誰も信じてくれない物語
くわない獏
私はかつて不思議な体験をした。この体験を書いて皆さんに遺そうか、あるいは止めようかと迷ったが、結局書くことにした。それは誰もが信じられない、科学的にも証明されないであろう嘘のような真実である。
忘れもしない、羽公先生がご逝去されたのは平成3年10月22日であるので、不思議な体験は、その年の5月の事だった。
朝夢は正夢と言うが、正しく私の朝夢は正夢だった。或る日の早朝のことである。一度トイレに起きて、用を済ませて後に床についてうとうととした。それは多分短い睡眠だと思うが、その時に見た夢であった。その夢とは、観音様が夢枕に立たれた事だった。そして、私にこうお告げになられた。「お前はこれからの人生、人の為に半分自分の為に半分生きなさい」と。そして「恩経僧」と墨で書かれた木札を差し出され、間も無く闇の中へ消えて行かれた。
この出来事は私にとって誠に真実性があり、恐ろしさに身が震えた。布団から出て、直ちに句友の川崎千鶴子さんに電話をした。何故千鶴子さんに電話をしたかと言うと、彼女は多くの人に知られていないが、当時「成長の家」の信者であったからだ。電話に出てくれた彼女は「朝早くからどうしたの」と聞かれたので、今見た夢の一切の話しをした。すると千鶴子さんは「私の先生が浜松に居られるから、その先生にそのようなことがあるのかどうか聞いてあげる」との事だった。あまりにも私が深刻だったので、その日のうちに電話でその先生に話しを聞いてくれた。そしてその先生の話では、「天には神様が居て、地上にそれに適った人を見つけては啓示をする」のだと言う。そして「夢枕に動物など立つことはよくあるけれど、仏様が夢枕に立つということは、本当に稀なことである」との事だった。
これに先立つこと三ヶ月程前に私は、名古屋に在住の伊勢神宮の絵馬師である安田織人先生が描かれた、引佐町の伊平にある竹馬寺の十一面観音の仏画をお預かりし、床に掛けては線香を手向けていた。この仏画は竹馬寺が絵馬を作る際、同町的場出身の安田先生に御願いして原画を描いて頂いたものである。私の手元に来たのは、引佐町の奥山の戸田繁治先生を通してだった。
当時戸田先生は学校を退職された後、父の跡を継ぐ為に神主の資格を取得して神主を継いでいたので、安田先生からその仏画を頂いても家では祀れないから、私に替りに祀って貰いたい、との事で頂いた物であった。その後その仏画を床に掛け、約束通りに私はお祀りをしていた。そして程なく夢枕に仏様がお立ちになられたのだった。この夢はこの仏さんの影響である事に間違いはないと思った。
この事にはある事が起因していた。それは信じられないことだが、その頃、私は娘の留美の結婚のことで悩んでいた。留美からは、私が快い返事をしないので憎しみの眼で見られる毎日を送っていた。又、妻からは「留美を嫁がせることに承諾した」と、こちらも大いに反発した。その間にあって、私は家長としての無力をしみじみと味わっていた。このような毎日の中で、ある夜入浴をしていて、湯船の中で「神様助けてください」と手を合わせ一人泣いた。その二三日後の朝の出来事であった。
このような事があろう筈がないと、他人は誰も信じては呉れないだろう。しかし真実、私のように体験者がいるのである。
私の身体に変化が起きて来たのは夢枕に観音様が立たれてから二日か三日してからである。初めに体中が痺れて来て電気が流れているようだった。一体これはどうした事だろう、と考えた。それだけであればいいのだが、それと同時に私自身を失って行くのだった。
何と喩えればいいのだろうか、そう、真水に棲む魚が塩水に棲みかを移したような朦朧とした日々を送った。と、言うのが本当のところのようだ。体の痺れについては、友人に科学に強い人が居たので、私は地球の磁気が人間に解るのではないかと尋ねた。その友人の言うのには、「そんな事はないが、そのような人も居るかも知れ無いので、実験としては金属の鳥篭の中に入れば地球の磁場は遮断される筈である」との助言を頂いたが、それはしなかった。
しかし何としても自分を取り戻したいと、日々山中を歩き廻った。そうすれば自分が何者であるか解るかも知れ無いと、只夢中で歩いた。滝にも打たれた。このような行為は仏道の世界かも知れ無いが、人間は苦しむと、自ずとこのような道を求めるのだとその時思った。体の変化は相変わらず起こっていた。
当時は自分も自殺するのではないかと思い、ノートに折々変化して行く自分の身体の異常を書き綴った。ノイローゼになって自殺したと思われたく無かったからだ。私が死んだ後、誰かがそのノートを読んでくれるだろう、との思いからであった。
毎日が不安な私は、藁にも縋りたい思いから、仏画を描かれた名古屋の安田織人先生に電話をして事の成り行きをお話し、相談にのって頂くことにした。安田先生はその話しを聞くと、「私たちの仲間から、そのように仏さんが夢枕に立つ話を聞いたことはあるが、まさか自分の描いた仏画に関わって、そのような事が起きたとは感激の至りです」と言われ、「とても信じられないが、本当とすれば絵馬師としてこんな嬉しいことは無い」と喜んで居られた。が、私としては何とか助けて頂きたかった。
安田先生は追って「来週、井伊谷神宮の絵馬会館に絵馬の入れ替えに行くから、その時にお宅へ寄って詳細をお聞きしたい」と、電話で約束をしてくれた。私はこの約束の日を指折り数え待っていた。しかしその日、安田先生は私の家には来られなかった。
それには訳があった。その日の安田先生は井伊谷へ久し振りに来るので、戸田繁治先生にもお会いする事になっていたらしい。戸田先生と安田先生は、戸田先生が三ヶ日中学校の校長時代、安田先生に講演を依頼した事がご縁で、これ以来のお付き合いであった。私の電話での相談のことも当然お二人で話して居られた。戸田先生は私の精神状態に疑いを持たれ、脳の病気と決め付けたようである。そして安田先生にこのことを話したようだ。これは飽くまで私の憶測だが、それ以来、私は戸田先生を信頼出来なくなった。一人の人間の命がけの悩みを聞き届けて貰えないことに絶望したのだ。
私は終の支えを失った中で、自分自身で解決しなければならない重大な問題と心に決めた。
その数日後、千鶴子さんは旦那様から「このような体験者は自殺する人が多いそうだから、井村さんから目を離さないで居るように」と、言われて居たことを後日打ち明けてくれた。私は誰もが信じて呉れないこの事実を、身近な人が理解して呉れたことに心から感謝をした。
その頃の私は朝日が黄金の光りを放っていたことに感動していた。早朝目覚めて部屋の戸を開けると、金色の太陽の光りが庭に降り注いでいるのである。その神々しさに思わず合掌する毎日だった。この様な日が一週間程続いただろうか、その後不思議とその光りは失われて行った。どのような精神状態になれば見える太陽の光だったのだろうか、後日、二度とこのような美しい朝日を見ることはなかった。
有体離脱も二度経験した。有体離脱とは、私の経験から、目覚めて居ながらにして夢を見て居る状態を言うのだと思った。一度は、仏画に線香を点し手を合わせていると、座って居た筈の自分が、座布団と共に凄いスピードで空を飛び始めたのである。このように体が走る状態を「神足」と言う、と本で読んだが、まるで雲に乗った孫悟空のように軽快な空の旅である。私はそんなことを考えながら野を巡り山を巡っていた。すると仏坂が見えてきた。上空から下界の山を見て居ると、山の頂上に黄金に輝く大観音様が立たれていた。感動に声も出ない。その黄金の輝きを浴びながら私はその辺りの空を飛んでいる。この様な事は、私が生涯忘れることが出来ない事実であった。
二度目も同じように朝の仏画に線香を点し合掌をしている時である。私は又凄いスピードで座ったままの姿勢で加速をして空を飛んで居た。竹馬寺の杉山の上を飛んでいた私の目に、三蔵法師のような若い僧を中央にした僧の行列が仏坂を登って来るのだ。白馬に跨った高僧と思われる若い僧は銀色の光りを放っていた。行列も同じ銀色の光りに輝いている。その有り様を私は空の上から眺めていた。
幽体離脱から覚めた私は、何故このような世界に光りが関連しているのか、人間は光りから誕生したのかも知れないと、真剣に考えるようになった。
斯様な日々の中で人間の脳の不思議を思っていた。宇宙に対し人間の脳は小宇宙と言われる事を何かで知ったことがある。人間は自分自身に、こうであると言い聞かせると、実際にそのようになるのである。有体離脱を起こすとはどういう事なのかと考えた。そしてそれは脳の前頭葉に意識を集中すると起こる現象ではないかと言うことを突き止めた。しかし、簡単にこのような精神状態になるのではなく、やはり精神異常を起していて始めてこのような状態になるのだと思った。実際に私は座禅をしていて脳の部分的な動きを捉えることが出来た。日々疲れていた私は、脳を自由自在に動かす事でリラックスする智恵を覚えた。
その頃、夢の中で聞いた観音様のお告げを思い返していた。「この後は自分の為に半分、人の為に半分生きよ」とはどのように生きたらいいのか。この言葉はどうあっても守らなければならないほど説得力があったし、そして悩んだ。そうだ新興宗教を起そうと決心し、妻子に相談したが、妻や子の言うには「何があってもそのような気違いじみた事をして貰っては困る」と、大反対である。ではどうすればいいのかと考えた。
俳句で人を救うこと、幸せにして上げる事は出来ないものかと考えた末、出来る筈であるとの結論に達した。これ以後、私は我を忘れて俳句一筋の道を歩くことになった。
体調はますます変化が進んでいるようだった。忍者たちは訓練で内臓を上げることが出来る、と聞いたことがあった。私の場合、少し深呼吸をしただけでも内臓が鳩尾にまで上がるのだ。本当にウエストが細くなるのである。そのことは留美が「お父さんそのお腹は何?」と言われて、始めて気がついた事だった。その時を前後して、体の中に綿菓子のような物が存在する事に気がついた。一体これは何であろうと、ますます不安は募るばかり。意識を通わせるとこの物体は体の中を自由に行き交うのである。その動きがゆっくりで、丁度、太極拳の動きに合わせたようであった。又、漫画に出てくる、ハンドパワーが出ていることにも気が付いた。遠くに居る留美に意識を送れば、留美はその不思議なパワーを感じることが出来た。そればかりか、手を翳せば一草一木の呼吸が解った。そして彼等も真剣に生きている事を知り、大変感動を覚えた。
羽公先生にもこの悩みを話して相談に乗って頂こうと、蝸盧を訪ねた折言おうと思ったが、生憎この日は三ヶ日の句仲間も同行していた。当時、羽公先生も浜松医大附属病院に入退院を繰り返して居られたので、そうそう蝸盧へお訪ねする訳にも行かなかった。皆に帰って頂いて自分が一人残り、羽公先生にお話ししようと思ったがままにならず、結局は語らず終だった。この数ヶ月後羽公先生は帰らぬ人となった。
このような異常な身体の変化が続いた或る日のことだった。先から登場して頂いた大谷の句友千鶴子さんの旦那さま貞文先生が、興味から気功の本を読んで居られた。私の身体の状態を奥様の千鶴子さんから聞いて、貞文先生は「井村さんの身体の変化は気功ではないか」と言われた。と、私のところに電話を呉れた。その話しをお聞ききして、貞文先生が読んでいるという本を全部お借りし読むことにした。自分の体の中で一体なにが起こっているのか突き止めたかったのである。
何冊かお借りした気功の本を、片端から読んでビックリした。と言うのは、正に私の体の中で起きている状態は気功と同じだったのである。その本によると、人間の身体には東洋医学で言う「経絡」というのが通っていて、その経絡に沿って気が流れるのだそうだ。
私の理解出来ない不思議な一つであった綿菓子のような得体の知れない物体は、果たして、気であったことを始めて知った。手から出るパワーは、本によると、気功の出来る人には自然と起こり得ることで、別に何も不思議なことではないと言う。しかし、仏様が夢枕に立たれただけで、私はすでに上級であると言われる程の気功が身につくなどとどうしても考えられなかった。しかし現に、このような体質になっていたのである。これによりやっと自分の正体が解かり、死ぬ程脅えていた事が一変して解決した。この間、約半年死をかけた戦いであった。
本来の自分を取り戻したら気功が楽しくなり、本当に自分にも出来るのかと、気功治療の真似事などもしてみた。今まで述べて来た戸田繁治先生が、現職当時よりパーキンソン氏病で手足が震えていた。しばし私のことを信じて呉れなかったが、この頃より信じるようになっていた。浜松で気功の治療院をして居る人に合い、治療の実際の話しをお聞きし治療もされて居るようだった。私の話していた事と同じだという事から「私にも治療をしてくれ」と言われ、しばし治療をしたが、手をかざして居る間は体が震えずぐっすりと眠ってしまうのである。そんな事から、毎日私の家に通って来たが、時間構わず来られるので、本職の床屋の仕事があるから申し訳ないと言ってお断りすることにした。
私が治療に関してしたことはこの戸田先生お一人である。だが私の手から出るパワーは大勢の人たちが経験されたので決して嘘ではない。
翌年、平成四年の十一月頃と思うが、留美の結婚が思うに任せず、私は家に帰るのが厭になり静岡まで時間潰しに電車に乗った。何処か宿屋に泊まろうかと宿を探したが思うようになく、静岡より親戚付き合いしている磐田の俊子さんに電話をし「今日は家に帰りたくない」と、話しをした。俊子さんは慌てて私の家を訪ね、妻に私が死ぬほど娘のことで苦しみ悩んでいる事を話したらしい。
家に帰ることに決めた私は浜松駅で下車し、暫く市街を歩いた。当時浜松の松菱デパートの通りに西武百貨店があった。その前に地下道があり、何の気なしに其処を通ったのだが、その地下に占いの若い女性が客を待っていた。年齢は23、4歳と思えたが、誰も客がいなかったので「暇なようですね、一つ見て下さいますか」と手を差し伸べた。私は占いなど信じないが、ほんの成り行きからであった。その占い師は私の人相を見るなり「あなたのような人に今まで会ったことがない」と言われた。そして「驚く程意志の強い人で、凄い背後霊が付いて居る」というのである。
私もこの体験の後、そう言われてみれば意志が驚く程強いことに事に気がついた。占い師は言葉をつづけて「もし、あなたが今何か悩みがあるとすれば、これは仮にですよ、仮に娘さんの結婚のことで悩んでいるのなら、気持よく送り出して上げなさい。あなたがこの結婚に反対して、相手の家の方を憎んだら、あなたの死後も、あなたの背後霊が相手の家の人を恨んでその家は絶えるでしょう。だから決して憎んではいけません」と言われた。この事は本当かどうか解らないが、この後、この占い師が気になり折々その地下道にその占い師を訪ねたが、二度と合うことが出来なかった。あの占い師は何者であったのだろうと何時までも心に残った。
不思議な体質を持った私は、羽公先生の死後、又信じられない体験をする。誰もが信じて呉れないが、私は只管信じて、その信じた道を進んでいる。実はこうである。
羽公先生がご逝去されたのが平成3年10月22日であることは先に述べた。その日から約半年に及ぶが、毎夜のごとく羽公先生は私の夢に出てくるのである。初めのうちはさ程に思わなかったが、これが数ヶ月も続くとなると大変気になった。やがて涙もろくなり、毎夜夢を見る度に涙を流し妻に話しをするので、妻も「本当に今度は頭が変になったのでは」と、心配どころか相手にされなくなった。そのうちに体調を崩し不整脈がひどくなって来た。この不整脈が出ると必ず吐き気がし、貧血状態になって意識を失いかけるのである。何回かこの発作はあったが、運悪く、何時も日曜日ということで、急救センターに駆け付けた。そして病院に着く頃には発作が治まるのである。
しかし一度は、当時海道句会と言うのがあって、その仲間と伊良湖岬に吟行をした。吟行が終わり鷲津で句会をしたのだが、この時にも又発作に襲われ、急に不整脈が出て句会どころではなかった。会の終了まで一人で苦痛に耐えているしかなかった。この日も日曜日で、句会後句友の徳井伸行先生が付き添ってくれて湖西病院の急救センターに行った。だが不思議なことに発作の最中であるのだが、医師は、私に聴診器をあてながら「不整脈など全くないですよ」と言うのである。
診察後、精神安定剤らしい薬を一錠呉れて、「異常ありません」で診療は終わりであった。帰途真っ暗な道を車で徳井先生に家まで送って頂いたが、その後4、5日は精神が落ち着かず、眠ることすら出来なかった。
その後も不整脈に悩まされた。知人から「入野の医療センターに名医が居るので」と聞き、紹介もして頂いたので診て貰うことにした。携帯の心電図を診る機器を24時間身につけて、翌日その結果を調べて頂いた。その他何かと検査して呉れたが、最終的に医師は「親から頂いた丈夫な心臓ですから大切にしてください」との事だった。その甲斐あって安心出来たのか、知らず知らずに不整脈の事は忘れるようになった。
その様な中で迎えた正月の初夢は信じられない夢だった。羽公先生が幽霊になって夢枕に立ったのである。そして「新年句会に私も連れて行ってくれ」と頼むのである。私は「先生はもう死んだのだから、新年句会は行かれないですよ」と答えた。しかしどうあっても行きたいと言い、私の身体に触って来るのだが、その冷たい事、斯様なところで目が覚めた。まだ夜は明けきっていなかったが、その後は眠られず夜明けを待って奥様に電話をした。私は奥様に「今日はまだ家を開けられないから、明日は必ず伺いますので、仏壇に線香を点し句帳と鉛筆を上げてください」と御願いした。そして翌日仏壇に手を合わせた。このような日々が羽公先生が亡くなられてから半年程続いた。
信じられない事は又続く。この日は店の待合室の椅子で角川の俳句雑誌「俳句」を読んでいた。すると俄に目の前に銀色の光りが走り部屋中が明るくなった。何事があったのかと、立ち上がり周囲を見廻したが何も変っていないので、又、椅子に腰を掛け本を読み初めてビックリした。本に書いてある文字が私に語りかけて来たのである。その言葉は、今の今までとは全く違う意味を持っていたのである。その場は何が起きてどうあったのか皆目解らないで居た。
その後2,3日してこの謎が解けた。そして感動した。私は人間の魂の存在がこんな形で死者と生者を結ぶとは到底信じられなかった。しかし、羽公先生は浅才薄学の私の為に、死して後もこの世に留まった。そして本当の俳句を伝えようとテレパシーを送り続けて呉れた。この事に私が気付くと、安心してか羽公先生は安らかな所に行かれたようだ。この体験の後、二度と羽公先生は私の夢に立たれなくなった。この時より、今まで曇りガラスの中に灯っていた俳句が素通しで見えるようになった。と同時に、目の前にもう一つの世界が存在していることに気がついた。羽公先生がよく「目から鱗が落ちなければ俳句は駄目だ」と言っていたが、本当に目から何かが剥がれたような世界がそこにはあった。目の前の総べてのものが生きて耀いていたのである。羽公先生の俳句から脱け出そうなどと考えもしなかったが、これ以後、自分の作品に恵まれるようになった。これに関連してご生前の羽公先生との事に少し触れて見る。
それは、友人の句集出版の祝賀の宴が磐田のグランドホテルで行われた次の日の事である。当日の夜は磐田の親戚の家に泊まり、翌日、浜松医大附属病院に入院されて居られた羽公先生をお見舞いした。此れまでも定休日の度に都合の付く限りは病院へお見舞いに行っていたが、この日はどうしてもお会いしたい思いに駆られ、病院を訪ねたのだった。羽公先生は顔に薬害が出ていて本当にお気の毒だった。病室を出てロビーに居られたので、私もしばらくそこで話しをすることにしたが、羽公先生は二度と社会復帰出来ないのではと、この時始めて感じた。15年程の師弟関係でしかなかったが、我儘な私をよく大切にして下さったと思ったら急に悲しくなり、人目も憚らず大声を出して泣いてしまった。
今まで私は俳句が巧いとばかり、何時もそう思っていたのだが、始めて自分は俳句が下手だった事に気がついた。そして俳句のスタートラインに立ったばかりの自分がはっきりと見えた。その位置から、真実の俳句は100メートル程離れた曇りガラスの中にボンヤリ灯っていた事は先に述べた。その俳句までの距離へ、一歩として足を運ぶ事が出来ず立ち尽くす自分の姿を夢のような時間の中で見つめて居た。羽公先生は帰り際に一言「君は巧い俳句ではなく、いい俳句を詠みなさい」これが羽公先生の最後の教えだった。
思えば私は好運にも佳き師に恵まれた。手紙での添削指導の後、蝸盧への出入りもさせて頂いた。そして我儘ばかりを言ったが羽公先生は何事も許して下さった。心から感謝をして居るが、期待に応えらず、俳句が上手になれなかったことを心から詫びるばかりである。
それに付けても羽公先生はお気の毒だった。親衛隊とも言うべき高弟たちは何故死の床にあった羽公先生に気を使わなかったのか。明治気質の羽公先生にとって、弟子たちは妻子に勝るとも劣らない存在であったであろう。それが事もあろうに、先生の死の直前に他の結社へ走ることなど、どの様な事があっても許されない行動だった。逆にその様な連中が居たが故に、羽公先生と私はこの様な固い絆の師弟関係が結べたと思うと、その連中に感謝しなければならないかも知れ無い。しかし私は生きて居るのでいいが、羽公先生は悲しみの底で死んでしまわれた。私はこの時何があっても羽公先生の無念を晴らして上げると遺族の前で誓ったことを忘れない。生涯をかけて羽公先生の跡を辿って行きたいのである。
羽公先生の死後、羽公の弟子である、と名乗れる俳人になりたいと、私は俳句雑誌のコンクールに参加する事にした。「俳句研究」へ出したが、これは角川春樹さん(先生と呼ばないと失礼だが)が選者で居られたからだ。一年目は見向きもされず、二年目にして佳作に入ることが出来た。この時は来年こそ一席なるぞ、と意気込んだが、春樹さんがその年の秋に覚醒剤の容疑でご承知のようになってしまった。私の落胆は言いようがなかった。
当時の春樹さんは、現代版「花咲か爺さん」のようだと言われていた。しかしそれが覚醒剤の影響と人々は囁いたが、私は今もそう思っていない。春樹さんは普通の人でないと思って居るからだ。私だって誰も信じてくれないけど、今述べているような体験者である。体験者は体験者同士分かり合えるのである。
春樹さんの話しを何故するかと言うと、羽公先生は生前、私が蝸盧にお伺いするとよく角川源義先生と春樹さん親子の話をされたからだ。源義先生はリヤカーを曳いて戦後の東京の街を歩いた事、春樹さんがその父に大いに反発したこと等、私にそのような話しを何故されたかは解らないが、眞苗さんの言うにも、羽公先生は常々「瓜人さんの本と春樹さんの本は大切にしてくれ」との事だったそうである。蛇笏賞を頂いた恩義からかどうかは今となっては知る由もない。
私の「俳句研究」への投句に際しては、自分の作品を魂を込めて選者角川春樹に届け、と念じて投函の折に合掌したことを忘れない。春樹さんは私の魂を受け止めてくれると信じて疑わなかったからである。しかし、本当に私の作品を角川春樹選者は予選で◎に採って呉れた。1993年6月のことである。
私も還暦を5年過ぎて死の影がちらつき始めた。そのような中で、このような本当の話しを書き遺すのは、何百年か後、人間の医学がもっともっと進んで、斯様な脳を持った人間が存在した事実を、理解し、証明してくれる日が来るかも知れ無いと期待するからである。
今、私は俳句雑誌「水鳥」を発行している。一人前の俳人になり損ねた私が自らを捨てて、師百合山羽公先生の語部として、伝え聞いた言葉を、忠実に後輩たちに語り、書いて行きたいからである。私は無能で何の智恵もないが、俳句はああであるとか、こうであるとか側で羽公先生が話して来るので、その言葉に耳を傾けながら、正しい俳句理論を後輩たちに伝えたいだけである。従って私の時間といったものは一時もない。ただ俳句の化身のごとく生きて居る。
昨年の平成17年、竹馬寺は16年ぶりのお開帳があった筈だが、私は訪ねなかった。時としてこの寺には気の向くままに訪れているからである。これより一年前、私の手元にある仏画をお開帳に合せてお寺さんに返そうと思い、寺世話人である竹馬寺の参道脇にある鈴木家を訪ねた。そして此処で仏様と私の関わりをお話しした。その時は寺世話人の方は留守で、そのお母さんに私の伝言を頼み、家の電話番号をメモ書きして預けて来たが、何時になってもその人からの電話はなかった。
私は仏画を返すにしても時間が必要と思い、鈴木家へこちらから電話をした。電話口には寺世話人の鈴木何某さんが出られたが、私の話しは一切聞き入れなかった。そして「あなたは一体何処の誰だ」と言った。そして竹馬寺の絵馬を作ったことも「そのような事実はないと」言う。その絵馬になったコピーの小さな仏画が格子戸の梁に大切に掲げられて居るのだが。したがって、関係のない仏画は私が預かっていればいいとの事だった。
この寺世話人はどう言う人であろうか。確かに引佐町のある時代、教育長をも務めた人と聞き及んでいる。そのような人物が、寺苑に掲げている寺の謂れ書きを、次の年のお開帳に向けて新しいのに書き替えた折、古い昔からの伝えを変えてしまった。その昔の謂われとは、この寺の十一面観音様がある人の夢枕に立ち、「この仏坂の地に戻りたい」と言ったという。そのような訳で、以前は何処かのお寺に預けてあったらしい十一面漢音様を、この仏坂の竹馬寺に戻しお祀りして居る、と確か書かれていた。私はその言葉を信じ仏様を信じている。
過日も竹馬寺に行ったら別の寺世話人の方が居たので、名詞を渡し、簡単にここの仏様と私に関わる事を述べて来た。後日この方が私のような人間が居たとの、語り草にでもなれば此処の十一面観音様も浮かばれると思ったからである。話しの中でこの寺世話人は、「私がお寺の掃除にきて居て厭な物を見てしまった」と言う。お寺に仮設トイレがあるのだが、そのトイレの中から錠が掛かっていたので、不信に思い無理に戸を開けたところ、「中で首を吊って死んでいる人を見てしまった」と、話された。私は咄嗟に「その方も此処の仏様が夢枕に立たれたのですね」と答えた。
顧みて15年前、私もあの苦しみからよく立ち直れたと思う。現在も身体に気が流れているが、仏坂の十一面観世音様に護られて、喩えようのない幸せの世界に生きて居る。