河田真智子の行動記録


2010年 10月22日(金)

沖永良部島で講演+写真展をします







お出かけください。

講演骨子をご紹介します。

1、沖永良部島との出会いから、島に通い続けて38年。
 38年間続けてこられたのは、どうしてなのか?

2、奄美諸島の人の住む島8島を「旅人として」同じ時期に1カ月かけて歩いた時の8島の比較。
  島に上陸した時に感じる、その島の「空気」のようなものの違い。島ごとのカラー。
 仮説として、島のかたちと島の人の気質に相関関係があるのではないか?

3、沖永良部高校、和泊中学に何度か出前授業をした時に、生徒たちに問いかけた「島に住む幸せ」についての報告をします。
 沖永良部島の子どもたちは自分の島が大好きで、島に誇りを持っている。
 そういうなかで、アンケート用紙に「幸せ なんかじゃ、ない」と書いてくれた生徒がいた。その思いと、その問いかけを大切にしたい。

4、島がよくなってゆくためには、どうしたらいいか?
 奄美群島特別振興法の審議委員、鹿児島100人委員として奄美諸島を視察させていただいた視点を交えて提言したい。

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2010年12月1日(水)

以下、講演原稿を掲載します。
この原稿は事前に用意したもので、講演の2日前に奄美大島を集中豪雨が襲い甚大な被害があったため、講演内容を一部変更して、「豪雨・台風」に関する話しに切り替えました。

<講演原稿>

ワードの原稿を「コピー」アンド「ペースト」したら・・・・
以下のような事態になってなってしまいました。
文字がでかっくて、行間があき過ぎている・・・
でも、とりあえずこれで・・・


沖永良部島講演原稿

 

2010年10月14日

 

こんにちは。河田真智子です。

今日はお招きいただきありがとうございます。

 

私は島を歩いて38年になるのですが、今日は「ひとりひとりが宝もの」と題してお話したいと思います。

 

 

 さて、今日は四つの項目をお話します。

 

 一つ目は

 何故、38年も島に通い続けたのだろうかということを自己紹介も含めてお話します。

 

 二つ目は

 私が、29歳の時に奄美諸島の人の住んでいる島8島を同じ時期に1カ月かけて歩いた時の島々の比較をお話します。

 この時は「旅人として」歩きましたが、島に暮らす条件は島ごとに随分違うものだと感じました。

 

 三つ目は

 「島に住む幸せ」って何だろう。沖永良部高校や和泊中学に何度か出前授業をした時のことをお話します。

 

 そして、最後に、四つ目、

 島がよくなってゆくにはどうしたらいいだろうか、それに対しての具体的な提言をさせていただきます。

 私は今57歳ですが、40歳代の10年間は奄美群島特別振興法の審議委員や鹿児島県100人委員などをしてきました。審議委員として、請島、与路島を除く6島を視察させていただきました。これは一人の旅人として島を歩くのとは、また違う視点で島を見ることができ、とても勉強になりました。

 

 

 では、まず、自己紹介です。

 大学1年生の時に沖永良部島に来たのをはじめとして、北はスコットランドの北の果ての島、シェットランド諸島や、アイルランドのアラン島などに行きました。南はタヒチのボラボラ島まで、世界の辺境の島も歩いてきました。

 延べにして、300を超える島を歩いています。

 

 その中で、奄美諸島は繰り返し訪れている島々です。

 19歳の時に沖永良部島に来たのは、この島でキャンプをした兄が

「エラブは天国のような島だ」

と、繰り返し言うわけです、

 そんな、天国のような島が本当にあるのだろうか、自分の目で確かめてみたいと思いました。

 和泊町長様宛てに、

「私は出会いを求めている旅人です。ついては、食費程度で泊めていただける第一次産業のお家を御紹介ください」

と手紙を出しました。

 島の素顔に出会うには、普通のお家に泊めてもらいたかったのです。

 しかし、当時は大学紛争、学生運動の盛んな頃で、なかなか泊めてくださるお家が見つからなかったようです。

 私の手紙を「拾ってくれた」のは、当時の観光係長の山下純利さんで、山下さんの紹介で出花の池下タケおばさんのお家に泊めていただき、娘のようによくしていただきました。

 

 あの頃、東京からやってくる見ず知らずの娘を預かることは、どれほど勇気のいることだっただろうか、と、私自身、母親となった今ならばわかります。

 島の人は懐が深い

 

と、思います。

 

 そして、昭和52年の「エラブ台風」以前の沖永良部島は本当に美しい島でした。

石垣の道と家を守るガジュマルの樹、そこに咲くハイビスカスの花、そして、見渡す限りのフリージアの花畑、その向こうには青い海が広がっていました。夢のような風景です。

 

 帰る港に見送ってくれた山下さんが、

「また、おいで」

と、言ってくれました。

 そして、ブラジルに移民した時のことを話してくれ、こうも言いました。

「人の一生には、自分ではどうすることもできないくらい辛い時があるものだ、そんな時にはあなたも、この島に帰ってくればいい。帰るふるさとがあるということは、ありがたいものだ」

と。

 

 このあと、島の愛好家の会「ぐるーぷ・あいだんだあ」を作り30年間活動をしました。

 島に本を送る活動や、島おこしにつながる活動、それに島の写真展もしました。島の写真展は、今回で3回目になります。

 それには、いつも島の人の応援がありました。

 

 そして、沖永良部島とのつながりが38年間も続いた最も大きな理由は、私が34歳の時に生まれた娘の夏帆(なつほ)の存在が大きいのです。

 

 夏帆は仮死で生まれ、重い脳障害をもっていました。23歳になる今も首も座らず、お座りもできない、話すこともできない最重度の心身障害者です。昨年11月に誤嚥性肺炎になったのをキッカケに口からものを食べられなくなり、今年5月、胃に穴をあけ胃から栄養をとる手術をしました。今は在宅で24時間医療的ケアを必要とする生活をしています。

 

 夏帆が生まれた時、その障害の重さから私はもう島に通うことも仕事を続けることも無理だろうと思いました。

障害児を育てるためには、母親は自分の人生をあきらめなくてはならないと思ったのです。

 

夏帆が生まれて3か月経った頃、私は必死に脳障害の専門病院を捜していました。

そこに沖永良部島の前登志朗[進めとしろう]さんから手紙をもらいました。

「真智子さん、これだけは忘れないでください。なっちゃんは、みんなに望まれて、太陽のようなでっかい愛に包まれで生まれてきた子です。みんなで応援しています。元気になったなっちゃんをエラブに連れてきてください。待っています」

と、ありました。

 そして、あちこちで聞いてくれた病院に関する情報も書いてありました。

 

 この「みんなに望まれて生まれてきた子です」

という言葉に、私はハッとしました。

 自分の子を、ほかの人も愛してくれるということが、どれほど大事なことか。

 

 待っていてくれる人がいる

 

という思いが、大変な時もありましたけど、そして今もちょと大変なんですけど、島旅が続いてきた理由だと思います。

 

 

 

次に2番目のお話は 奄美諸島の8つの島々を歩いた時の印象をお話します。

 私が29歳の時ですから、もう28年も前のことですが、同じ時期に8つの島を歩くことで、島の違いを知りたいと思ったわけです。

 

 たくさんの島を歩いていますと、その島の港に上陸した時に感じる「空気のようなもの」は、その島の特徴と同じだということを感じるようになりました。

 静かな島、人なっつこい島、よそよそしい島、穏やかな島、などなど、それぞれです。

 

 奄美8島の旅は「島からの手紙」として、「あるく みる きく」にまとめました。

 これを読み返しまして、それぞれの島の印象をご紹介します。

 

 まず、東京から2泊かけて船で奄美大島に上陸しました。

 

<奄美大島>の印象は 「おばちゃんとこ 泊りにおいで」です。

船が名瀬港に近づく時に、甲板でおばちゃんに話しかけられました。「あのあたりがおばちゃんの家のあるところだから、泊りにおいで」と、そこは秋名(あぎな)のあたりです。

 奄美大島への初上陸でした。

 温かい島だという第一印象です。

 

<喜界島>の印象は「この子を何とかしなくては」と言われたことです。

 喜界島から奄美大島に戻る時、海がしけていて、喜界島からの船が早朝の5時、裏港から出るとわかりました。バスもありません。

 民宿のおじさんが、校長先生に頼んでくれて、車で送ってくれました。

 

<加計呂麻島>では、道を歩いていて、子どもたちに

「なんだ、カメラマンのタマゴかあ」と言われました。

季節外れの女性の一人旅は目立つのでしょう。バスは3時間に1本しかありません。私が島のはずれの民宿に着いた時には、すっかり噂が流れていて、近所の人が様子を見に来ていました。

 というのは、島の人は「もしかして、自殺志願者かもしれない」と若い女性の様子をうかがっていたそうです。

 でも、カメラを首から下げて子どもと遊んでいるので、自殺志願者ではなさそうだということに安堵したと聞かされました。

 加計呂麻島に行く観光客は少なかったのですね。

 

 奄美大島の人と話していると、加計呂麻島の南の請(うけ)島、与路(よろ)島に人が住んでいることを知らない人も多かったです。

 

<与路島>では、民宿のおじさんに「ねえちゃん、またおいで」と言われました。大きなホラ貝をもらいました。それをその後の旅の間じゅうずっと持っていました。

 

<請島>では、小学5年生の女の子3人と仲良くなりました。港に見送ってくれて、少女の一人が言いました。

「どうしても、今日帰るの? ずっといればいいのに」と。この少女たちとのつき合いはその後も続き、文通した手紙は『島からの手紙』という本になりました。

 

<徳之島>では、台風に遭い、ずっと民宿のなかでした。台風のすごさを体験しました。

 

<沖永良部島>では、出迎えてくれる人がいて、友人たちとの再会が旅そのものになりました。

 

<与論島>では、東京行きの船に乗ろうと思って港に行ったら、台風の影響で2日遅れとのこと、そのあと、沖縄に南下しました。

 

 

 1カ月の旅で、島の違いがわかるわけではありません。でも、大きな島、小さな島、船が欠航しやすい島などなど、同じ奄美諸島のなかでも、それぞれの島の状況がだいぶ違うということがわかりました。

 島の置かれている地理的状況によって、人々の暮らしやすさ、大変さは大きく違うということを見た思いです。

 

 

 離島振興法の分類では、島は以下の6つに分類されています。

 

1、内海国土近接型

2、外界国土近接型

3、群島主島型

4、群島属島型

5、孤立大型

6、孤立小型

 

です。

 

この沖永良部島にいてこの分類を見ると、少し違和感があります。

「国土」というのも違和感がありますし、では、沖永良部島は「群島主島」になるのか、「群島属島」なのか?
 奄美の島々が、ひとつひとつ「群島主島」でありたいと思います。

 

 

 私は、島の人の「気質の違い」は、島のかたちに関係しているのではないか?という仮説を立ててみたいと思います。

 

 日本の島は 大きく分ければ火山島か隆起サンゴの島かです。

あくまでも、仮説であり、学問的裏付けはないのですが。

 

<まるい島>は、火山島であれば真ん中に山があります。人々はまわりの狭い平坦地をみつけて住みます。だから、集落が分散されている場合が多い。印象としては「まとまりにくい」という印象です。

 火山の風上か、風下か、一つの島のなかで気候条件も変わり、作物の出来具合も有利、不利が出てきます。

 サンゴ礁の島で丸い島の場合は、小さな島が多い。

 耕作面積が小さく、水の確保にも苦労します。

 無人島化している島を思い描くと・・・港となる入江がない丸い島です。自然環境が厳しいと言えます。

 

<四角な島> というのは、あまり思い当たりません。正四角の島も長方形の島も、思い当たりません。

 

<ひょうたん型の島>はやや多いです。

 火山島であっても、サンゴ礁の島でも、この形の島は有利です。港も裏港をつくることが可能な場合が多い。

 平坦地も比較的あり、耕作面積を確保できます。人々はゆとりを持てることも多く、温厚な島という印象をもちます

 

<入り組んだ形の島>

 この形が最も多いと思いますが、島の状況は様々です。

 陸路で移動するのが難しく海路が利用されていた島も多いです。今は陸路の輸送が中心ですから、同じ島のなかでも、住みやすさの格差が出やすいと思います。

 同じように入り組んだ島が連なってあったとしても、内陸から近いか遠いかなどで、島の産業状態が違う場合もあります。

 

 形ではなく、島の高さに視点を当てると、切り立った島は厳しく孤立感が強くなるし、平らな島は、開放的でありながら、隠れる陰がないため、台風に飛ばされやすい。誰かが辛い時に陰に隠れたいと思っても隠れる場所をみつけるのは、難しいかもしれません。

 

 これは国内の島を歩いた実感としてお話していますが、琉球弧の島の場合には、ハブがいるか、いないかという大きな条件が加わります。

 ハブのいる島では農業を中心にしにくく、ほかの産業をとりいれなくてはなりません。

 

 

 

 さて、3番目のお話に移ります。

 私はこの数年「島に住む幸せ」をテーマに写真を撮りたいと、このテーマを追いかけています。

 島に住む人に「島に住む幸せは何?」

と問いかけることは、すなわち、障害のある子を育てる幸せは何?と自分自身に問いかけることそのものなのです。

 

 高校を卒業するまでの「障害児」は守られる存在として育ってきました。障害のある子は、18歳になると制度上「大人」になります。

 社会人になるわけです。

 東京では多くの障害者が朝から夕方までの通所施設に通い、在宅で過ごします。しかし、学校の頃のように手厚い介護は期待できず、とにかく事故が多い。この数年は、そんなことで苦労しています。

 大事に育ててきたのに、障害のある子にとっての社会は厳しいと実感する日々です。

 だから、「島に住む幸せ」を捜してみたいと思いました。

 

 

 沖永良部高校に出前授業に行きました時に全校生徒にアンケートをとらせてもらったことがあります。

 

 その内容は、

 

質問1、「島に住む幸せ」はあなたにとってどんなことですか?

(この質問はとても答えにくいと思いますので空欄でもかまいません)

 

質問2、日々の生活のなかで幸せを感じる時はどんな時ですか?

例 「彼女と海を見ている時」「朝寝坊をしてのんびりしている時」「成績がいいと褒められた時」、などなど、具体的に書いてください。

 

質問3 沖永良部島のなかで好きな場所はどこですか?写真を撮りに行きたいので是非教えてください。どんな時間か、どんな場所か、具体的に教えてください。

 

としました。

 アンケートには原則として実名で書いてもらい、匿名もOKとしました。

連絡先も書いてもらうことにしました。これも空欄OKです。

 2005年のアンケートですが全校生徒約400名のうち357名が提出してくれました。提出も強制ではありませんので、すごい回収率です。当日の休み時間では書ききれなかった人の分は、あとで先生が送ってくだいました。

 

 

 アンケートの内容を少しご紹介します。

 

質問1 「あなたにとって島に住む幸せは?」

 

001 のんびりしているところ

027 島の人みんなが優しくしてくれる。つらい事を忘れさせてくれる 

風景や人

028 島に家族がいて、島の友達がいて、自分がこの島で生まれたこと

034 島の人々の心の温かさのなかで生きていること

043 島の人間関係というか 島独自の人との付き合い方

052 家族といつも一緒にいられること

055 幸せじゃない

059 夏に泳げる

071 島に生まれて、島に生きてゆけること自体が幸せだと思います

097 島の人がみんな仲良いところ

111 海や花がきれいで、人々がとても温かい

170 水平線を見た時です。

172 ピアノがおもっきり弾ける

185 人を信じることができる

210 守られている。バイクに乗って大声で歌うことができる。知らないところがない。本当に幸せなところ

334 島民全員が家族のように暮らせること

 

 などなど、です。

 読んで驚きました。もう一度言いますと、このアンケートの回収は先生に提出して、先生に一度読まれてしまうという方法ではなく、その場で回収して、私に渡してくれたものです。

 

 子どもたちにこんな風に思われているなんて!

 

 沖永良部島はいい島ですねえ!

 

 この子たちは私の娘と同世代なのです。

 娘の夏帆は、言葉をもたない最重度の心身障害者です。言葉はありませんが、感性という叡智(知恵)をもっています。

 

 うちの娘は、生きていることを幸せと言ってくれるだろうか・・

 

 子どもに幸せと言ってもらえる社会をつくるのが大人の責任です。

 

 質問2の「日々の生活のなかで幸せを感じる時は、どんな時ですか」です。これは「島に住む幸せ」と同じような感じでした。より具体的に、自宅の窓から海を見ている時、とか、家族でテレビを見ている時、とか、彼女と一緒の時とか日常生活を具体的に書いてくれました。

 

質問3の「好きな場所」に関しては、皆それぞれ好きな場所をもっていて、写真を撮りたいという私のために、「なになに商店の道の下から眺める海」とか、どこどこの道を登ってガードレールのあたりから眺める海、とか具体的に教えてくれています。

「海」が圧倒的に多かった。

 

こんなお勧めスポットもありました。

 

 「今まで見た最高の景色は、ワンジョ・ビーチに月の光の道ができていたものです。冬の朝、5時30分くらいだったと思います。歩いて月に渡って行けそうでした」

 

と、書いてくれています。

 

 

 このアンケートは、島の高校生が何を感じているかということを知りたいという目的もありましたが、もうひとつ別のねらいがありました。

 

 島の子どもたちは、島に高校がなければ、中学を卒業して親元を離れなくてはなりません。島に高校があれば、高校を卒業してほぼ全員が一度は島を出ます。そして、島に戻ってくる人もいれば、戻って来られない人もいます。

 高校を卒業して、島を出て行く時に、島に生まれ育ったことのよさは何だったのか、気持ちのなかで確認してみてほしかったのです。そして、自分の好きな場所を紙に書くことで、ふるさとの島を思い出す時に、その場所の光景を思い出してくれるのではないかと考えたわけです。

 自分が生まれ育った島に「誇り」を持ってほしいと思いました。

 

 

 このアンケートで、一人だけ、

「幸せじゃない」

と、書いた生徒がいます。

 難しいテーマだから空欄でもいいですよとアンケートには書いてあるのに、

「幸せしゃない」

と、書いてくれたことを、私はとても嬉しく思うのです。

 これは、大切なメッセージです。

 

 この子は病気なのかもしれない。家族の人間関係がごたごたとしているのかもしれない。もしかしたら、親を失ったのかもしれない。

 

「この子を何とかしなければ」と、思うのです。

「私に伝えてくれたこの子の思いを、島の人に伝えな来れば」

と思い、私のなかで「宿題」になっていました。

 

 

さて、そんな宿題を抱えながら、4つ目のお話に進みます。

 

島がよくなってゆくには、どうしたらいいのか」です。

 

 そんなこと、よそから来た者に言われなくても、島に住む人が日々考えていることだと思います。

 38年前大学1年生の私に、和泊町町長さんが言いました。

「河田さん、島がよくなってゆくためには、二つの大きな課題がある。港と水、なんだよ。港をよくすることと、水の確保に取り組まなくてはならない」と。

 

 今、船が接岸する港がないとか、深刻な水不足に悩む島は国内ではほとんどなくなりました。人の住む島には海底水道が整って来ています。

 

 暮らしよい島であるために経済をよくすることに日々懸命にならなくてはならないのは、島も都会も同じです。

 

 その上で、私が望む「島がよくなること」を述べさせていただきます。

これは、奄美群島特別振興法の審議委員や、鹿児島100人委員をしている間に勉強させていただいて感じたことです。

 

まず<島がよくなるための一つ目>「情報の辺境の地をつくらない」ということです。

同じ島のなかでも、より辺境の地ができてしまいます。社会が厳しくなるほど、島の端っこは切り捨てられて行きます。

奄美大島で言えば、瀬戸内町は本当に厳しい。瀬戸内町の地形は九州のなかで見る鹿児島県内地の地形に似ています。端から端までの交通の便がとても悪い。

さらに、瀬戸内町は加計呂麻島、請島、与路島を抱えていますから、この地域の行政の御苦労を思います。

西の端の西古見(にしこみ)小中学校が廃校になったのについで、管鈍(くだどん)小中学校も廃校になりました。私は、子どもたちがいる時に2回行き、廃校になってからも一度訪れましたが、廃校になった学校を見るのは本当に辛いです。

 

 ここで気づくのは、携帯電話のつながらない地域には子どものいる若い人は住みにくいということです。

 山の陰になる地域は携帯がつながりにくい。

 加計呂麻の山向こう西阿室も海岸に行かないと携帯がつながらない。円の集落でも、高台にある小学校まで行かないとつながりません。 

 

 情報インフラを整備が過疎化を食い止めると思うのです。

 これは、防災上も大切なことです。事故があった時、救急車を呼びたくても電波が届かなかったら、呼べません。

 

 情報インフラの整備が過疎化を食い止める、というのがお願いしたいことのひとつめです。

 

 次に<島がよくなるための二つ目>

 豊かんな島が、福祉の最も低いところを拾う、という提案です。

 

 島に重い障害のある子が生まれると、島ですごとができないというのが今まで、でした。

 知的障害のある子は奄美大島の特別支援学校の寮に入ることになります。近くに住む子しか通えません。

 身体障害の子は鹿児島の施設に行かなくてはならなかったのです。

 これは、親にとっては、断腸の思いです。

 働いたお金のほとんどは、子どもに会いに行くための飛行機代になったという話を聞いたことがあります。

「行く時も涙、子を置いて帰ってくる時も涙、涙」
と、障害のある子のお父さんが語ってました。

 私の娘が5歳の時に、奄美大島の特別支援学校寮をたずね、大人の介護施設に2泊したことがあります。

 手厚い介護に胸が打たれました。

 でも、子どもはせめて、義務教育の間は、たとえ医療的ケアが必要であっても、生まれた島で過ごさせてあげたいと思います。

 うちの娘くらい障害の重い子、あるいは難病の子が生まれる確率は島の人口比から考えると、10年に一人くらいではないかと思います。

 

 学校に看護師さん一人分の予算をつけていただければ、可能かと思います。ゆとりのある島で、こういう先進的な前例をつくっていただきたいです。

 日本の島のなかでひとつでもそういう前例ができれば、ほかの島の人たちにも島で生きる勇気を持てます。

 

 これは、離島医療という視点からも捉えていただきたいことです。

 緊急時ヘリがあるように、もし、島の医療では間に合わない医療が必要な子が出たら、行政のシステムとして、応援していただきたい。

 難病で、緊急医療が必要な確率は何十年に1回の事かと思います。小学生までは援助するなど、システムをつくっていただきたいです。

 

 福祉や医療に関しては、一番低いところを拾うということをすれば、ほかの方たちも、

「いざという時も安心して住める」という安堵感を持てると思います。

 

 

もうひとつ<島がよくなるための三番目>は、

 

 「うつ病対策」です。

 これは島でも都会でも変わらない課題ですが、東京都の八丈島の例をお話します。

 地元の新聞「南海タイムス」で紹介されているのですが、人口が約8000人の八丈島で年に5人を超える自殺者がでて、自殺率は全国・都の平均の3倍だそうです。

 「自殺予防は島づくり対策」であるとして、取り組んでいます。

 自殺の背景には島経済が厳しくなって、働きたくても働く場がないこと、ほかの人に迷惑をかけたくないという気持ちが働くと分析されています。

 八丈島では講師を招いてセミナーを開催したり、相談窓口をつくったりと、さまざまなセーフティーネットをつくっているそうです。

 

 うつ状態になっても、まわりの目が気になり病院に行けないという悩みを聞くことがあります。

 私のまわりでも、島に住む知人の奥さんから「夫が自殺するかもしれない!」と電話をもらい、何度か島に駆けつけたりしたことがあります。

10年くらい頑張りましたが、その人は、今、行方不明です。

 その子どもは、「幸せしゃない」と言うかもしれません。

 

 

 島がよくなるための提案として、

 

1、情報インフラの整備

2、福祉の最も低いところを拾う

3、うつ病対策

 

とあげました。

 

じゃあ、どこから始めるか?

 

お願いしたいのは、公民館や図書館が人の交流の拠点になってほしいということです。島の学校では先生が3年くらいで替わってしまいます。先生は「どうせ、いなくなる人」なのです。そういうなかでの公民館のおじさん、図書館のお兄さん、お姉さんの存在は大きい。

具体的提案としては、誰でも使えるパブリック・パソコンを図書館においていただきたいということです。

誰にも言えないけど、知りたいこと、インターネットで検索できる環境を整えてあげてほしいのです。

 

瀬戸内町の図書館には随分前からパブリック・パソコンがあります。実はあれ、加計呂麻島の人がとても喜んで使っていると聞きました。

島では人間関係が濃いだけに、「そっと、知りたいことを調べたり」辛い時に隠れる日陰が必要なのだと思います。

 

 

出前授業の時のアンケートを5年ぶりに読み返してみました。

「幸せじゃない」と書いた子の事が気になっていたのですが、実はその生徒はこうも書いていたのです。

 

日常生活のなかで幸せを感じる時はという質問に、

 

 「彼女といる時」

 

と、ありました。

 

 島に住む幸せも、都会で頑張る幸せも、簡単ではないかもしれないけれど、人と人の出会いのなかでみつけていきたいものです。

 

ここに63人の写真がありますが、どの顔も、島に住む幸せの瞬間が写っていると思います。

皆さん、本当にいい顔をしています。

 

ひとりひとりが宝もの です。

 

本日は、ありがとうございました。

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11月7日(日)

広島で講演をします。
お出かけください。

第36回 広島県知的障害者福祉大会<三原大会>

時間は、大会開始は9時45分から午後3時30分まで。
河田の講演時間は午前11時から12時まで。

場所 三原市芸術文化センター(ポポロ) ホール

記念講演「お母さんは ここにいるよ」
      脳障害児・夏帆と過ごす日々から

問い合わせ 三原市手をつなぐ育成会
 電話 0848−63−5757

 手をつなぐ育成会というのは、知的障害者の全国組織です。
 その広島大会だけで、500人以上集まるというので驚き。
 知的障害者本人たちも一緒に講演を聞くという試みだそうで、夏帆の写真展の時の写真(16歳まで)と、それ以降23歳になるまでの写真をスライドショーしながら、夏帆がどのように地域で生活してきたかを話そうと思います。 

 18歳以降の課題も含めて、どのように話そうか、考え中。

10月の沖永良部講演と、11月の広島講演が続くのので、その準備に頭のなかが、ごしゃごしゃ状態です

                                10月1日記入

 



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以下は2007年の情報です。


海うさぎの活動を5月20日に開催します。
詳細を載せたいのですが・・・
{PDF]形式のパンフレットをこぴーできず・・・

パソコンスクールに行って習って来ます。

ブログ「海うさぎ」を見てください。
目黒区在住の冒険家・坪井伸吾さんをお招きして「チャリティ講演会」をします。

「アマゾン筏で川下り」話を子どもにもわかりやすく、話してもらいます。



写真展を開催します。

3月30日(金)から4月5日(木)まで (4月2日、月曜、休館)

河田真智子写真展「お母さんは、ここにいるよ」

4月1日(日)午後2時からギャラリートークもします。

場所は、ハーモニーホール座間・ギャラリー
問い合わせ ハーモニーホール座間  電話 046−255−1100です。

案内ハガキです。デザインは本のデザインとともに清水良子さん。



裏面の地図が小さい・・・
ので。


以下は、旅人の集まり「地平線会議」のホームページに掲載してただいたモノをコピーさせていただきました。地平線の丸山さんがやると、こんなに上手く行くのに・・・(丸山さんはITの達人なので)

■河田真智子さんが写真展「お母さんは、ここにいるよ」開催
3月30日〜4月5日。座間市のハーモニーホール座間にて

昨年、毎日新聞社から『お母さんは、ここにいるよ−−脳障害児・夏帆と過ごす日々から−−』を出版した河田真智子さんの写真展が、3月30日[金]〜4月5日[木]に座間市の「ハーモニーホール座間」で開催されることになりました。4月1日には、ギャラリートークもあります。
(月曜日は休館日です)

写真展案内葉書

河田真智子写真展
お母さんは、ここにいるよ

●会場:ハーモニーホール座間・ギャラリー
     小田急線「相武台前駅」より徒歩15分
     http://www.ny.airnet.ne.jp/harmony/

ハーにモーホール座間・地図

●会期:2007年3月30日[金]〜4月5日[木]
    午前10:00〜午後6:00
    (4月2日[月]は休館日)

●ギャラリー・トーク:4月1日[日]午後2:00〜

●主催:(財)座間市スポーツ・文化振興財団

●後援:座間市、座間市写真連盟

●問い合わせ先:ハーモニーホール座間
        〒228-0021 神奈川県座間市緑ヶ丘1-1-2
        TEL 046-255-1100

河田さんのウェブサイト:http://www12.ocn.ne.jp/~match/


こちらの方が断然わかりやすい!

以下は、本のご紹介です。

『お母さんは、ここにいるよ
---脳障害児・夏帆と過ごす日々から----』


毎日新聞社刊 1300円(税込み)




本の前半は夏帆の19年間の成長を写真ストーリーでまとめ、後半は子育てをするなかでのノウハウです。「病気の告知」「主治医との上手なつきあい方」「お母さんの息抜き」「医療費」「制度を使う」「医療的ケア」など、などです。

<本の購入方法>
試験的に、著者からの発送をしてみます。
近くに本屋さんがない、インターネットで申し込むのが面倒という方以下の方法で申し込んでください。河田のサインと写真展の時のハガキなど、ちょっこと「おまけ」も入るのが「ちょっと嬉しい」購入方法です。

本代 1300円(税込み)+送料210円 合計1510円を郵便振替(郵便局で申し込む)でお送りください。3〜4日で入金が確認できます。その後、こちらからお送りします。時々、郵便物が戻ることがありますので、住所は大きくハッキリ書いてくださいね。

写真展の準備が始まりますので、写真展終了まで、著者からの直接購入はおやすみです。
写真展会場でも本は購入できます。

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河田真智子の行動記録ブログ版と作りました。上のヤシの木の絵のところか、文字のところをクリックしてください。ブログに行きます。

河田真智子の行動記録(ブログ版)は毎日更新しています。

ブログ「海うさぎ」は最重度の障害児・者のための応援活動をするネットワークです。
これも、ほぼ、毎日書き込みをしています。


以下、本日のブログの書き込みより。久しぶりの更新です。
ブログの方が書き込みが簡単ですね。毎日書き込みをしています。

2006/06/20

新しい名刺

新しい名刺ができあがってきた。今まで使っていた名刺は「島旅作家・島旅カメラマン」という肩書きが書かれている。「作家」というのは、どうも生意気ではないか?と、40歳を過ぎるまで、自らは名乗らなかった。本を出す時などに編集者が「作家」と書いてくれるので、まあ、いいか。

と、次第になじんで来た。島旅作家として何冊かの本を出し、40歳代は「島起こし」の仕事にも関わってきた。なんとか委員とか、島に関わる国の審議委員などもして、次第に肩書きにも「実績」が積まれていった。

今日できあがってきた名刺の肩書きは「写真家」というもの。
いつも私のプロディーサーとなってくれる清水さんデザインの名刺である。

「写真家」というのは、偉そうすぎないか?
と清水さんが言う。「カメラマン」と名乗ったら、ストロボ撮影を含めて何でも撮れないといけない。フォトグラファーというのは、ちょっと報道カメラマンっぽいけど地方の人や、お年寄りやに「日本語で言ってくれ!」と言われそうな気がする。それで、「写真家」というのは食えなくても、自分の作品をコツコツと撮り続ける人のこともさすらしい。これならぴったりだ。

しかし、清水さんの名刺のデザインは何とも素っ気ない。

「写真家」という肩書きは小さく、名前も住所もごくごく「ふつ〜〜〜う」の書体なのである。寂しいというか・・・孤立無援・・・な感じ。一人で戦えよ!と宣告されたような感じだ。
「島旅作家」の方は、トレードマークとしてなつのイラストが入っている。書体もかわいい、にぎやかだ。仲間がいっぱい、応援してくれる人もいっぱいという感じの名刺だ。

島に取材に行く時には、可愛い名刺の方が親しまれるのではないか?やっぱ、島旅作家の方が、喜ばれるのではないか?

イヤイヤ、そんな甘いことを言っていては写真家になんか成れないぞ!と心のなかのもう一人が言う。両方使い分ければいいのだ、ともう一人が言う。ややこしいではないか。ただでさえ、仕事名は旧姓で、なつの母としては本名で、と使い分け、それもすんごく面倒で、河田真智子に統一したはずであった。名刺の使い分けなんて器用なことはできない・・・

しかし、今、河田真智子の名刺の中から「島」を落としていいのか???
イヤ、それを未練と言うのでは?

島の人が言った。
「真智子さんが何やっても大丈夫よ〜〜〜、島が好きなことには変わらないんだから、島からは離れないでしょ〜〜〜〜」
島の人のこの感覚がいいよね。


06年5月7日(日) 切り捨てるもの

昨日、ニコンサロンで開催される写真講評会の見学に行きました。
自分の作品を持ち、ニコンサロンの審査員の先生に見てもらうことができます。
ただし、35歳までの若者枠です。だから36歳以上は見学です。
先生はポートレイトの名士(私が名付けた)大島洋先生。
写真は撮る力も大切だけれど、展示するためにまとめる力も大切。まとめるためには、何かを切り捨てなくては(他の人が見る時に)わからない。

人間、自分の持っているものを「切り捨てる」ということはなかなかできないものです。
しかし、どちらかを捨てなくては、両方が薄まってしまうのです。
と同時に、何もかも自分でやる必要はない、写真のセレクトが苦手だったら友達にアドバイスをもらう、プリントが下手だったらプロに依頼する、大切なことは「自分が何が苦手かを知っていること」助けてもらう力も才能の一つ。

大島洋という写真家は、学生の頃にトカラ列島に行き、撮った写真を次の旅で島の民家の塀に展示す写真展をし、写っている人持って行ってください、ということをしたかたです。
30年以上も前のトカラ列島に行くことは簡単ではなかったですよね。

「島にきて、多くの写真を撮って行ってくれるけれど、その写真をみせてくれるカメラマンがいない」と言った、沖永良部島の公民館長さんの言葉を受けて、ぶるーぷ・あいらんだあでは沖永良部島で写真展をしたことがあります。
それを、一人の写真家としてしてきた人がいると知り、感銘を受けました。

まとめるためには、あるいは表現するためには、伝えるためには切り捨てなければわかりにくいという話です。


06年4月22日(土) いろいろなことがひと段落→ダウン

この3年、片道1時間半かかる養護学校に通い、2回の入院がありました。
無事、高校を卒業し、医療的ケアを必要としない状態で、近くの通所デイケアに通うこと、これが大きな登竜門でした。
さらに、このことを最優先したために、断った仕事や断れないけれど、あとにしてもらった仕事ややりたいけれど我慢した仕事や、いろんなことがたまっていました。
健康管理にしても数年前から行かなければならない検査にもまだ行けてない状態で、今年はメンテナンスの年として、のんびり、行こう・・・

などと「表向きは」(表向きはと言うのは世間に対してではなく自分自身に対してです)、そう思っていたのですが、実際は貧乏性にも3つのことを同時進行でいました。

1,夏帆のこと
2,本の出版の準備
3,「海うさぎ」の立ち上げ

どれもこれも、おおよそめどが立ち、3年分の疲れがど〜〜〜と、きました。
しかもアポの入ってない、今週の後半です。
声帯ポリープで入院するはずだった空白の3日間、ホテルのような病室ではなくいつもの和室でぼ〜〜としていたのです。はあ〜〜^
やっと元気になってきたら、待っているのは夏帆の介護で、夫は会社に行きました。


お知らせです。

6月20日発売の『DAYS JAPAN』誌で夏帆の写真が12ページ特集で紹介されます。
これはドキュメンタリーの写真を撮る者にとっては「びっくり」で写真に関係ない人はへえ〜〜という程度の話です。
この雑誌は、本当の意味での、あるいはありのままの報道を求め創刊された雑誌です。

そこに12ページも(12ページというのは一人の作者で1回で掲載する最多ページ数だそうです)掲載されるのは、どういうことなのか・・・・
それは嬉しいとか、すごいでしょ、とかではなく何を求められているのか?
考えてしまいます。
ここにこんな障害児かいます、かわいいでしょ、こんなに豊かに育ってきました。いろんなところに旅行もしたし、七五三には着物も着ていいでしょ、と言うだけではない何かを伝えるために夏帆はメッセンジャーとなって登場するのだと思います。
夏帆は読者に何を言いたいのか?
私はそれを代わりに伝えられるか?

この3日間、ぼ〜〜としながら感じたこと。
『何かが、終わる」

(ここで、夏帆があ〜〜 口の中の痰をとってあげました)

いつもだったら「何かが始まる」と思うはずです。
でも、今回は自分が何かを捨てる予感がするのです。
それが、ちょっと怖い。
終わるのは「過去」かもしれないし、持っているものの何か、一つの項目かもしれない。
いくつものことをやってはいけないと、ずっと思ってきたはずなのに、仕事は増えています。
もうそろそろ肩書きを捨ててもいいようにも思えます。



06年4月5日(水) 新社会人

娘が月曜日から近くのデイサービス通所施設に通い始めました。
18歳の新・社会人です。
家のすぐ近くまでお迎えのバスがきてくれます。
巡回バスのため「行き」は所要5分、「帰り」は55分、合計1時間の往復時間になります。
養護学校へは片道1時間半かかっていましたので、楽になります。
それでも何事も最初の信頼関係をつくることが大切ですので、月曜、火曜と付き添いです。
今日水曜日は病院の定期診察で、明日はリハビリです。
「いつ、仕事をするんだあ〜〜〜?」
そろそろ、です。

でも、ありがたいことに、フリーランスなので、仕事をしてないようでいて、原稿を書くことはできるのです。

『島へ。』5月号が今、書店に並んでいるはずです。
カラー4ページで沖永良部島を紹介しています。
ご覧ください。
06年4月5日(水) 新社会人

娘が月曜日から近くのデイサービス通所施設に通い始めました。
18歳の新・社会人です。
家のすぐ近くまでお迎えのバスがきてくれます。
巡回バスのため「行き」は所要5分、「帰り」は55分、合計1時間の往復時間になります。
養護学校へは片道1時間半かかっていましたので、楽になります。
それでも何事も最初の信頼関係をつくることが大切ですので、月曜、火曜と付き添いです。
今日水曜日は病院の定期診察で、明日はリハビリです。
「いつ、仕事をするんだあ〜〜〜?」
そろそろ、です。

でも、ありがたいことに、フリーランスなので、仕事をしてないようでいて、原稿を書くことはできるのです。

『島へ。』5月号が今、書店に並んでいるはずです。
カラー4ページで沖永良部島を紹介しています。
ご覧ください。


06年3月29日(水) 声帯ポリープの手術延期

4月に声帯ポリープの手術を予定していました。
生まれて初めての手術です。しかも全身麻酔。
だから、術後どの程度オフ期間が必要かつかめず、仕事の約束もできないぞと思っていました。卒業後に通うデイケアも最初の間は付き添いだろうか・・・?
などと考えておりました。
そしたら、両方の声帯にできていたポリープの片方が自然消滅していました。
とりあえず、手術は延期です。
様子をみて経過がよければ手術は中止です。
ポリープは一度できてしまうと手術以外に方法はないと聞いていましたが・・・・
滅多にない幸運がやってきました。

かかっているドクターは、この手術の第一人者です。
とってもいい先生です。
何事も、開拓者には開拓者の風格のような空気があって素敵です。
いい先生との出会いの多いことを幸運だと思っています。

何かが一段落してくると、また、写真の虫がもぞもぞと動き出します。
撮影にも行きたいし、写真展もやりたい。
写真展は簡単ではありませんが、また審査に応募する準備を始めましょう。


06年3月23日(木) 卒業式パワーショット

卒業式の日の写真の現像があがりました。
2台のカメラを用意して、7本のフィルムを使いました。
この18歳の卒業の区切りまではフィルム撮影にこだわりました。デジタルは使用せず。
(今後はデジタルを導入のつもりです)
卒業予行演習の日に、感度の高いフィルムでテスト撮影をしてみました。
体育館のなかは映像を流すために黒幕カーテンが引かれていて暗いのです。
フィルムの感度を上げてもストロボの届く範囲は10メートルくらい。

さて、当日訪問着を着用の母親である私と、一眼レフカメラを2台持つカメラマンである私はミスマッチです。夏帆の育ての母でもある友人が撮影のヘルプをしてくれました。

それぞれの子が卒業証書を受け取るパワーショットのチャンスは一瞬です。
それぞれの子どもの動き、顔を向ける方向の癖など写真のポジションは変わります。
さらに母親が高い位置に昇ることも「式」ですから不可です。
壇上には撮影係の先生がいましたが、朝、他の先生にカメラを渡されて、オートで撮ってくださいと指示されているのを聞いてしまいました。ということは自分のカメラでを持たないカメラマンが壇上にいるわけで・・・・

証書を受け取るところは壇上からのポジションがベストのはずです。
(だから、その写真のなかに壇の下にいる私が入り込まないように隠れます。これはカメラマン同士の言葉なき仁義の様なものです)
でも、顔を右に向ける癖のある夏帆ともう一人の子は、そちら側からでは顔がしっかり写らないぞ・・・ 壇上のカメラマンは自分の立った位置を動かない。学校の先生ですから当然ですが、カメラマンとしては当然ですが素人です。
じゃあ、私が玄人かと言うと、この場合も素人です。母親ですから。
(でも、それぞれの子のパワーショットはこちらが撮らなくてはいけないな・・・とその時、思いました)
証書を受け取ったあと、子どもは参列者の方を向き、証書を見せてくれます。
このときがチャンスです。しかもクラス担任の先生には少しゆっくり動いてもらようにお願いしました。ストロボの充電時間も欲しいのです。その動きをゆっくりしてくれればシャッターチャンスは2回ありそうです。
ところが、壇上のカメラマンは「その位置に」立ったまま・・・
「どけよな!」
と、心のなかはカメラマンと化して、言葉には出さずに怒鳴っています。

「真智子さん、写真撮るのはなっちゃんだけにして、卒業式味わったら?」
と、後輩に言われました。
「どうせ、自分の子より人の子を一生懸命撮るんでしょう」
と。

どの子にも一度しかない卒業式。
至近距離まで近づいて撮ってくれた先生の写真がベストショットである事を願います。

さて、我が娘の夏帆はというと。
朝、5時半に起きて、「みんな、早くおきろ〜〜」とハイテンションです。
卒業式が始まる頃には眠りはじめ・・・・
どんなに頑張って撮ったって、眠ってるんじゃああねえ・・・
ところが、先生が言うには証書をもらう時だけ眼を開けていたというのです。
そして、写真の中の夏帆をルーペでじいい〜〜と見ると。
「なっちゃん、偉い!」
パワーショットの時だけ眼を開けて、決まり!です。

最後の卒業式を迎えた母親の気持ちってどんなものなのだろう・・・
画像は思い出せますが、ほぼ、音のない世界でした。
自分がカメラになっている感覚です。
だから、今日写真を見てやっと、卒業式があり、そこに参加していた自分を確認しました。

「真智子さん、カメラマンになってたね!」
と撮影を手伝ってくれた友人にいわれました。
やはり、私は写真を撮るのが好きです。
撮ることも母親の愛情表現の一つです。


06年3月22日(水)  無事、卒業


娘の卒業を無事迎えることができました。
「ほっ・・・」
何しろ、1週間前に「気管支炎!」になったので、入院になるか?
卒業式までに治るか?
「ハラハラ、ドキドキ」
でした。
いつものことながら、大人の気持ちを盛り上げてくれます。
毎晩、夜中3時に目覚まし時計をかけ、吸引したり・・・などなど。
家来は懸命の介護を尽くし、本人は、
「やっぱり・・・」
午前中の体育館行事は眠っていました。
でも証書と受け取る時は、眼をあけていたということでした。

今度は社会人として近くの「デイケア」に通います。

はあ〜〜〜
いそがしい〜〜〜

06年3月19日(日) 明日は卒業式

袴を履き、母親も訪問着を着て、また、夏帆の卒業式の姿を見に来てくれる人が、浜松からも含めて8人です。浜松から来る人は学生ボランティアをしていたお姉さん。
キャンセルは昨日までには伝えたい。
卒業式は朝、早いし、月曜日なので、私の方からのお誘いは特になしでした。
まあ、学校行事でもあるし。
来てくれる人は「親戚」ということで。
血のつながる親戚よりも、夏帆を抱っこしてくれた回数の圧倒的に多い「育ての親たち」です。
だから明日は絶対「出席!」
の構えです。
東京地方は今日は曇り、昨日は夕方雨でした。
痰がごろごろしています。
それに、左のほっぺがこすれて真っ赤。
いつもの姿勢で眠れず、本人も辛そう。
私も夜中に目覚ましをかけて、起きて、夏帆チェックをしています。


06年3月13日(月) 卒業式まであと1週間  それなのに・・


娘の夏帆の高校卒業です。
障害のある子の多くは高校を卒業すると「社会人」になります。
だから、高校卒業式は「成人式」以上に大きな意味を持ち、区切りでもあります。
成人式以上におしゃれもさせてあげたい。
と親たちは、あれやこれや用意をします。
家の場合は、とにかく「無事、卒業!」
が最大目標で半年前からその「目標」に向けて頑張ってきました。
週に1回訪問看護師さんにもきてもらい「予防医学」につとめ、
親は感染予防に毎日マスクをして出かけ、
夏帆自身も病院の定期診察には行かず、病気の子からの感染を防いできました。
インフルエンザの予防接種はもちろんのこと、
夏帆の通う養護学校では「インフルエンザ」発症生徒がゼロという快挙です。

先生方もホントに気をつけ、気をつけ卒業に備えました。
この1月、クラスメイトが風邪気味と学校をお休みした翌日に亡くなってしまったこともあり、
親の緊張感は高まるばかりでした。

そう・・・それなのに、なのです。
昨日の大風、花粉舞い散る辛い日の翌日である今朝、
「夏帆、熱」
です。
熱だけならば、あっさり下がるのですが。
呼吸音がひゅ〜〜
喘息っぽい音。
大学病院を受診するか?
でも喘息なのに、インフルエンザをもらってきたら卒業式はアウトです。
月曜日は主治医の先生がいない・・・

やや、近いクリニックに。
「気管支炎、ですね」
と、説明を受けまして。
「最低3日は学校休ませた方がいいですよね」
と、母。
「そうですね」
この辺になると、本人の病気の成り行き次第とはわかっていても、取り引きのような質問になってしまいます。
「先生、来週の月曜日、卒業式なんです」
先生の返事は、
「出たい、ですよねえ」

う〜〜〜〜〜
微妙だあ〜〜〜
この返事。

温かくなって、仕事もオン・シーズンです。
こんな日に限って新しい仕事の依頼が入る。
〜月号でよろしいですね、と伸ばし伸ばしになっていた仕事の確認の電話が入る。
沖永良部島から原稿チェックの電話が入る。
奄美大島から、新しい情報FAXが入る。

1週間後の卒業式、今週は学校を全日休ませて、「本番」に賭けてみます。
本番に強い夏帆、袴をはいての卒業証書、自分で受け取れるか・・・
応援してください。



06年3月6日(月)「春の風」

今日の温かな風。
東京で春一番ですね。
天気予報の発表で、今日のが春一番と言ったあとにもっと強い風が吹いて、「春一番情報」を訂正したりすることがあるけれど、私の言う「春一番」は、心のなかで感じる「旅の風」です。
風の中を歩いて、春の匂いを感じ、旅立ちたいと思う、心のざわめきを言います。

さあ、シーズン入りです。
今まで、インフルエンザを家庭のなかに持ち込んではならぬと、唯一の映画さえガマンの冬でしたから。
島に行きたくなりました。
沖永良部島の原稿を書いていて、島の人に電話をするたび、「今度はいつ来るの?」と、聞かれます。
ありがたく、嬉しいです。


06年3月5日(日) 「アイリッシュバー」

きのう、雑誌の編集者が休日出勤してくれて、自宅まで来てくれました。ページ構成などを写真を見ながら相談。この頃の仕事は原稿も写真もメールで送っておしまい・簡単が多いのですがやる気のある編集者とは会うに限ります。
打ち合わせのあと、自由ヶ丘に繰り出し、アイリッシュバーに行きました。
自由ヶ丘は地元なのでいくつかの「お勧め」はあるのですが、せっかくだから新規開拓です。
ヘルパーさんに教えてもらったお店を覗き、いい感じ!
でも、ホームページででみつけたアイリッシュバーに行きました。
それで、意外のも「もどき」ではなく、アイリシュっぽかったのです。
まず、窓辺にアイリッシュらしき、初老のおじさんが座ってビールを飲んでました。
その景色が何ともよくて入るました。
私たちが行ったのは早い時間だったらしく、10時を過ぎるとバーのカウンターには若者が大勢並んでビールを注文しています。その場でお金を払って、もあちら方式です。
立って飲んでいる人もいます。アイリッシュっぽい!
私たちもたくさん飲んで、たくさん食べて来ました。

最重度の障害を持つ子のお母さんとこの日、電話で話したことも「アイリッシュ!」
だったのです。
その呼吸器をつけたこのお姉さんが今大学一年生、学校の伝統で、毎年先生が生徒を連れてアイルランドに行くのだそうです。約1ヶ月の旅の半分はホームスティをするのだとか。
障害のある兄弟に莫大な医療費がかかるので、旅費を親に頼るわけにはいかないのです。
彼女はアルバイトをして、その旅に参加したそうです。

アイルランドもスコットランドも大好きな国です。
アイルランドのアラン島に渡った旅を思い出します。

アラン諸島は三つの島からなるフィッシャーマンセーターの発祥地と言われます。
石でできた島で、土さえも深い地中から掘り起こさなくてはならなかった。
その地は本当に荒涼としています。離婚を決意した女性が一人旅をしていて同じ宿の泊まり合わせました。民宿の奥さんが若い彼女の話の聞き役をしています。

私はそんな時、こんな寒い厳しい島に旅すると心がもっと辛くなりませんかと聞いてみました。
島を一人で歩いていると、その荒涼とした景色が自分の心のなかと一致しているので落ち着くと言っていました。
私もその風景のなかを歩き、悲しみは決して「マイナス」な感情ではない、と感じました。
それ以前にスコットランドの島々を歩いた時に霧にかかった北の島の美しさのなかで「悲しみは美しい」と感じていました。

寒い時期には北の島への旅もいいものです。




06年3月1日(水)「風立ちぬ」

3月、そろそろ「春一番」が吹く頃です。
毎日、この風が春一番かな?
と思いながら春を確かめる日々、それが子どもが生まれる前の習慣だったように思えます。
花粉症が発症して3回目の春、風が吹くのは迷惑のような気持ちになってしまいます。

娘の夏帆も花粉症のようで、訪問看護師さんに鼻水などの分泌物が多い日は、そのことによる「窒息死」に注意してください、と言われ。
風を楽しむ余裕もない日々です。
でも、とりあえず、この冬は元気いっぱいに過ごし、越冬できそうです。
入院のない日々も2年になりますから、厳しい時期を越えてくれた感もあります。

この2年、島の仕事は優先できず、子どもの体調を最優先に過ごす日々を送ってきました。
でも、それも楽しいですよ。

いま、島の原稿を書いていますが、若い頃のような取材の仕方ではなく、
何か一つのことを書いても時間の積み重ねによる島の人の生活の「歴史」のような部分に触れながら原稿を書けるようになってきたので、すごく充実しています。

経験の浅い頃はやはり、その時見えることばかり書いていたように思います。
今は、どの年齢の人のことも書けて、すごく楽しい。
子どもがいるから書けることもあって、それもいい感じ。
文章がうまいとか下手とかそういうことではなく、こういうことを伝えると島に住む人に喜んでもらえるかなと考えながら書いています。

もうすぐ、娘の高校卒業。
当日は私が訪問着を自分で着て、娘も袴です。
大きな一区切りです。

2006年2月22日(水)「忙しい」

美学として、「忙しい」という言葉は極力使わない。
書くのも2回目くらいかもしれない。
20年で2回くらい書いたかもの確率です。
実は、原稿を書いている。
まだ企画も通ってない原稿を書いている。
書かねばならぬ・・・
きのうなど、歯医者さんの治療台に座ったまま、
「先生、すいません」
と、メモを出して原稿を書いてしまった。ことばが来てくれた時にメモしておかなくては・・・
書かねばならぬ締め切りは4月、生まれて初めて小さな手術を受けることになっていて、
それが大きな手術になる可能性だってあるわけで。
それまで1冊分。
さて、その原稿書きはまだ、非公式なもの。
本来は冬バージョンの冬眠生活の「ひま〜〜」な時期ではあるが、
雑誌の島原稿をカラー4ページ作らなくてはならぬ。
写真雑誌に出す、写真の準備がある。
それより何より、娘の卒業式に向けて、この1ヶ月は母親に徹したい。
今日は、着物の着付け練習に行く。
明日は学校の保護者会。
あさってはお客様が来て、着物の準備。

翌日は、区役所にも行かなくては。イヤ、土曜日は区役所がやってない。
月曜日は学校の校医の診察、
区役所はいつ行けば良いだろう?

「いつ? 原稿を書くのだ?」

昨日、あいらんだあの編集作業が校了したところ。
いつ、パソコンの前に座れるのだ?

今だ!今、
「仕事、します!」




2006年2月14日(火) 「風立ちぬ」

私の仕事は季節商売で、「夏」と「冬」に分かれます。
オン・シーズンの夏は3月から10月くらいで、残りは冬眠の冬です。
冬には冬で、冬バージョンの作業がいろいろあります。
3月1日になると、「さあ、今年もはじまるぞ〜」
という感じなのですが。
今年は休みます!
と年賀状に書いたこの冬、すでに忙しく、その流れに水をかけているのですが。
3月1日のシーズン入りを待たず、昨日スイッチを切り替えました。
娘の卒業と、障害児を取り巻く制度の変換、4月からの自立支援法。
そういえば確定申告もあった、あいらんだあの発行も。
難しくはないのですが、物理的に時間のかかる作業がたくさんです。

ゆっくり「お母さんモード」から、スイッチ、ぱっきり。
「河田真智子モード」に切り替わりました。

まだ寒いし、インフルエンザも怖いし。
「なっちゃん、今年はもうインフルエンザ、なしよ」


2006年2月7日(火) 「鹿児島帰り」

 今、鹿児島から戻ったところです。
今回は鹿児島だけの滞在3泊4日でした。
1日目 鹿児島大学多島圏センターのシンポジウムを聴講
2日目 鹿児島大学で別の会が主宰する太平洋の「ツバル」のシンポジウムがあることを知り、聴講。
3日目 これが本来の用事で、県庁で行われる県政100人委員会に出席。
    2年任期の最後の会議のため、夜は懇親会があり、
4日目の朝の便で東京に戻った訳です。

夏帆は土日は父と過ごし、
月曜日は、放課後いつもはヘルパーさんなしなのだけれど、
お願いして。
そして、今日火曜日はヘルパーさんのお迎えの時間までの戻るというのが旅の裏側の日程です。

本で読んだり、知識として知っていたことや、その発祥となる人、その本人に東京ではなく「鹿児島で」会うことができました。
鹿児島は島の「センター」かもしれないと感じましたし、島の活動をしたいなあと、心の底の方にたまっているマグマがぐらぐら煮えてきました。
太平洋の島々にも行きたいなあ。


次号の「あいらんだあ」に鹿児島大学の長嶋先生に原稿を書いていただきました。
その長嶋先生が議長のシンポジウム、久しぶりに「すっごくおもしろかった!」
話が深いところまでつっこんでくれたし、それぞれ立場の違う人、科学者、研究者、ジャーナリストが真摯に本音を語っていました。
久しぶりに、と言うのは5年に一回くらいの確率です。
「勉強する」楽しさ、勉強するために鹿児島に行く、ってそういう旅、いいなあ。

と、思ったのでした。

尻切れトンボですが、資料をホテルから送った小包に入れてしまったので、詳細はまた描き込みます。
この頃、自由時間を使って、鹿児島でショッピングを楽しみ、荷物は送り、手ぶらで帰ってきます。
今回は、屋久島の工芸品(数珠)、お葬式があると行けないので、と、屋久島の染め物、種子島の包丁を買ったのです。(主婦!)



2006年1月26日(木)「夏帆は元気」

 冬モードなのに「なんでこんなに忙しいのだろう」
 油断はならぬ、忙しくしてはならぬ。
 昨年の秋から週に1回訪問看護師さんにきてもらい夏帆の健康管理をしてもらっています。親では気がつかないこともプロの目で気をつけてもらっています。
 日常生活をいくら気をつけても空気感染のインフルエンザは防ぎきれない「運」頼り部分もあります。
 インフルエンザ→入院→一気に悪化
ということはあり得るからです。

 先々週夏帆のクラスメイトが「風邪気味〜」で学校を休んだ翌日突然亡くなりました。子どもの葬儀に参列するのは本当に辛い。
 柩の中の遺体はカサが少なすぎて(やせているのです)花を入れても入れても隙間があって・・・最後は葬儀屋さんがバケツで入れるかのごとくガサッとピンクや白、黄色の花を柩の中に入れていました。
 子どもの葬儀に行くたびに柩の中の子どもの顔に娘の顔が重なります。
 「次はうちの番なのだろうか・・・」
 同じ学年の子が9人いたのが、18歳までに3人が亡くなっています。

 仕事は入れない予定の冬がなんでこんなに忙しいのだ?
 ちょっと油断すると仕事は芋ツル式に増えます。

 垂見健吾さんの写真展は2会場とも拝見しました。
 私は垂見さんの写真が大好きです。特に人物写真が。人を「いとおしい」と思える心がなければああいう写真は撮れない。
 写真もそうですが、人をいとおしいと思える文章を書きたいと思います。

 島というテーマをいとおしいと思い、島の人をいとおしいと思い・・・
 そうすると「私にできることをしよう」と思う仕事が増えて行きます。

 昨夜は鹿児島県の夕べというパーティがあり、大島紬を着て行きました。
 久しぶりに着たので帯び結びに大パニック。
 会場で着物を着ている人をみつけて、「お助けを〜〜〜」
 天文館の飲み屋のママ(着物プロ)が帯をなおしてくれました。
 そして、「いいですよ、上手に着れてますよ」と、言いながら帯をうまいことなおしてくれました。こういうことが嬉しいです。

 私たちは都会で、そこは競争世界で仕事をしていると、「評価」という基準の中で生きることが日常になってしまいます。
 それは能力や出来高の評価であることが多い。

 そして、ときどきはっとして立ち止まり考えます。
「今、最も大切なことは何だろう・・・」
 評価よりも大切なものがある。
 この冬、最も大切なことは夏帆の命を守ること。

 あっちこっちでいくつもふくらみかかっている新しい企画に少し水をかけなくては。
 来週は鹿児島です。今回は3泊4日で自由時間がたっぷり。鹿児島大学のシンポジウムは太平洋の島が温暖化で聴講するのを楽しみです。前回はパネラーでしたが、なんといっても観客の方が楽しいです。
 県庁での100人委員会も最後の会議になりました。島の振興がテーマです。
 沖永良部島での「出前授業」の報告は「島へ。」に書きました。もうすぐ発売かと思います。次の号でもエラブ紹介をカラーでします。

 では。


2006年元旦 「一年の計」


2006年
あけましておめでとうございます。

昨年より、年賀状という形ではなく、2005→2006というような形の挨拶状を出しています。
何故かというと、数が多いのです。
12月に入ってから、「喪中」がでて、やり直し〜〜という年があって、大変だった。
それで、去年は写真展にきてくださった方にも「お礼状」と思ってハガキを出したのです。まあ、よい頃合いに届くようなタイミングで。
ところが親切な郵便局が、途中まで「年賀」の印を押してくれたり。
目黒郵便局からも電話があって、「年内に」届いてしまってもいいんですか?

無事に年を越せる保障のない我が家です。

2005年、12月31日、紅白歌合戦の途中です。
夏帆に食べさせた「温泉卵」が悪かったようで、誤飲したのか急に痰が多くなり目が離せなくなりました。少し落ち着いて夕食を食べたのですが、そのあと大量に吐いた。
私が別室にいて・・・夏帆の顔にも髪にも、吐いたものがべっとり。
「大晦日に救急外来に行くなんてイヤだなあ。入院もイヤだ〜〜
それから本人も「怖くて」夜中に何度も泣きます。
元旦に救急外来に行くのもイヤだあ。
寝ずの番になります。

でも、それから24時間後の夏帆は元気です。
温泉卵の形状がよくなかったのでしょう。
体力のない子なら誤飲して、そのまま肺炎になって・・・
そうすると入院です。
ところが、痰をたくさん出して、自力で誤飲を防ぎ、
また、腹筋力がすごいので、胃のなかのねばねばを吐いて、本人はすっきりしたようです。

元旦早々、我が家は洗濯物の山、掃除の日になりました。

今年の一年の計は「元気が何より」です。

そして、仕事も地味に充実しそうで、ありがたいと思っています。


05年12月5日(月) 鹿児島大学に行ってきました。

「国際的な文化発信と奄美・沖縄」というシンポジウムがあり、パネラーをしてきました。
これは鹿児島大学の法文学部が「島嶼開発のグランドデザイン」という研究を3年かけて続けてきたものの最終報告になるそうです。
要するに、鹿児島の奄美諸島に関してみんなで考えよう!
ということで、私は、
「みなさん、奄美の島々にお出かけください」
と、話してきました。
普段は数字に疎いわたしですが、この間新聞に奄美大島に3回回、と書かれ。
「それは、違う、夏帆が3回なのです。」
数えてみたら、
奄美大島が24回
沖永良部島が21回
奄美諸島全部で合計60回くらい訪ねている。

だから、奄美に関する集まりがあると、体験談、その体験から見えることならば話せると思う。
、でも声帯ポリープの問題があるから、今後は「書く仕事」に移行しようかと思います。
(原稿を書くのはすんごい嫌いなんですけど、本音は)


「奄美の旅その7 次はどこ行くの?」

旅を夏帆自身はどう感じたのだろう?
2泊3日の帰りの空港には、一緒に海に入ってくれた渡辺さんと、着物を着せてくれた愛子さんが見送りにきてくれた。
渡辺さんはいつも一緒にいてくれるので、夏帆は「この人を頼っていれば大丈夫」とわかっているようだ。渡辺さんが、
「海に入ったらすっきりした顔していますね」
と、言った。
私もそう思っていた。
夏帆は調子が出てきた感じで、飛行機に乗って、
「次はどこにいくの〜〜〜?」
という雰囲気だ。
旅が楽しくなって、乗ってきたところで帰るというが、夏帆にはわからない。


夏帆の日常は、母親が仕事をしているため、3人が同時に休日になるということが少ない。以前は日曜日が休日だったけれど、お父さんは「日曜出勤」になってしまった。
だから、3人そろって出かけるといえば、「病院」「リハビリ」などのイヤなところに行くのが定番になっている。

だから、夏帆にとっての旅は家族がずっと一緒にいること、という定義みたい。

そしてもう18歳だから、家族だけではつまらない。お父さんもお母さんもいて、お兄さんとかお姉さんとか、他の友達とかがいるのが最高だ。

旅はいろんなことを実現してくれる。
夏帆は学校に行くのも好きだけれど、未知の地に旅するのも好きなようだ。
去年は入院して心配したけれど、旅をしてみるとたくましく育ってくれたなあと思える。


05年11月29日(火) 「奄美の旅 その6 海へ」

旅の大きな望みがもう一つありました。
夏帆は海に入ったことがないのです。南の島への旅は、水分摂取の苦手なえんげ(飲み込むこと)障害のある人にとっては大変なことです。
スプーンで一口ずつ水分をとる速度よりも、それが汗で出てしまうスピードの方が速いので「脱水症状」になりやすいのです。
だから、季節を選んで旅をします。
秋、がベストですが、国内の南の島へ行こうとおもうと台風シーズンともぶつかります。
夏帆が5歳の時に私と二人だけで奄美大島、加計呂麻島まで1週間の旅をしましたが、その時は11月上旬でした。この時期はベストです。今回は神社にも行きたいので、11月14日〜16日という日程でした。
でもこの時期は海辺で水遊びをする程度で、体をすっぽり海の中まで入れるのは無理でした。
一度、海の中で泳がせたいと思っていたのです。
ダイビングサービスの「フリッパー」の渡辺さんの力を借りて実現しました。


以下は渡辺さんのホームページへの書き込みです。

なつほの体験ダイビング  投稿者: 河田真智子  投稿日:11月19日(土)09時36分5秒

まっすぐ伸ばせない左足にウエットスーツを1センチずつずらせながら着せるところから始まった「なつほの体験ダイビング」お世話になりました。
背が立つところで抱っこしてもらい、「海に入る」というだけのことが、重度の障害を持つ、しかも去年の入院では「もう死ぬかも?」とまで思わせた18歳の少女にとっては「大冒険」でした。
そして、海に入ったなつほは、まるで一皮むけたように「すっきり」とした顔になりました。海の力は大きいです。
ありがとうございます。

なつほの意思表示  投稿者: 河田真智子  投稿日:11月22日(火)09時01分24秒

  夏帆はやせすぎていて、私たちはウエットスーツを着て寒くなかったし、夏帆にもウエットスーツを着せたのでOKかと思ったのですが、ブーツを履かせなかったことと、あまりにやせすぎているので、スーツの中に水ががぼがぼ入って寒かったようです。
  寒くても「言葉を持たない」夏帆は、寒いとはいわずにだんだん両手を胸の前に持って行き、震えだしました。
  でも、あ〜〜〜と声を出して文句を言ったり、泣いたりもせずだったのが不思議です。
  水の中にいたのはわずか15分程度と思いますが。
  水温はどのくらいだったでしょうか?

夏帆は旅をするたびに成長します。
家に帰ってきた翌日、「なっちゃん、肌がきれいになったみたい!」この数年原因のつかめない湿疹に悩まされてきましたが、きれいになったのです。
アトピー皮膚炎に海の風がいいとは聞いていましたが。
皮膚科の先生に写真を見せてお話したら、
「ホント、きれいになったわねえ。また、この海に行くといいわねえ」
と、言われ、お父さんはぎょっとした顔。
(そんなこと言われたらお母さんが本気にする・・・)

近所の薬局で「にがり」を買ってきてお風呂に入れていますが、やっぱり奄美の海水でないと効かないような気もします。


05年11月28日8月)「奄美の旅 その5 夏帆神社へ」

夏帆をどこかに連れてゆく場合必ず下見をします。旅先でおこる「旅のハプニング」は元気な人にとっては「楽しい思い出」にもなりますが、夏帆にとっては取り返しのつかない「大きなリスク」になりかねないからです。
旅は楽しいもの、旅が苦行になってはならない、と「夏帆の旅」に関しては思っています。

今年1月、高千穂神社に下見に行きました。
神社もお寺も階段だらけで、最後の最もいいところの手前で「車椅子には無理」というところが多いのです。
神主の當郷さんが言いました。
「ごらんください、そういう方にもきていただけるように、スロープにしました」

神社の本堂まで、完全バリアフリーです。
見た目の問題もあって、本堂までバリアフリーにするところは少ない、というのが日頃の印象です。
「きていただくと、思わず、力が入ってしまいます〜〜^」
と、當郷さんにニコニコされて、何とか旅を実現させたいと思いました。

未知の地を目指すのも「旅」ですが、
待っていてくれるであろう地に「還る」のもまた「旅」だと思います。

実は、今回の神社、是非写真を撮りたいと思っていました。
奄美諸島をフィールドにした写真展を将来やりたいと思っているし、
夏帆のメイン場面を是非、撮っておきたいので、大荷物にもかかわらず、仕事用の一眼レフカメラも持って行ったのです。
七五三の人たちと夏帆の厄払いは一緒かな?
位に思っていて、私はカメラマンになろう、と。
當郷さんに「写真、撮ってもいいですか?」
と、訪ねました。
本堂のなかは神様がいるのでダメな場合もあります。
(神様に向けてカメラを向けてはいけないことも多いです)

當郷さんが言いました。
「河田さんには、写真を撮るのではなくお母さんとして、参加していただきたいです」
そう言う當郷さんの顔は、自分も子を持つ「お父さん」の顔でした。
(神様が言っている・・・・)
と思いました。
大切なことを言われているぞ、と思いました。
カメラを友人に渡しました。

お祓いは七五三の人と一緒ではなく、夏帆の家族だけでした。(夏帆の隣に私が座らなくてはダメです)
七五三に人たちには年輩の神主さんがお祓いしていましたが、夏帆のお祓いは若い當郷さんがしてくれました。

お祓いは儀式の順番にそって執り行われます。
執り行われたあとに、神主さんが感想のような「お言葉」を言うのです。
今までの生活のなかで、そんな体験は初めて・・・
「このたびは・・・・と、はじまり、河田さんのホームページをチェックしましたところ、声帯ポリープがあるとのことくれぐれも気をつけて。また、写真などお送りいただきありがたく・・・今後ともみなさま体に気をつけ・・・」
と、いう感じで神様もインターネットのスピードで人間界を見渡していることに驚きました。

取材者の目である以前にお母さんの目で夏帆を見て欲しい、これはこれから夏帆を守って行くための大切な言葉です。
霊験あらたかな厄払いになりました。



05年11月26日(土) 「奄美の旅 その4 19歳の厄落とし」

 旅の二日目の午後、名瀬の高千穂神社に行きます。
 日常の夏帆は、朝早く起きてお昼前後に一度眠り、夕方から夜にかけて絶好調になってきます。これには毎日のリズムがそうなわけで、高校の3年間は朝は暗いうちから起きて学校に行くわけです。夜はお父さんにあわせて遅くまで起きています。
 なので、午前中は寝かせておかないと、神社にいる間中眠っていたのではつまらないので先に寝かせておこうというわけです。
 ばしゃ山のホテルは2階建てで、プールを囲んだ配置です。
 私たちの泊まった一番海側の部屋は、海に向かって窓が3個もあり、夜は海辺に眠っている気分です。
 お父さんは夏帆につきあって、午前中はベッドの上で読書。
 私は、夏帆の食事の食器洗い、荷物の片づけ、出かける用意、です。
 夫に言わせると、旅に出ると超主婦的に片づけの好きな母親になるというのです。
 とんでもない。いつもこうだけど、毎日「超主婦的」になったら、仕事はできなくなります。
 が、荷物の整理をしたり、片づけたり、がホントは好きなのです。「旅」という時間のなかでは持参した「全財産は少ない訳で」それを、使いやすくパッキングしたりするのは楽しいのです。


 今回は、いつのも荷物に加えて夏帆の着物一式、大人もジャケット持参で、靴もキチンと、です。やはり、神様のいるところにラフなスタイルで行くのは失礼なことです。
 特に、奄美では自然の神様に対する敬意を持つことが大切にされています。

 よって、荷物が多い。

 名瀬に行く途中の「夢織りの里」の愛子さんに電話をして、「おねがいしま〜〜〜す」
 私が着せるとパニックしそうなので助けてもらいます。
 夏帆の着物は愛子さんが若い頃にきていたものをいただき、夏帆のサイズに仕立て治したものです。仕立ては、小さい頃から着物を縫っていただいている小暮さんの手によります。

 奄美には「13歳参り」という習慣があるそうです。
 大人への入り口に立ったお祝いだそうです。
 この13歳参りに行こうと思っていたのが、股関節脱臼のおそれから手術になるかもしれない、また、幾度かの入院もあって、行けずにいました。

 それが19歳(かぞえの)の厄落としになったのです。
 


05年11月25日(金)「奄美の旅 その3 ばしゃ山 村」

奄美の地方のことばで「ばしゃやま」というのは「ブス」という意味で・・・
語源は「謙虚な」「女性」ということでしょうか。
空港から15分くらいのところにあるリゾート「ばしゃ山」には民族村ができて、それを総称して「ばしゃやま むら」となりました。
仕事で訪れる奄美の旅はあわただしいので、プライベートの旅ではこの村の中でゆっくり過ごしたいと思っていました。

夏帆の旅のプログラムは一日にひとつ

一日目は 陶芸を体験
二日目は 神社に行く
三日目は 海に入る

それ以外は「ゆっくり、休む」

ばしゃ山の民族村の入り口から、陶芸をするためには階段道をあがらなくてはならないのですが。男手二人で階段道を運ぶ、それも重くなってきた18歳の夏帆です。
車で村の中腹まで運んでもらい、そこからなだらかな道をあるくことにしました。

民族村の受付の人に聞くと、車椅子の人は結構来ますよ、とのことです。
しかも島外から。だから車椅子の人がきてもスタッフは慌てる様子もありません。

焼きもの師のコウタロウさんに会えるかなと思ったら、旅行中とのことでした。
スタッフのダイゴさんが待っていてくれました。
待っていてくれたのに「せかせる」雰囲気のないところが、いいです。
ここは居心地がいいなあ。
海を眺める高台に陶芸釜があります。
朝5時起床で旅立った夏帆は半分眠りながら湯飲みをつくり、模様を入れ、あとで焼いてもらって送ってもらいます。
「土をさわっていると優しい気持ちになりますよ」
と、ダイゴさん。

歩き回る旅ではなくて、滞在する旅、しゃみせんの島唄が聞こえます。
旅の一日目はのんびりゆったり。

旅人は島の空気になじみます。



05年11月22日(火)「奄美の旅その2 旅の味」

夫に向かって「お父さん、ミキサー忘れた」
と、言った瞬間、まるで里帰りのようだ、と思ったのです。
自分の田舎ならば、忘れ物をしても何とかなります。
ダイビングサービス「フリッパー」の渡辺さんが、
「僕とこのを持ってきましょうか?」
と、すぐに言ってくれました。
宿泊先のばしゃ山の板さんが、夏帆のたまにミキサーにかけた流動食を作ってくれるそうです。

夏帆の旅と言えば、持参のレトルト食品を部屋のコンセントの近くでミキサーにかけたり、お芋をふかしてもらったり、と結構遠慮の固まりのような旅になります。
それが、
部屋に運んでもらった夏帆の食事は、
まるで特注のフランス料理のように白いお皿の上にスープ皿が乗り、豪華です。
3日分のレシピが厨房に貼ってありました。

ジャガイモのピュレ
だし汁で煮て裏ごしにする。洋風にする時にはジャガイモを湯がいておく。それを裏ごしにして牛乳で溶く。火にかけてバターと生クリームを入れて味を整える。
トマトスープ
トマト、ニンニク、セロリ、タマネギ
チキンスープで煮る。そのあとミキサーにかける
オレンジジュース

これが初日の夜のメニューです。美しく盛りつけられ豪華なディナーに感激です。
旅にあって、こんな食事は初めてです。

出かける日にはお弁当まで作ってもらいました。

障害児の旅のようではないと思いました。




05年11月22日(火) 「夏帆の奄美大島」

書きたいことがいっぱいあって「一太郎のファイル」で下書きをしていたらなかなか書き進まないのでやっぱり本番でここに脈絡もなく書き込みます。

その1「ミキサーを忘れた!」

夏帆は20数回旅をしています。リハビリのための大阪行きを含めたら30回以上、40回近く旅をしているはずです。
私たちが海外に行く時に決して忘れてはならぬのが「パスポートとチケット」だとしたら、夏帆が決して忘れてはならぬのが「薬とミキサー」です。
薬がなかれば、一日も持たず、発作が出ます。
だから、「持った」だけではダメでひとつのバッグがなくなっても他のバッグにも薬がないってなければならず、さらには旅先で地震に遭ったことまで想定して、予備の予備の薬の上、さらにしつこく処方箋のコピーまで持参します。

今回は用心に越したことはないと思い、「吸引機」も持って行くことにしました。事前に輸送という方法もあるのですが、もし手違いがあるといけないので「持参することに」したのですが、これまた面倒なのです。問い合わせるたびに、飛行機会社の人に言うことが違うので「旅の前」の安心感は得られないまま・・・見込み出発。

それから奄美大島の神社にお参りするので、着物セットも持参。
親もラフな格好というわけには行かず、ジャケット、持参。

ミキサーは出発の朝まで使う超必需品なのです。
さて、宿泊先の「ばしゃ山」で、
「お父さん、ミキサー忘れた」
と、私。
さっそく、次の食事から困ってしまうのが重度の障害を持った子の旅なのです

(自分でも思った・・・「信じられん・・・」)


05年11月13日(日) 明日から「奄美大島へ」

娘の夏帆を連れての島旅は今回が最後かなあ・・・
娘の健康の状態と、島の受け入れ施設の状態、力になってくれる人、何かの時のすぐ帰れる距離感などの「程度」は夏帆の健康のベースによって違ってきます。
今回の島旅までに5年のブランクがあって、13歳の時にバリ島に行った以来の島旅になります。この2年間は、入院があり、その後3ヶ月間の経管栄養の時期があり、旅への復帰は難しいかとも思いました。バリ島に行った13歳の前後からリハビリのための大阪通いが続いていました。1ヶ月の母子入院、3ヶ月の入所、と、その間母親は新幹線や飛行機で大阪を行ったりきたりしながら文庫2冊の執筆をしたりしていました。

久々の夏帆の島旅です。
今回は大島紬を着て名瀬の高千穂神社に行きます。
それからウエットスーツを着て、背の立つところ位の海に入りたい。
泊まる宿で焼き物もやってみたい、と一日ひとつの楽しみを予定しています。

私はといえば、この数年は「写真展」に夢中でした。
今も・・・です。
目標があって、次にやりたいのは「旅の楽しさ」を伝える写真展です。

でも、そろそろ本も1冊取り組もうと思っているところです。
一応企画を出しました。本になるかどうかはまだ、未知数です。

何事も夏帆が元気でいてくれることが大前提です。
夏帆の元気指数によって、私の仕事規模が変わります。

05年11月5日(水) 「ドクターショッピング」

「ドクターショッピング」という言葉があります。
最初の病院で納得がいかず、あっちこっちの病院にかかって、時間が経過し あれやこれや比較して猜疑心も強くなり、事態は決していい方向に行きません。
それに対して「セコンドオピニオン」という言葉があります。
ひとつの病院にかかりながら他の病院のドクターの意見も聞くというもので、特に手術を受ける場合など、「セコンドオピニオン」の必要性が強調されます。

私の場合は、夏帆のかかっている病院で、夏帆の受診の「ついで」に自分の受診をするというのが定番になっています。
本日もしかり。
夫と夏帆は脳波検査に行き、私は耳鼻科に。
実は先週から耳鼻科3件目なのです。
病院によって得意、不得意はあるわけで。
1,「超」近所 ラーメン屋の帰りに行く耳鼻科
2,インターネットで調べた、耳鼻科専門「評判」病院
3,娘のかかっている総合大学病院
鼻からのどまでカメラを入れて検査をするというのを、3回も体験してしまいました。
これって、手術の事前体験のようなものです。
上手い、下手が、はっきりします。
「今、なのをしたの?」
から、
「これって、痛い」なかなか入らないじゃない、
まで大きく差が出ました。
(ついでに診断も程度の表現に差があり。ポリープの大きさを大きいというか、まだ初期で小さいというか)

そして、もし手術を受けるとしたら・・・
の大きな参考になりました。
今のところ、全身麻酔のリスクを負ってまで、声を取り戻すための手術を受けたいところに出会ってません。(一応声は出るわけで・・・)
だんだん、わかってきました。
たぶん、予想通り、やや近所の個人病院がよいと思うのです。
やや近所なのに、夏帆の通院が優先で行けずにいます。
すんごい、混んでいるのです。

だけど、この医院はメールでの問い合わせに応えてくれます。
すぐに返事が来たのにはびっくり。先生の診察が終わった夜8時頃でした。
「声の安静は大事だ! 甘く、考えるなよ」
という返事でした。
さすがだ。なんか、やる気が伝わってきます。ドクターであることが好きな医師だと思う。
今日、「手話」の本と「声の呼吸法」という本を買ってきました。
手術をしない、という選択に備えてです。
これを機会に手話の身振り手振りを覚えておくというのもいいし、声がひどいのは何かの工夫や努力で補えるかもしれません。

失うことによって、得るものがあるかもしれません。
それは今よりも広い世界なのです。


05年11月1日(火) 「秋、声がひどい」

鎌倉に行ってきました。
仙台に行ってきました。
沖永良部島に行ってきました。
鹿児島大学に行ってきました。

いろいろ、書きたいことがあるのですが。
近況から。
9月末から声がかれて、声帯にポリープができているとのことです。
だからたくさんしゃべると「声がひどい」
初対面の人には「声がひどいでしょ」と、言っても以前の声を知らないのだから、何も言えない。いよいよ、おばさん声と言うことかなあ。
以前の声を知っている人には、
「声がひどいでしょ」
というと、女性だと、率直に言ってくれる。
「うん」

あ〜〜〜、ショック。
12月に鹿児島大学で行われるシンポジウムのパネラーをすることにないっている。
一人での講演ではないので、何とか許してもらえるか?
声が出ないわけではない。

声帯にポリープができていると、声帯がきれいに合わさらないので、声がかすれるらしい。
温存治療では直らないって状態らしい。
オペとなると全身麻酔をするらしい、9〜10日の入院が今の生活で可能だろうか?
障害児を育てて18年、とうとうやってきた「母の入院」という事態。
それとも、全身麻酔をしてまでポリープをとる必要ではないという考え方もある。
いずれにしてももう少し情報を得て決めるけれども。

まだ、受容の時期だから、誰でも何かを失うというのはイヤだ。
だけれども、何かを失うことも重要なことかもしれない。
声がひどいというのを機会に今後は「講演は受けない」という選択もある。
来年の秋にも、沖永良部島高校に出前授業に行く約束をした。
大人を相手に「講演」するより、生徒と約束した「出前授業」の方がとりあえず大切だと言う考え方もある。

さっき、NHKのラジオで30分話すようにという依頼があった。
ラジオは声だけが情報だから、声が落ち着くかどうか自信がないので断った。
やはり仕事は不充分なまま安易に約束はできない。

このまま声が出なくなったらどうしよう。
いい機会だからいつか学びたいと思っていた「手話」を取り入れよう。

05年11月1日 「心の自由はどこにある?」

 実は声が出にくくなった翌日近所の耳鼻科に行った。
「声が出ない」と言った。
翌週も言った、「声が出ない」
でも、患者の深刻な声に医師の耳が傾けられるまでに3週間かかった。
検査も治療も、そこにたどり着くのに3週間が経過してしまった。
病気の急性期が過ぎてしまったのだ・・・・
「もっと、はやく、〜していれば」
という後悔は、あとの祭りだ。
何のために耳鼻科に行ったのだ?
「先生、3週間前に、声が出ないって申し上げたと思うのですが?」
医師は慌てて、カルテをみた。
カルテに書いてない「聞いてません」(聞いてなければ、書いてない)
患者の言い方が悪かったのだ、それで、入院と全身麻酔が必要?
この代償は大きすぎないか?

「患者力」が足りなかったのか・・・?

最近、障害児の母親と健常児の母親と、独身の友人と、それに管理人が二人の子を持つ父親というメンバーでメーリングリストを始めた。
名付けて「愚痴と悪口を書いてもいいメーリングリスト」(ホントの名前はひみつ)
誰も悪口を書き込んでくれないのだけれど、愚痴を吐き出すことは大切だ。
メーリングリストに愚痴愚痴、と書かせてもらった。
そして、愚痴を聞いてくれる人がいて、返事をもらったりした。
それまでは、もっと早く薬を飲んでいればポリープはできなくてすんだのではないか、という後悔ばかりに心が支配されていた。
理性では「過ぎたことは仕方がない、前向きになるしかない」と、わかっている。
障害児を持つと、この呪文を一生に何万回も繰り返す。
一人で考えていると後悔は怒りに変化してくることがわかった。

でも、愚痴を書いて、励まされた翌日は、す〜〜と、そのことが過去になっていると気づいた。
そんなことよりも病院にいつ行くか?(その時間の確保が先決だ)

人は、人との関わりのなかでのみ心が自由になるのではないのか?
人は精神の自由を求めている。
でも、それは一人で達成するものではないのだ。
人とのつながりのなかでこそ自由を実感できるのではないのか?
という気がした。
精神性を高めるのも、心の自由を持つのも、「個の問題」だと思っていた。
でも、昨日はそうではなかった。
他人の言葉によって、現在の自分を自覚して、自分の過去を過去として前に進めるということを実感をした。
人とのつながりのなかで自由を実感すること。
これは、とっても幸せなことだって感じた。
「ありがとう」と言いたい。


05年10月4日(火) 「お母さんの一人旅」

小樽の旅で「お母さんの一人旅」に味をしめて・・・
明日は「秋の鎌倉」、来週は「みちのく仙台」の旅を予定しています。
1泊ならば、ぱあ〜〜〜と出かけてしまいます。
「地続き」は近いですねえ。

さて、そうは言っても、そろそろ「冬バージョン」の仕事体制になります。
今年、昨年、写真展をしましたが、冬は、ず〜〜〜と、写真整理等々室内の仕事があるのです。
写真展にきてくださった方に手紙を書いたり、住所のラベル入力など、地道な作業もありますが、写真展に足を運んでいただいたことへの感謝の気持ちは大きく、「来てくれた人!」というのは私の中で「星マーク」の人となっています。
だから「きてくれた人!」に手紙を書くのも楽しい。

昨年の夏帆の入院で、かなり危機的な覚悟を持って生活のパターンを変えたり用心したりしてきましたが、昨年の9月から今年の9月までの1年間、夏帆は「病気欠席」を1日も!せずに学校に通っています。
私の仕事に支障があることもなくきました。
(なんだ?もっと、仕事しても大丈夫だった?)
って、感じです。

小樽も鎌倉も仙台も、仕事を離れた旅でよいものです。
あまり仕事に限定して生きて行くのもよくないなあと思ったりするこの頃です。




05年9月22日(木)「小樽へ」一人旅

先週、スケジュールの空いている2日間は9月中にはこの日しかない!と、思い立って小樽へ行ってきました。
何故小樽なのか?
と聞かれます。
理由は簡単です。飛行機も鉄道も便数が多くて、娘の夏帆に何かあってもすぐ戻れるところ、短い日程でも旅の気分を味わえる。
そして、海が見える。
一昨年から3回目ですが、札幌から小樽に向かう途中、海が見えてくるのです。海岸線を列車がひた走る。その景色がいいのです。なんとも、もの悲しい、それでいて心が満たされてゆく、そんな景色です。

今年中の「すること」がもういっぱいになってきました。

9月 夏帆の卒業後の行き先の施設実習があります。1週間、送迎があり障害児の母は忙しい。
10月 沖永良部高校に「出前授業」に行きます。10月26日、27日です
    鹿児島で「100人委員会」があります。28日
11月 夏帆を連れて奄美大島に行きます。
    吸引機(医療器具)も持参の旅になりそうです。
   夏帆を旅に連れて行かれるラストチャンスかもしれません。
12月3日(土) 大阪でシンポジウムがあります。
   テーマは奄美の環境です。鹿児島大学主宰のものです。
   詳しくわかったらまたおしらせします。パネラーとしての参加になります。
   みなさんも是非、お出かけください。

 このあと3月までは予定を入れられません。秋、冬、はインフルエンザが夏帆に移ったらまさに「命取り」なので、余り出かけず、人にも会いません。
(と、いいながら今年は1月に奄美に行ったなあ・・・)


05年9月6日(火) 夏休み終わる

娘の夏休みが終わり、やっと仕事モードになってきました。
土曜日はリハセンターの研究会の講師をしました。
テーマは「仕事をするということ」
講師が話すばかりではなく「あなたにとって仕事とはなんですか?」
というアンケートを配布しました。
女性にとっては仕事を続けることそのものがテーマになります。

明日は雑誌のインタビューを受けることになっています。
夏休みはショッピングの暇もなく、家にいることが多かったのですが、
せっかくのインタビューに間に合うようにおニューのジャケットと今年風のパンツとスエードのヒールのある靴を買いました。
ところが、お店に受け取りに行ったら手違いでパンツが届いてない・・・
明日のコーディネトを考え直し、これからアイロンだ・・・

もう20年の同じショップで買っています。
なので、コーディネイトも楽です。
毎年、少し流行を取り入れます。

ところが、今日感じたのは、「お店の方が迷っている」ということです。今、急成長しているブランドです。(値段は高くない)
20年も買い続けられるのはそのお店が「シンプル路線」だからです。
なのに、今お店に並んでいるのは、野戦(ミリタリー)っぽいものと、ヨーロッパクラッシックの色合いの二つの路線で、定番がない・・・秋冬物は野戦っぽいものが増えるとのこと。服は時代を反映します。
アメリカのハリケーンのニュースをCNNでずっと見ていると、時代そのものが「荒々しくなってきている」と感じられます。
自分のことは自分で守らなくてはならない、強くならなくてはならない、でも、優しく甘いものもなつかしい・・・
洋服屋さんの色合いと、世の中が一致しているようです。


こういう時代と自分の年齢を掛け合わせ、どういう生き方が適当だろうと考えたりしています。




                                         (葉書デザイン  清水良子)
写真展の案内です。
写真の場合、コピーして、行動記録の方に持っていけるのか?今度パソコン教室でやります。

以下、終わった写真展の案内です。

昨年に続いて、写真展を開催します。
昨年は、「生きる喜びー脳障害児の16年」を、3月ニコンサロン新宿、4月目黒美術館区民ギャラリー、5月ニコンサロン大阪と3回開催しました。
今年は、本来のテーマ「島」に復帰します。

バリ島の先住民族の村を3回訪れ、泊まり込みました。
年に一度の祭りの日、村の人達は「野生に還り、神様とつながります」
私は「カメラになり」被写体とつながろうとしました。



05年8月15日(月)   夏休み続く

昨年の夏休みは、夏休みどころではなく、
娘が経管栄養になっていたため、朝から晩まで、医療的ケアの必要な介護生活をしていました。
鼻から胃に通した栄養をとるためのチューブを何とかとってあげたい。
24時間がリハビリを頑張るような生活になります。
「修行僧のような」
生活をしていました。
今年は、週に2日しか働けん!
と文句を言っているので平和です。

夏帆は、とろみのあるものでないと誤飲しやすいので飲み込めない、はずだったのですが。
「夏はのどが渇く」
と、とろみのないポカリスエットなど(スプーンでですが)ゴクゴクと飲んでいます。
これは飲み込み能力としては過去最高です。

子どもの力を信じてあげることが大切と実感する「熱い夏」です。




05年8月4日(木)

障害児を育てながら仕事をする母親にとっても「恐怖の夏休み」です。
ヘルパーさんがきてくれるのは火曜日、水曜日、金曜日の午後6時間ずつ。
就労時間が週18時間です・・・
写真展のお礼状にもまだ着手できずにいます。

写真展が終わってから、すぐに娘のリハビリのため、大阪に行きました。
その次が、鹿児島での会議に参加、足をのばして沖永良部島へ。
それから今週は子どもと一緒に難病の会が主宰する夏休みキャンプに参加。

出かけることが続きました。

さらに7月19日海の日に障害の重い子を持つ母親を中心にメーリングリストを立ち上げました。
私が管理人をしようと思って、思った、のですが1年実現せず。
友人が管理人として名乗りをあげてくれました。

今日木曜日はヘルパーさんがいない日です。
夏帆が泣き出しました。中断です。

痰が絡むので目を離せません。
昨年の入院以来、介護も「ほおっておけない」状態になりました。仕事の事務処理など、あまりにやることが追いつかないので今日は夏帆は2階の仕事部屋の隣にいます。
夏帆の部屋と仕事部屋を行ったり来たりです。

このような状態でありながら、私は写真の仕事がしたい!
という思いを募らせています。
今までだって、障害児の母親が仕事をすること自体、充分にハンディいっぱいでした。
よく、仕事の依頼があったものだとありがたく思います。
今まで続けてきたものをベースとして仕事をしてゆくことすら大変だと思います。

なのに、私はやっぱり、
「カメラマンになりたい・・・!」
と、思っています。
フイルム代くらいは稼がないと、写真を撮ることを続けられない。
写真を売るなんて、できるだろうか。
それとも文章を売って、フイルム代にするしかないのか・・・?
週18時間しかなくて、そんなこと可能なのか?

去年の娘の入院以来、あっちもこっちも仕事を断ってしまったのでした。




05年6月26日(日) 「搬入、展示終了」

昨日の夕方、会場への写真の搬入、展示をしました。
パネル貼りの写真が壁にかけられてゆくのをみていると、写真展は何度やっても興奮するものです。「ほかに何もいらない、写真のためなら貧乏に耐えられる」と思えます。
写真を撮る人はそのように写真の世界にはまりこんで行くのだと思います。友人のデザイナーの清水さんが大きなタイトルパネルを用意してくれました。
会場の外、道路に面したところがショーウインドウになっています。
ここがひとつの見せ場です。
展示をしている時に、いつもこの道を通っているのであろう男の人が通り過ぎ、通り過ぎてから振り向いて戻ってきて写真を見ていました。
「これは、うまくいったかも?」

いま、バリ島のイメージの花を作ってもらってきました。
いつも買う目黒駅の花屋さんのスタッフもバリに行ったことがあるそうで、イメージぴったりです。

では、会場でお会いできるのを楽しみにしています。


05年6月24日(金) 「準備終了」

 おおよその準備は終わりました。
 今日は午後はアイロンかけをしていました。
 会場にバリ島の衣装で立っています。
 バリシンレースのブラウスと、バリのバティック(染め物)のサロンというスタイルを予定しています。それに写真展の村のグリンシンという珍しい布にもアイロンかけをしていました。
 友人のデザイナーの清水さんが今日の夜、キャプションのパネルを作成してくれます。
 キャプションも最後まであれこれ考えました。
 「心は高まり、想いは募る」
は、書きすぎ。
 「心はたかまり」
だけにするべき!
 理性ではそうするべきは理解できるのですが、写真を撮った時の思い入れがあって、「想いは募る」と書きたい。いや、言葉に引っ張られてはいけない。
 もうひとつは、最後の写真にキャプションを入れるかどうか・・・

 もう一カ所は、音について触れたところ。
 これは、暗室を見せていただいた時の思いをキャプションにしてみました。

 前回、キャプションをメモ用紙に写してくださっている方がいました。
 申し訳ないような、ありがたいような気持ちでした。

 今回はキャプションをプリントアウトして会場に置いておきます。

 あっ、あと、地図を用意しなくては、地図。

05年6月16日(木) 「写真展が近づいてきました」

4月、5月は夏帆の用事にかかり切りになっていました。
通学バスのことや、車椅子のこと、制度の変更や、7月に18才になる前にしておかなくてはならない手続きなど、障害児だからこそしなければならないこともたくさんありました。
気が付くと6月はもう半ば、順調に準備してきたつもりでも足りないことがあれやこれや思いつきます。昨年、今年と写真展が続きますが、夏帆が高校を卒業以降はどれくらい自分の活動を続けられるか未定です。
来年の3月の夏帆の卒業が、私の仕事の「定年」のような気もするし、本来の仕事はこれからが本番のような気もします。
出きる時にできることをする、という姿勢です。
そういう意味で、今回の写真展は本気です。
この1年、お会いしたい方にもほとんどお会いする時間がとれませんでした。
昨年の夏帆の入院以降、介護中心の日々が続きました。
そして夏帆は「生命の峠」をひとつ越えて元気になってくれました。

そんな、夏帆に感謝してまた写真展をやらせてもらえます。

お会いしたいと願っていた方たちにもお会いできると楽しみにしています。
どうぞお出かけください。

PS

写真は25点なので「発掘作業」はしなくてすむ・・・
と、思ったのは大間違いでした。
やはり、追加であれこれ迷い。
現像所まで行って、「すいません、これも焼いてください!」
と、お願いしたのでした。

そして!
個人のホームページなので書いてしまいます。
プリントの現場を見せてもらいました。長年の念願でした。
かんど〜〜〜
撮った以上の写真ができあがるすばらしさに撮った本人が喜ぶのもおかしいのですが、それは会場でご覧ください。写真の魅力にどっぷりはまっています。月5日(水)

写真展、ありがとうございました。
たくさんの方においでいただきました。
一日9時間、ほとんど人がとぎれることなくおいでいただき、会話をし続けました。
懐かしいかた、初めてお会いする方、写真展はライブです。
写真展が終わっても心身共に、「飽和状態」でした。
昨日と、今日、別のことで切り替えようと映画を見に行き、やっと日常感覚に戻りました。

また、改めて書き込みます。

お礼を書きたく、

本当にありがとうございました。

明日7月2日(土)は最終日は、5時までです。

お間違えのないように。
お待ちしています。

6月30日(木)

写真展後半の3日間になりました。
外は雨ですが、会場で夏を味わってください。
最終日、土曜日は午後5時で終了です。
今日と明日は夜7時まで、全時間河田は会場におります。
どうぞ、初対面の方も声をかけてください。


この3日間、奄美大島、大阪、広島、サイパンからと、懐かしい方たちにおいでいただき恐縮と卯らしい思い出いっぱいです。ありがとうございます。






6月5日(日)「あいらんだあ107号発送完了」

昨日、あいらんだあ107号を発送しました。
季刊ですので、30年続ける約束まであと13号。
あと3年です。
「ぐるーぷ・あいらんだあ」の活動はいろいろな時期がありましたが、今は「島に還元する」活動を主な活動にしていきたいと思っています。
だから、年間5000円の正会員費を払ってくれている人たちは、「自分が得をする」ためにではない活動を支えてくれています。

写真展のプリントを依頼しました。
ここまでくると写真展の準備にも見通しが立ちます。
考えてみると昨年の写真展は娘を撮った16年分の写真の、まるで「発掘作業」のようでした。
撮った記憶はあっても16年分の中から探し出すのは大変な作業で162点の写真の写っている人の了解を取るという作業が最も大変でした。
現在の住所を探し出せない場合もあるからです。

そういう風に考えていたら、今年のバリの写真展に展示する写真は25点ですから、昨年とは比べられないほど作業量が違いました。
そして、選んだ25点は正味24時間で撮った写真であるということにも気づきました。村の日常生活の写真も撮っていますが、今回はお祭りの日に絞りましたので、メインの日の前日の夕方から、夜中、夜明け、そして当日の夕方までの写真です。

写真1枚撮影する正味時間は125分の1秒の世界です。
それならば、写真は簡単かといいますと、そんなことはない。
125分の1秒にさまざまな「瞬間」を重ね合わせてゆく作業とも言えます。
「偶然」という神頼みのような作業でもあります。
そして、写真展の楽しみはなんといっても、プリントのすばらしさ、というか。
昨年の写真はプリントをしてもらい、パネル貼りをしてもらったものをみたら、
「うわあ〜、記念写真が作品に変身したあ〜〜〜!」
と、驚きました。そのすばらしさは、会場に足を運んでいただいてこそ味わっていただけるものです。
どうぞ、お出かけください。




5月22日(土)「島からの頂き物」

 このところ、続いて島からの頂き物を受け取りました。
 三宅島から八丈への避難生活をしている西野さんからユリの花が届きました。
 いつものことながら見事なユリです。カサブランカをはじめとしたユリの香りが外出から戻ると玄関いっぱいにいい香りです。
 福岡の宗像大島(むなかたおおしま)の山口さんから「漁師の家の庭でとれたみかん」が送られてきました。20年前に講演に呼んでいただいてから毎年みかんが届きます。
 なかなか再訪したいと思い伺えずにいます。長いおつきあいになります。
 そして、去年も送っていただき、夏帆が入院してしまったために受け取れなかった桜島の「びわ」を今年も送っていただきました。新聞記者の山野さんからです。
 桜島にはとても思い入れがあって、30年くらい前から行きたかったのですが昨年2回行きました。ビワと桜島小みかんの産地です。鹿児島に行くたびに飛行機の中から桜島をみるのが好きです。奄美の島に行くときにも桜島をみるのが好きです。

 島の人たちは、人とのつながりを大切にします。
 夏帆が生まれて大変だった頃、私はとうていまた島を歩くことが可能とは思えませんでした。
 それなのに、夏帆が生まれたあとも海外の島もふくめて100島以上の島を訪れています。それはやはり周りの人の力があって実現してきたことです。

 島のものが届くたびに、その島のことを思い描き、いつかまた訪れたいと思います。
 今は夏帆のことが大変な時期で最小限しか島に行けない時期ですが島のこと、その島の人たちのことを忘れることはありません。
 嬉しいことです。


5月20日(金) 「ひたすら、忙しい」

 仕事は意志の積み重ねによって「土台」ができてゆきます。
ちゃんとやれば、2度手間や3度手間ということはそうそうないものです。
同じ失敗を繰り返さないのも仕事というものです。
そして、予想に反することもそんなにたびたびは起こらないものです。

ところが、夏帆のこととなるとおおよそ「こちらのペースでは」行かない。
障害児の母親はいつでも家にいて当たり前と思われるのか・・・?
約束の時間を大幅に遅刻してくる業者もいるし、予約していたはずが・・・
交渉ごとも多く、1回ですむと思ったら大間違い。
そんな、夏帆がらみの「用事」が4月の人事異動、制度の変更、18才になると大人扱いになるので7月の誕生日前までにしなくてはならないことも多々、起こってきます。
ダブルブッキング、トリプルブッキングまで起こってきます。

「お母さんに労働時間をくれ〜〜〜」
と嘆いていた4月、5月がすぎようとしています。

 さ〜て、写真展の準備に取りかかろう。

 そうはいってもおおよそ週に1回は写真展を見に行くようにしています。 
 トークショーも参加します。とても楽しい時間です。


4月27日(木)「沖永良部島に行ってきました

 4月は子どもを持つ母親には、何しろ忙しい時期です。
 人事異動や、制度がかわるなど、それまで積み重ねてきたものをまた一からやり直すような項目が増えるからです。
 たとえば、担任が替わったら、また食べる練習をするために学校へ出向くというようなことが起こります。今回は先生は変わらず、通学バスのコースというか委託会社が新しいところになり、付き添い通学をしていました。
 木曜日のヘルパーさんが5月までで辞めることになり、その補充がきかない。
 何しろ、障害児を取り巻く環境は年々厳しくなって行きます。
 あまりにいろいろなことが同時進行しているので、さっき書き出してみたら10項目、所要19日はかかることを5月から6月にかけてあります。
 これは娘の夏帆がらみだけで、そこには、私の島の仕事は含まれません。
 持ち時間の中から夏帆のことをやり、「おこぼれの時間」をもらって、島の仕事をしたり、写真展の準備をしています。

 しかしながら!
「島へは、行くのだ!」
 今回はタラソおきえらぶの中にあるカフェレストランに展示する写真の撮影を頼まれ人物写真を撮りに行きました。
 有機野菜を作る人、国産大豆で豆腐をつくる夫婦、有精卵をつくる人、等々の「笑顔」という注文です。初日は天気が良かったのですが、2日目と3日目は雨。
 
 ところで、5月1日からは22年間前に一緒に取材に行った編集者がエラブに行くというし、私が行った少し前にはあいらんだあの森井さんがエラブに行っていたし、なんだか急にエラブ熱が上がってきた感じです。

 タラソテラピーというのは「海洋療法」の、まあ、バブル・海水プールといったらよいのか。
 私も体験してきました。
 これが、かなり快適なのです。開業が4月1日なのに、20日までに14回入ったというおばあちゃんや、毎日通って6キロやせたという主婦などなど。
 このタラソはプールに入るのはビジターで1000円、貸し水着やタオルもあるので手ぶらで行っても大丈夫です。
 是非、体験してみてください。



4月9日(土) 高砂さんの写真展

新宿エプサイトで開催されている高砂淳二さんの写真展を見てきました。
「海 そして南の島」です。
実は初日にも行ったのですが、再び見に行ってしまいました。
何しろ、美しい。
特に、海面につぶつぶの雨降る写真が好きです。
南の島のスコールでしょう、雨の粒が光のなかで光っているのです。
5月8日まで、新宿西口三井ビル1Fのエプサイトでやっています。



3月28日(月) 東京は雨です。

年度末の異動のシーズンです。
あちこちから「異動」の知らせがきます。
子どもの学校の先生も異動のシーズンで落ち着きません。
そんな中、娘の夏帆の寝ている時間を見計らってパソコンに向かっています。
別れや、出会いのシーズンを心新たに大切にしたいものです。
「はじまりの時」を忘れないようにしたいと、さまざまな出会いを思い出す一日です。


3月19日(土)

昨年に続いて、写真展を開催します。
昨年は、「生きる喜びー脳障害児の16年」を、3月ニコンサロン新宿、4月目黒美術館区民ギャラリー、5月ニコンサロン大阪と3回開催しました。
今年は、本来のテーマ「島」に復帰します。

バリ島の先住民族の村を3回訪れ、泊まり込みました。
年に一度の祭りの日、村の人達は「野生に還り、神様とつながります」
私は「カメラになり」被写体とつながろうとしました。

まだ、先の日程ですが、東京旅行をご予定ください。
お会いできるのを楽しみにしています。

05年3月18日(金)「シーズン入り」

20歳代の頃にダイビング雑誌の編集者をしていました。
そこでは、3月から9月までが「夏」それ以外は「冬」という感覚で生活していました。
盛夏の忙しいシーズンはまばたきを1回すると一晩が過ぎ、まばたき30回で1ヶ月が過ぎるというような感覚でいました。
忙しい夏を過ごしたあとは「冬眠的生活」を送ります。
そうして体も心も休めて、また充電期間ともするわけです。
3月1日は特別な日で、さあ!「シーズン入りだ!」
という感覚になるのです。
「春一番」が吹くのもこの頃です。
私も大きく伸びをして、さあ、活動開始です。


05年3月17日(木)

昨年の暮れにパソコンがいきなり壊れ・・・
本日、ホームページを復旧させました。

ただいま、パソコン教室で作成して、確認しているところです。

6月27日(月)〜7月2日(土)
河田真智子写真展「バリ島、光のなかで」を開催します。
詳細は、案内ハガキのデータをデザインしてくれた清水さんからメールで送ってもらい、ここにアップするという作業をします。
土曜日にまた、パソコン教室でしますので、お待ちください。

あいらんだあ106号発行しました。
テーマは「島に住む幸せ」です。
島に生まれ育った人、島を旅人として訪れる人、島に住みついた人、それぞれに原稿を書いてもらいました。
私は、このテーマを伝える写真を撮って写真展をやりたいというのが目下の目標です。
来年は夏帆の高校卒業、そしてその後の進路と、重度の障害児を持つ母親にとっての課題は山積です。
再来年くらいにまたニコンサロンに審査応募してみたいと思っています。

11月18日(木) 「その先の、水平線」

以下の文章は「地平線通信」の次号に投稿したものです。
ここにも掲載しておきます。

 島の海辺に立ち水平線を眺め、その向こうの島へ、島へと旅を続けてきました。脳に重い障害を持って生まれてきた娘の夏帆が生まれたあとはペースを落とし、時には車イスの娘と一緒に島へ向かいました。17歳になった娘との旅は、32年間の島旅の半分以上になりました。女性には何かをやめる機会がたくさんあるけれど、好きなことを続けることが辛い時の自分自身の支えになる、と10分スピーチで話しました。
 娘が生命曲線の下降期に入った今、水平線の向こうに何を求めるか考えました。
 これからは二つの活動をしていこうと思います。ひとつは島の高校、中学に「出前授業」をしに行きます。島の将来を共にしようとする時、私が島で学んできたことを島の子どもたちに伝えることが最も大切なことだと考えました。旅をするばかりでなく、島おこしと関わることも私の大切な活動です。12月に沖永良部島の高校に行きます。
 もう一つは、「島の写真展」をしたいと思います。今年娘をテーマとした写真展を3回もやって、「写真が大好き」と目覚めました。今、来年の写真展に向けて、またまた審査に出す写真選びをしています。 これがひたすら楽しい! のです。


11月10日(水) 「地平線会議」25周年

地平線会議の前夜祭、及び集会当日、ともに参加しました。
どちらも楽しく、刺激的な集会でした。
前夜祭では夏帆が代表世話人の江本さんに花束をお渡ししました。
生後6ヶ月の夏帆を病院にお見舞いにきていただいてから17年になるのです。
私は島を旅して32年。32−17=15ですから、夏帆が生まれてからの島旅の方が長くなったのです。夏帆が生まれる前の方が、ずっと自由時間が多かったけれども、夏帆がいても、もっと心高鳴る旅を続けています。
人にとって、「精神の自由」こそがかけがえのないものだと気づきます。
「自由時間」をたくさん持っていても、「精神の自由」に満たされているとは限らないのです。

そう考えると、地平線会議の魅力は「精神の自由」を持ち合わせている人の多いことなのだと感じます。言い換えれば、自分自身の足で立ち、歩いている人ということです。

きのう、奄美大島からきた愛子さんという知人とお茶を飲みました。
彼女は「愛子さんは物欲がないわねえ」とまわりに言われると話していました。
「人との出会いで心が満たされているから、物欲がないのだと思う」そうです。

旅も同じですね。

それと、もう一つ「まわりの空気を読めることが大事」と、愛子さん。
これも旅も同じです。
素敵な出会いは、空気の中で何かを感じるときに生まれます。
地平線会議は、そんな「出会い」をたくさん作ってくれる素晴らしい場です。



04年11月6日(土) 「地平線会議 前夜祭」

旅と冒険者の仲間たちの300カ月記念フォーラムの前夜祭が今日あります。
夏帆も参加させようと思って、今日は学校の文化祭は欠席。
なるべく、いろいろな体験をさせてあげたいと思っています。
明日の本番では若手の冒険家たちのスピーチが楽しみです。

何事も続けることには大きなエネルギーを要します。
好きなことを続ける。
女性には「何かを辞める」理由がたくさんあります。
1,就職したので、すいません、参加できません。
2,結婚したので・・・
3,子どもが生まれまして・・
4,子どもが重度の障害児なので・・・
5,子どもが入院しまして・・・

でも、本人は、一人の人間であることを「辞められない」はず。
それならば、自分自身を支える、心のよりどころとなる何かを持ち続けたいものです。
そんな心の宝物を持ち続けている人たちの集まりが地平線会議です。

私もこの地平線会議の一員であることを嬉しいと感じます。
04年10月29日(金) 「夏帆のようす」

おかげさまで、鼻から胃への経管チューブが取れ、一人で学校に通っています。



10月16日(土) 沖永良部島 オートバイで隅々をまわる

バイク(スクーター)に乗るのは何年ぶりかな?
沖永良部はバイクでまわるのにちょうどいい大きさです。

途中、芭蕉布を作っている工房を訪ねました。ちょうど、新聞社の人が取材にきていたので糸紡ぎの行程など見せてもらいました。
お茶をごちそうになり、パパイヤの漬け物をいただき、おみやげに自家製の漬け物をいただきました。30年前のエラブも、20年前のエラブも、今のエラブも変わらないもてなしです。

日が暮れてきましたが、山下のおじさんを訪ねました。
自分の庭を植物園にして開放しています。また、山下文庫をつくって自分の蔵書を開放しています。
今年88歳になった山下のおじさんが言いました。
「電話をくれれば、迎えに行ったのに」
と。今年免許の更新で視力がどうしても0,1足りなかったそうです。何度よっても0,1不足。
奥の部屋から警察の偉い人が出てきて・・・
(おまけしてくれたかな?)
と、思ったのですが。
1カ月に1回メガネ屋さんが来るから、メガネを作ってもらったらどうか、といわれたそうです。
免許の更新は現在は誕生日を過ぎても可能ですよね。(それにしてもメガネやさんが1カ月に一度とは・・・)
それで、メガネをつくり、免許も更新したそうです。
「あと、3年は運転できるから」
と、私を空港に迎えに来るつもりです。

その精神の生命力に、驚かされます。
50歳を過ぎて「歳をとった〜」
と、言いまわっている自分が恥ずかしくなります。
でも、「歳をとった〜」と、宣言し、私はそろそろ人生の本番に突入しようと思っているのです。



04年10月10日(日)

<奄美大島。沖永良部島。最上のプログラムより>

1,写真家の濱田康作さんインタビュー 第4回目
2,裏航路の船で名瀬、古仁屋、徳之島、沖永良部島へ
 ずっと甲板で島を眺めていました、7時間。
 ずっと、空を眺めていました。何とも贅沢なひとときでした。
3,沖永良部高校を訪ねる。これが新企画です。
4,オートバイで島の隅々をまわる
5,沖永良部で芭蕉布を作っている人の工房を訪ねる
6,32年前に初めて訪れた時にお世話になった山下のおじさんを訪ねる
7,前登志朗さんの和食レストランで旨いもの三昧を食べる
8,奄美大島でダイビングサービスをする渡辺さんの案内で海を眺めに行く。

今日は「3」高校での新企画について

 高校で「出前授業」をやりたい、と思いました。
 「講演」ではなく、クラスという小さな単位で「授業」をさせてもらいたいと思いました。
 3日程度しかいけないけれど、少なくとも毎年3日、10年は続けたい、と思ったのです。
 「取材依頼」とか「講演」の場合は電話や手紙やメールで依頼したり、受けたりしますが、今回はこちらからお願いすること故、直接出向きました。
 しかしながら、高校は村立や町立ではなく、県立のため、なかなかスムースではありません。確かに雑誌の取材にしても小学校を取り上げたりすることは多くても「高校」となると、難しい年頃でもあります。

 ご相談の結果、全校生徒に対象とする「総合学習」の時間をいただくことになりました。
12月上旬、沖永良部高校を訪ねます。

 では、何故、高校生に向かって語りたいのか?
 まず、自分の娘が高校年生であること。
 重度の障害児である娘が言葉を持たないので、同じ年頃の子と友達になりたい、という本音があります。
 次に、沖永良部島には高校はひとつ、高校を出るとほとんどの子どもは親元を離れて島を一度出ます。そのあとは、それぞれの人生です。
 島を離れてゆく子どもたちに私が若い頃に島で学んだことを伝えたいと思いました。

 私の本に何度か書いていることですが、直接会って伝えたい。
 写真展をしてみて、「ライブ(直接)」の魅力を感じました。

 伝えたい言葉は、私が島の人に言ってもらった言葉です。
「人の一生には自分ではどうすることもできないくらい辛い時があるものだ。そんな時には(君も)、エラブに帰ってくればいい、帰ってくるふるさとがあることはありがたいことだ」
と。旅人である私に向かって言ってくれたのです。

 島に生まれた人たちは、島は閉鎖的だと言います。
 でも、海に縁取られハッキリとしたふるさとの原風景を持っていることも確かです。
 その、ふるさとの原風景を心に描けることが島に住む幸せではないかと思うのです。
港に見送ってくれた島びとにまた、帰ってくればいい、といわれてもあまりピンと来るものではなかったのです。
 でも、言葉は心に残り、よりどころとなる力を持っています。
 その島人の言葉を、島を一度は去る若者たちに伝えるメッセンジャーとなりたいと思います。
 

 さあ、これからが、私の仕事の本番だぞ、という気がします。

 島を歩いて30年、やっと本番です。


04年10月2日(土)
<奄美大島。沖永良部島。最上のプログラムより>

今日は「2」の裏航路について報告します。

奄美諸島にはさまざまな航路がありますが、古仁屋に寄港する客船はこの便になると思います。鹿児島を夕方発ち、徳之島折り返しになる船と、沖永良部島まで行く便とかあり、沖永良部島まで行くのは、週に2便しかありません。一応曜日は決まっていますが、荷物の運輸が主ですので台風の影響や、ほかの事情で変わったりします。
奄美大島と加計呂麻島の間にある大島海峡をゆく水色と白の船体を見たのは、奄美大島の西南地にある管鈍小中学校を訪れた折りでした。
「あの船に乗ってみたいなあ」
と、思ったのです。
そして、船から西古見の集落や、管鈍の集落を見たいと思っていました。
「島」を知ろうとするとき、海から見ることを重要です。
島に住む人たちのずっと祖先は「海からの旅人」だったのですから。

西古見だ!
郵便局長さんご夫妻があそこにいる!
管鈍だ!
子どもたちは元気にしているかな。
風景の中に懐かしい人たちの顔が浮かびます。

船の甲板にずっと座って海や空を眺めていました。
(この船、甲板が板張りになっていて、素足に快適なんです)
空が青く、むくむくと空に立ち昇る白い雲を見ていると元気が出てきます。
こんなにきれいな空を眺めるのもひさしぶりです。
いつもの生活の中で7時間も空を眺めることはないですよね。

乗客は鹿児島から名瀬までの人が多いようです。
鹿児島から乗り、名瀬でおりなかった人が2人、名瀬で乗ったのが5人、古仁屋ではおばあさんが一人乗り、徳之島でおりました。徳之島で乗ったのが数人。
名瀬から沖永良部まで乗客は10人足らずだったのです。
女性専用船室があり、そこに荷物をおいたのですが、私一人でした。

島から島へ、ひとつの島影が小さくなり、次の島が海の向こうに見えてくる。
島旅はいいですね。
つい飛行機での旅が多くなりましたが、船に乗る旅の魅力を再認識しました。

04年9月27日(月) 船に乗りました。

奄美大島、沖永良部島に行ってきました。

何だか、実に多くの行動をとりました。
ちょっと、欲張りだったかもしれません。

1,写真家の濱田康作さんインタビュー 第4回目
2,裏航路の船で名瀬、古仁屋、徳之島、沖永良部島へ
 ずっと甲板で島を眺めていました、7時間。
 ずっと、空を眺めていました。何とも贅沢なひとときでした。
3,沖永良部高校を訪ねる。これが新企画です。
4,オートバイで島の隅々をまわる
5,沖永良部で芭蕉布を作っている人の工房を訪ねる
6,32年前に初めて訪れた時にお世話になった山下のおじさんを訪ねる
7,前登志朗さんの和食レストランで旨いもの三昧を食べる
8,奄美大島でダイビングサービスをする渡辺さんの案内で海を眺めに行く。

どれもこれも、最上級のプログラムでした。
まだまだ会いたい人に会えずに帰ってきました。
今年はまた12月に行くことになりそうです。

今日は「1」の報告をします。

この数年、私は「島の教え」を知るために主に奄美大島に通いました。その間に「絵本」にも取り組んでいました。絵本は月刊絵本「おおきなポケット」に『なつほの島旅』として今年の3月にでました。島に旅した夏帆を通して島のおもしろさ、不思議さ、教えを描いたものです。
写真家の濱田康作さんに何度か森の中に連れて行ってもらいました。ハブにも出会いました。
そして、森や川、海の近くに行って、バックに自然の音を聞きながら康作さんにインタビューをして島のことをたくさん語ってもらいました。

「島の魅力」「森の魅力」「島へ最初に住みついた旅人が島人」「島の教え」「神さまの道」といった内容です。このテープは島の愛好家集団「ぐるーぷ・あいらんだあ」の会員が手に入れることができます。
「音」というのは、何とも臨場感に溢れるものです。
テープ録音しているところに島の人の声が入ったり、雨が降り出してきたり、バスがやってきたり、集落内のアナウンスが始まったりと、生録音の楽しみは尽きません。

(続く)

04年9月20日(月) 奄美大島・沖永良部島へ

明日から島へ行きます。奄美大島から沖永良部島へ。
今回の旅の目的のひとつは名瀬から古仁屋経由の船に乗ることです。
奄美大島の西側を海からみてみたいと思います。
飛行機で奄美大島の西側をみたときに、その険しさに驚きました。
山村留学をしている「戸円」や「管鈍」が、どれほど島の端っこにあるのかを肉眼でみたいと思いました。島の西南の端っこの西古見の集落や管鈍、自分が陸路を訪ねたところを海側から見てみようと思います。
ひとつの島を知ろうとするときに、さまざまな角度から見てみたい。
一人の旅人として。取材の人として、行政の委員として。
さまざまな立場に立ってみたのも、見えるものが変わって来るかもしれないと思ったからです。
これからは一人の旅人として、そしてカメラマンとしてまわってみたいと思っています。

沖永良部では、企画している活動があって、その打ち合わせに行きます。
これはまた詳細が決まったらご報告します。

では、夏帆が急に具合が悪くならないことをだけを祈っているのです。


04年9月14日(火) 島へ

気がつくと、島に1年間も行ってないのです。
これは、「病気」だ・・・
娘の夏帆の写真展を3回もやって、これに去年の9月から今年の5月までかかりきりだった。
この間、北海道に3回、大阪に3回行きました。
これは、仕事であるしやりたいことをしていたので、「病気」ではないのです。
そのあと、夏帆の入院、24時間態勢の介護が続き、やっと来週、島へ。
久しぶりだ〜〜〜
詳細は、またのちほど。



8月27日 あいらんだあ発送準備

あいらんだあ誌の103号、104号の発送を9月5日にします。
その名簿の管理、ラベルだしを「筆王」相手にやっています。
河田さんってパソコン、デジタル苦手でしょ、と言われます。
そう電卓でお金の計算をするのも苦手、仕事の採算を合わせるのも苦手です。
が、必要は神なり。
必要な分だけはなんとか、やっています。


8月16日(月) 祝『シマダス』発行

日本離島センターから『シマダス』改訂版がでました。
改訂版の「企画会議」のような席が設けられ、出席したのが2年前です。
おそらく改訂版は翌年の夏前にはでる予定で進行する予定だったのではないかと思います。シマダスの編集は編集者が何人もチームを組んでいっせいに進行する・・・のではないことを知っています。
2年前と言えば、まだ私のこんな簡単なホームページもない頃です。が・・・
編集作業をしているうちに、校正作業をしているうちに、情報は旧くなってしまうのではないか、印刷版もいいけど、インターネットで『シマダス』を公開してはどうか?
という意見を述べました。(しかし、それを管理し続ける予算があって可能なことなのですが・・・)

現在は「旅の情報」は、インターネットの方が早くて確実です。
情報源としての印刷物は衰退の一途をたどるのではないか?という気もします。

さて、『シマダス』です。
この一冊の本の大きな価値を感じます。生の情報をインターネットを通してリアルタイムで流して欲しいという意見を自分で撤回したくなるほどの、価値を感じます。
それは、島々の存在をひとつの歴史として定着させている点にあります。

デジタルな情報の特徴は「消去性」にあります。
変化し続け、さっきまでの情報は「消去」され続けていきます。
あるひとつの島の情報に限れば、それは大切なことです。
しかし、日本の全体の島々のある時代の記録として、また比較により島全体をつかみ取るためにはこのような形の「事実の記録」が歴史性として必要なのだと思います。

それを可能にしているのは、ほとんどの編集作業を三木剛志という一人の編集者がやり通しているからだと思うのです。簡単に言ってしまえば、島に対する愛、本に対する愛がなければできない仕事だということです。

「すごいよね、おめでとう」

自分がいい仕事をした、できたという感じがすることはそんなに何度もない。
どうしてもやり遂げたい欲求に支えられて「頼まれなくても」やる、そんな「しごと」です。
(私の場合は、今年の写真展がそれにあたりました。)

「三木さん、おめでとう」
8月8日(日) 「これからの仕事」

 夏帆のようすは以下のような感じです。
 最初、私の仕事を3カ月「オフ」にしよう、と考えました。
 しかし、ちょっと甘かったかな?
 夏帆の今の状態と共存しながら、ほんの少し、仕事を続けるというのが現実かもしれません。
「ほんの少し」というのがミソです。「ほんの少し」となったら、やりたい事のみしかできません。
 どこの島に、何をしに行くか?
も、ほんの少しです。

 だんだん、やりたいことがふくらんできています。
 行動の「オフ」は、心の想像力をかき立てます。

 動き出したら、お知らせします。


8月8日(日) 夏帆の様子「元気へのコース」

 5月に入院した折りに、痰がひどくて食べ物が充分に食べられなくなり、鼻から胃にチューブを通して経管栄養を摂る事になりました。
 口から栄養がとれなければ、衰弱していきやがては死を迎えるのが、動物の条理でしょう。
 もう17歳の重度の障害児が一度経管栄養になったら、もう口から栄養摂取していくのは難しいだろう。危険を冒して口から食べ物を摂り、誤飲して肺に入ったら・・・それを繰り返したりするよりは「安全」を優先させるべきではないか?
 という見方がありました。

 夏帆は本能としてものをえん下(飲み込む)能力を持たずに生まれました。夏帆は16年も食べるリハビリを続けてきました。
 今、だいたい一日に600〜800グラムの食べ物を口から摂っています。
 一日に必要な最低量はおよそ、1400グラムくらいです。

 もし、入院時のアドバイスに従い、口から食べる試みをしなかったら・・・
 一生、経管栄養で生きていくことになったでしょう。

 夏帆は、口から食べるのがしんどいときは、チューブで注入するのをいやがりません。でも、私の椎間板ヘルニアがしんどいのでチューブでの注入にすると、
「私は、自分で食べたい!」
と、怒り、口をモゴモゴと動かします。

 今日、影絵の展覧会に連れ出しました。
 光と影の絵ならばみるかもしれないと思いました。楽しんでいるようすでした。

 一日に一度は外にでること。9月になったら学校に行くために、学校への往復3時間分を車イスに乗って過ごすことが8月の目標です。
 本当に一ミリずつ進んで行く「元気へのコース」です。
 



7月25日(日) 「トカラ列島 1961」 中谷吉隆写真展

今から43年前のトカラの写真展を見てきました。
今日が最終日でしたので、ご案内にはならないのですが、貴重な写真です。作者の方に、
「あなたがまだ生まれてない頃の写真だよ」
と、言われたので、口答えはしないことにしました。
90日間滞在して撮ったそうです。
そんな以前の島の暮らしを切り取った記録は貴重です。
その中の102歳のおばあちゃんの写真のやさまごさんが見にきていました。
写真の記録の力を感じるとともに、会場のなかが温かな雰囲気に包まれていました。
関心のある方には、カタログを購入してきましたので、次のあいらんだあの集まりでお見せします。


7月21日(水) 不良の母・復活「小樽へ一人旅」

重度の障害児を置いて旅に出る母を、自ら「不良の母」と称していました。
しかし、島に行くのは仕事である、という「いいわけ」が自分のなかにありました。夏帆が生まれてからは友人と1泊温泉へ、というのも何だか後ろめたくて行けませんでした。
このたび、周囲の勧めもあって、24時間介護から解放されて息抜きの旅へ行くことになりました。(そして、実際背骨がすごく痛くて、ホントの骨休めでもありました)

「どこへ行こうか・・・」
「1泊でも奄美に行ける」
と、豪語していたのですが。でも奄美に1泊ではかえってストレスがたまります。足りない・・・
東京から札幌への飛行機は30分ごとにあり、空港から小樽へは直行70分です。ホテルまでは駅から10分。これなら、夏帆の具合が悪くなってもすぐにかえることができる、という意味で小樽は「近い」では、ありませんか?

どこに行こうか・・・
行きたいところの大切な条件として「宿」があります。去年行って気に入ったホテルに2泊予約を入れてでかけました。
考えてみれば、島へ行くことは、どこか仕事につながります。
仕事につながらない、お金を消費する遊びの旅、ホントに「リ・フレッシュ」の旅になります。
行き当たりバッタリ、いろいろ楽しんだのだけれど、ひとつは、旧い建築物を見て歩きました。これはかなり魅力的な小樽です。もう一つ、小樽は銭湯の歴史のある街でもあり、銭湯にも入りました。帰る日も、午後1時からの銭湯に入りました。
温泉巡りをする男の人の気持ちが少し分かる感じです。

今度は雪明かりの小樽を訪れてみたいと思います。
この1年、さまざまな転機を迎えて、視点の調整を試みてきた感じがします。

次は、やはり!
「島の写真展」です。


7月2日(金) 夏帆、学校へ(博打の話)

 もう、夏ですね。
去年の夏休みに夏帆の写真のセレクトをして、ニコンサロンの審査に応募して、それが通って写真展をすることになってから、あっという間にまた夏が来ました。
 それまで、私は、「毎日」「絶対に」本屋さんに行くのが日課でした。
本の動向というか、とにかく本屋さんに行くのは、私にとって仕事でした。
 写真展の準備を始める前に、書いていた書き下ろしの単行本をが一冊「没」になりました。
 編集者の求める水準に原稿が達しなかった、のです。
 1冊分の原稿を3回書きましたので、自分自身に対する「リミット」でもありました。
 夏帆に関して書いていました。
 これ以上、書き続けても夏帆が生きていてくれる時間を締め切りにしたら、間に合わないかもしれないと思いました。文章にひとたび見切りをつけて、
「やっぱ、才能ない・・・」
と、それから写真の審査に応募しました。
 この場合、写真展の審査に通ってから本を「没」にするのではなく、失ってから、次を求めるのです。これ、「旅」に似ています。
 分岐点に立って、二つの道を同時に進んでみることはできないのです。
 いわば、「美学」です。

 書くことと撮ることの両立が不可能と言っているのではありません。
 その状況のなかで、博打に出た!
だけのことです。
 写真をやってみたかった。写真の方が、自分に向いていると思った。その写真展に本1冊書くくらいのエネルギーを注いで、文章をつけてみました。
 楽しかった。本屋さんに行く日課を忘れていました。
「本屋さんに行かなくても、生きていけるんだ」
と、思いました。

夏帆は5月に23日間入院して、1カ月自宅で静養しました。
「どこかで、悪循環になっているような気がする」
と、長いおつきあいのリハビリの先生に言われました。
「もう、病気は治ったのだから、学校に行ってみたら?」
と、言われたのです。
鼻から胃にチューブを通した状態で片道1時間半かかる学校に行くのは用意ではありません。吸引機を車イスに積んで両親そろっての登校です。
夏帆は今までもさんざん、生と死の淵に立って、博打を打って来ました。
学校に行くことは食べる意欲のためです。再び、チューブをとって自分の力で食べさせたいと思っています。食べることは生きること、この原点を私たちは、忘れそうになります。
仕事をしないと食べる意欲もなくなります。
(経験、ありますか?)
今の夏帆にとっての仕事は学校に行くことだなあ、と思ったのです。
ある時期は、夏帆にとっての仕事は「息をすること」だったし、ある時期は「薬を飲むこと」だったことを思い出します。
学校に行った夏帆、ニコニコ、キョロキョロ、楽しくて仕方ありません。
今行っている学校、とっても!いいんですよ。
週に1回、行くことが7月の目標です。 

夏帆の博打に比べたら、私の博打はたいしたこともない・・・という話でした。



6月27日(日) 「見える喜び」

金曜日、地平線会議に行きたかったので夫に仕事を休んでもらい、その代わり休日出勤をしてもらうことにしました。夏帆の24時間、家から出られない生活なので、週に1日くらい動けるように夫に「フレックスタイム」での勤務を頼むことにしました。
地平線会議ともう一つ、タクシーを乗り継いで行ったのが、「宮本隆司写真展」です。
友人のデザイナーが勧めてくれたのだけれど、彼女自身は仕事が忙しくて行けそうもないとのこと。写真展のタイトルは「壊れゆくもの、生まれいずるもの」です。簡単に行ってしまうと「歴史的建造物の解体現場」を撮っている写真が、この写真家のメインの写真?
なのかと最初は思いました。
神戸の震災後の写真、香港の九龍城、そして、アンコールの遺跡の石の間に見える植物の巨大な根、7つの部屋に分かれていますが、その「アンコール」のグリーンを見たとき、何かが見えた!気がしました。今まで、「風景」の写真がよく分からなかった。
被写体が何であろうと撮る人が求めているのは何かの「真理」のような気がするのです。
建物の死体ばかりを見せられているようで、辛かったのが、ここで変わります。
石に刻まれた人の顔に、悠久の時を感じます。
そして次が、ベルリンの川の中州にある美術館島の再建の写真です。
そう、何かが始まるのは「島」からなのです。
たとえば、フランスという国は、セーヌ川の中州のシテ島から興されたということです。
そして、次の部屋では、見る人も床に座り込まなくては「見えない」位置に展示された段ボールの家です。そこには、無名の建築家たちが設計した段ボール製の家が並びます。東京ばかりではなく、セーヌ川の橋の下に作られた段ボールの家やニューヨークのものもあります。
そして、次の部屋では、写真家自身が木の小屋(ピンホールカメラ)を作り、その中に入り込み小さな穴をあけて写真を撮ります。
そこには、見ることの原点があるようです。
一人の作家のものをこのように「通して」見ることのできる写真展は珍しいと思いますので、関心のある方は「見るべし!」です。

今は夏帆のことで、家から出られない!
日々ではありますが、行けそうな範囲を動いています。
出かけられる時にフランスの「シテ島」も、ニューヨークの「マンハッタン島」も行きました。
過去の行動が今の「見る目」を支えてくれていることも確かです。
このところは、写真を見る楽しさにハマッテいます。


6月13日(日) 世界報道写真展

夏帆を夫に任せて、東京都写真美術館に世界報道写真展を見に行きました。
これは、以前は日本橋三越でやっていたものだと思うのですが、なるべく見に行きます。
これほどまでに世界は悲惨なのか・・・
と、厳しい写真の多さに驚きました。
写真が、あまりにリアルです。
夏帆の写真展をやったから思うのかもしれませんが、「撮る側」と「撮られる側」の間にあるものを考えてしまいます。
撮られた人は、自分の悲惨な姿を見られることに抵抗はないのだろうか?
「報道」という名の下に「肖像権」は、ないのだろうか?
私自身「撮る側」でもありますので、考え込んでしまいます。
誰かと、こういうことについて議論してみたい。
と、思います。




5月31日(月) 写真展終了 夏帆退院 24時間介護生活開始

まるで、綱渡りのようでしたが、夏帆の入院中の付き添いの病棟から大阪に展示の日、初日、それに土曜日、日曜日に向かいました。
そして、また病院の付き添いに戻るという綱渡りでした。
お会いできなかったかたもいて、申し訳ありません。
(大阪展は会場にいない作者が多く、会期6日間のうち3日間作者がいたのは多い方とのこと)
しかし、最初は夏帆も連れて行きたいと、リハビリの診察を19日に予約していました。
残念ですが、仕方ありません。
1,イヤだけれど受け止めなくてはならないこと。
2,仕方ない・・・・
こういうことが、障害児を育てているとたくさんあります。

今回の入院は23日に及びました。
その間に、夏帆は痰がゼロゼロして食べられず、鼻から胃にチューブを通して栄養を注入しています。口から食べられるように、また気の遠くなるようなリハビリが必要です。
しばらくは介護が中心の生活になりそうです。

写真展が終わったら夏帆との時間を持とうと仕事をいれないようにしていたので助かった。
さまざまな仕事をお断りして申し訳なかったのですが、お引き受けせずにほっとしているのも本音です。

あとは、原稿の手直しが1本のみです。

あいらんだあの発行が遅れていてすみません。
少しずつ、追いつきます。
(私が病気ではないので)5月21日(金)

明日22日(土)昼過ぎから
23日(日)10時から6時まで大阪展会場にいます。


5月18日(火) 20日初日大阪会場にいます。

明日19日は搬入と展示のため大阪に発ちます。
20日(木)の初日は10時から18時まで会場にいます。
お待ちしています。

5月16日(日) 大阪展初日行きます

夏帆、痰のため食べられず、とうとう経管栄養になりました。
鼻から胃にチューブをとおします。これが、なかなか・・・
辛いところです。
夏帆の病院では、誰かが24時間付き添わなくてはなりません。
男性が付き添い、泊まるためには「個室」でないとなりません。
19日(水)の写真の搬入、展示の日と、20日(木)の初日は行きます。
そして木曜日の夜、東京に戻り、金曜日は夏帆の付き添いをして、夏帆の状態が安定していれば、土曜日の朝、東京を発ち、土曜日の午後と日曜日朝から6時まで会場にいて、日曜の夜東京に戻るという予定でいます。
会期の24日(月)と25日(火)は会場にいられないと思います。
このような感じの綱渡りです。
今日、日曜日今からデザイナーの清水さんのところに行って、会場の空間構成の図面を作ります。まさに、このような時は、火事場の馬鹿力、あるいは・・・
天の助けを待つ・・・です。
みなさんにお会いできるのを楽しみにしています。


5月11日(火)

入院6日目。顔の表情も目の動きも元気。
熱もなく、感染の数値も下がっているのです。
なのに、薬や食べ物を飲み込んだあとに痰が出せない。
酸素数値が下がる・・・
ひょっとすると、吸引をして痰を出すのが「嫌い!」なのか。
み〜んな、嫌いに決まっているけれど。
ねてばかりいるからダメなのか?
明日で1週間。
大阪、私は帰宅が23時。
これから、ちょっといろいろ片づけをして、それからねて明日又病院に戻ります。


5月9日(日) 夏帆、入院中

夫が夏帆に付き添い、家に戻りました。
「火事場の馬鹿力」の状態で、仕事を片づけます。
あとは、大阪展の準備。
会場構成を考えます。
リハビリでとてもお世話になった大阪は、夏帆にとって「第2の故郷」
大阪っぽく行こうと思うのです。
病院に戻るまであと数時間。
夏帆はとても元気に見えるのに、薬や食べ物を飲み込んだあとに、痰が絡んで呼吸状態が悪くなります。水分と栄養は点滴で摂っています。
うまく食べ、呼吸に負担が行かなくなるまでは家に戻れません。
大阪に私が行く日程は「未知数」です。

5月6日(木) 夏帆、入院

やはり、夏帆入院になりました。
連絡がつきにくくなります。
用事のある方は、留守番電話に伝言をしてください。
パソコンも携帯も使えません。


5月5日(水) 大阪ニコンサロン下見完了&夏帆入院?

会場の下見をしてきました。
図面を見て頭で考えるのと、現場に行って体で感じるのは大違い。
考えていたレイアウトではなく、別の空間構成の方がいいかな?
と、思案しています。
これって、なかなか楽しい。
写真展の空間構成は、光のデザインではないかと思えたりします。

ところが・・・
4月中、ずっと調子の悪かった夏帆が、とうとう入院、かなあ・・・です。
きのう、救急外来に行き、点滴をして少し元気を「復活」した夏帆ですが。
きのうの時点では、絶対入院ではないけれど、親が希望すれば入院してもいいというギリギリラインでした。
痰が苦しそうで、今晩痰と一緒に「血」が出た。
これは入院領域、でしょうね。たぶん・・・
今日一日すごい剣幕で仕事をしてメールを送りまくり、またそれでも一応大阪行きのホテルをインターネットで予約しました。写真展まであと2週間、原稿が短いものが3本、ゲラ校正が1本。
そして写真展の準備。機能のインタビューの校正もある・・・
この綱渡りを切り抜けられるか・・・
病院にパソコンを持ち込めないのが難点です。(リハビリ入院の時はパソコン持参でしたが)
去年から、夏帆の体調を最優先して仕事はほとんど断っているのですが、それでも断れないものもあった。
写真展が終わったら、しばらくは休業します。
「なっちゃん、なんとか切り抜けてくれ〜〜」
「ね」



4月23日(金)  大阪ニコンサロン写真展準備開始

きのうも、今日も学校を休んでいる夏帆です。
母は家来。ヘルパーさんがきてくれ、一日2〜3時間の労働時間を確保して、大阪展の準備を開始しました。夏前に出版される島の本の執筆に少しだけ参加する原稿も書かなくてはならないのですが、まず、仕事部屋に積まれている写真展のパネルを片づけないと、本のための写真の棚にもたどりつかない状態です。
連休の間に、デザイナーの清水さんと大阪ニコンサロンの会場を下見してきます。
その前に図面(写真を展示する壁の長さ)を知らなくてはなりません。
区民ギャラリーで開催したときには、図面と実寸が違っていて苦労しました。
自分たちで展示するのですが、目測で違うなあ〜 と思ったのですが、まさかほかの人が展示しているときにメジャーで測るわけにもいきません。

体験することは、学習することでもあり、
「次はこうしよう、同じ失敗を繰り返さないように」
と、賢くなります。

でも、夏帆の写真展は、大阪展で一段落。
大阪展、手抜きはできないぞ。
というより、「東京」よりも「地方(または、島)」でやるときの方が力を入れるべき!
というのが、私の美学ではあります。
美学も夏帆「様」次第ではありますが。



04年4月21日(水) 「写真展第2弾」終了しました。夏帆、また熱でダウン。

目黒区民ギャラリーでの写真展が終了しました。
先週の金曜日熱が38,8度まで出て学校を休みました。何かをしようとすると、一方に「爆弾」を抱えている「夏帆」がいます。
たとえば、夏帆をテーマに本を書いていたとしても、一方に毎日一日ずつ生きている「ナマ夏帆」が存在します。
仕事をする「河田真智子」と夏帆の母親である本名の「榊原真智子」は、その両極を往復しています。金曜日の28,8度から復活して、土曜日と最終日の日曜日は夏帆は写真展会場へ参加し、「受けつけ」をしました。夏帆自身の写真展だからです。
16年分の「ありがとう」を言うのは夏帆自身、その表現手段として、母親がカメラを使いました。
懐かしい人たちがたくさんきてくださいました。

テーマの「ありがとうの16年」には、夏帆が今まで関わってきた人に抱っこされている写真、手をつないでいる写真を壁一面に101枚並べました。

そして、また熱が38,7度。
この数日、外気温も10度以上あがったり、下がったりで、大人でもその差に体がついて行かない状態ではありませんか?夏帆も疲れたと思います。
きのうの放課後のヘルパーさんには、いつものように飲み込みに勢いがないと言われ、今日のヘルパーさんには、いつものように笑わない、と言われました。何度も検温をしてもらい大丈夫そうでしたが、夜になってお腹を触ると「熱い」、熱は一気にあがります。

写真展はもう1回、あります。
大阪ニコンサロンで5月20日から。新宿ニコンサロンでの開催のアンコール展ですので、内容はほぼ同じです。
写真展を立て続けに3回もするのは、障害児の母親としてやはり・・・
「身の程知らずだっただろうか・・・」
熱い顔をしている夏帆を見るとそう、思います。
一段落したら、今引き受けている仕事以外は活動は最小限にして休息時間をとろうと思っています。

自分のやりたいことは何なのか?
好きなことは、何なのか?
集中したいのは、何なのか?
「写真展をすると、自分が見えるわよ」と、ある写真家に言われました。
自分が、写真という表現手段が好きなのだ、と強く感じ続けた日々でした。
自分が撮った写真が人の心に響いてゆくのだと感じられることは、カメラマン自身のおおきな感動です。
夏帆の写真もたくさん撮ったけれど、それは私が撮った写真の全体の20パーセントくらいです。夏帆を撮った4倍以上、島の写真を撮ってきました。
まだまだ、撮りたい島の写真がたくさんあります。
「はやく、カメラを持って島に行きたい」

夏帆という「爆弾」を一方に抱えながら、カメラを持って島に行きたい、と、いつも思っている自分がいるのです。




 「写真展のお知らせ」 (03年9月記載)

重度の障害を持つ娘の夏帆の写真展をやりたいと思って、場所を探していました。
ダメで元々、とニコンサロンの審査に応募したのです。
「通った!」のです。
びっくり。
通ると思わなかったので、目黒区の区民ギャラリーも申し込んでしまいました。
3月16日(火)から29日(月)までが新宿のニコンサロン
4月13日(火)から18日(日)までが目黒区美術館区民ギャラリーです。
何しろ、初めての写真展、わからないことだらけ。
取り急ぎのお知らせです。

大阪アンコール展も決まりました。(04年2月記載)
5月20日(木)〜25日(火)です。大阪ニコンサロンにて


4月17日(土)  目黒写真展、会期は明日まで。

きのうの朝、夏帆の熱が38,5度・・・
「うわ〜〜、だめだ」
まず、学校を休ませる連絡。
区立のギャラリーなので、誰かが行かないと入り口をクローズしてしまうということ。
午前中は、玲子さん、午後は裕子さん、と、写真展会場の方はなんとかなると思うけれど、
夏帆を病院に連れて行く場合はどうするか?
熱は38,7度、38,8度に。
夫はどうしても会議があって午後からは会社へ。
自宅に近い道子さんにも「緊急時要員」として待機してもらって私は会場へ。
きのうは救急外来、入院となったら・・・と冷や冷やしながらの一日でした。

土曜日の今朝、夏帆の熱は37,2度。「なっちゃん、偉い!」
「腹、へった〜」
と、文句を言っています。
午前中様子を見て、元気ならば今日の午後は夏帆も会場へ。

会期中、このこの写真展を東京と大阪だけではなく、ほかの地方からもお誘いをいただきました。でも、今回の夏帆の様子を見ていると、無理だなあと思います。
特に、「ありがとうの16年」の100点の展示は今回のみとなります。
会期は今日と明日まで、明日は午後4時までです。
お出かけいただけるのをお待ちしています。


4月15日(木)
イラクでの人質が解放されました。それを伝えるニュースキャスターの嬉しそうな顔が印象的です。おそらくは、ニュースキャスターも父親としての思いが顔に出ているのだろうと、感じます。
「いい人だな、声は冷静なニュースキャスター、でも顔いっぱいが嬉しそう。
失われるかもしれなかった命のあることの喜び、その表情、それを伝える映像の力を感じます。
明日も写真展会場にいます。
夏帆の写真に囲まれて過ごす時間、私の人生のなかでも最高の時です。
生きていることの喜び、です。


4月14日(水) 写真展2日目

佐渡から来た千鶴子さんが、庭にさく水仙の花を持ってきてくれました。
会場のテーブルの上で佐渡の香がします。
北海道の水中カメラマンの倉沢さんも来てくれました。
広い会場で、きた人同士がお茶を飲みながら雑談をしていく。
いい感じです。
理想的な写真展の雰囲気です。
懐かしい人たちに会えて嬉しい写真展です。
どの方もわざわざ来てくださっているのに、ニコンサロンでは(来客数が多すぎて)
お話できない方もたくさんいました。申し訳ありません。
日曜日までの会期の区民ギャラリーの方にもお出かけください。

4月13日(火) 写真展初日

10時から14時までの4時間で154点の写真を展示しました。
写真展展示のプロ、デザイナー、照明のプロ、と、スタッフは強者揃いでした。
103点の小さいサイズの写真を全体でおおきな壁一面に見えるという試みをしました。
この分がニコンサロンと違う部分です。
何しろ、会場が広い、その広い空間を生かして、真ん中を全部開放してみました。
本を書くこと、印刷物を作ることもおもしろいけれど、私は「ライブ」の方が見る人と同じ空間を共有できておもしろいと感じています。
お時間のある方、お出かけください。


4月13日(火)

今日から目黒区民ギャラリーでの写真展
「生きる喜び〜ありがとうの16年〜
が、始まります。
場所は目黒駅の西口からゴンの助坂を下りてください。おりる坂道が二つあるように見えますがどちらをおりても合流します。それから、最初の川(目黒川)をわたり、細い道を右へ。桜の並木を歩くと、その一体は区の施設で、美術館の案内板が出てきます。目黒区民ギャラリーは美術館の隣の建物です。バス1駅分歩くことになりますが、バスを待つより、歩いた方が速いです。
初日の今日は、自分たちで搬入、展示があるため午後2時から6時です。
明日以降は、10時から18時までです。
では、お待ちしています。

4月11日(日) 写真展まであと2日

ニコンサロンでの大きめの写真に加えて、区民ギャラリーでは「ありがとうの16年」分の小さな写真が104点加わります。
そのキャプションをつくっています。
その104点をどう並べるか、今日、清水さんのところに行ってレイアウトを考えます。
今日、明日が、準備の山です。
今回は写真展の初日の13日(火)の午前10時から午後2時までの4時間で全部展示を自分たちでしなくてはなりません。友人たちと10人くらいでやります。
さあ、ダッシュ!
それから、ずっと書こうとしているのですが、
ニコンでの2週間で最も考えたこと。
「誰のために撮るのか?」
写真も、文章も、伝える者の姿勢として考えなくてはならないことですが、
被写体のために、被写体が喜ぶ写真でありたい・・・
この事は、まだ、言葉としてまとまってないので、のちほど書きます。

4月5日(月)

新宿ニコンサロンでの2週間の写真展、まるで人生のなかの「嵐」のようでした。
とにかく、一日に何百人の人に会う、会い続ける。これはまさに「嵐」です。
いっぺんにたくさんの方に会うと顔は見えているのだけれど、しかも知っている顔なのだけれど
顔の記憶と、その顔の人の事柄がすぐに結びつかない、認識できないという現象が起こります。
認識しようとしている人の向こうに、知っている人がいる。しょっちゅう会っている人なのに
「近所の人だ」
と、気づくのに時間がかかるという感じです。
そういう状態を、ぼーーーーっとしているというのか、超緊張状態、というのか。

そして、写真展が終わり2〜3日経ってみると、「あの日々は遠い昔のことのように」思えるのでした。この感覚、遠い地に旅して帰ったあとの感覚に似ています。

そして気づくと次の目黒区民ギャラリーの写真展まで10日あまり、追加の100点の写真をどう展示するかの相談を清水さんと相談する予定の前日、4月3日(土)の夜、夏帆が突然、吐き出しだ。吐いたものを逆流して肺に入ったら大変だし、呼吸が詰まっても大変なので、吐かせる姿勢にコツがいります。「うへ〜〜、(私が)椎間板ヘルニアになってから腰にこたえる〜〜」と思いながら椎間板に悪い姿勢で抱っこして吐かせました。
2回吐いたところで、胃のなかのものはほぼ出きったようです。
そのあと、ちょっと姿勢を動かしただけで3回目。もう胃液を吐いています。
「病院に連れて行った方がよいかも・・・」
また、姿勢が動いたら、今度はねっとりと黄色の透明な液を吐きました。
吐くときには、呼吸も苦しそうです。
救急外来へ。
すごく混んでいて1時間半待ちました。午前1時を過ぎています。
夏帆は車イスに座ったまま寝ているので、大丈夫そうです。その横で夏帆の父親は夏帆のリュックを枕に待合室の長イスで寝てしまった。ドクターがきてくれ、診察室が重症の患者さんで本当に混んでいて申し訳ない、と。私は、こういうときは眠るなんて! できないので。
この長いすはちょうどいいなあ。と、写真を並べて展示の順番など考えていました。
家に帰ったのが午前3時。
夏帆は5度目に吐きました。今度は緑色のさらさらとした液体、これは十二指腸からのようです。
辛い思いをさせました。

区民ギャラリ−の写真展の期間に夏帆が入院したら・・・・
と、思うとヒヤリとします。
このように要所、要所、大人を脅かし、自己存在証明をする夏帆です。
「写真夏帆」よりナマ夏帆」を大事にしてね。
と言っているのです。



3月29日(月)が
写真展最終日になります。最終日は午後4時で終了します。
今日まで本当にたくさんのかたにおいでいただきました。
何度もきてくださったかた、2回目はお友達や家族を連れてきてくださったかた、
そして、この写真展のために夜行バスで青森から「新聞記事を握りしめて」きてくださったかた、
裏方を引き受けてくれた友人たち、本当にありがとうございます。
夏帆を一生懸命に育ててきた「ごほうび」のような2週間でした。
そして、人生のなかでの最良の日々でもありました。
ニコンの方たち、現像所の方にはとても力になっていただきました。
あとは、明日を無事に終え、4月13日からの目黒区民ギャラリーでの写真展の準備に入ります。明日、お時間のある方、あの素晴らしい空間、ニコンサロンにお出かけください。


3月27日(土)
は、朝10時過ぎより終わりの19時までおります。
夏帆も午後3時くらいから受付嬢として会場にいる予定です。
日曜日は親戚に不幸がありましたため、11時過ぎから夕方4時くらいまで告別式に行くために河田は会場におりません。
なるべくこの時間をはずしておいでいただけるようにお願いします。


3月26日(金)
は午後1時頃になりそうです。


3月25日(木)は10時30分頃から会場にいます。
3月26日(金)から夏帆の春休みのため、この日はお昼過ぎになります。
今日も雨でしたが、懐かしい人や、旅の仲間たち、特に地平線会議の人がきくれました。
なんと、マリン企画時代の「上司」もきてくれびっくり。
ずっと前にお世話になったニコンのかたもおいでいただきました。
若かった頃に応援してくださったかたに再会できる喜びは大きいものです。


3月24日(水)
は、11時頃から会場にいます。



3月23日(火)は11時過ぎになります。
10時からは大学生が受付をしてくれるので、私は少しゆっくり行かせてもらいます。
今日も寒く、雨が降っているにもかかわらず、多くの方がきてくださいました。
ありがとうございます。
写真展の雰囲気がやっとつかめてきました。
今日はあいらんだあの旧いメンバーもきてくれ、美人のNさんがジャズライブに行くとのことで
Mおじさんも一緒に行きました。
みなさん、Nさんと、Mおじさんは誰だか考えてみてください。


3月22日(月)は
夏帆を学校に送りだし、11時頃より会場にいます。
ヘルパーさんや、ボランティアの人をシフトで組んで何とか毎日会場にいるようにしようとしていますが、26日(金)から春休みに入るため、13時にヘルパーさんが来るまでの時間の保育者がみつかりません。
この日は14時以降になる可能性大です。
25日の毎日新聞夕刊で写真展のことが取り上げられるそうです。
だから26日は朝から会場にいたいのですが・・・
です。
慣れない写真展初体験で、毎日帰りの大岡山から自宅まで歩くとき、今日などは呼吸がハ・ア
ハ・アとなっています。
自宅に戻って、まず夏帆の横に30分くらい横になります。
それから、ごはん。
毎日のように友人たちが手伝いにきてくれます。
ありがとう。


3月21日(日)
は、10時30分くらいから会場にいます。
お待ちしています。

3月20日(土)
は、朝から会場にいます。
お待ちしています。


3月19日(金)は鍼灸に立ち寄り11時くらいには会場にいます。
3日間が過ぎました。
雨、風の中、250人くらいの方がいらっしゃいました。
友人が手伝いにきてくれ、助かりました。
やはり受付が必要な感じです。
お時間のある方、いませんか?
写真の好きな方。
この3日間で、さまざま頂き物をしたり、お礼を言わなくてはならない方がたくさんいますが
追いつきません。
失礼をお許しください。
帰りは大岡山から家までは前屈みの状態でたどりつきます。
では、会場でおめにかかりたいと思います。

3月18日(木)は10時15分くらいには会場におります。
午後7までいます。
19日(金)は椎間板ヘルニアの鍼灸に立ち寄るかもしれません。
昼から終わりまではおります。
の、予定です。

3月17日(水)

写真展初日を無事迎えることができました。
ありがとうございます。
今日二日目、10時から19時まで、会場におります。
お待ちしております。


3月14日(日) 写真展明日が搬入

いよいよ、写真展本番です。
パネルにした写真を会場に展示するのを立ち会います。
友人たちが手伝ってくれ、16日初日のオープニングパーティの準備をしています。
このホームページを見た方は6時からのパーティにどうぞお出かけください。



3月12日(金)

明日のNHK「おはよう日本」の7時30分頃から写真展のことも含めて紹介されます。
早起きのできそうなかた、みてみてください。



3月5日(金)

写真展カウントダウン

ニコンサロンの方の準備はほぼ終わりに近くなりましたが、4月に行う写真展の方は100点の「抱っこ」と「手をつなぐ」写真を展示する予定です。
こちらの準備がまだあります。
さらにNHKの「おはよう日本」で少し紹介していただくことになり。
そのロケがあります。いろいろな御連絡に対応したり、とすることは山ほどあります。
あとは、とにかく夏帆が熱を出したり、ぜんそくになったりしないようにと用心です。
2月に夏帆の熱で、作業が1週間止まってしまったので、その詰め詰め作業に追われていァmす。遠くの方も写真展のためにきてくださるようで、会場にいられるようにと思い、気持ちが緊張します。


2004年2月23日(月)「加計呂麻島のたんかん」

加計呂麻島の優美ちゃんから、夏帆に「たんかん」が送られてきました。
おじいちゃんからもらったたんかんだどうです。
お手紙も入っていました。
郵便小包の宛名書きも自分で書いたものです。
さっそく、娘にも食べさせました。
正確には、ジュースにしてとろみをつけて「食べた」のです。
「写真展がんばってください」
と、あります。
優美ちゃんありがとう。まだ、小学生のはず・・・
兄弟が多くて、自分のことは自分でするようにしつけられているのだと思います。
何かをもらっても、しっかりお礼も言えない高校生や大学生や大人が多いなか、
島では、子どもの頃からしっかりしつけられるところがあります。
「島を出て行かなくてはならない」から、です。うちの夏帆は高校1年生。重度の知恵遅れで話すことができません。でも、必ず「お礼」を言わせるようにしています。
「なっちゃん、なんて言うの? 自分でちゃんとお礼を言いなさい」
と、人前で私が言うようにしています。
もし、自分の子どもが健常児であったなら、キチンと挨拶をしなかったら、その場ではり倒そうと思います。
ところが・・・先週から、夏帆の具合が悪くて、入院かも?
という感じでした。
奄美の焼酎を送っていただいたお礼状がまだだ・・・
原稿もまだだ・・・
娘が健常児だったら! 母親の方がはり倒されるかも?
「すいません」

ニコンサロンの大阪でのアンコール展も決まりました。
5月20日から25日です。
3月、4月、5月と写真展が連続します。

「なっちゃん、おねがいだから入院は困るよ」
と、娘に頼んでいます。




2004年1月22日(木) 「鹿児島県の夕べ」

毎年今頃の時期に鹿児島県知事のお招きの「鹿児島県の夕べ」という催しがあります。
芝のプリンスホテルのおおきな部屋で1000人分くらいの宴です。
島関係だけの人ではないので、鹿児島に関わる人々が集まり、鹿児島のおいしいものを食べます。一昨年に行った時には、ご挨拶ばかりで何も食べられなかったので、今日は特産品のデモンストレーションをぐるりと一回り食べ、奄美の焼酎を解説してもらいながら飲みました。
出水市のポンカンがおいしかったし、普段はめったに食べない(あまり、お肉は食べない)牛のステーキも食べてみました。
おいしかった、よ。
ご招待状を入り口ゲートで見せないと入れないし、出られないのでしたが。
でも、来年は鹿児島に関心のある方を同行させてもらって、行ってみたいなあと思ったことでした。受付の鹿児島県庁の女子職員がみな、大島紬姿でいるのも、とても素敵でした。
「行きたい!」という、男の人、いるでしょ。

このところ、ずっと写真展の準備です。
何しろ勉強しながら、専門用語が出てくるとわからず、なかなか大変で、楽しい。



2003年12月14日(日) 「エンゲル係数」

ある日、思ったのです。
家計簿なんてつけたことはないけれど、我が家の「エンゲル係数」はどの程度なのだろうか?
11月分の生活費が「10万円も赤字!」
だったのです。
特に変わったこともなく、実に平凡な生活だったはずなのに・・・・
と、主婦である私は考えました。
エンゲル係数の平均というのは、平成14年には「23,3パーセント」だそうです。
これは、昭和40年には38.1パーセントだったのが、年々減少しているとか。
電卓をたたきました。(我が家の家計簿? は出費のみメモしてある簡単なものです。
夫に渡している「ランチ代」というのは、エンゲル係数に入るのでしょうか?
またまた、お客様の来た日の食事代は?
「食費」としてエンゲル係数に入れるのか?
それとも、「交際費」なのか?
ここで、思い出したのです。今住んでいる家の新築後の一年間の食費・・・・
我が家3人分の食べる量よりも、来客の一年分の食費の方が遙かに多かったこと。
ある週には「ふいのお客様の夕食代が4万円を超えた」ので、
夫のくたびれたジャケットをみながら「4万円あれば、服が買える!」
と、思ったのでした。
以来、パーティー会場と化していた我が家も静かになったのです。
しかし、家族外エンゲル係数というのも大事なものだと思います。それは、豊かさ係数にもつながります。
食費を切りつめてエンゲル係数を下げてはいけません。
これは「島の教え」です。
訪れた人を、お腹いっぱいにして帰す、食べ物が足りなくてはいけない、家族が食べられなくても
お客にはお腹いっぱいになってもらう。奄美大島で聞きました。
今まで、島の人にそうしてきてもらったと心当たりがあります。
いま、やりたいと思いながら(2年くらい前から思っているのですが)

1,地平線会議のスタッフ・裏方をしている人にごちそうをしたい
2,日本島嶼学会・大岡山飲み部会を我が家でしたい

ところが、夏帆の体調が安定せず、お招きが実現せずです。
11月の赤字の10万円は、医療費の合計と同額でした。
みなさん、健康にはくれぐれも気をつけて!

うちの娘にも、
「なっちゃん、入院したら、写真のサイズが半分になっちゃうんだかれね」
と、入院しないよう、説得しています。




2003年11月21日(金)  「人生の分岐点」
先週、尊敬する方が突然亡くなって、ひどくショックを受けました。
ドキュメンタリー映像カメラマンの方です。
その方のことをさまざまに考えますと、生き方が徹している人というのは案外少ないということです。
一生の間にはさまざまな分岐点があり、
学生の頃に大学の大好きだった女の先生に、女が28歳で何をやっているか?」
学生の頃に「ほざいていたことを実行しているか?」
と、まず問われました。
男の人を見ているとひとつの分岐点は35歳前後のように感じます。
つぎに、長くテレビのディレクターをしている女性にいわれました。出演依頼をいただき、
女性は40歳を過ぎても志を抱いた仕事を続けているかどうか、だと。
私が20代の後半ラジオに出演したときにアナウンサーだったその女性が、
17年後にはニュース番組のディレクターになっていて、
話してくれた言葉でした。
確かに。その頃、島旅を続けて25年になっていました。
つぎの峠(これはもう、分岐点ではない)は、男性も女性も50歳前後かもしれません。
特に男性を見ていて、50歳代を素敵に生きている人は少ない、かも?
まわりの女性の50歳代は素敵です。それまで、一生懸命やってきた人には「ご褒美」の時間が
与えられる50歳代かもしれません。
この時代、多くの男の人は「家族を守る」ことに追われます。
今年、50歳になった私は、このあたりまでは見渡せますが、これ以降は想像になります。
60歳を過ぎて、自分らしく生きている男性は、極端に少ない。
自分のまわりにとなると、もう一人か二人。多く見積もっても3人かもしれない。
その中の一人、生き方の美学を見せてくれた方が亡くなったので、
私自身も、どう死ぬか?
それは、どう生きるかでもありますが、考えこんでしまいます。
来年の春に行う写真展は、娘を16年間一生懸命に育ててきたことへの「ご褒美」かな、
と思っています。写真展をするというのはすごいお金がかかるということもわかりました。
今年は娘の入院を含め、医療費が莫大だったので、今はとても質素に過ごして写真のプリント代
に当てたいと思っています。
そして、映像という表現手段のすばらしさを再認識しています。
真実を伝えようとするとき、映像の力は大きい。
カメラマンを志す河田真智子の「本日の格言」です。


2003年11月14日(金)

あいらんだあ101号の編集準備をしています。
今号は八丈島で行った100号記念パーティの様子のお知らせと、活動報告今・むかし・未来と
題して島に本を送る活動について触れています。
島に関する本を沖永良部島の図書館に送っていこうと思っています。
島の本のいっぱいある島の図書館があったら素晴らしいと思いませんか?
私個人の仕事は、来年の写真展に関する動きが中心です。
それと、夏帆の島旅を月刊誌のなかで「絵本」になる最後の原稿の仕上げをしているところです。
来年は、仕事をまとめたものをいくつか読者の方にも見ていただけると思います。

2003年10月31日(金) 「クジラの島の少女」

ニュージーランドが舞台、先住民族のマオリ族の物語「クジラの島の少女」を見ました。
一人の少女が人の心を引っ張り、
人が力を合わせれば未来が開ける、というメッセージでした。
伝統を重んじれば、跡継ぎは「おとこの子」でなければならないのに、その使命を女の子が
担ってしまったのです。
「島」は、いろいろな意味で人間社会の縮図になります。
重い障害をもった娘の夏帆も、人間社会を見る尺度になったり、試金石になったりします。
映画を見ながら、クジラの島に住む少女と、夏帆の共通項のようなものを感じていました。
自分が偉くなろうとか、力を持とうとか・・・・
そういう人間の持つ「欲」「得」と無縁のところで生きている点です。
被写体である夏帆が人たちを引っ張って行くような写真展ができないだろうか?
そんなことを考え初めています。
ニコンサロンの方はきっちりとした写真展になりますが、
区民ギャラリーの方はアマチュアの発表の場ですので、こだわりの枠を越えた表現にしてみたい
と考えています。

2003年10月25日(土) 「近況報告」

実家の母親が入院していて、集に2回ペースで病院に行っています。
それと夏帆の学校、病院、リハビリ、車イスの調整など、と。
専業主婦が、パートで1日に数時間パートで仕事をするような仕事のペースになります。
その間にひたすら、写真の整理をしています。
マウントしたり、プリントを依頼したり、順番にアルバムに入れていったりします。
ライトテーブルの上でマウントした写真にナンバーや日付を打って作業はひたすら単純作業の
ようにも思えますが、これが意外と好きです。
編み物の好きな女の子の心境に通じるものだろうか・・・?
などと思ったりもします。
そういう静かな日々を送り、会話をするのは近くの写真屋さんくらい、というのもまた、いいのです。

10月16日(木) 「救急車にただ乗り?」

母親はたくさんの旅に行き、いろいろな乗り物に乗りました。
しかもタダで乗った乗り物も多々、あります。
ヒッチハイクで鳥取から京都まで行ったことのある学生時代。
今では考えられない社会情勢ですね。
島で、いろんな車に拾ってもらったし、同じ船に何度も乗ると、もう金いらないっていわれたり。
それから、アイルランドのダブリンのバスが何故かタダだった。
ほかの人は払っていたから不思議。
でも、娘が生まれてみると、彼女は母親を遙かに越えています。
生後数時間で、救急車にただ乗りして大きな病院に行ってしまった。
夏帆が島に旅すると、使うお金よりも「いただく」お金の方が多かったりする・・・
今日は学校の移動教室で、プリンスホテルの38階の展望を楽しみながらランチする
という授業でした。
そして、痰が絡んで苦しそうになったらしい。
救急隊員が担架を担いで38階までやってきて、抱っこしていた女の先生のまんま担架に乗り、
救急車に乗り、病院へ。
先生から様子を聞いてみると、なんか病気っぽくない?
私が病院に行った頃には、平気のへいざでした。
「じゃ、先生記念写真を」
と、今日初めてかかる先生だったので証拠写真を撮って一件落着。
み〜んな心配してくれて、家まできてくれたりして・・・
でも、犯人は「ウンチ」だった? んじゃないかなあ?
痰が絡んだのとウンチを出そうとして力を入れたのと泣いたのを、順番に「足して」行けば「いつも通り」なのですが、これをいっぺんに「かけ算」にしてみると「救急車?」
ということだったらしい。
学校の対応の速さ、誠意ある対応にはびっくりしたけれど、
「なっちゃん、おかあさんは怒ってるんだからね!」
と、娘に文句を言っても知らぬ顔。かくして、夜勤している母です。

10月15日(水)「モビリティについて」

 大阪に行って、娘のリハビリの診察を受けた後、今度は北海道に行ってきました。
 国土交通省の「モビリティ」に関しての委員会の2回目が視察地で行われるというものです。
札幌の近くの「北広島市」がバリアフリーの街作りの先進地であるということで行きました。
 島旅もそうですけれど、点と点が如何に線でつながるかが、行きやすい行きにくいという課題となります。
 車イスに限らず、島までの交通は東京から直行便で行けるけれども、島内交通の便が少なく、しかも料金も高いとなると「行きにくい」島ということになります。
 そんな、こんなの視察なのですが、それ以上に「島以外に行くのは久しぶり!」しかも仕事だから
タダで行ける!
 仕事に1日日程を追加して一人で小樽の散策を楽しんできました。
 自分が観光客だったらどんな楽しみ方をするか・・・
 楽しい旅でした。
 かくして、たまっている原稿を書かなくてはならない今週です。

9月29日(月) 「大阪へ」

 役1年ぶりの大阪へ。夏帆のリハビリの診察に行きます。
30日、1日の予定です。
 健ちゃんママ、琴ちゃんママ、かえでちゃん会えるかな?
 病棟の子たちは元気かな?
 大阪に行くのは里帰りするような懐かしい気持ちになります。

9月17日(水)「地震予知について」

16日、17日あたりに南関東地方に地震が起こるかもしれない、という情報を知っている人と知らない人と、まわりの人の反応はさまざまです。
私は13日に友人から聞きました。
それから、ホームページを検索して研究者の書き込みや、また12日の「地震検討会」の模様をパソコンインターネットクラスで習ったばかりの「ストリーミング」で、音声入りの動画で研究者のインタビューを見て(聞いて)、なるほど、と思いました。
 なるほど、と思ったのは、研究者が、「自分が気づいてしまったのに黙っていて大惨事になり後悔すること」と、「地震予知をして地震が起こらなかったことで批判され、研究が続けられなくなること」を天秤にかけて考えたら、公開することの方を選んだ、というくだりです。
地震が来ることを防ぐことはできない、でも事前にそれぞれの人が防災の気持ちを持てば被害は少なくなるというわけです。
 障害児を育てて16年になりますが、「黙っていた方が楽だよ〜」「自分の子どもが損をしないためにはなんといっても反感を持たれないこと」という場面にたくさん遭遇します。
 私はこの研究者の8年間の研究に敬意を称して、16日、17日の両日娘の学校を休ませることにしました。なんと言っても、片道1時間半の登下校時、バスに乗っている間に地震に遭遇するのが怖いからです。
 まだ、入学して間もない学校へのルート(道路)を把握してないからです。
 自分が経たことを次の人に伝えるというのは、「ちょっと無駄なエネルギーではないか?」
と、考える人が増えているかもしれません。
 ケチな人が増えたかもしれないのは、みな自分のことで精一杯だからでしょうか?
 研究者のインタビューをパソコン上で再現し、見ていると熱い思いが伝わってきて、久しぶりにすがすがしい気持ちになりました。
 島とつきあいもこうありたいと、熱い思いに刺激を受けました。

03年9月9日(火) 「復帰50周年の奄美諸島」
戦後アメリカの統治下にあった奄美諸島が日本に返還されて今年50年になります。
その記念シンポジウムがあり、奄美大島に行ってきました。
島には本土よりも遅れている点を助けていこうという国の補助制度があります。
それを「離島振興法」というのですが、沖縄や奄美諸島はほかの離島よりももっと大変だろうと
いう考え方で「特別」「離島振興法」があります。
でも、それは主に「インフラ整備」を主体としたことが始まりでした。「ハード」と言われるものです。
それに対して今、島が欲しいのは「人材」や「教育」ではないかと言う意見があります。
まとめてみると「島起こし」に関する仕事になります。
島に30年も通っていると、島起こしにはどうだろう「そとのひとだからこそ」感じることはありませんか?
と意見を求められたりします。
「そとの人だから感じること」もありますが、そとの人間からこそ、キチンと距離感を持って発言しなくてはならないとも思います。
以前には、よく。
「あんたは島に住まないでなにがわかる?」
「ちょっと島にきたくらいで、わかったようなことを書くな」
と言われたりしたものでした。
「私が書いたもの読んでから言ってよ」
と反論したい時もありましたが。
重度の障害を持つ娘を家庭で育てながら、それでもしつこく島に通っているので、今はそういうことは
あまり言われなくなりました。
でも、島に「暮らしびと」と島に「旅する人」が向き合うところから何が生まれるか?
という課題は永遠です。
今回は、ぐるーぷ・あいらんだあの道子さんも一緒に行きました。
初めて奄美を訪れる人が奄美をどう感じるか、興味ありました。
そして、初日の晩には「私は奄美が大好きなんです」と語っている彼女には驚きました。
何とも溶け込むことの上手な人です。
彼女の行動をみていてつくづく、思いました。
はやり、すべては人と人が(直接)出会うことから始まるのだ、と言うことです。
いくらインターネットが発達しても、原点は自分の足で島に立つこと。
そして「暮らしびと」と「旅する人」の出会いこそ旅の醍醐味と再確認したのです。
(舌足らずですいません)
原稿を書いているわけではないので、本日の中間報告です。

9月2日(火)  「写真展の準備」
9月に入り、どなたも仕事が忙しくなったのではないですか?
きのうは娘の夏帆の養護学校への付き添い登校。車イスでバスに1時間以上乗り、往復3時間の登校はとても疲れるようです。
16歳になった夏帆の写真展をしようと先週から写真選びをしています。個人的なテーマなので「自費」でやるつもりの写真展ですが、会場探しがなかなか大変です。
そこで、メーカーのギャラリーの審査に「ダメで元々」、応募してみることにしました。
その締め切りが12日。実は仕事そっちのけで「写真選び」に没頭しています。
テーマは「生きる喜び」として、夏帆が人々の中で如何に育ってきたか、その記録をまとめてみようと思っています。ですから、島に行った写真も当然、入ります。
自分の撮った写真はなかなか客観的に選べないもので、あいらんだあの清水さんが見てくれて、セレクトのヒントをくれました。「あいがとう!」

8月29日(金)
家に帰って「サイトの転送」を試みました。うまくいきました。
この個人ホームページは「トップページ」に最新の行動記録を載せ、2ページ目に過去の行動記録を
載せて記録していきます。3ページ目はリンク集にして、島に関する活動をしている人を紹介していきます。
それだけ、3ページのみのホームページをつくっていく方針です。
次回のパソコン教室では、あいらんだあのホームページへのリンクを試みます。

8月29日(金)
再度挑戦。パソコン教室「アルト」に来ました。ページの更新を学んでいます。
ところで!
9月5日(土)午後、奄美大島で行われるイベント「世界の奄美人」会場は奄美文化センターです。
入場無料。
夜の歓迎会もどなたでも参加できます。会費は4000円。場所は奄美観光ホテル、
時間は18時30分から。
では、奄美でお会いしましょう!

8月23日(土)
今度は自分で、ホームページの更新を試みます。
旨く行くか?
このページには、島と関わる河田真智子の行動記録やお知らせを記載していくつもりです。
どうぞ、よろしくお願いします。

8月22日 その2
奄美大島に行きます。
復帰50周年のイベントのパネラーとしての参加です。
あいらんだあのかた、お会いしましょう。
詳細は、「河田真智子の行動記録」をクリックしてね。

今日は8月22日です。
パソコンスクール「アルト」にやってきました。
さ〜て、これから、お知らせや、行動記録をできるだけ書いていきます。
9月6日には奄美大島にいます。
近くの方、お会いしましょう。

今日は、03年6月17日。
河田真智子の個人ホームページを作ります。
インターネットクラスにきて習いながら、つくっているところです。
今日は、太平洋のマーシャルの大統領が訪日していて、晩餐会のある日です。晩餐会にお招きいただきましたが、残念ながら欠席。
この日を記念して「
マーシャル記念日・アップ・デー」としてみます。


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