毎年四月第二土曜日
神明宮本殿
初生神社

鵙鳴いて姫街道を切りつぎす  百合山羽公

緑立つ御衣まつりの櫃出でて  〃

囀れよ御衣まつりの小社に   〃

大楠の萌ゆる御衣の祭かな   河部  梢

春筍もおんぞ祭に顔だしぬ   井村 経郷

おんぞ祭

於・初生衣神社

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初生衣神社神社の由緒を、三ケ日町教育委員会は神社の入り口の立て札に大意次のように記しています。
「当社は往古より浜名神戸(かんべ)の地に鎮座、伊勢神明初生衣神社亦浜名斎宮(さいぐう)とも称され、機織(はたおり)の祖天棚機姫命(あめのたなばたひめのみこと)を祭る。神服部家(かんはとりけ)の旧記によれば、久寿(きゅうじゅ)二年(1155)以来、境内の『織殿』において、三河の赤引の糸をもって御衣(おんぞ)を織り、八百年の長い間、皇大神宮に奉献した古例を有する他社に比類のない古社であって、当社が遠州織物の発祥の地として遠近の崇敬を集めているも偶然ではない。
先年奉献の古例が復興された。初生衣神社の例祭は『御衣祭(おんぞまつり)』と言い、四月第二土曜日に催行されていますが、「太一(たいち)御用」の旗を立て唐櫃(からびつ)を担いだ行列が、浜名惣社神明宮摂社へ往き天棚機姫命社殿に納めてあった和衣(にぎたえ)の神御衣(かんみそ)を唐櫃に入れて還り、奉献の神事を行う祭祀(さいし)です。
神御衣は初生衣神社の御衣祭が終りますと、豊橋市湊町神明社へ送られ、五月十四日に再度湊町神明社の盛大な御衣祭で奉献の神事の後、渥美半島伊良湖港からフェリーボートで鳥羽港、そして伊勢神宮へ奉献されます。
神服部家に伝わる最古の古文書、鎌倉時代の天福元年(1233)には、同家と御神衣の由緒が次のように書かれています。(現代語要約)
「天照大神が天の岩屋に入って常闇の時、建羽鎚神(たけはずちのかみ)に?(かとり)を織らせて供え奉った。瓊々杵尊(ににぎのみこと)が日向国に天降ってからも建羽鎚神の神孫がそれを継ぎ、神武天皇から文徳(もんとく)天皇の時代に至って?宮造(かとりのみやっこ)と名乗り、神代以来絶える事なく天照大神御初衣調進の職を掌った。仁寿(にんじゅ)元年(八五一)従五位下に叙せられ、神服部宿祢毛人女(かんはとりすくねもとめ)と称した。久寿(きゅうじゅ)二年(1155)官を辞し山城国乙訓郡(おくにごおり)より遠江国浜名岡本に移り住み、五町八反を賜り御初生衣を調進した。」
三河の赤引きの糸について、大林卯一郎著『三河絹の道』には「伊勢神宮」の古文書に、三河地方から赤引きの糸が奉献された記録があり、赤引きの糸を製糸した養蚕地は二ヶ所あって赤日子(あかひこ)神社の座する赤孫郷(あかまごごう)と大野赤引きの地の服部郷(はっとりごう)であり、そして日本蚕糸史略には、赤引きの糸とは神衣(かんみぞ)を織るに用いる青く光りある糸とある」と記述してあります。
また、服部郷、現在の鳳来町大野の『神服部神社御由緒』の「大野ヨリ調進スル赤引糸ヲ神服部家ニテ和妙(にぎたえ)ニ織リ作(な)ス行事ハ初生衣神社ノ神事ナリ、同家ヨリ伊勢神宮ヘ奉献ノ手続キトシテ明和(めいわ)以前(1764)ハ渥美半島ヲ挙ゲテ御祭リ騒ギヲナシタルガ、明和以後ハ吉田宿(よしだじゅく・現豊橋市)を経由シテ船ニヨリ直接奉献スル事ニ変更、毎年四月十三日遠州神戸庄齋宮(かんべのしょういつきのみや)ノ岡本ヲ神戸(かんべ)二十一ヶ村ノ少女メノ所マデ賑々シク御共シ、ソレヨリ有志者供奉(くぶ)シ沿道多人数ノ奉迎送ノウチニ嵩山(すせ)、牛川ヲ経テ吉田宿ニ入ル。正装シタ少女ガ御供に立チ、御衣踊リヲ踊リナガラ行列ハ一旦田町神明社ニ休ミ、社内ニテ奉献ノ神事アリ、ソレヨリ豊川岸ニ待チ受ケオル太市御用ノ木札ヲ打ツ別仕立テノ船ニ移シ参ラセ・・・」 との引用紹介のお陰で、二百四十年前の御衣祭の様子が想像出来ました。
神服部家の古文書に「近衛天皇を悩ませた鵺を退治する源三位頼政を助けた」という話が書かれてあり、それは「神服部家の神代の祖は、天照大神から『妖化體顕神呪(ようかたいけんしんじゅ)』を伝えられた天羽鎚雄命即ち建羽鎚命であり、同家は神御衣(かんみそ)調達と妖化守護の家系でもある」ということで、新しい発見でした。

(遺稿、夏目友文、補稿、藤田正夫。協力・郷土を語る会)。

 






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