松本博氏は「東レによる地下水大量くみ上げ」であると認めた[60]

当時、湧水減少の直接の原因は東レだった。しかしその後は柿田川から御殿場にかけての揚水が関係ある。柿田川にある沼津市揚水場は最下流での大型取水であり無視できない。土隆一氏は「小浜池枯渇の原因は全く人為的なものということになる」と[61]述べている。国土交通省富士砂防工事事務所は、小浜池の枯渇の原因は「従来、天候、人為的など様々な原因が複合していると推定されるとされてきたが、今後は深井戸による地下水採取の増加の観点から考えて見なければならない」としている[62]。最近では蔵田延男氏も「はじめに」で触れたように取水が原因としている5

第7節    東レのテトロン生産量と三島市内の井戸の消失

表―2は三島市小浜池保存調査に関する報告書の「小浜池周辺の井戸、湧水の変化」を基に工藤周一氏が作成した。表―3は東レ三島工場のテトロン生産量である。両者の関係がよく判る。

表―2 表−3

テトロン生産量

白方圭一氏提供資料より

第8節 市民生活への影響

昭和23年、三島市営水道は旧陸軍(野戦重砲連隊)の軍用水道施設の無償貸与をうけ[63]JR三島駅付近の「さく井不可能地域」に対して最小限度の給水をするために創設された。市営水道が敷設される前は、明治33年に設立された久保町水道など約10の簡易水道組合が生活水を供給していた。その他は自家用井戸に頼っていた。昭和334月、東レ三島工場が操業開始してから、市内の井戸や湧水に徐々に変化が現われ、昭和30年代後半、急速に涸渇、市営上水道も涸渇、市民の生活水すら事欠く事態になった。三島市は急遽、旧陸軍軍用水道水源の下に新たな井戸を掘ったがこれも涸れた。そのため、三島市は裾野市伊豆島田にある農業井戸を取得、事業費3億9789万円を支出して三島市上水道水源に改増した。その後、人口が増加したため、昭和43年に事業費10億円かけて第3次拡張事業、昭和47年に252332万円かけて第4次拡張事業で飲料水を確保した。これが現在の三島市上水道である63。三島市は405月までに農業用水を確保するために事業費2271万円を支出して東レ排水を毎秒1m3源兵衛川に流す工事をした。この事実を知る三島市民は少なく、源兵衛川が富士山の湧水と信じている市民が多い。三島市を訪れる人々は源兵衛川の流れをみて富士山の湧水だと感激するそうだ。罪深いことである。三島市は見せかけのせせらぎ事業ではなく本質的な解決をめざすべきである。

 

節 経済効果

昭和33年度、東レ三島工場操業開始年度の東レからの税収は、減税分を差し引き、三島市が150万円、長泉町が2300万円、静岡県が1250万円だった。同年、横浜ゴム鰍ェ6,780万円、電業社2,250万円、三共製薬1,550万円、森永製菓1,535万円、静岡ガス1,076万円で、これらより規模が小さい日清製菓ですら269万円、市内の蓮馨寺でさえも142万円、東レの150万円が如何に小額であったか解るであろう。32年から40年までの東レからの税収予想は三島市が2,742万円、長泉町が25,369万円、静岡県が106,936億円だった。

従業員3,000人の半数は現地採用するとの東レの説明だった。東レ操業開始以前の、昭和30年の三島市の製造業人口は4,787人である。東レが昭和33年に操業開始して、2年後の昭和35年に三島市の製造業人口は7,091人となる。しかし、昭和30年から5年間で増加した製造業人口約2,300人の大部分が東レ社員であったとは考えられない。33年、東レは県立三島北高等学校と同三島南高等学校から22名を採用した以外、東レの大規模な地元採用はなかった。東レの地元採用が少ないと三島市議会で批判が出た。昭和37年当時、東レ三島工場全従業員3,300人のうち県内出身者は1/4の830人、全体の3/4は他県出身者で占められた。昭和40年代の最盛期の東レ社員は約4000人で大部分は北陸・東北から採用され地元採用は少数だった。社員は社宅・社員寮(ほぼ総て長泉町地籍)に住み三島地籍の社宅の住民は僅かであった。東レ従業員や東レ工場関係者の購買についての当時の商業診断(買い物調査)によれば、三島市内60%、沼津28%でこの比率は一般買い物客の場合と概ね同じで、しかもその後、東レ社内の消費協同組合が活動して三島市商業への依存度は低かった。詳しくは三島市及び周辺の水資源調査報告書[64]を参考されたい。

誘致による経済効果を期待したが、経済負担が大きく経済効果が僅少であることが、三島市議会ではしばしば問題になった。三島民報は、昭和3510三島市議会で、議員から「東レは三島市と共に伸びると公約したが社宅は囲む(県立三島北高校跡地に建設された幹部社員用住宅地は生垣で隔離されていた)など地元に異論がある。東レより高額寄付をしてもらうよう市長、議長、委員長は努力してほしい」、「北高跡社宅は租界だ」「寄付を増額しろ」「3年間なめられてきた」など発言が相次いだ。これに対し、園田今彦議員(東レ社員、東レ労働組合三島支部長)は「東レはみみっちい様な事ではなく、纏めてどんと出す」と応えた。すかさず「園田君を社長にしたい(笑い)」などの応酬があったと書いている[65]。園田発言以降、東レは社員の子弟が多く通学する三島市立北小学校・同北中学校や長伏プール等の小額寄付をした。

東レ固定資産税の全体の約9割が長泉町の収入となり長泉町は相応の税収効果があった。三島市の東レからの固定資産税は全体の約1割であった。東レが希望した三島市と長泉町との合併は不成功に終わった。長泉町との合併が成功していれば三島市民感情も改善されたかもしれない。

 

11節 異常な排水

東岩崎や境川沿いに住む人が「昭和38年頃だったか東レ排水口から異常流出があった」と話していたことがある。それは恐らく、東レが行った地下水揚水による影響調査の時の話であろう。

 

12節 なぜ市民感情が悪いか

 東レに対する期待が裏切られた不満については先にふれた。東レ労働組合は三島地区労働組合会議(総評系)に加入したが間もなく脱退、大東紡績労働組合、東京電力労働組合らと全労傘下の組織を作り、静岡県で唯一分裂メーデーを開催するなど、運動の中で連帯する努力をしないで、資本と労働が激しく対決した当時、市民との交流を自ら閉ざし孤立を深めた。これについては三島市及び周辺の水資源調査報告書に詳しい。東レや同労働組合はコンビナート進出問題では市民の関心を湧水減少からコンビナート問題にそらす動きをしたといわれる。

 

まとめ

以上のように、東レの三島進出後、三島市内の湧水群が消え、天然記念物の小浜池が涸れ、生活水確保に消防車が出動、田植えは出来なくなった。三島市は多額の財政支出で急遽、裾野市伊豆島田に三島市上水道水源を確保した。東レの排水が源兵衛川に導入され三島市南部の農業用水となっている。経済効果よりも経済的負担が大きかった。東レと同労働組合は市民感情をよくする為の努力をしなかった。

 

3章: 石油化学コンビナート

この章では、石油化学コンビナート進出阻止について述べる。

柿田川が石油化学コンビナートの工業用水に使用されるとさらに深刻な水不足になる。三島市民は、東レの進出によって三島湧水群が涸渇した上に、テレビで放映された四日市公害のような亜硫酸ガスが田方平野上空に滞留して、三島は安心して生活できない公害の街になってしまうという危機感を抱いた。石油化学コンビナート進出阻止については多くの研究や報告[66]があるので参照されたい。

 

1節 石油化学コンビナート計画

昭和359月、静岡県は第六次静岡県総合開発計画でアラビア石油、住友化学、昭和電工、東京電力等を沼津市口野から三島市南部にかけて誘致することを計画したが立ち消えになった。昭和378月、新産業都市建設促進法が施行され、翌年1月、斎藤寿夫氏が沼津・三島地区の新産業都市指定獲得を公約して県知事に当選した。同年712日、沼津・三島地区は新産業都市指定からもれ東駿河湾工業整備特別地区となった。静岡県は沼津市、三島市、清水町に二市一町の合併と石油化学コンビナート進出をセットで計画した。計画は沼津市牛臥に港湾と東京電力火力発電所、三島市南部に富士石油、清水町に住友化学を建設し工業用水は柿田川湧水を使用するものであった。

 

第2節 運動の特徴

この時期、日本の大衆運動は原水爆反対、安保反対運動のような政治運動と労働運動が盛んであったが社会党と共産党の対立、共産党から分派した新左翼のセクト主義、社会党から民社党の分裂、原水爆反対運動の分裂など対立と混乱があった。民社党・全労は大企業支持であった。当時、公害反対運動は教師、地方の下級公務員、商店主、農民、漁民などが主力であった[67]

三島市では商工会議所、三島市婦人会連盟、三島市町内会長連合会、三島地区労働組合会議、進出予定地の農民や主婦、地権者などが中心となり一般市民を巻き込んで、実質的に三島市内の主な組織が意見や主張を乗り越えて公害反対で立ち上がった。特に中郷地区の農民や婦人達が運動の中心であった。中央では先に触れたような対立があったにもかかわらず、三島市の社共両党と三島地区労働組合会議はセクトを出さずに公害阻止を第一義的に配慮した運動をした。国立遺伝学研究所の先生方の役割は特筆される。

 

3節 組織的運動の始まり

昭和391215日、中野順氏(元三島自然を守る会会員)の呼びかけで酒井郁造氏(当時日

本社会党県議会議員 元三島自然を守る会代表理事)、角田不二雄氏(当時三島市議会議員 日本共産党三島市委員長)、土屋豊氏(当時 三島をよくする会事務局長)、三島地区労働組合会議代表などが協議して三島市広域都市問題市民懇談会を結成した。これが三島での組織的な運動の始まりである。久保田豊氏(当時日本社会党衆議院議員 田方郡韮山町出身)は石油化学コンビナート進出に賛成だったので、日本社会党三島支部として反対しにくい側面があったであろう。結成した翌日の16日、日本社会党三島支部(支部長 酒井郁造氏)が石油化学コンビナート進出反対を表明、阻止運動は急速に盛り上がっていった。

 

4節 遺伝学研究所 

国立遺伝学研究所(当時 木原均所長)は学習会を開催したのち、遺伝学研究所を代表して松永英氏が市長に面会した。市長は「遺伝研の先生がくる。どうしょう!?」と角田不二雄議員に相談した。同議員は市長に「先生方に公害調査を依頼してはどうか」と提言した。「これは名案だ!」と松村調査団が発足した[68]。同調査団の報告書[69]が進出阻止を決定的なものにした。遺伝学研究所の動きの一部については松村清二氏の美與子夫人[70]の手記に詳しい。

 

5節 反対運動の支え

酒井郁造氏がはじめて三島市議会議員に立候補した時に、日本共産党三島市委員会は組織内候補として当選させた。その後、酒井郁造氏は日本社会党三島支部長となるが酒井郁造氏と角田不二雄氏ら日本共産党三島市委員会は、当時、中央では社・共の対立があったにもかかわらず、三島では友好関係にあった。三島市議会議員だった角田不二雄氏は早くからコンビナートや合併反対のビラを作成、全戸に入れ、小冊子をもって反対を訴えた。39年正月、酒井郁造氏と角田不二雄氏は酒井宅で話し合い「合併と石油化学コンビナート阻止のため社・共が統一して反対する」と確認しあった。

 

6節 静岡県東部は労働運動の先進地帯

静岡県東部では水を利用した繊維工業が早くから発達し、ストライキを戦うなど戦前から静岡県社会労働運動史上の先進地帯であった[71]。また、第二次世界大戦直後、木部達二氏が庶民大学三島教室[72]を立ち上げその影響は大きかった。石油化学コンビナート当時、三島地区労働組合会議は石油化学コンビナート進出に反対したが大企業支持の方針が明確な民社党の影響がある労働組合などは賛成した。

 

7節 学習会から行動へ

381215日、三島市広域都市問題市民懇談会(後に石油化学コンビナート対策三島市民協議会に改組)が発足するとまもなく、学習会が開催された。3929日に石油化学コンビナート対策三島市民協議会が四日市へ公害の現状を見に行った。それ以降は中郷地区各町内会がそれぞれ代表団を組織して、四日市に公害の実情を見に出かけた。代表団は帰島すると四日市の公害の現状を話し、他の町内会も視察に行くなど連鎖的に発展、反対運動が盛り上がった。

 

8節 遂に市長も反対

3954日、松村調査団が中間報告を発表、523日、長谷川泰三市長が三島市公会堂で開催された市民集会で反対を表明、918日、沼津市長が反対を声明して事実上終結した。

 

まとめ 

三島市、清水町、沼津市の人々は東レの進出で湧水群が涸渇して生活に支障があるのに、石油化学コンビナートが柿田川を工業用水に使用すればさらに深刻な水不足になる。そのうえ亜硫酸ガスが三島上空に滞留して四日市のような公害の街になるであろうと、統一して国策の石油化学コンビナート進出を阻止した。日本の歴史に無いことでありその後の自然保護運動や国の環境行政に影響を与えた。

 

4章: その他の運動

この章では、石油化学コンビナート阻止後三島の人々は何をしたかを述べる。

 

第1節             市民運動(1)

昭和45年から平成2年までの三島の水に関連した公害、環境破壊、自然保護運動の概略を述べる。

 

1) 三島市公共下水処理場で東レ工場排水を処理することの是非について

東レ三島工場進出前の三島市内の湧水を知る市民は反東レ感情をもっている。東レ操業から12年、コンビナート進出阻止から5年経過した昭和453月、三島市が東レの工場排水を三島市公共下水処理場に受け入れるべきか否か三島市議会で問題になった。この問題では三島市当局、三島市議会、東レ、社会党三島支部、市民、三島市公共下水処理施設建設予定地住民などの思惑や対応が複雑に絡んだ。これに関しては「三島における公害反対闘争の報告」[73]がある

イ)東レは、東レの工場排水を三島市公共下水処理場で処理することは通産省や科学技術庁の指導であり、東レが公共下水道建設資金の一部を負担すれば、三島市が提案を受け入れてくれるであろうと考えた。

ロ)三島市長は公共下水道を早期に建設するために建設費用の一部を東レからの資金で賄おうとした。

ハ)社会党三島支部の一部は、東レ排水を三島市公共下水処理場で処理することになれば市内西地区に東レの下水道管が敷設され、その結果、西地区住民は他地域住民よりも早く家庭排水をその下水道に排出することが可能となる。これが地域住民から社会党三島支部の成果と評価されるとの思惑があった。

(ニ)この議案は45630日三島市議会特別委員会に付託され、特別委員会は13回開催された。第13回目の特別委員会は下水処理場建設予定地住民の反対で開催できず、結果として特別委員会の結論は東レ工場排水の三島市公共下水処理場受け入れ拒否となり、最終的にこの案件は実現しなかった。

2)箱根山西麓の開発計画と二社のゴルフ場建設

昭和33年、三島市外五ヶ市町箱根山林組合と三島市外三ヶ市町箱根山林組合は国道1号線静岡県と神奈川県境箱根峠の北側の入会地約40haを三島箱根観光開発株式会社(芦ノ湖カントリークラブ 社長佐野隆一氏 三島市名誉市民第一号)にゴルフ場用地として賃貸した。当時の三島市長松田吉治氏が同カントリークラブの取締役と三島市外五ヶ市町箱根山林組合と三島市外三ヶ市町箱根山林組合の管理者であった。当時、松田市政には批判があった。昭和357月、芦ノ湖カントリークラブは開業した。昭和41年頃、箱根町から熱海市に通ずる道路の西下の箱根山組合地に富士箱根ランドが作られた。昭和30年後半から40年前半にかけて、小熊桿(まもる)氏(国立遺伝学研究所初代所長 退官後小田原市に居住)、木原均氏(当時国立遺伝学研究所所長 退官後横浜市に居住 元三島自然を守る会会員)と国道1号線箱根登口付近に居住した小出正吾氏(児童文学者 元三島自然を守る会顧問)らは箱根山を守る運動を始めた。

昭和45年から48年頃にかけて、富士緑化開発株式会社他約24社が、箱根山西麓の箱根山組合地等にレジャー施設建設計画を三島市に打診してきた[74]。昭和45年、三島市は箱根山西麓調査委員会(委員長 木原均)に箱根山西麓の開発について調査を依頼した。昭和48年(1973)3月、同委員会が答申を三島市に提出、昭和51年(1976)7月、同委員会が箱根山西麓調査報告書を三島市に提出した。答申が箱根山西麓に対する三島市の基本方針(開発指導要綱)に反映した。内容は「@標高350m以上は自然保護を原則とする。A一水系5万坪以上の地形変更は認めない。B350m付近以下の開発は、自然保護に努め住民のくらしを豊かにする施策を推進する」であった。最終的に、富士緑化開発()とマルマンローヤルカントリーの二社が残った。この二社のゴルフ場建設に反対して三島市職員組合連合会、三島市教職員組合、三島地区労働組合会議などがゴルフ場建設反対市民会議を組織して、昭和62年まで17年間にわたり建設反対運動をした。奥野豊氏(元三島地区労働組合会議議長 教員)はその中心であった。三島市議会決議は「狩野川と大場川合流点―中(集落名)地先間の河川改修が終了するまで申請書を県に送付しない」であった。決議は議会内で多数を占める建設賛成議員との止むを得ない妥協であった。建設反対議員は「河川改修は2030年かかるであろう。そのうちに計画は立ち消えになる」と期待した。平成2年9月15日に三島市北部を襲った集中豪雨の結果、大場川の河川改修が急速になされた。三島市は県に申請書を送付、県が許可して着工され、三島スプリングスカントリークラブとグランフィールズカントリークラブの二社のゴルフ場が平成4年に開業した。

昭和62年、総合保養地域整備法(リゾート法)が成立し、静岡県が伊豆北部から富士山までを対象地域に指定したことから、三島市が多機能型都市建設構想やオーストラリア村建設構想を計画した。箱根山組合がコクド鰍ノ入会地を返還させてから36年しか経過していない平成元年頃である。三島市は三島市教育委員会が発行した三島用水誌を無視して三島市自身が開発計画をしたのである。幸い計画は立ち消えになった。いったい市政とは何か。自らまとめた三島用水誌の水害の教訓を学ばず、単にバブルに踊らされたと結論づけるだけではあまりにも無責任である。入会地の地上権を企業に賃貸して事実上所有権を取られた自治体や入会がかなりあるようだ。また賃貸した入会地に建設されたゴルフ場から農薬が流出して、環境汚染に悩む住民が全国的に多いと聞く。箱根山組合が芦ノ湖カントリークラブに賃貸した土地のうち約14万坪は別荘地として第三者に再賃貸され事実上所有権を失った。芦ノ湖カントリークラブへの賃貸地を通過していた鎌倉古道は消失した。

高度経済政策の頃、静岡県下にゴルフ場などのレジャー施設の建設計画が多発した。狩野川支流大場川水系の裾野市茶畑ゴルフ場、同支流谷下川水系の函南町に函南リゾート、同支流の韮山町に「蛇センンター」建設とゴルフ場増設、狩野川中流の修善寺町牧の郷にゴルフ場建設計画が起きた。これらに対し住民らは自然保護団体を組織して反対した。計画はバブル経済の破綻もあり中止された。

 

) 三島自然を守る会の結成と目的

三島自然を守る会は、三島スプリングスカントリークラブとグランフィールズカントリークラブの二社のゴルフ場建設に反対運動をする過程で、運動と石油化学コンビナート阻止運動の中心的な人々によって結成された。三島自然を守る会はナショナルトラストを考慮して、環境破壊に反対し自然保護を永続的に運動することを目的とした[75]。当時、自然保護・環境破壊反対の活動の中心は三島市職員組合連合会、同自治体問題研究会、三島教職員組合、三島地区労働組合会議、三島自然を守る会などだった。主な活動は二社のゴルフ場建設反対と裾野市須山地区への小泉ライオンサファリー建設反対であった。ライオンサファリー建設問題については三島市職員組合連合会と同自治体問題研究会が「三島の湧水」[76]を作成した。

4) 化学物質や農薬による河川の汚染調査

昭和53年1月14日、伊豆大島近海地震で天城湯ヶ島町持越鉱山から大量の精練鉱滓が狩野川に流出した。その直後、狩野川の汚染調査をした清好一氏の報告は他にない貴重な資料である[77]。清好一氏、花野井忠司氏、中島保氏ら日本大学三島高校の教諭らは、大場川の汚染を10年の長期に亘って調査した成果を報告している[78]。水質汚染については、三島市職員関根覚氏らによる汚水処理施設に及ぼす合成洗剤の影響等の調査[79]もある。三島自然を守る会は、第11回三島自然を守る会総会での岡彦一氏の記念講演「環境汚染と農薬」を冊子にしてある[80]

 

5) 富士山裾野のライオンサファリー建設に反対

昭和47年頃、富士山麓の裾野市須山に小泉ライオンサファリー建設計画が持ち上がった。建設計画には以下の問題があった。

イ)建設予定地は三島地下川の水源涵養地帯である。しかも一帯はスコリアといわれる火山灰で浸透性がよく、動物の糞尿から未知の人畜共通のウイルスが地下水に混入する恐れがある。

ロ)予想される東海沖地震や富士山噴火の際、フエンスが倒壊して猛獣が逃げ出す可能性がある。

ハ)猛獣が富士山や中部山岳地帯に逃げ込むと捕獲が困難になり本州全体が危険地帯になりかねない。

ニ)富士箱根要素といわれる貴重な植物が失われるおそれがある。

ホ)ライオンは日本の象徴の富士山に似合わない。

ヘ)アフリカのライオンなど本来生存すべき地でない日本で見世物にすることは動物虐待である。

三島市、沼津市、清水町、長泉町、裾野市、御殿場市の自然保護団体は「富士・箱根・愛鷹の自然と生活環境を守る住民協議会」を結成して、小泉ライオンサファリー(株)、富士銀行、静岡県、裾野市に対して反対運動を展開した。昭和51年から昭和61年まで11年間に亘って、小泉ライオンサファリー(株)、富士銀行、静岡県、裾野市との話し合い、抗議集会、学習会、行政不服審査請求、行政訴訟、仮処分申請、民事訴訟等の反対運動をした。NHKニュース解説で伊藤和明氏が地下水涵養地帯への建設、東海地震や富士山噴火の際の危険性から疑問を提起した。

岡彦一氏は「富士・箱根・愛鷹に自然と生活環境を守る住民協議会」の仮処分請求に呼応して「三島地下川地下水涵養地帯の地質の特殊性から、ライオンサファリーが建設されると動物の糞尿から未知の細菌やウイルスが混入する危険性がある」と陳述書を提出した[81]。平成14年頃、中国南部で、ハクビシンの排泄物からSARS(サース)コロナウイルスに感染し、新型肺炎が集団発生したことや、ウイルスに感染したカモからアヒルや豚を経由して人間が感染する鳥インフルエンザが問題になる25年以前のことである

動物の糞尿は処理したのち、調整地から地下へ浸透させる計画であった。山本荘毅氏は小泉ライオンサファリーの動物の排泄物処理についての事前調査報告書を作成した[82]。昭和53228日、衆議院環境保全特別委員会において、環境庁水質保全局長は「予測調査を担当されました山本荘毅先生、この方は、こういう地下水の面につきましては日本の最高の権威とも言われておる方でございまして、そういう面から見ても、相当信憑性の高い権威ある報告書ではないか、かように思っております」と回答した。山本荘毅氏の報告書には計算ミスがあったので同氏に真意を質すため、昭和54911日、「富士・箱根・愛鷹の自然と生活環境を守る住民協議会」の代表5人が山本荘毅氏に面会話し合った。同氏は「私の名前が報告書に使用されていることを知らなかった」と回答した上で「計算ミス」を認めた。

その山本荘毅氏が「富士山サファリーパークを造った時、処理しても、動物の糞便やバクテリア、ウイルスが地下に浸入して三島湧水の水質がすぐ汚染されると国立遺伝学研究所の部長が先頭にたって騒いだことがある。10年以上経った今日未だ汚染の事実を知らない」[83]と書いている。これについては前述の岡彦一氏の陳述書を参照されたい。遺伝学研究所の諸博士らは問題を住民の立場から指摘し、山本荘毅氏とは対照的だった。

 

6) 有機溶剤が検出される

平成元年早々、マスコミが柿田川湧水から有機溶剤が検出されたと報道した。「富士・箱根・愛鷹の自然と生活環境を守る住民協議会」が清水町、三島市、沼津市などに水道水の調査を要請したところ、既に沼津市や三島市の上水道から検出されていたが未発表だったことが判明した。遡ること5年前に、厚生省が通達していた[84]。三島自然を守る会は木下恒静岡大学教授を講師に「有機塩素系化合物による水質汚染」 、千葉県自治体問題研究所榎本今朝美氏を講師に「地下水の汚染の現状と問題点を考える」などの学習会を開催した。その後、水質検査基準は変更されたが平成16年度、三島市伊豆島田浄水場の検査の結果は、1.1‐ジクロロエチレン基準値0.02mg/に対し0.002 mg/未満、シス‐1.2‐ジクロロエチレン基準値0.04 mg/以下に対し0.004 mg/未満、ジクロロメタン基準値0.02mg/以下に対し0.002mg/未満、テトラクロロエチレン基準値0.01mg/以下に対し0.0005mg/未満、トリクロロエチレン基準値0.03mg/以下に対し0.002mg/未満等検出限界の極微量が検出されている。三島市は千葉県君津市のように原因を徹底的に調査すべきである。土隆一氏も同様主張している。

 

7) 三島民報とみしま市民新聞

石油化学コンビナート進出問題の頃、三島には数地方紙があった。その中で「三島民報」は市民の立場から三島市政を厳しく批判するものでその役割は大きかった。東レ誘致、コンビナート進出阻止、その他市民の立場で長年に亘り記事を提供した。「みしま市民新聞」は昭和492月から発行され市民の立場から鋭く三島市政を問うものであった。両紙とも本編作成にあたって改めて当時の記事を引用・参考にさせていただいた。

 

2節: 市民運動(2)

前節では富士箱根の自然環境保護運動について述べたが、この節では三島自然を守る会の三島地下川についての学習と行動について述べる。

 

1)「三島の湧水を考える会」について

前節でふれた活動をしている最中に、小浜池の保存問題が起きた。昭和63年、三島自然を守る会は三島の水についての学習会「三島の湧水を考える会」を開催した。「三島の湧水を考える会」は三島地下川涵養域の降水、地下川、地質、水質、三島市内の井戸、久保町簡易水道等三島の水全般について学習するもので、昭和63年(1988)1月から平成元年(199011月まで14回開催した。おもな内容は以下のとおりである。中嶋勇氏は三島市小浜池保存調査に関する報告書の「三島周辺の湧水の水質・同位体分析」について、高島勝氏と高橋豊氏は三島市小浜池保存調査に関する報告書のうち自身が担当テーマを解説した。

地下水という一枚から[85]・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   藤村郁雄氏

三島市付近の地下水位と富士山の積雪について21・・・・・・・・・・・・・  石田泰治氏

火山灰層から見た三島溶岩の堆積条件・・・・・・・・・・・・・・・・・・  高橋豊氏

東レの三島地下川の研究[86]・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  松本 博氏

「三島周辺の湧水の水質・同位体分析」について・・・・・・・・・・・・・  中嶋勇氏

小浜池周辺の井戸、湧水とその変化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  高島勝氏

三島市小浜池(楽寿園)の年最高・最低水位及び渇水日数と降水量との関係[87]

・・・・・・・・・  藤村郁雄氏

現在の自然環境の原型について―三島熔岩流の流下時代の古地形―・・・・・  高木光正氏

忘れてはならない湧水の復活・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  西岡昭夫氏

久保町水道のみずがめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・ 梅原善長氏

元東レ社員松本博氏は東レの三島地下川の研究について講演してくださった。氏は東レ三島工場の工業用水の開発に最初から携わり、東レの三島地下水研究や理論構築をした。氏は業務といえども湧水涸渇の責任を詫び、行政、企業、市民が一体となって湧水復活の運動をする以外に復活させる方法はないと訴えた。その内容は三島市民全員が直接聞いて欲しい内容だった3。松本博氏は概ね次のように話した。

イ)   三島湧水群涸渇の直接の原因は東レの揚水である。

ロ)   東レは調査報告書を5冊作ったが外部漏れ防止のため破棄した。

ハ)   人為的に破壊したものならば人為的に復元できる。原爆投下で破壊された広島や長崎も美しい緑と太陽の近代都市に復興している。

ニ)   三島湧水群は国や企業が多くの人々を組織化し、その合成力をもって破壊をしたもので、この復元にはこれに匹敵する市民の組織的な復元力を合成するしか対策はない。

氏はこのように訴え責任を詫び湧水復活の願いを三島市民に託した。第二次世界大戦後の復興から経済大国を目指す流れの中で涸渇という厳しい現実を省みて、自然保護という観点から講師をしてくださった勇気を称えたい。

 

2)「三島地下水について学習会」について

14回開催した「三島の湧水を考える会」は「三島市小浜池保存調査に関する報告書 昭和60年(1985)3月、代表 土隆一」についても学習討論した。参加者から同報告書をさらに深く学習したいとの希望が出されたので、三島自然を守る会は、平成2年(19909月から11月にかけて「三島地下水について学習会」を4回開催した。この学習会は「三島の湧水を考える会」での学習成果をさらに深め、併せて小浜池の湛水の是非を考えることが主な目的であった。学習会は以下のとおりである。

落合敏郎説について23    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  土屋寿山氏

土説と落合説について[88] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 西岡昭夫氏

三島溶岩流及び小浜池の水位と降水の関係[89] ・・・・・・・・・・・・・ 藤村郁雄氏

三島市小浜池保存調査に関する報告書について[90] ・・・・・・・・・・・ 土 隆一氏 

 4回の学習会では山本荘毅氏・北川光雄氏が水循環に関する諸量の項で流速を「大胆に100年とする」、土隆一氏・吉岡竜馬氏が三島市周辺の湧水の水質・同位体の分析の項でとなえる「三次元定常流モデル」、「トリチウムで測定した水の年代」などに疑問が出た。詳しくは「小浜池の水は100年前の水か?」[91]を参考にされたい。これは関係方面に影響したようで、後に落合敏郎氏もこれに触れている。

 

3西岡昭夫氏の研究成果を学習

西岡昭夫氏は富士山南東麓の三島地下川が三島を経て柿田川となることに着眼し流出関数法で解析した。三島測候所、富士山御殿場測候所、須山観測所の各降水量、三島上水道水源井戸の水位と小浜池の水位、柿田川にある沼津市上水道泉水源の湧出量を調べ解析した。平成元年以降「忘れてはならない湧水の復活」[92]、「小浜池湧水のルーツを探る」[93]、「地下の柿田川―三島熔岩流内の地下水―」[94]、「地下の柿田川U―図表で探る小浜池・泉水源・柿田川湧水の仕組み―」[95]として発表した。三島自然を守る会はこれらを市民と共に学び、広める運動をした。この運動は松本博氏の提起に呼応したものでもあった。

 

4)三島地下川水位の変動

三島地下川の水位は裾野市伊豆島田の三島市上水道で測定している。三島市立公園楽寿園小浜池では1958年以降の毎日の水位を測定している。西岡昭夫氏が「地下の柿田川U ―図表で探る小浜池・泉水源・柿田川湧水の仕組み―」で1985年から1995年まで11年間のこれらの水位をグラフにしてある28

建設省中部地方建設局沼津工事事務所(現国土交通省沼津国道河川事務所)は「黄瀬川・大場川流域の水循環システム対策について」[96]で昭和38年〜平成5年までの三島地下川水盆の降水量、湧水量、地下水利用量、地下水利用量と湧水量の合計等をグラフにしてある。小浜池の水位は工場が休業する年末年始に一時的に上昇することを藤村郁雄氏[97]、土隆一氏[98]が指摘している。本編には収録してないが尾崎次男氏および蔵田延男氏の「天の水 地の水」2526の論文も参考にされたい。

 

5)三島地下水の年代

三島地下水の年代については概ね四説ある。

(1) 5〜10cm/秒程度・・・・・ 蔵田延男氏2と松本博氏60

(2) 80日説・・・・・・・・・・ 落合敏郎氏23西岡昭夫氏28

(3)       最近の水または数年説・・・ 落合敏郎氏[99]馬原保典氏ら[100]

(4)       100年説・・・・・・・・・ 山本荘毅・土隆一氏両氏ら[101]

蔵田、松本両氏主張は「空洞内を510cm/秒で南下している」であるから1ヶ月以内に三島に

到達する。落合敏郎氏は上記各説は如何なる根拠に基づくか、「小浜池の湧水は100年前の水か 三島自然を守る会1993829日」を併せ熟読してほしい。土隆一氏は現在では1015年を経た水としている。松本博氏は「三島地下川については個々の学者の主張に惑わされないで実際に足を使って現地を調べ、事実に基づいて判断してください」と呼びかけた。地下の実態はたとえ学者でも判らない。学説は学説として学ぶことは必要であるが重要なことは三島地下川(水盆)の水位低下である。水位低下の原因は何か。どうすれば水位を上昇できるのか。その為に何をなすべきかである。

 

6)松本モデル

松本博氏は「三島地下川は裾野市石脇と裾野市伊豆島田の三島水源で区分される御殿場〜石脇、

石脇〜三島水源、三島水源〜柿田川の3槽モデル」を提起している。氏は地下水貯留現象(地下の柿田川U93 )は蔵田延男氏も認識しており、3槽モデルは昭和60年に立証されたという。また氏は東海道新幹線大場川鉄橋上流の東岩崎にあった湧水が箱根山系の水であったことから、三島市及び周辺の水資源調査報告書(38年度)の三島市放射能探査図23は慎重に検討されるべきであるという。三島熔岩流中の地下水理については前項の著者の論文や黄瀬川流域地形分類図・同説明書を併せ検討されたい。

 

まとめ

このように三島市民及び三島地下川下流の人々は水を守る行動をした。さらに、地下川の学習や研究をして、富士・箱根の豊かな自然を守るため組織をつくり、自然保護・環境破壊反対運動を展開した。

 

5章: 未来に向かって

この章では、持続可能な社会をめざして三島地下川をまもる行動をしている人々について述べる。

 

1節 行政も動き出す

ライオンサファリー建設に反対した人々は「柿田川・東富士の地下水を守る連絡会」を組織して、国土交通省沼津河川国道工事事務所、林野庁静岡森林管理署、沼津市、三島市、長泉町、清水町などの協力をえて、平成9年から富士山浅木塚に三島地下川涵養の森づくりを始めた。清水町は町長以下町をあげて取り組んでいる。

 

2節 小浜池の湛水

土隆一氏は小浜池の湛水について三島市小浜池保存調査に関する報告書及び三島市小浜池湛水調査研究報告書で提起した[102]447449参照)。楽寿園基本問題懇話会座長田村明氏は地下水汲み上げ規制を提起している[103]。西岡昭夫氏は小浜池をバロメーターにして、植樹、節水・再利用、揚水規制によって小浜池にある程度の水位を保つことは可能であると提起している28三島自然を守る会は田村明氏と西岡昭夫氏の提起を指針に富士山へ植林、三島地下水涵養の森づくりを進めている。

 

3節 建設省沼津工事事務所が節水を呼びかける

東レ三島工場の進出以後、三島地下川上流に東邦ベスロンなどの大工場が進出してきたことは既に述べた。当然、人口増加による生活用水量も増加する。三島地下川の減少はついに危機的状態になった。平成8329日、近隣の自然保護団体が建設省沼津工事事務所から「黄瀬川・大場川流域水循環システム対策について」の説明を受けた。平成849日、清水町長と近隣自然保護団体は富士山麓の乱開発防止、取水制限、水源涵養を県知事に要請した。その直後、「はじめに」でふれたように、建設省沼津工事事務所は減水状況が長く続けば柿田川・狩野川の河川環境に影響を及ぼす恐れがあると節水を呼びかけた4。しかし、これには法的強制力がないためにさらなる地下水位の低下は避けられない。

 

第4節     西岡昭夫論文の意義と環境大臣賞受賞

西岡昭夫氏は「地下の柿田川」、「地下の柿田川U」、「富士山南東麓の地下水―柿田川地下川到達

日数算定と応用」で次のようなことを明らかにした。

1)「楽寿園小浜池および三島市上水道(裾野市伊豆島)の1985年から1995年までの毎日の水位」、「同期間の沼津市上水道(清水町八幡)の湧出量」と「同期間の富士山測候所御殿場基地事務所の降水量」を流出関数法で解析して、御殿場降水が68日で三島上水道(伊豆島田)に到達、さらに12日遅れて80日間で小浜池に到達する。

2)降水の地下浸透率と節水率を変化させる組み合わせで小浜池に常時湛水させることが可能である。

3)そのためには三島地下川を利用している自治体、企業、住民の努力が必要である。

三島自然を守る会は西岡論文を学び市民に広め、これを活動の指針とし、国土交通省沼津河川国道工事事務所、農林水産省静岡森林管理署、沼津市、三島市、長泉町、清水町の協力を得て、近隣の自然保護団体と共に富士山に三島地下川涵養の森づくりをしている。平成16年、これらが評価されて三島自然を守る会が活動の主体として第6回日本水大賞環境大臣賞を、西岡昭夫氏が副賞を受賞した[104]

 

第5節 環境大臣賞受賞による行政と三島自然を守る会の果たすべき役割

三島地下川の水位を上昇させるには、富士山への植樹、箱根山西麓の針葉樹の間伐、雨水等の浸透、節水、再利用、揚水の法的規制などがある。これを実現することは長期かつ困難な事業であるが、三島自然を守る会は行政・企業と連携して困難をのりこえて実現したい。21世紀は地球的規模で水が不足するといわれている。この課題を解決して世界に発信することが、三島市と三島自然を守る会の果たすべき役割である。

 

まとめ

三島市民は三島市内の湧水を復活したいと思っているし、三島自然を守る会は努力をしている。石油化学コンビナート進出を阻止し、今日の環境法体系確立の端緒を切り開いた三島市の人々は、三島市内の湧泉が涸渇して半世紀、依然として三島地下水位の低下(公害)に苦しんでいる。リオデジャネイロ宣言がなされ、環境基本法が制定され、三島市が環境基本条例を施行しても、この地域には未だに揚水の法的規制がない。三島市や静岡県がしかるべき施策を積極的にとるべきである。

三島周辺の環境保護団体や住民は困難を乗り越え行政の協力を得て、リオデジャネイロ宣言の持続可能な社会を目指して活動してきた。しかし、住民の努力に対し自治体の対応は必ずしも充分ではない。徐々に前向きになってきているが、更なる積極性が求められている。揚水している大企業の動きはない。しかし「無視」出来ない状況になった。時代は変化している。

 

終わりに

三島市内の湧水が消滅して半世紀、柿田川=三島地下川の水位が減少して国土交通省沼津河川国道事務所が節水を呼びかける事態になった。蔵田延男氏は先に指摘したように「取水」が原因としている。国土交通省富士山砂防事務所も原因が「人為」であると見直しを提起している55。原因が人為であれば行政・企業・住民が一体となって持続可能な社会構築のため水の節約、再利用、涵養、揚水規制をしなければならないし、成し遂げる可能性がある。小浜池はそのバロメーターになる。

東レと契約した三島市、長泉町、静岡県(立会人)のうちでも直接被害を被っている三島市は話し合いのテーブルを早急につくるなど積極的に行動すべきであり、またその責務を負っている。三島自然を守る会が平成16年第6回日本水大賞環境大臣賞を受賞したことは持続可能な社会構築の第一歩である。

 

平成17531

参 考 文 献



三島自然を守る会事務局長



[1]蔵田延男 三島市及びその付近の湧泉 水道協会雑誌 日本水道協会() 185号 昭和25

[2]蔵田延男 静岡県三島市およびその近郊の地下水 工業用水 昭和37年 43

[3]松本博 東レの三島地下水群の研究  三島の湧水を考える会講演 1988年3月29日 (昭和63年)

[4]建設省中部地方建設局沼津工事事務所 黄瀬川・大場川流域水循環システム対策について 平成83

[5]蔵田延男 地下水 その昨今の話題 天の水地の水 第113号 平成7630日 全国地下水利用対策連絡団体連合会

[6]柿田川河川環境対策本部設置のお知らせについて 建設省沼津工事事務所 平成871

[7]西岡昭夫 地下の柿田川U ―図表で探る小浜池・泉水源・柿田川湧水の仕組み― 19986

[8]富士山 富士山総合学術調査報告書 富士急行株式会社 富士急行株式会社創立45周年記念出版

富士山その自然のすべて 諏訪彰 同文書院 平成411

[9]太宰治 老ハイデルベルヒ(アルト) 太宰治全集 筑摩書房 1998725

[10]松森香宝氏談 桜川の人柱 三島の民話 三島市郷土資料館

[11]高林保巨 染物の話

[12]長野利男 三島町水車組合 平成1646日  

[13]杉山正平・柘植清 田方郡中郷村々史(手書き) 大正元年9月

[14]梅原善長 久保町水道のみずがめ 三島の湧水を考える会 平成8825

[15]三島市教育委員会 三島用水誌 昭和62320

[16]小出正吾 児童文学者 元三島自然を守る会顧問 伊豆に国 木蓮社 19981126

[17]司馬遼太郎 裾野の水 小説新潮 第402号 昭和6021日 

[18]関野真紀子 柿田川 ―湧水の神秘と川の今昔― ()第一印刷社 平成569

[19]高倉テル 箱根用水の話 中央公論 1943年 1〜5月号

[20]高倉テル 箱根用水 東邦出版社 昭和4631

[21]箱根風雲録 昭和27年 監督 山本薩夫 大映

[22]石田泰治 三島市付近の地下水位と富士山の積雪について 日本気象学会機関紙“天気”第10巻第6号 

[23]落合敏郎 三島地下川の流動機構と地下水流動量について 三島市及び周辺の水資源調査報告書(昭和38年度)三島市役所企画課19647月 (昭和39) 抜粋

落合敏郎 三島地下川の流動機構と地下水流動量について 三島市及び周辺の水資源調査報告 静岡県三島市役所 1965年3月(昭和40年)

落合敏郎 東富士の地下水解析 リーベル出版 19952

落合敏郎 富士山の地下水の動きと湧水保全 シンポジューム配布資料 平成7722(1995)

[24]金子 良 三島市役所企画課 三島市及び周辺の水資源調査報告書(昭和38年度)

[25]蔵田延男 三島熔岩流中の地下川について 地質学雑誌 第57号 第666号 19513月3日 

蔵田延男 三島熔岩流中の地下川についての訂正 地質学雑誌 第669号 19516月      

蔵田延男 三島湧泉についてのその後の知見  地質学雑誌 第58巻 第687号  1952年 

蔵田延男 静岡県三島市およびその近郊の地下水理 工業用水 昭和374月 

蔵田延男 富士の裾野の水探し 地学雑誌 第74巻 第6号 昭和40年 

蔵田延男 地下水 その昨今の話題 天の水地の水 全国地下水利用対策団体連合会 平成7630日 

蔵田延男 尾崎次男 静岡県三島市、小浜池の湧出量の変化〜最近の湧出量はどのように変化しているか〜 天の水地の水124号 全国地下水利用対策団体連合会 平成10331日 

[26]尾崎次男 三島市・楽寿園小浜池の涸渇の原因 昭和62330日 天の水地の水80号 全国地下水利用対策団体連合会

尾崎次男 三島市の湧水と富士山の積雪 昭和631226日 天の水地の水 87号 全国地下水利用対策団体連合会 

尾崎次男 蔵田延男 静岡県三島市、小浜池の水位と地下水利用および降水量との関係 天の水地の水121号 全国地下水利用対策団体連合会 平成9710

尾崎次男 蔵田延男  静岡県柿田川の年流出率について 天の水地の水 127号 全国地下水利用対策団体連合会 平成101228

[27]土隆一 富士山三島熔岩流の構造と地下水 三島市小浜池保存調査委員会・三島市 三島市小浜池保存調査に関する報告書

土隆一 富士山のどこに地下水があるか 富士山その自然のすべて 諏訪彰 同文書院 平成411

土隆一 富士山の地下水と湧水 富士山の自然と社会 国土交通省富士砂防事務所 平成14331

[28]西岡昭夫 三島の地下水のルーツを探る 三島自然を守る会 19941015

西岡昭夫 地下の柿田川U ―図表で探る小浜池・泉水源・柿田川湧水の仕組み― 19986月 

西岡昭夫 富士山南東麓の地下水―柿田川地下川到達日数算定と応用― 水 19998月 585

[29]藤村郁雄 三島市小浜池(楽寿園)の年最高・最低水位及び渇水日数と降水量との関係 静岡地学第57号 1988

藤村郁雄 地下水という一枚から 三島の湧水を考える会講演 昭和63年5月24日  

藤村郁雄 三島熔岩流及び小浜池の水位と降雨量の関係 三島の湧水を考える会配布資料 昭和6353日付

[30]松本博 東レの三島地下水川の研究  三島の湧水を考える会講演 1988年3月29日 (昭和63年)

[31]土隆一・吉岡龍馬 三島周辺の湧水の水質・同位体分析 三島市小浜池保存調査委員会・三島市 三島市小浜池保存調査に関する報告書 昭和603

[32]山本荘毅・北川光雄 小浜池に関連する水収支 三島市小浜池保存調査委員会・三島市 三島市小浜池保存調査に関する報告書 昭和603

[33]山田重太郎 心に残る三島と箱根山 ()神戸商会 昭和59年2月24日 

[34]澤村孝之助 沼津図幅地質説明書 工業技術院地質調査所 昭和30

[35]宮本昇 富士火山山麓の水理地質学的研究 1968

[36]宮本昇・大野勝次 富士山麓の水理地質 日本地質学会 196841

[37]蔵田延男 日本水理地質図14 富士山域水理地質説明書 1941

[38]三島市小浜池保存調査委員会・三島市 三島市小浜池保存調査に関する報告書 昭和603月 

[39]高木勲、松原彰子、大矢雅彦、飯田貞夫  黄瀬川流域地形分類図説明書  建設省中部地方建設局沼津工事事務所 日本建設コンサルタント株式会社 昭和60

[40]藤村郁雄 富士山における熔岩洞穴の形成過程 静岡地学第39号 1979

藤村郁雄 富士山における熔岩洞穴の形成過程(続)静岡地学第40号 1979

藤村郁雄 熔岩洞穴の形成に関する模型実験  静岡地学 第41号 1980 13

[41]呉秀三訳 ケッペル江戸参府紀行 

呉秀三訳 シーボルト江戸参府紀行

山田珠樹訳 ツンベルグ日本紀行

[42]箱根の樹木と自然 木原均編 箱根樹木園 昭和51 520

[43]花野井忠司 楽寿園の植物とその植生について 198858

[44]大嶋章、大嶋よし子、岡本由美、川添雅則、杉本文雄、鈴木昭紀、谷川久男、花野井忠司、真部征一郎、湊清 函南原生林 静

岡県自然観察ガイドブック

[45] 建設省中部地方建設局沼津工事事務所、日本建設コンサルタント昭和60

[46]駿東地区教育協会 代表 芹沢悦郎 東駿地誌 昭和34331

[47]奥田穣 山岳雨量についての一検討 災害の研究 20巻 損害保険料率算定会災害科学研究会編 日本損害保険協会 1989

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[50]西岡昭夫 函南町柿沢川・谷下川合流点の流出 20037

[51]三島市 条例第一号 東洋レーヨン株式会社三島工場設置奨励措置に関する条例 昭和33214日 (1958)

[52]東洋レーヨン株式会社三島工場の建設および操業に関する契約書および同付帯覚書 昭和33215

[53]土屋寿山 落合敏郎説について 三島地下水について学習会講演 平成2916

[54]小西政三 三島民報 第1008号 昭和39415日 (1964年)

[55]小西政三 三島民報 第873号 昭和3755日 (1962)

[56]漆畑信昭  柿田川の自然 泉の生物たち 柿田川自然保護の会  1991210

[57]石田泰治 三島市付近の地下水位と富士山の積雪について 日本気象学会機関紙 天気 第10巻6号

[58]静岡県生活環境部資源エネルギ−課 三島市楽寿園内小浜が池湧泉の枯渇についての考察 昭和57年8月

[59]窪田精四郎 涸渇した三島湧水とその復元計画 用水と排水 Vol.8 No.(1966) 

[60]松本博 東レの三島地下川の研究  三島の湧水を考える会講演 1988年3月29日 (昭和63年)

[61]三島市小浜池保存調査に関する報告書 昭和603

[62]国土交通省富士砂防工事事務所 富士山の自然と社会  平成14331

[63]三島市水道部 平成16年度 三島市上水道事業の概要

[64]三島市役所企画課 三島市及び周辺の水資源調査報告書(昭和38年度)

[65]小西政三 三島民報 第768号 昭和351020日 

[66]酒井郁造 見えない公害との闘い―三島地区石油コンビナート反対住民運動史―見えない公害と闘い 編集委員 昭和59510

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宇井純 日本の公害と住民運動 月刊「社会運動」No54

舟橋晴俊 社会制御システム論にもとづく環境政策の総合的研究 法政大学社会学部  20043

[67]宇井純 日本の公害と住民運動 月刊「社会運動」No54

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[71]岩崎光好 東静無産運動史 双樹社 昭和49624

田中延雄 旗と花と歌ごえと 福島義一とその周辺  岳南民衆史刊行会 1980210

山田重太郎 心に残る三島と箱根山 ()神戸商会 昭和59年2月24

[72]久田邦明 敗戦直後の教育文化運動―庶民大学三島教室を中心として― 静岡県近代史研究会 第6 198110

田中勲 元三島自然を守る会事務局長 60軌跡 1981年 孔版

[73]角田不二雄 三島における「公害」反対闘争の報告  クラブ有声社 昭和46318

[74] おくの・ゆたか  箱根山を守る斗い ―ゴルフ場建設に反対して10年― 1982116

[75]代表理事 溝田豊治 昭和5372日結成

[76]三島自然を守る会 三島の湧水―かけがいのない地下水を守るために― 昭和544

[77]清好一 日本大学三島高校研究紀要 狩野川水系に関する汚染調査(第12報) 昭和53

[78]清好一 花野井忠司、中島保 日本大学三島高等学校 地域環境汚染対策に関する研究 狩野川水系に関する汚染調査 昭和52430

[79] 関根覚、植松登美子、土屋雅夫、植松博志 汚水処理施設に及ぼす合成洗剤の影響《特集/富栄養化と合成洗剤》公害と対策Vol16 No9 19809 

[80]岡彦一 環境汚染と農薬 第11回三島自然を守る会総会記念講演(要旨)198811

[81]岡彦一 陳述書  国立遺伝学研究所応用遺伝学部長

[82]山本荘毅 自然動物公園建設計画のうち動物の尿による地下水への影響予測調査報告書 昭和5111 月

山本荘毅 自然動物公園建設計画のうち動物の尿による地下水への影響予測調査報告書 補足 昭和52年2月 

[83]山本荘毅 富士山麓はゆたかな湧き水の宝庫である 諏訪彰編 富士山の自然のすべて 同文書院 平成41120

[84]環水第16号 水道にけるトリクルルエチレン、テトラトリクロロレチレン、及び1.1.1−トリクロロエタン対策の留意事項に

ついて 厚生省環境衛生局水道環境部水道整備課長 都道府県水道行政担当(局)長あて 昭和59218

[85]藤村郁雄 地下水という一枚から 三島の湧水を考える会講演 昭和1988年5月24日 (昭和63)

[86]松本博 東レの三島地下川の研究  三島の湧水を考える会講演 1988年3月29日(昭和63年)

[87]藤村郁雄 三島市小浜池(楽寿園)の年最高・最低水位及び渇水日数と降水量との関係 静岡地学第57号 1988

[88]西岡昭夫 土説と落合説について 三島地下水について学習会講演 平成2106

[89]藤村郁雄 富士山の降水と地下水 三島地下水について学習会講演 平成21014

[90]土隆一 三島市小浜池保存調査に関する報告書について講演 平成2114

[91]三島自然を守る会 小浜池の湧水は100年前の水か?―土隆一教授と市民の論争― 1993829

[92]西岡昭夫 忘れてはならない湧水の復活 講演 1989 平成元年1025日 

[93]西岡昭夫 三島の地下水のルーツを探る 講演  19941015

[94]西岡昭夫 地下の柿田川―三島溶岩流内の地下水 19936月 

[95]西岡昭夫 地下の柿田川U―図表で探る小浜池・泉水源・柿田川湧水の仕組み 19986

[96]建設省中部建設局沼津工事事務所  黄瀬川・大場川流域の水循環システム対策について 平成83

[97]藤村郁雄 地下水という一枚から 三島の湧水を考える会講演 昭和63年5月24

[98]富士山三島溶岩の構造と地下水 三島市小浜池保存調査委員会・三島市 三島市小浜池保存調査に関する報告書 昭和60

3

[99] 落合敏郎 東富士の地下水解析  リーベル出版19952

[100]馬原保典・五十嵐敏文・田中靖治 三島溶岩流内地下水の年代について 地下水学会誌 第35巻第3号 201215(1993)

[101]三島市小浜池保存調査に関する報告書 昭和603

[102] 三島市小浜池湛水調査研究報告書 その2 平成23月 三島市小浜池湛水調査研究会・三島市

[103]田村明 楽寿園の基本問題に対する懇話会の意見について(報告) 楽寿園基本問題懇話会 平成33

[104]6回日本水大賞環境大臣賞受賞作品  科学技術舘サイエンスホール 東京 平成1663