井 村 経 郷
何気無しにふと立ち寄った町の図書館で出会った一冊の本、高浜虚子の『進むべき俳句への道』により一人の少年の人生が大きく変わってしまった。この少年こそ後の蛇笏賞作家百合山羽公である。
羽公は明治三十七年九月二十一日、浜松市伝馬町に教師であった父百合山太一、母ふじの一人息子として生まれた。本名は又三郎。太一とふじは一双養子であったので、旅籠を営んでいた祖父権三郎夫婦は二代目ぶりに見る、それも男子とあって羽公を溺愛した。このような環境下、羽公は幼少年期を何不自由なく過ごした。
大正十一年、浜松商業学校(現、浜松商業高校)在学中、高浜虚子に手紙を送り入門を許され、直接の指導者に池内たけし(虚子の従兄弟)を紹介され俳句の道を歩き始めた。羽公の俳号を名乗ったのもこの頃からで、由来については、少し猫背であったので学友たちから翁と呼ばれており、それをを逆さにして《羽公》したと言うが、羽公の美男は有名だった。学業を終えた翌十二年三月、直ちに虚子に合うべく上京し、一ヶ月東京に滞在する。世情、交通事情を考えあわせると如何に難事であったかは想像に難くないが、これも後日、家業の洋品店(時代の変遷から旅籠は既に廃業していた)を継ぐべく名古屋へ勤めに行く約束をし、許されてのことだった。この上京が羽公にとって如何に大きな意味を持っていたかは周知の通りである。
海苔干すや町の中なる東海道
百花園入りてひろき木の目かな
鶏の影躍り重なり闘へり
これ等は処女句集『春園』(大正十一年より昭和十年まで)に収められており、いずれも大正十二年の作品、即ち俳句を始めた翌年でのものである。羽公は早熟の俳人であったと言われるが、それにしても早熟であり、驚嘆の眼を持って見る他はない。とりわけ「鶏の影」の句にあっては老成した大家の作品を彷彿させる。モノクロームに仕立てたこの技術、この写生眼、羽公は生まれついての俳人だった。
羽公と秋桜子の初対面は、大正十三年麹町清水谷公園の皆香園で行われた「破魔弓」(後の馬酔木)の月例句会の席上だった。「破魔弓」は創刊以来幾度か選者の交代をみて、池内たけしになって間もない頃のことであった。当時のことを秋桜子は「波立ちてかはる景色や驢釣」「おくつきにとどきし藤や熊野供養」をあげ、《而もこれが十七、八歳の少年と聞いて驚きより参ったという感じの方が強かった》と言い、又《この後「破魔弓」雑詠でよき競争相手になったが、羽公君は毎月巻頭、私は次席か三席だった》と蛇笏賞受賞の祝いのことばのなかで述べている。
羽公は自信に満ちていよいよ俳句に熱中する。「ホトトギス」をはじめ「破魔弓」「鹿火屋」「雲母」等に投句。作句五、六年目にして第一次の絶頂期にいたる。「ホトトギス」の巻頭は昭和四年の春、二十五歳の時、次の五句だった。
この鹿や人なれがほに袋角
むれ鹿にあゆみまぎるる鹿の子かな
おしろいの剥げたる稚児も花まつり
花盗人ちりくる花を仰ぎけり
よしきりやよしふく風にまぎれざる
掲げたなかで「むれ鹿に」の句が殊に私は好きである。この行き届いた目の優しさこそ、羽公の人柄が良く現れているからだ。
しかし、「ホトトギス」での晴れやかな舞台もこの後間もなく翳りが生じてくる。これについて羽公は何も語っていない。が、しかしこれより先、大正十三年から十四年にかけて大きな衝撃をうける事件が続いてあった。大切なのでここで述べることにする。一つは同郷の大先輩原田濱人が「ホトトギス」を去ったこと。原因は虚子の客観論に対する、濱人の主観論における違いであったが、羽公はその場に同席していたばかりか濱人は、
訪れや百合生けかけし折も折
見ず知らず出会ひ会釈や墓詣
ここに掲げた羽公の二句を論争の中にとり上げ、「訪れや」を好例に、「見ず知らず」を悪例に一歩も譲ることをせずに退席、これを最後に濱人は虚子と袂を分かちた。後一つは羽公が名古屋より勤めを終へ帰浜して間もなくのことである。その頃の浜松句会には武田磊石、加藤雪膓(子規門下)等が居て隆盛をきわめていた。程なく虚子を迎えて、賑やかに子規句碑の除幕式が弁天島で行われたのだが、ここでまた、虚子と雪膓の俳句感の違いによる激突をみる。論争は飛躍して季題、韻律へまで進み、それはやがて雪膓主宰するところの「芙蓉」誌をあげての自由律に発展して行く。虚子の世話役であった羽公は、虚子から大変な怒りを受け憔悴するのだが、時の虚子の傲慢な態度に比べ、純粋無垢な雪膓の一途な情熱に次第に魅かれて行く。
これら二つの事件は「ホトトギス」巻頭以前のことであり、直接、翳り云々に関わりはないが、これを機会に、自由律俳人達との交流を深めて行った羽公に対する虚子の冷たい目が向けられていたのは確かなようだ。この時代羽公も自由律俳句を詠んでいるのだが、昭和二十年の戦災により家が焼失、従って資料がない。
昭和六年、秋桜子は「馬酔木」に【自然上の真と文芸上の真】と題し、虚子の客観写生に反論対立し、「ホトトギス」に決別する。飛ぶ鳥も落としたであろう当時の虚子に反旗を掲げた秋桜子の鬼気迫る心情を察し、守旧派であり、温厚派の羽公もこの時行動を共にするのだが、何の迷いも無かったという。
秋桜子との関わりについて、羽公から次のような話を聞いた。名古屋に勤めていた頃のある日、上京してホトトギスの句会に出席したのだが、その時虚子はその場にいた門弟全員に先人の句を鑑賞させたという。このような事は度々あったようだが、羽公には初めての事であり、緊張していると、羽公に当てられたのは、確か後藤夜半の句であったと思うのだが、その句の鑑賞が上手く言えず、もじもじして居たところ、隣席に居た秋桜子が助言してくれたことで何とか面目が保てたとか。その時の秋桜子の優しさはまるで兄のようだった、と語っていた。一人子の羽公には一入であったのだろう。生涯その恩義を忘れなかった。
昭和十年前後の数年、羽公は挫折に遭遇する。原因は石田波郷の出現であり、二度目の妻との再度にわたる死別がそれに追い打ちをかけた。波郷の「プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ」「バスを待ち大路の春えおうたがはず」などを始めとした数々の作品の瑞々しさは、羽公の作家活動を根底から覆すものだった。羽公は新しく進むべく俳句の道を模索し苦悩する。
初蕨隠りし雪の香にたちぬ
繭つむやあふちの花のとびきたる
霜害のすぐろの天に富士たてり
羽公自信が本来のものがようやく脈流しはじめたもの、と言わしめた作品の中から抽出して見たが、私には羽公の本質が見えて来ないのだが如何なものであろう。
処女句集『春園』はは波郷の手により昭和十年に上木をみている。
昭和十六年に始まった太平洋戦争は昭和二十年浜松を空襲、市街地は焦土と化した。人々は疎開を余儀なくされ、羽公は父の里、引佐細江の内山家を頼り、此処で、七年余りを過ごすことになる。《土地の人々は親切だった》と後年述べてはいるが、苦労知らずの若旦那の味合う長い長い忍耐の歳月だったことは想像に難くない。
だが、このような忍耐、あるいは耐貧の疎開時代にあって進むべく俳句の道に光明がさす。貧しくも明るい農村の暮らしの中にこそ俳句の原点があった。羽公は古い俳諧を掘りげ、自身の生きる現実の空間に息を吹き込むことで、羽公俳句の鋳型を持つことになる。羽公は面白味のある俳句へとその道を求めたのである。
第二句集『故園』(昭和十六年から昭和三十一年まで)より抜粋する。
蚤ふえし家に薊を活けにけり
夜露寒湯気立つものを食べしあと
春著きて鴉の多き野を来たり
錦繍の夕日のそとにゐのこづち
キリギリス砂利場の馬の足もつれ
面白い俳句について羽公は、《面白さ、と単に言ってしまえばつかみどころのないように聞こえるが、これが芸のひとすじの道とまで意識するところまでくると、魅力とも、悟りともその芸の滋味とも、いろいろな意味の感動につつまれる有難さがある》(「海坂」昭和三十四年十一月号)即ち、俳句の生命の本体は面白さ、だという。ここに羽公俳句の確立を私は確信するのである。
昭和二十三年戦後の混沌とした社会情勢の中で、羽公は「海坂」(前身「あやめ」)を発刊、盟友相生垣根瓜人と共宰する。瓜人は兵庫県下に生まれ、東京美術学校(現・東京芸大)製版科を卒業して、浜松工業学校(現・浜松工業高校)の教職にあった。羽公とは昭和四、五年頃から浜松俳句会で見知り、最も影響を与えた人だった。瓜人についてはもっと触れなければならないのだが、ここでは羽公について筆を進めているのでこれに止める。
この間羽公は作句に門弟育成にと力を注ぎつつも、疎開暮らしに終止符を打つべく機会を窺っていた。そしてその数年後の昭和二十七年の夏、思いが叶い帰浜する。とはいえ、戦災ですべてを失った羽公は、焦土の上にあばら家を建て、その日暮しの生活をする他なかった。詩才には長じていた羽公だったが、商才には乏しく家業の洋品店を再建したものの長くは続かなかった。
この後羽公は唯一の資産であった父祖よりの土地を昭和三十四年に手放す。それには諸々の事情があったと思うが、一説には、商いの失敗で苦しんでいた門弟の一人を救助せんがための窮余の策であったとも聞く。羽公はそれについて生涯口を閉ざしていたが、私はそれが本当だと思っている。羽公とはそのような人だった。後々幾度となく句に詠まれている流寓の家への転居にはこのような事情が隠されていた。
その流寓の借家は積志有玉の里(現・浜松市有玉南町)を流れる馬込川のほとりにあって、家半分が中二階のその佇まいが、一見、蝸牛に似ているところから、蝸廬、と羽公自らが呼び悦に入っていたのだが、生活は相変わらず苦しかった。
このような状況下、羽公が俳句作家として活躍して来れたのも一重に未亡人しん様あってのことだった。羽公は三人の妻に、男二人、女三人の五人の子供をもうけていた。しん婦人はこのような複雑な家族関係を抱えながらも懸命に働いて家計を支えてきた。
転居後、しばらくして親友の杉山岳陽が蝸廬を訪れ、「実は常々、君があまりにも多くの佳句をものにしているのでどんな素晴らしい所かと思ったが凡景だね」と話しているが、羽公にしてみれば海道筋のこの有玉の里こそ理想郷だった。終世この地を離れようとしなかった。経済的な面が有ったとも思われるかも知れぬが、それが原因ではなかった。地方にこそ俳句がある、を信条としていたのである。
羽公は時に触れ門弟達に《眼から鱗が落ちなければ駄目》と言った。しかし、私達にはそれがよく解らないでいた。眼から鱗が落ちる、とは如何にも抽象的なのである。
芭蕉の教えに《底を抜け》というのがある。芭蕉は《底を抜けば現実の感覚と理論を超越する。すると日常の時間は一変する。そこにはいわば文学の時間といったものが流れ始める。そうして普通の人ははじめて真の表現者となる》と言っている。眼から鱗が落ちるとはこれと同じことなのだと思う。
今述べた、羽公の眼から鱗が落ちたのは、
音一つせぬ無花果の木を好む
と詠んだ昭和二十五年頃と私は見ている。
昭和四十八年、第三句集『寒雁』(昭和三十二年より昭和四十七年まで)上木。この句集により第八回蛇笏賞を受賞する。それ迄の受賞者をここに上げると、皆吉爽雨、加藤楸邨、秋元不死男、大野林火、福田蓼汀、平畑静塔、右城暮石、安住敦、阿波野青畝、松村蒼石(第二回と七回は二名受賞)といずれも大家である。
羽公は受賞の言葉の中で《芋の葉や俳句に遊ぶ五十年》という自嘲めいた一句を句帖に書きとめたのも三年前で、誰にも見せずに埋もれたままである。その芋の葉が受賞する思いもするのである》とあくまでも謙虚に語っている。
去る家の朝顔どつと生ひ茂る
蔀あげ一粒春のかたつむり
寒雁や一物もなき大干潟
三伏の蜂やわが家に入りびたり
牡蠣殻の山空風と馴れ会ふよ
ここに掲げたこれ等の句からは羽公の心情がよく窺えて私の最も好きな作品のうちに入る。所謂、羽公の言う、流寓の生活の中から現実に対峙する男の真顔が、男の悲哀が伝わってくるからだ。「蔀あげ」など諧謔を重んじる俳人としての面目躍如といったところである。多くの人から親しまれた羽公だったが、根底を知る人は意外に少なかった。
羽公は《人間は神に許されこの世に生を受けた、己に出来ることに命を捧げるのが人間としての行き方である》とした信念を貫いてきた。《浜松に私のような俳人がいたと思って貰えればそれだけで十分》ともよく言っていたが、この賞を得たことにより永代衆目の知ることになる。
若い頃から否定し続けていた小林一茶の句を肯定し始めたのもこの頃からである。如何ともしがたい宿命のなかで弱者たる小動物、虫類たちへの慈しみを詠むことで、心の乾きを満たしていた一茶の心根に触れ得たのも、この苦渋時代から自ずと生じたものだった。
窮したる袋蜘蛛なり見逃せり
この句を始めとして、『寒雁』には殊に多くの小動物、虫類を登場させていることでも一端を知ることが出来る。羽公はまた流寓を詠み続ける。それは芭蕉を始めとした山頭火や放哉の漂白にたいする思いだったようだ。が、羽公は芭蕉や山頭火や放哉のようにはなれなかった。心のなかにこその思いを抱いていたのである。
この頃、先に紹介した瓜人もすでに蛇笏賞を受賞しており、秋桜子から俳仙人などと呼ばれ、俳仙道を欲しいままにしていた。羽公に最も大きな影響を与えた人とも書いたが、この影響はこれ以後に色濃く出て来る。とは言っても、瓜人の仙人ぶりとは違って羽公はあくまでも羽公流を行くのである。第四句集『楽土』(昭和四十八年より昭和五十八年まで)から抽出してみると、
流寓を寒餅黴て甘やかす
木の根にも聞き耳ありて神楽笛
心字池心字を習ふ水すまし
雨蛙緑の皮と共に跳ぶ
椎賜ふ大国主の袋より
このように羽公の俳句は自由自在、その精神の行きつくところは俳句は俳諧を重んじること、挨拶を重んじることにあった。因って作句には即興を旨とした。一日百句詠むことも厭はなかった。そして、それらの作品の何処かに可笑味が含まれており、読後ついニッコリとさせられるのである。
羽公は一度として文法、音律など述べることも書くこともなかった。《少しぐらい句が古くてもよいから骨格の確りした句を詠め》《俳句で煮染めた顔になれ》が口癖だったことでも知られるように、学者肌ではなく、職人気質の俳人だった。従って、門弟達にも俳句を教えるのではなく、門弟達が俳句を体で習得するのを忍耐強く待っていた。俳句は教えように教えられない文芸であることが根底にあったのは言うまでもない。
『寒雁』時代に漂っていた暗さも『楽土』時代以後にはすっかり影をひそめた。それは一芸に辿りついた者の悟りとも言うべき心の安らぎからであった。芭蕉がいうところの《西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於けるその貫通するもの一つなり。しかも風雅に於けるものの造化にしたがいて四時を共とす、見る処花に非ずと云うことなし、思う処月に非ずと云うことなし》という自然感に羽公も到達していた。
晩年の羽公の楽しみはしん夫人、次女の真苗さんとの家族三人での水入らずの旅だった。第四句集『楽土』・遺句集『楽土以後』(昭和五十九年より平成三年まで)に詠まれている旅吟のほとんどがこの家族旅行でのものと言っても過言ではない。瓜人との死別は昭和六十年だった。羽公は、
大慈顔瓜人寝釈迦になられけり
と詠まれ、これより「海坂」は羽公一人の主宰となる。昭和六十三年には、
五百号五百一号亀や鳴く
を「海坂の」五百号記念の誌上に発表し、その祝いも無事済ませたが、平成に入ってより身体の衰え、あるいは怪我などもあり、入退院を繰り返す。
入院の着たきり雀バードデー
これは又百日患者鳥渡る
数へ日や隅の患者の老患者
入院中は「数へ日や」でも解るように優等生の患者だった。自分が老人だということで、他の患者の迷惑になってはならないと気を使い、病室の入り口のドアの隅のベットに隠れるように身を置いていた。一門には見舞いに訪れる度見るその姿が悲しく、わが国にの医療制度のありようが腹立たしかった。そのような折、羽公の病床に一つの事件が届く。死の近きことを察していた羽公にとって、この事件は晴天の霹靂の出来事だった。今ここでその詳細に触れたいのだが、時期尚早につき言えぬのが如何にも残念である。この傷の癒えぬ数ヶ月後の病篤き床に葛飾賞受賞の朗報がくる。羽公は《瓜人さんが生きている時一緒に貰いたかった賞だった》と言う。これを伝え聞いた水原春郎主宰は感激し、亡き相生垣瓜人にも葛飾賞を与え、羽公、瓜人の同時受賞となった。
晴れの受賞式には羽公の変わりに高弟の和田祥子が出席、受賞し、急ぎ病床に駆けつけたが、羽公の意識はすでに消えんとしていた。が、そのような中でも解ったらしく、微かではあるがたしかに頷いたと祥子は言う。その数日後、平成三年十月二十二日、浜松市内の遠州総合病院において帰らぬ人となつた。享年八十七歳であった。
双葉亭四迷の四迷忌なりけり
四迷の忌は五月十日。これ以後に詠まれた羽公の句を私は知らない。死に至るまで五ヶ月有余あったのだが・・・。『楽土以後』は平成五年秋、海坂一門等により発刊されている。
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