百合山羽公(ゆりやまうこう)先生略年譜
明治三十七年九月二十一日浜松市生れ、本名・又三郎。大正十一年
浜松商業高校在学中、十八歳にて高浜虚子門に入り池内たけしに指導
を受ける。昭和四年七月「ホトトギス」の雑詠集巻頭。六年水原秋櫻
子と虚子門を去る。八年「馬酔木」同人。昭和二十一年天竜市二俣町
(現浜松市天竜区二俣町)より「あやめ」創刊、選者となる。二十二
年相生垣瓜人を迎える。昭和二十五年「あやめ」を「海坂」と改題、
瓜人と共に指導。三十九年十一月より三ケ日町の俳句指導。四十四年
俳人協会会員。後、同評議委員を経て六十二年名誉会長、平成元年顧
問就任。昭和四十九年第三句集「寒雁」により蛇笏賞受賞。句集に「
春園」(昭和十年)。「故園」(昭和三十一年)。「寒雁」(昭和四
十八)。自註「百合山羽公集」(昭和五十二年)。「楽土」(昭和六
十)。遺句集「楽土以後」(平成五年)。エッセイ集「有玉閑語」(
平成二年)。平成三年十月二十二日没。享年八十七歳。戒名・吟月院
禅翁悟道居士。
奉納俳額
場所 浜松市北区三ヶ日町大崎1186
百合山羽公先生十七回忌記念
宝珠寺
奉納 春興
百合山羽公先生門下水鳥三ケ日支部
願主 井村経郷
山寺の和尚の話し山笑ふ 樹
檜葉の木の聳ゆる根元蛙かな 晶子
名光山の御堂に蛙鳴きひひき 佳則
風光り水琴窟の音のほのか 正明
写経塔水子観音春愁の 和子
木々芽吹く観音さまの微笑みに 麗子
寺参りして巡礼の木の芽晴 よし子
山寺の石の声聞く涅槃像 順子
山寺の石に刻みし寝釈迦かな 艶子
石垣に組む仏石も山つつし 照恵
春はやて大仏頭の坐します 昭美
仏頭の耳ふくよかや遠蛙 世紀子
仏頭の福耳なりし夏隣 雅江
移植せし古木の李蕾付く 美和子
気の里に古木の李花まふし 久江
磴見上け一歩踏み締め花の道 洋子
石段を登りて行きぬ花衣 嘉代子
見て居たり開かすの扉花の厨子 圭子
寄り添ひて水子地蔵や花の頃 かのリ
神仏在します寺苑花の下 裕子
気の里の天蓋桜仰き居て 千恵子
花明り一山にあり観世音 智恵子
山寺の大山さくら真昼の日 経郷
ひそやかに色変はりゆく夕桜 碧
灯されて主客となれり夜の桜 つね子
静寂満ち宝珠寺のほる春の月 真紀
山寺に並ふ石仏春日濃し まさゑ
山寺の春日灯籠こふし咲く 黒柳幸子
裏庭は神の依代春光る 久子
雉子鳴くや観音菩薩をろかめは とも子
緑さし青面金剛構へ立つ 夫美子
微笑みし普賢菩薩に春の風 ちえ子
春うらら石仏覆ふ肉桂の木 日出代
師の坐り大座禅石日永なり 保子
座禅石春の日浴ひて風の中 くり子
遠蛙仏足石を拝しけり 勝子
仏足石まんさく匂ふ側にあり 富貴子
花は実に寺苑真中に百度石 孝子
鬼子母神へ踏む百度石鐘供養 百合子
春の日のひときは映ゆる寿老人 好子
お百度を踏めは囀福禄寿 みちこ
竹の秋さわめく中に不動尊 和代
巡り来し七福神に風光る 克明
石仏の幾百体や風光る 晴代
曼荼羅を拝せし外は春の風 八十子
本堂の濡れ縁に座す子猫かな 利八
宝珠寺に百人集ふ春の句座 幸枝
春惜しみ惜しみつつ盃重ねけり 貞夫
さされ石にさへつり遠く又近く 寿恵
囀にさへつり返す法の庭 紫水
曼陀羅図三尊拝し花の晴 石原千恵子
さされ石子持ち石にも花吹雪 悦子
散る桜絶えす降りゐて細石 あけみ
花冷を馳せて石段奥の院 田口幸子
山桜息ひそめゐる無縁仏 みゆき
桜散る郷に従ひ無縁墓地 三喜
いしふみの石徳五訓余花の雨 すすむ
大楠の萌ゆる寺苑の美術館 千鶴子
山寺の博物館に花の塵 チトセ
残花あり樹齢不明の大樹なり 扶美恵
春深し境内吹いて禅の風 公子
暮の春木の香たたよふ寺の苑 のぶ子
葉桜の仏に影のありにけり 佐由美
新緑と石像方からようこそと 佐枝子
花みかん岬の寺に匂ひけり 睦美
平成十九年五月二十日
選者
静岡 鈴木淑子
榛原 畑 絹枝
仝 横田浅江
静香 印
全65名の作品
本年は百合山羽公先生の17回忌になります。水鳥三ヶ日支部ではこれを記念して町内大崎の宝珠寺に俳額を奉納する事になりました。17回忌は俳句の17文字の縁起にもあたり、俳人にとっては、最後の忌日と言ってもよいのではないでしょうか。そのような大切な忌日に俳額が奉納出来たことを水鳥三ヶ日支部一同心より嬉しく思っています。宝珠寺に俳額の奉納が決まりましたご縁は、スイリュウヒバに依るものでした。と申しますのは、スイリュウヒバは羽公先生の俳句の心、であったからでした。
昭和52年頃と思いますが、私は友人と羽公先生をお誘いして三人で三河の長篠に吟行しました。そして鳥居強右衛門の菩提寺新昌寺で一本の老樹と出会いました。それがスイリュウヒバでした。この老樹をしばらく仰ぎ見て居た羽公先生は「これが俳句の心だよ、覚えて置きなさい」と申されました。しかし当時の私にはその心など解る筈がありませんでした。しかし大切な宿題として頭から離れることはありませんでした。
時は移り、羽公先生は平成3年10月23日に亡くなります。その半年後、私は不思議な銀色の光に包まれてその教えを理解する事が出来ました。その教えとは「俳句は命題に向けて17文字が結集する」と言うものでした。当然と言えば至極当然のこのことを、私は15年以上も苦しみ悩みながら考えて居ました。この教えが理解出来た時急にスイリュウヒバに会いたくなり、新昌寺を訪ねました。しかしスイリュウヒバには会えませんでした。冬に本堂の屋根に枯枝を落とすからと、檀家からの苦情があり相談の結果、伐ろうと、言うことになり昨年(平成5年と私は記憶していますが)伐ってしまったと言うのです。愕然として佇む私に寺の奥さんは、あなたの今立って居るところにありました、と言われたが、跡形も無いのでお聞きすると、根ごとブルトーザーで掘り起こし砕石を敷いたのだと言われました。
この話を時に句会で私がするので、句友の一人がどうしてもスイリュウヒバに会わせてあげたいと、庭師さんに尋ね尋ねて宝珠寺を教えて頂いたとのことでした。
或る吟行の日、句会が早く終ったので居残った句友四人と宝珠寺を訪ねました。スイリュウヒバは寺苑にありましたが、それは庭師さんが手を入れているので自然の老樹とは全く違った姿でした。新昌寺の老樹は枝枝を大きく撓めその先端を太陽に向けていましたが、この寺のスイリュウヒバは見事な庭木として聳え立っていました。しかしその幹は新昌寺の老樹に劣る物ではありませんでした。
このお寺さんと何かご縁を結びたいと思い立ったのが俳額でした。三ヶ日には既に俳額が5つある事から自然に思いつきました。句会の仲間に早速話をしたところ、皆さん賛成して下さり、65名全員の句を額に記し本堂に掲げる事が出来ました。内容としては、宝珠寺にある桜の老木の咲く頃、それぞれの句会で吟行をし、数百年後のことも考慮して平成の宝珠寺はこのようなお寺であったと想像がつくような作品を選び並べました。額の材料としては欅材を使いましたので、宮大工さんの棟梁の曰く、千年は保障します(高さ、65センチ、長さ4,8メートル、厚さ8センチ)、とのことでした。それは兎も角として、後世に遺せるものを掲げることが出来たことに満足をしている次第です。
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