中段
・鴨の列陸もはるかにつヾきけり
・囀に妻のいちにち始まりぬ
・天井の高くありたる涅槃寺
・百獣の泣いて涅槃図しづかなる
・雛流す川面光りて迎えけり
・快音は少女の一打たんぽぽ黄
・瓶の水ひざしを返し春の風
・親知らず失ふ頬に春手套
・夕ぐれの桜一本路地照らし
・花の宿夕餉おほかた山のもの
・花の道女子高生の駆け抜ける
・行く道に流れて風の花吹雪
・夫と暮らせし日の朧とも霞みとも
・おぼろ月花草人も夢を見る
・ふりむけば朧に影のあるばかり
・岩清水春水ともに掬いけり
・囀りをこぼして村の静かなり
・せせらぎのねむ気を誘う春半ば
・桜東風姫街道の分岐点
・竹の性失せし垣根を繕へり
・大空をより花色に染めて行く
・山桜大和心にうなづきぬ
・暮るる空ほの明かりして花の雲
・つゝじ咲く山懐に入りけり
・誰からとなく居間にゐて春の夜
・旧道の榎の芽吹き一里塚
・かぐはしき便りの届き白牡丹
・漕艇のオールの軌跡夏初め
・手なほしを終へ早苗田を見はるかす
・田を植うる風のさざなみ眩しかり
・せせらぎの闇から湧いて初蛍
・葉桜におもはぬ安堵ありにけり
・風薫る母の歩幅に歩を合わせ
・髪切って顔を大きに洗ふ夏
・針穴の大きく見ゆる五月晴
・浜木綿が縁の木綿子一年生
・揚げ花火連打轟き湖揺れて
・梅雨深し水恋鳥を聞きしより
・村落のこごまりて見ゆ雲の峰
・せせらぎの音聞く宿や夏料理
・お馴染の板前は父洗ひ鯉
・仏塔の影やわらかや柿若葉
・薔薇の園散る花びらも愛しかり
・紫陽花が迎えて送る駅の庭
・楊梅を噛みて遥の山野見ゆ
・明易や窓一杯の西穂高
・梅干して母のやさしさ香り立つ
・砂浜にビキニの水着遠景色
・もてなしみ風鈴の音聞かせをり
・白玉を母似の姉へおもてなし
所在地 浜松市北区三ケ日町大崎一一八六
宝珠寺
石質 中目石
句碑の高さ 2、53メートル
円錐形直径 1、08メートル
八角形台座 厚さ0、15メートル 巾3、02メートル八方
四角形台座 厚さ0、20メートル 巾1、50メートル四方
仝 厚さ0、 35メール 巾1、20メートル四方
水鳥の会は、百合山羽公先生の俳句精神を後世に伝えようと、平成十一年俳誌「水鳥」を発刊した。命名は「水鳥の川わかれては夕日さす 羽公」から頂いた。その精神は「俳句は自己確認の手立てであり、自然を見つめながら自然に学ぶ」である。私達一門は「言葉を用いて、その時その時の心を形象化し、作品を詠みつつ自身を育む」ことである。
句碑には百五十名の作品を刻める。句集「猿蓑」を参照に下段を冬季の作品、時雨の句より始め、中段は冬季の作品だが「鴨の列陸もはるかにつづきけり 羽公」の羽公先生の作品から書き出した。鴨は加茂に掛け、一門の益々の発展を祈願しての作品と理解している。上段は中段からつづいた夏の季語の作品を並べ、最終的には爽涼感のある天高しの秋の作品を置くことで末とした。従って冬・春・夏・秋の順で、三段に百三十八名の自筆短冊を実物大で刻字した。余白の十二名は後日の誌友の為に使いたい。
上段
・万緑のしめなわ掛けり忠魂碑
・百姓の父の好んだ冷素麺
・山寺の石榴の熟れて光りけり
・野を遠く麦藁帽子かけてゆく
・余念なき蜂を包みて蓮の花
・金魚玉草花活けてありにけり
・空青く森を溢れて蝉の声
・干草と牛と風車と泥炭地
・故郷は母ありてこそ夜の秋
・青みかん父が墾した畑に生る
・鶲来て狭庭にはかに華やげり
・故郷に子の子揃ひて生身魂
・留守の家すずむしの声響きおり
・コスモスのささやく如き風に揺れ
・天高く高野の森の朱の御堂
・杜鵑草咲ける寺苑の水の音
・背伸びして空見上げいる彼岸花
・説法の若僧侶に秋澄めり
・灯を消して虫の世界に居りにけり
・蔓手繰り零余子を摘んで風の中
・大豆引く底抜けの空ありにけり
・朝一番摘みし茗荷の子の香り
・風のまま歩きてきたり草の花
・花芙蓉雨に花びら洗われて
・岬への道遥かなり山粧ふ
・秋清し声かけて行く下校の子
・秋澄めり共に迎えし喜寿傘寿
・秋の日の竹美しき園の道
・秋刀魚焼く煙に咽びつ子等を待つ
・いわし雲茶畑大きくうねりけり
・のら猫のころがる庭の食へぬ茸
・天空にあり紅葉の槍ヶ岳
・投げ入れて老に傾ぶく薄かな
・地蔵尊紅葉明りに合掌す
・肌寒し夕焼け地蔵やさしさを
・ハープ弾く波の使いに月も満つ
・星月夜還らざる夫想ひては
・湖の風のゆれいて山法師
邦男
百合子
正明
久江
たつ子
利八
洋子
美和子
紫水
清治
幸枝
一花
康子
知幸
美千代
玄三
若子
正一
佐枝子
幸子
晶子
すすむ
浩子
美智子
富貴子
和代
夫美子
岑子
三紗
トキ子
樹
ゆう
和子
晴子
たづ子
三惠子
麗子
彬葉
きみよ
とも子
秀代
和美
寿恵
雅江
貞夫
一江
実
光夫
佳則
久子
下段
・夕時雨去り行く友に思いはせ
・子等がいて米寿の母がいて小春
・せせらぎの水音変えし散る紅葉
・嬰児の拳かざして小春空
・山動き人うごきをり神の留守
・障子洗ふ亡き妻の声聞え来し
・届けたし都会の子らに冬の星
・水仙や来る人待ちて香るなり
・煌くに非ずまたたく十夜灯
・公園の子等のかまどや大根炊
・着ぶくれて母のぬくもり懐かしむ
・日溜りの冬の苺に屈みたり
・いつまでも解けぬパズルや冬北斗
・病室の窓に結露や年惜しむ
・初怒涛その勢を我に欲し
・寒き夜を持て余す爺孤独なり
・初詣みくじの凶と出し鼓動
・師の説に耳を傾け初句会
・穏やかに迎えし今日を初日記
・松過ぎし托鉢僧の衣も揺れ
・水涸れの浅瀬に鷺や二羽立ちて
・寒の月わがゆく道を照しけり
・一瀑を懸け磐座淑気満つ
・三寒の入日背にして本を読む
・参道の門にかすがい冬寒し
・対岸の遠のく灯り冬の朝
・寒梅の咲いて一息つく思ひ
・大銀杏天を突きおり暖炉もゆ
・目を入るる達磨と話し日脚伸ぶ
・子等遊ぶ声して庭の日脚伸ぶ
・寒明けし旅の話の多かりし
・寒明ける体をいやし夫婦かな
・ねんねこの赤児も覗く節分草
・点滴の母の手寒し蕗の臺
・空き店舗チューリップの芽つんと立ち
・海光のふりそヽぎゐる春田打
・窓開けし香りとび入り沈丁花
・水音に耀く土手の猫柳
・せせらぎの木道渡り芹芽立つ
・出荷終へ夫と手入れの春花壇
・ふと風の通り過ぎたる黄水仙
・一連の風に流れて鳥帰る
・手土産の博多人形春めいて
・幸せに生きて平凡鳥帰る
・振り向くや光陰流転二月尽
・菜の花や見え隠れする園児帽
・青空に菜の花の海香りたつ
・ふらここをこげば真下にビル動く
・一艇の水脈引き帰る春の雨
・神木に春の日ざしや風に揺れ
羽公
経郷
節子
絹枝
由美子
静男
光世
るみ
静香
浅江
昭美
チトセ
美代子
晴代
淑子
克明
勝子
くり子
碧
竹次
清子
昌美
訓子
清水順子
世紀子
冬子
光子
信昭
たか子
圭子
昭彦
朱夏
勝昭
藤沼公子
綾子
まさゑ
三喜
白茅
菊麿
佐由美
千恵子
忠夫
久美子
のぶ子
保子
愃平
睦美
薫
むつ子
みゆき
三ヶ日町句碑巡り
句碑数19箇所178句・
(墓碑も含む)H21現在
風越峠を下った三叉路の所にある。1の場所は引佐町になるが、この付近の
山は今も善慶の末裔の管理下にある。従って三ヶ日町の句碑に含めた。
1 さわさわとのむで月日ををくりけり
本名 井村経郷 1942年5月25日静岡県生まれ
俳誌「水鳥」師系百合山羽公 代表
39 きのうきょうあしたへ桜々かな
経郷句碑・平成21年四月吉日建立
「場所・大崎宝珠寺」
2 涼しさや休む風越し富士を見て
40〜157
善慶句碑・明治18年頃建立
善慶句碑・明治18年頃建立
「水鳥」句碑建立。平生21年5月17日
「場所・大崎宝珠寺」
「場所・風越峠」
「場所・富幕」
羽公句碑・平成4年10月建立
「場所・只木三ケ日人遺跡」
3 原人の歯牙凍蝶となりにり
4 世の中に箒あてはやすゝはらひ
「場所・平山木下邸」
十湖句碑・大正末期頃建立
5 掘りあてゝ勝手にちかき清水かな
6 松ひと木照る日をよそに風薫る
7 両国のさかひひらきぬ宇利峠
松島十湖 嘉永2年―明治45年(1849〜1912)。本名 吉郎。
俳号十湖。両親が俳諧をしていたので早くから両親に俳句の手ほどきを受
けた。柿園嵐牛に師事。嵐牛死後、小築庵春湖に師事。俳号は白童子・七
十二峰庵・大有庵・年立庵・大蕪庵其の他を称す。残る俳句は数千句、句
碑も『十湖発句集』平成3年刊・までに66基ある。
引佐郡第二代郡長で明治14年3月から同19年1月まで在任した。着任
する1ヶ月前、清水善慶は私財を投じ宇利峠の開鑿に着手していて、12
月にはこの道路の完成をみる。これを称えて視察の際に詠んだ句と思われ
るのが「堀りあてて勝手に近き清水かな」であろうと言われている。
8 往来するみちを養ふ清水かな
「場所・平山才の神」
「場所・平山才の神」
「場所・平山才の神」
「場所・平山才の神」人物不明
清水善慶 文政7年―明治26年(1824〜1893)。愛知県宝飯郡下地村の夏目平治の三男として生まれる。名は源平。雅号・善慶。
明治14年(1881)自らの山を売り得た千円を投じ、他の有志を募り、三河と遠州を結ぶ三州街道の宇利峠の開鑿工事をする。この年の二月起工、12月に巾6尺の道路が竣工する。これにより人馬の困難な宇利峠越えを容易にした。この間の述べ人夫は17000人、310日を費やした。善慶は風雨に関わらず工事現場に立ったという。「郷土の発展に尽くした人々」発行・三ヶ日町.
[場所・福長清水邸]人物不明
9 美くしくそこまで見へし清水かな
「場所・福長清水邸」
十湖句碑・明治14年頃建立
10 伸はすとも手足は出すなかやの外
十湖句碑・明治14年頃建立
11 牛馬もこゝを忘れぬ清水かな
12 かはるかはる覗く童や夏座敷
大谷句仏 本名光演 明治8年―昭和18年(1875〜1943)。東本願寺二十三世の管長。かつて百万の信徒から生き仏として尊ばれた方で、また、高浜虚子に師事、河東碧梧桐とも親しい俳人でもあった。一時新傾向自由律に走ったこともあったが、俳誌「懸襲」 の育成につとめられた。師が釆町されたのは、昭和6年の初夏で、憎頼も爵位も財産もすべてを失い、ただ俳句一筋に生きるという失意の時代であった。岡崎市の句会を終え、姫街道を自動車で一路本坂峠を越えて岡本の夏目巳之助家に入った。これは同家の戸主が浄土真宗に帰依し、かつ、巳之助氏は失意の句仏上人に深い同情を寄せていたことに因るものと仄聞する。巳之助は上人お迎えのため家に幔幕を張りめぐらし、風呂も特別に新調し、上人が帰られると同時にとり払うという敬虔な応対ぶりであった。この時の上人の句が碑に刻まれている。
「場所・岡本」夏目邸
句仏句碑・昭和6年建立
「場所・尾奈寺平」
14 みなみへと消えゆく春の氷かな
15 やすやすとちり行く芥子の夕べかな
石田雪耕 文政6年―明治24年(1823〜1891)本名 萬治郎。幼名 富重。敷地郡入野村(現浜松市)竹村家の出。日々沢村の庄屋。摩訶耶阿部三圭の妻国子の兄。国学の造詣深くまた能書家であった。
実際には句碑でなく、顕彰碑である。
「石田富重の碑」の中に辞世句として漢字のみで刻まれている。
句碑とはこのような碑の中に詠まれていてもこれと見なすのが、先人よりの習しと思われるのでこれに従った。
読みに違ちなどあると思うのでご教示をお願いいたす次第。
「場所・日比沢」
13 耕耡勢志田畑能古支天春廼旅
こうすせしたはたのこしてはるのたび
可白
理藩・可白は父子である。逆縁の
父が墓碑に刻んだのが14である。
15の父の句とともに辞世の句。
下尾奈の人。
「場所・三ケ日白羽根」
18 やすらかにねむる山路やつゆの宿
芝水墓(句)碑・昭和43年建立
「場所・三ケ日白羽根」
16 雲のはえ風もやみゐるあしたかな
17 とげあれど人ににほふやはらみはな
縣勇 弘化4年―大正7年(1847〜1918)。
縣石見の子として三ケ日に生まれる。石見は報国隊
士の一人。勇もこの厳父のもと風格毅然たる家庭に
育った。西浜名村長。東浜名村長を経歴、三ヶ日町
の行政に多大なる功績をのこした。
やす 勇の句の裏らに句を刻む。勇の妻。
22・文鯉
21親・倍之
23・季雪
25尼遊子
26・露鶴
24・季固
27・東江
28・逸羅
20・是黙
30・竹有
29・木甫
19・竹茂
竹茂の墓 宇志の阿弥陀山の共同墓地の一角に立つ六角形の墓がこれである。左記のように正面真ん
中に、竹茂の墓、これを挟み右に句、左に俗名、
辞世 迚もゆくこゝろせはしや雪の山
梅芳江寒菴主 片山傳平正房
とあり、時計回りに、
文化十癸酉年霜月五日
この竹茂の墓は、郷土史家のをはじめとした地元宇志の、郷土を愛する会、の人たちの労により平
成二年三ケ日町の文化財に指定されており、それに当たっての“竹茂の墓の発見から文化財申請まで
“と題した文書のコピーが手もとにあるので抜粋させて頂く。「宇志阿弥陀山共同墓地の一角に雑木
と笹竹の生い繁った中に形の変わった暮石らしい物をみ付けました。平成元年二月の事でした。六角
形の苔むした石の全面に細かな文字が彫まれていたので読む事は出来ないので拓本をとり、町文化財
審議委員の河西菊雄先生にその拓本を解読して戴き俳句であることがわかりました。又其の事が静岡
県高等学校指導主事で県俳諧史研究会員、浜松史跡調査顕彰会専門委員の西原勲先生の目にとまり現
地調査と研究が行なわれたのであります。其の結果、竹茂の墓は墓碑であり、顕彰碑であることがわ
かりました・・・・」以下省略。
32 秋風やなごみすごし□な□き
31 雲はれてうれしや蓮の花ざかり
「場所・宇志阿弥陀山」
「場所・宇志阿弥陀山」
橘正墓(句)碑嘉永2年頃建立
さの女墓(句)碑・文化十年頃建立
二墓碑とも、竹茂の顕彰碑の
一角にあるので、片山家の一
門の俳人と思われる。
空水句碑・明示4年頃建立
十湖句碑・明治14年頃建立
善慶句碑・明治14年頃建立
善慶句碑・明治十四年頃建立
空水句碑・明治14年頃建立
平山から只木を抜けて、現引佐町奥山へ至る、方広寺への参詣の道、
産業の道として清水善慶私財を投じて拡幅竣工した、所謂「善慶道」で
ある。二つの句碑はこの道沿いにある。
芝田一夫 三ケ日俳壇を大正から
昭和中期にかけて活躍した菅沼夢
渓の門下の人。
この地には、明治中期三ケ日俳諧
のリーダーとして活躍した階堂杜香
も眠る。
菅沼夢渓 明治24年―昭和40年(1891〜1945)。
本名 善輔。掃雲亭とも称した。菅沼よしみの尊父。俳句の師
は、大阪和泉の大観堂常春である。大観堂没後、東京石倉翠葉
の指導を受け、俳諧の連歌ならびに俳句の研究に努めた。特に
豊川の同志と、地方誌「松蔭集」の発行に参画、全国各地から
の投吟所を引受けた。「松影集」の撰者には大観堂常春・松島
十湖・巌谷小波らであった。「クラルテ」に同人として参加。
薬剤師。瓦塔跡、礫島に句碑あり。
33 掘り出した瓦塔のあとや散り松葉
夢渓句碑・昭和31年建立
「場所・宇志瓦塔遺跡」
勇の墓(句)碑・大正7年建立
久米正雄 明治34年―昭和27年(1901〜1952)。
芥川龍之介、菊池寛らとともに新思潮派の小説家として活躍した久
米正雄は、また、三汀と号して俳句も巧みであった。郷土の文芸誌
「クラルテ」の招きに応じ、講演のため来町されたのは、戦後昭和
21年12月初であった。この時稲荷山に登り次の句を残している。
書は高杉茶丘。
正雄句碑・昭和51年建立
「場所・三ケ日中学校南側」
34 蜜柑山の上の上なる山もみかん
富安風生 明治18年―昭和54年(1885〜1979)。
本名 富安謙次。愛知県八名郡金沢村(現・新城市金沢)出身。豊
橋自習館高校。東大卒。逓信次官を勤めた。「ホトトギス」に投句
の傍ら虚子にも親しく指導を受け、客観写生の手法、花鳥諷詠の提
唱に添って自らを育成した。「若葉」主宰。次姉のもとは三ヶ日町
野地の縣松太郎に嫁ぐ。句碑の作品は姉のもとを訪ねた折のもの。
書は高杉茶丘。
風生句碑・昭和51年建立
「場所・野地城址南側」
35 藺を干してこの村にわがみよりあり
桂月句碑・昭和42年建立
「場所・都筑琴水旅館」
36 布団からあたまだけ出す初日かな
大町桂月 本名芳衛 明治2年―大正14年(1869〜1925)。
高知に生れた。号は高知市の名所桂浜に因る。明治二六年東京帝国大学
周文科卒。以後文筆に携わる。最も叙事に長じ、紀行に妙を得、高山樗
牛と並び徹せられた時代があった。彼が釆町したのは大正4年の春で、
都筑の湖月旅館(今の琴水旅館の前身)に宿り滞在数10日、浜名湖の
周辺を巡った。
夢渓句碑・昭和43年建立
「場所・大崎礫島」
37 さゞな波や東風にたゞよふ島一つ
可白墓(句)碑・文化6年頃建立
理藩墓(句)碑・文政3年頃建立
夢渓については33で紹介。
やすの墓(句)碑
雪耕句碑・大正二年建立
百合山羽公 明治36年ー平成3年(1903〜1990)
平成4年羽公先生の一周忌命日を待って、三ケ日町在
住の門弟達が、「海坂」誌友の協力を得て、三ケ日只木
人遺跡に建立した。羽公は昭和39年より平成3年まで、
三ケ日町の俳句会を指導した。三ケ日原人は、一昨年、
原人ではなく弥生人であったとの新しい学説が発表され
た、残念なことである。
好子
博仲
明
いし
あけみ
照恵
紀一
田舞
つね子
公子
とし子
裕子
かのり
悦子
時代
克子
寛奈
常子
和良
艶子
かよ子
順子
孝子
久恵
智恵子
扶美恵
みどり
愛子
日出代
八十子
桜子
安戸光子
みちこ
輝代
永江
真紀
恵津子
智加子
「場所・福永」清水邸
理藩
可白
註・作者の使用している新仮名、旧仮名遣いをそのまま刻字した。
38 水鳥百号記念句碑・平成19年建立
「場所・大崎宝珠寺」
水鳥の川わかれては夕日さす 羽公