2010年 10月22日(金)
沖永良部島で講演+写真展をします


お出かけください。
講演骨子をご紹介します。
1、沖永良部島との出会いから、島に通い続けて38年。
38年間続けてこられたのは、どうしてなのか?
2、奄美諸島の人の住む島8島を「旅人として」同じ時期に1カ月かけて歩いた時の8島の比較。
島に上陸した時に感じる、その島の「空気」のようなものの違い。島ごとのカラー。
仮説として、島のかたちと島の人の気質に相関関係があるのではないか?
3、沖永良部高校、和泊中学に何度か出前授業をした時に、生徒たちに問いかけた「島に住む幸せ」についての報告をします。
沖永良部島の子どもたちは自分の島が大好きで、島に誇りを持っている。
そういうなかで、アンケート用紙に「幸せ なんかじゃ、ない」と書いてくれた生徒がいた。その思いと、その問いかけを大切にしたい。
4、島がよくなってゆくためには、どうしたらいいか?
奄美群島特別振興法の審議委員、鹿児島100人委員として奄美諸島を視察させていただいた視点を交えて提言したい。
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2010年12月1日(水)
以下、講演原稿を掲載します。
この原稿は事前に用意したもので、講演の2日前に奄美大島を集中豪雨が襲い甚大な被害があったため、講演内容を一部変更して、「豪雨・台風」に関する話しに切り替えました。
<講演原稿>
ワードの原稿を「コピー」アンド「ペースト」したら・・・・
以下のような事態になってなってしまいました。
文字がでかっくて、行間があき過ぎている・・・
でも、とりあえずこれで・・・
沖永良部島講演原稿
2010年10月14日
こんにちは。河田真智子です。
今日はお招きいただきありがとうございます。
私は島を歩いて38年になるのですが、今日は「ひとりひとりが宝もの」と題してお話したいと思います。
さて、今日は四つの項目をお話します。
一つ目は
何故、38年も島に通い続けたのだろうかということを自己紹介も含めてお話します。
二つ目は
私が、29歳の時に奄美諸島の人の住んでいる島8島を同じ時期に1カ月かけて歩いた時の島々の比較をお話します。
この時は「旅人として」歩きましたが、島に暮らす条件は島ごとに随分違うものだと感じました。
三つ目は
「島に住む幸せ」って何だろう。沖永良部高校や和泊中学に何度か出前授業をした時のことをお話します。
そして、最後に、四つ目、
島がよくなってゆくにはどうしたらいいだろうか、それに対しての具体的な提言をさせていただきます。
私は今57歳ですが、40歳代の10年間は奄美群島特別振興法の審議委員や鹿児島県100人委員などをしてきました。審議委員として、請島、与路島を除く6島を視察させていただきました。これは一人の旅人として島を歩くのとは、また違う視点で島を見ることができ、とても勉強になりました。
では、まず、自己紹介です。
大学1年生の時に沖永良部島に来たのをはじめとして、北はスコットランドの北の果ての島、シェットランド諸島や、アイルランドのアラン島などに行きました。南はタヒチのボラボラ島まで、世界の辺境の島も歩いてきました。
延べにして、300を超える島を歩いています。
その中で、奄美諸島は繰り返し訪れている島々です。
19歳の時に沖永良部島に来たのは、この島でキャンプをした兄が
「エラブは天国のような島だ」
と、繰り返し言うわけです、
そんな、天国のような島が本当にあるのだろうか、自分の目で確かめてみたいと思いました。
和泊町長様宛てに、
「私は出会いを求めている旅人です。ついては、食費程度で泊めていただける第一次産業のお家を御紹介ください」
と手紙を出しました。
島の素顔に出会うには、普通のお家に泊めてもらいたかったのです。
しかし、当時は大学紛争、学生運動の盛んな頃で、なかなか泊めてくださるお家が見つからなかったようです。
私の手紙を「拾ってくれた」のは、当時の観光係長の山下純利さんで、山下さんの紹介で出花の池下タケおばさんのお家に泊めていただき、娘のようによくしていただきました。
あの頃、東京からやってくる見ず知らずの娘を預かることは、どれほど勇気のいることだっただろうか、と、私自身、母親となった今ならばわかります。
島の人は懐が深い
と、思います。
そして、昭和52年の「エラブ台風」以前の沖永良部島は本当に美しい島でした。
石垣の道と家を守るガジュマルの樹、そこに咲くハイビスカスの花、そして、見渡す限りのフリージアの花畑、その向こうには青い海が広がっていました。夢のような風景です。
帰る港に見送ってくれた山下さんが、
「また、おいで」
と、言ってくれました。
そして、ブラジルに移民した時のことを話してくれ、こうも言いました。
「人の一生には、自分ではどうすることもできないくらい辛い時があるものだ、そんな時にはあなたも、この島に帰ってくればいい。帰るふるさとがあるということは、ありがたいものだ」
と。
このあと、島の愛好家の会「ぐるーぷ・あいだんだあ」を作り30年間活動をしました。
島に本を送る活動や、島おこしにつながる活動、それに島の写真展もしました。島の写真展は、今回で3回目になります。
それには、いつも島の人の応援がありました。
そして、沖永良部島とのつながりが38年間も続いた最も大きな理由は、私が34歳の時に生まれた娘の夏帆(なつほ)の存在が大きいのです。
夏帆は仮死で生まれ、重い脳障害をもっていました。23歳になる今も首も座らず、お座りもできない、話すこともできない最重度の心身障害者です。昨年11月に誤嚥性肺炎になったのをキッカケに口からものを食べられなくなり、今年5月、胃に穴をあけ胃から栄養をとる手術をしました。今は在宅で24時間医療的ケアを必要とする生活をしています。
夏帆が生まれた時、その障害の重さから私はもう島に通うことも仕事を続けることも無理だろうと思いました。
障害児を育てるためには、母親は自分の人生をあきらめなくてはならないと思ったのです。
夏帆が生まれて3か月経った頃、私は必死に脳障害の専門病院を捜していました。
そこに沖永良部島の前登志朗[進めとしろう]さんから手紙をもらいました。
「真智子さん、これだけは忘れないでください。なっちゃんは、みんなに望まれて、太陽のようなでっかい愛に包まれで生まれてきた子です。みんなで応援しています。元気になったなっちゃんをエラブに連れてきてください。待っています」
と、ありました。
そして、あちこちで聞いてくれた病院に関する情報も書いてありました。
この「みんなに望まれて生まれてきた子です」
という言葉に、私はハッとしました。
自分の子を、ほかの人も愛してくれるということが、どれほど大事なことか。
待っていてくれる人がいる
という思いが、大変な時もありましたけど、そして今もちょと大変なんですけど、島旅が続いてきた理由だと思います。
次に2番目のお話は 奄美諸島の8つの島々を歩いた時の印象をお話します。
私が29歳の時ですから、もう28年も前のことですが、同じ時期に8つの島を歩くことで、島の違いを知りたいと思ったわけです。
たくさんの島を歩いていますと、その島の港に上陸した時に感じる「空気のようなもの」は、その島の特徴と同じだということを感じるようになりました。
静かな島、人なっつこい島、よそよそしい島、穏やかな島、などなど、それぞれです。
奄美8島の旅は「島からの手紙」として、「あるく みる きく」にまとめました。
これを読み返しまして、それぞれの島の印象をご紹介します。
まず、東京から2泊かけて船で奄美大島に上陸しました。
<奄美大島>の印象は 「おばちゃんとこ 泊りにおいで」です。
船が名瀬港に近づく時に、甲板でおばちゃんに話しかけられました。「あのあたりがおばちゃんの家のあるところだから、泊りにおいで」と、そこは秋名(あぎな)のあたりです。
奄美大島への初上陸でした。
温かい島だという第一印象です。
<喜界島>の印象は「この子を何とかしなくては」と言われたことです。
喜界島から奄美大島に戻る時、海がしけていて、喜界島からの船が早朝の5時、裏港から出るとわかりました。バスもありません。
民宿のおじさんが、校長先生に頼んでくれて、車で送ってくれました。
<加計呂麻島>では、道を歩いていて、子どもたちに
「なんだ、カメラマンのタマゴかあ」と言われました。
季節外れの女性の一人旅は目立つのでしょう。バスは3時間に1本しかありません。私が島のはずれの民宿に着いた時には、すっかり噂が流れていて、近所の人が様子を見に来ていました。
というのは、島の人は「もしかして、自殺志願者かもしれない」と若い女性の様子をうかがっていたそうです。
でも、カメラを首から下げて子どもと遊んでいるので、自殺志願者ではなさそうだということに安堵したと聞かされました。
加計呂麻島に行く観光客は少なかったのですね。
奄美大島の人と話していると、加計呂麻島の南の請(うけ)島、与路(よろ)島に人が住んでいることを知らない人も多かったです。
<与路島>では、民宿のおじさんに「ねえちゃん、またおいで」と言われました。大きなホラ貝をもらいました。それをその後の旅の間じゅうずっと持っていました。
<請島>では、小学5年生の女の子3人と仲良くなりました。港に見送ってくれて、少女の一人が言いました。
「どうしても、今日帰るの? ずっといればいいのに」と。この少女たちとのつき合いはその後も続き、文通した手紙は『島からの手紙』という本になりました。
<徳之島>では、台風に遭い、ずっと民宿のなかでした。台風のすごさを体験しました。
<沖永良部島>では、出迎えてくれる人がいて、友人たちとの再会が旅そのものになりました。
<与論島>では、東京行きの船に乗ろうと思って港に行ったら、台風の影響で2日遅れとのこと、そのあと、沖縄に南下しました。
1カ月の旅で、島の違いがわかるわけではありません。でも、大きな島、小さな島、船が欠航しやすい島などなど、同じ奄美諸島のなかでも、それぞれの島の状況がだいぶ違うということがわかりました。
島の置かれている地理的状況によって、人々の暮らしやすさ、大変さは大きく違うということを見た思いです。
離島振興法の分類では、島は以下の6つに分類されています。
1、内海国土近接型
2、外界国土近接型
3、群島主島型
4、群島属島型
5、孤立大型
6、孤立小型
です。
この沖永良部島にいてこの分類を見ると、少し違和感があります。
「国土」というのも違和感がありますし、では、沖永良部島は「群島主島」になるのか、「群島属島」なのか?
奄美の島々が、ひとつひとつ「群島主島」でありたいと思います。
私は、島の人の「気質の違い」は、島のかたちに関係しているのではないか?という仮説を立ててみたいと思います。
日本の島は 大きく分ければ火山島か隆起サンゴの島かです。
あくまでも、仮説であり、学問的裏付けはないのですが。
<まるい島>は、火山島であれば真ん中に山があります。人々はまわりの狭い平坦地をみつけて住みます。だから、集落が分散されている場合が多い。印象としては「まとまりにくい」という印象です。
火山の風上か、風下か、一つの島のなかで気候条件も変わり、作物の出来具合も有利、不利が出てきます。
サンゴ礁の島で丸い島の場合は、小さな島が多い。
耕作面積が小さく、水の確保にも苦労します。
無人島化している島を思い描くと・・・港となる入江がない丸い島です。自然環境が厳しいと言えます。
<四角な島> というのは、あまり思い当たりません。正四角の島も長方形の島も、思い当たりません。
<ひょうたん型の島>はやや多いです。
火山島であっても、サンゴ礁の島でも、この形の島は有利です。港も裏港をつくることが可能な場合が多い。
平坦地も比較的あり、耕作面積を確保できます。人々はゆとりを持てることも多く、温厚な島という印象をもちます
<入り組んだ形の島>
この形が最も多いと思いますが、島の状況は様々です。
陸路で移動するのが難しく海路が利用されていた島も多いです。今は陸路の輸送が中心ですから、同じ島のなかでも、住みやすさの格差が出やすいと思います。
同じように入り組んだ島が連なってあったとしても、内陸から近いか遠いかなどで、島の産業状態が違う場合もあります。
形ではなく、島の高さに視点を当てると、切り立った島は厳しく孤立感が強くなるし、平らな島は、開放的でありながら、隠れる陰がないため、台風に飛ばされやすい。誰かが辛い時に陰に隠れたいと思っても隠れる場所をみつけるのは、難しいかもしれません。
これは国内の島を歩いた実感としてお話していますが、琉球弧の島の場合には、ハブがいるか、いないかという大きな条件が加わります。
ハブのいる島では農業を中心にしにくく、ほかの産業をとりいれなくてはなりません。
さて、3番目のお話に移ります。
私はこの数年「島に住む幸せ」をテーマに写真を撮りたいと、このテーマを追いかけています。
島に住む人に「島に住む幸せは何?」
と問いかけることは、すなわち、障害のある子を育てる幸せは何?と自分自身に問いかけることそのものなのです。
高校を卒業するまでの「障害児」は守られる存在として育ってきました。障害のある子は、18歳になると制度上「大人」になります。
社会人になるわけです。
東京では多くの障害者が朝から夕方までの通所施設に通い、在宅で過ごします。しかし、学校の頃のように手厚い介護は期待できず、とにかく事故が多い。この数年は、そんなことで苦労しています。
大事に育ててきたのに、障害のある子にとっての社会は厳しいと実感する日々です。
だから、「島に住む幸せ」を捜してみたいと思いました。
沖永良部高校に出前授業に行きました時に全校生徒にアンケートをとらせてもらったことがあります。
その内容は、
質問1、「島に住む幸せ」はあなたにとってどんなことですか?
(この質問はとても答えにくいと思いますので空欄でもかまいません)
質問2、日々の生活のなかで幸せを感じる時はどんな時ですか?
例 「彼女と海を見ている時」「朝寝坊をしてのんびりしている時」「成績がいいと褒められた時」、などなど、具体的に書いてください。
質問3 沖永良部島のなかで好きな場所はどこですか?写真を撮りに行きたいので是非教えてください。どんな時間か、どんな場所か、具体的に教えてください。
としました。
アンケートには原則として実名で書いてもらい、匿名もOKとしました。
連絡先も書いてもらうことにしました。これも空欄OKです。
2005年のアンケートですが全校生徒約400名のうち357名が提出してくれました。提出も強制ではありませんので、すごい回収率です。当日の休み時間では書ききれなかった人の分は、あとで先生が送ってくだいました。
アンケートの内容を少しご紹介します。
質問1 「あなたにとって島に住む幸せは?」
001 のんびりしているところ
027 島の人みんなが優しくしてくれる。つらい事を忘れさせてくれる
風景や人
028 島に家族がいて、島の友達がいて、自分がこの島で生まれたこと
034 島の人々の心の温かさのなかで生きていること
043 島の人間関係というか 島独自の人との付き合い方
052 家族といつも一緒にいられること
055 幸せじゃない
059 夏に泳げる
071 島に生まれて、島に生きてゆけること自体が幸せだと思います
097 島の人がみんな仲良いところ
111 海や花がきれいで、人々がとても温かい
170 水平線を見た時です。
172 ピアノがおもっきり弾ける
185 人を信じることができる
210 守られている。バイクに乗って大声で歌うことができる。知らないところがない。本当に幸せなところ
334 島民全員が家族のように暮らせること
などなど、です。
読んで驚きました。もう一度言いますと、このアンケートの回収は先生に提出して、先生に一度読まれてしまうという方法ではなく、その場で回収して、私に渡してくれたものです。
子どもたちにこんな風に思われているなんて!
沖永良部島はいい島ですねえ!
この子たちは私の娘と同世代なのです。
娘の夏帆は、言葉をもたない最重度の心身障害者です。言葉はありませんが、感性という叡智(知恵)をもっています。
うちの娘は、生きていることを幸せと言ってくれるだろうか・・
子どもに幸せと言ってもらえる社会をつくるのが大人の責任です。
質問2の「日々の生活のなかで幸せを感じる時は、どんな時ですか」です。これは「島に住む幸せ」と同じような感じでした。より具体的に、自宅の窓から海を見ている時、とか、家族でテレビを見ている時、とか、彼女と一緒の時とか日常生活を具体的に書いてくれました。
質問3の「好きな場所」に関しては、皆それぞれ好きな場所をもっていて、写真を撮りたいという私のために、「なになに商店の道の下から眺める海」とか、どこどこの道を登ってガードレールのあたりから眺める海、とか具体的に教えてくれています。
「海」が圧倒的に多かった。
こんなお勧めスポットもありました。
「今まで見た最高の景色は、ワンジョ・ビーチに月の光の道ができていたものです。冬の朝、5時30分くらいだったと思います。歩いて月に渡って行けそうでした」
と、書いてくれています。
このアンケートは、島の高校生が何を感じているかということを知りたいという目的もありましたが、もうひとつ別のねらいがありました。
島の子どもたちは、島に高校がなければ、中学を卒業して親元を離れなくてはなりません。島に高校があれば、高校を卒業してほぼ全員が一度は島を出ます。そして、島に戻ってくる人もいれば、戻って来られない人もいます。
高校を卒業して、島を出て行く時に、島に生まれ育ったことのよさは何だったのか、気持ちのなかで確認してみてほしかったのです。そして、自分の好きな場所を紙に書くことで、ふるさとの島を思い出す時に、その場所の光景を思い出してくれるのではないかと考えたわけです。
自分が生まれ育った島に「誇り」を持ってほしいと思いました。
このアンケートで、一人だけ、
「幸せじゃない」
と、書いた生徒がいます。
難しいテーマだから空欄でもいいですよとアンケートには書いてあるのに、
「幸せしゃない」
と、書いてくれたことを、私はとても嬉しく思うのです。
これは、大切なメッセージです。
この子は病気なのかもしれない。家族の人間関係がごたごたとしているのかもしれない。もしかしたら、親を失ったのかもしれない。
「この子を何とかしなければ」と、思うのです。
「私に伝えてくれたこの子の思いを、島の人に伝えな来れば」
と思い、私のなかで「宿題」になっていました。
さて、そんな宿題を抱えながら、4つ目のお話に進みます。
「島がよくなってゆくには、どうしたらいいのか」です。
そんなこと、よそから来た者に言われなくても、島に住む人が日々考えていることだと思います。
38年前大学1年生の私に、和泊町町長さんが言いました。
「河田さん、島がよくなってゆくためには、二つの大きな課題がある。港と水、なんだよ。港をよくすることと、水の確保に取り組まなくてはならない」と。
今、船が接岸する港がないとか、深刻な水不足に悩む島は国内ではほとんどなくなりました。人の住む島には海底水道が整って来ています。
暮らしよい島であるために経済をよくすることに日々懸命にならなくてはならないのは、島も都会も同じです。
その上で、私が望む「島がよくなること」を述べさせていただきます。
これは、奄美群島特別振興法の審議委員や、鹿児島100人委員をしている間に勉強させていただいて感じたことです。
まず<島がよくなるための一つ目>「情報の辺境の地をつくらない」ということです。
同じ島のなかでも、より辺境の地ができてしまいます。社会が厳しくなるほど、島の端っこは切り捨てられて行きます。
奄美大島で言えば、瀬戸内町は本当に厳しい。瀬戸内町の地形は九州のなかで見る鹿児島県内地の地形に似ています。端から端までの交通の便がとても悪い。
さらに、瀬戸内町は加計呂麻島、請島、与路島を抱えていますから、この地域の行政の御苦労を思います。
西の端の西古見(にしこみ)小中学校が廃校になったのについで、管鈍(くだどん)小中学校も廃校になりました。私は、子どもたちがいる時に2回行き、廃校になってからも一度訪れましたが、廃校になった学校を見るのは本当に辛いです。
ここで気づくのは、携帯電話のつながらない地域には子どものいる若い人は住みにくいということです。
山の陰になる地域は携帯がつながりにくい。
加計呂麻の山向こう西阿室も海岸に行かないと携帯がつながらない。円の集落でも、高台にある小学校まで行かないとつながりません。
情報インフラを整備が過疎化を食い止めると思うのです。
これは、防災上も大切なことです。事故があった時、救急車を呼びたくても電波が届かなかったら、呼べません。
情報インフラの整備が過疎化を食い止める、というのがお願いしたいことのひとつめです。
次に<島がよくなるための二つ目>
豊かんな島が、福祉の最も低いところを拾う、という提案です。
島に重い障害のある子が生まれると、島ですごとができないというのが今まで、でした。
知的障害のある子は奄美大島の特別支援学校の寮に入ることになります。近くに住む子しか通えません。
身体障害の子は鹿児島の施設に行かなくてはならなかったのです。
これは、親にとっては、断腸の思いです。
働いたお金のほとんどは、子どもに会いに行くための飛行機代になったという話を聞いたことがあります。
「行く時も涙、子を置いて帰ってくる時も涙、涙」
と、障害のある子のお父さんが語ってました。
私の娘が5歳の時に、奄美大島の特別支援学校寮をたずね、大人の介護施設に2泊したことがあります。
手厚い介護に胸が打たれました。
でも、子どもはせめて、義務教育の間は、たとえ医療的ケアが必要であっても、生まれた島で過ごさせてあげたいと思います。
うちの娘くらい障害の重い子、あるいは難病の子が生まれる確率は島の人口比から考えると、10年に一人くらいではないかと思います。
学校に看護師さん一人分の予算をつけていただければ、可能かと思います。ゆとりのある島で、こういう先進的な前例をつくっていただきたいです。
日本の島のなかでひとつでもそういう前例ができれば、ほかの島の人たちにも島で生きる勇気を持てます。
これは、離島医療という視点からも捉えていただきたいことです。
緊急時ヘリがあるように、もし、島の医療では間に合わない医療が必要な子が出たら、行政のシステムとして、応援していただきたい。
難病で、緊急医療が必要な確率は何十年に1回の事かと思います。小学生までは援助するなど、システムをつくっていただきたいです。
福祉や医療に関しては、一番低いところを拾うということをすれば、ほかの方たちも、
「いざという時も安心して住める」という安堵感を持てると思います。
もうひとつ<島がよくなるための三番目>は、
「うつ病対策」です。
これは島でも都会でも変わらない課題ですが、東京都の八丈島の例をお話します。
地元の新聞「南海タイムス」で紹介されているのですが、人口が約8000人の八丈島で年に5人を超える自殺者がでて、自殺率は全国・都の平均の3倍だそうです。
「自殺予防は島づくり対策」であるとして、取り組んでいます。
自殺の背景には島経済が厳しくなって、働きたくても働く場がないこと、ほかの人に迷惑をかけたくないという気持ちが働くと分析されています。
八丈島では講師を招いてセミナーを開催したり、相談窓口をつくったりと、さまざまなセーフティーネットをつくっているそうです。
うつ状態になっても、まわりの目が気になり病院に行けないという悩みを聞くことがあります。
私のまわりでも、島に住む知人の奥さんから「夫が自殺するかもしれない!」と電話をもらい、何度か島に駆けつけたりしたことがあります。
10年くらい頑張りましたが、その人は、今、行方不明です。
その子どもは、「幸せしゃない」と言うかもしれません。
島がよくなるための提案として、
1、情報インフラの整備
2、福祉の最も低いところを拾う
3、うつ病対策
とあげました。
じゃあ、どこから始めるか?
お願いしたいのは、公民館や図書館が人の交流の拠点になってほしいということです。島の学校では先生が3年くらいで替わってしまいます。先生は「どうせ、いなくなる人」なのです。そういうなかでの公民館のおじさん、図書館のお兄さん、お姉さんの存在は大きい。
具体的提案としては、誰でも使えるパブリック・パソコンを図書館においていただきたいということです。
誰にも言えないけど、知りたいこと、インターネットで検索できる環境を整えてあげてほしいのです。
瀬戸内町の図書館には随分前からパブリック・パソコンがあります。実はあれ、加計呂麻島の人がとても喜んで使っていると聞きました。
島では人間関係が濃いだけに、「そっと、知りたいことを調べたり」辛い時に隠れる日陰が必要なのだと思います。
出前授業の時のアンケートを5年ぶりに読み返してみました。
「幸せじゃない」と書いた子の事が気になっていたのですが、実はその生徒はこうも書いていたのです。
日常生活のなかで幸せを感じる時はという質問に、
「彼女といる時」
と、ありました。
島に住む幸せも、都会で頑張る幸せも、簡単ではないかもしれないけれど、人と人の出会いのなかでみつけていきたいものです。
ここに63人の写真がありますが、どの顔も、島に住む幸せの瞬間が写っていると思います。
皆さん、本当にいい顔をしています。
ひとりひとりが宝もの です。
本日は、ありがとうございました。
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11月7日(日)
広島で講演をします。
お出かけください。
第36回 広島県知的障害者福祉大会<三原大会>
時間は、大会開始は9時45分から午後3時30分まで。
河田の講演時間は午前11時から12時まで。
場所 三原市芸術文化センター(ポポロ) ホール
記念講演「お母さんは ここにいるよ」
脳障害児・夏帆と過ごす日々から
問い合わせ 三原市手をつなぐ育成会
電話 0848−63−5757
手をつなぐ育成会というのは、知的障害者の全国組織です。
その広島大会だけで、500人以上集まるというので驚き。
知的障害者本人たちも一緒に講演を聞くという試みだそうで、夏帆の写真展の時の写真(16歳まで)と、それ以降23歳になるまでの写真をスライドショーしながら、夏帆がどのように地域で生活してきたかを話そうと思います。
18歳以降の課題も含めて、どのように話そうか、考え中。
10月の沖永良部講演と、11月の広島講演が続くのので、その準備に頭のなかが、ごしゃごしゃ状態です
10月1日記入
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以下は2007年の情報です。
海うさぎの活動を5月20日に開催します。
詳細を載せたいのですが・・・
{PDF]形式のパンフレットをこぴーできず・・・
パソコンスクールに行って習って来ます。
ブログ「海うさぎ」を見てください。
目黒区在住の冒険家・坪井伸吾さんをお招きして「チャリティ講演会」をします。
「アマゾン筏で川下り」話を子どもにもわかりやすく、話してもらいます。
写真展を開催します。
3月30日(金)から4月5日(木)まで (4月2日、月曜、休館)
河田真智子写真展「お母さんは、ここにいるよ」
4月1日(日)午後2時からギャラリートークもします。
場所は、ハーモニーホール座間・ギャラリー
問い合わせ ハーモニーホール座間 電話 046−255−1100です。
案内ハガキです。デザインは本のデザインとともに清水良子さん。

裏面の地図が小さい・・・
ので。
以下は、旅人の集まり「地平線会議」のホームページに掲載してただいたモノをコピーさせていただきました。地平線の丸山さんがやると、こんなに上手く行くのに・・・(丸山さんはITの達人なので)
■河田真智子さんが写真展「お母さんは、ここにいるよ」開催
3月30日〜4月5日。座間市のハーモニーホール座間にて
昨年、毎日新聞社から『お母さんは、ここにいるよ−−脳障害児・夏帆と過ごす日々から−−』を出版した河田真智子さんの写真展が、3月30日[金]〜4月5日[木]に座間市の「ハーモニーホール座間」で開催されることになりました。4月1日には、ギャラリートークもあります。
(月曜日は休館日です)
こちらの方が断然わかりやすい!
以下は、本のご紹介です。
『お母さんは、ここにいるよ
---脳障害児・夏帆と過ごす日々から----』
毎日新聞社刊 1300円(税込み)

本の前半は夏帆の19年間の成長を写真ストーリーでまとめ、後半は子育てをするなかでのノウハウです。「病気の告知」「主治医との上手なつきあい方」「お母さんの息抜き」「医療費」「制度を使う」「医療的ケア」など、などです。
<本の購入方法>
試験的に、著者からの発送をしてみます。
近くに本屋さんがない、インターネットで申し込むのが面倒という方以下の方法で申し込んでください。河田のサインと写真展の時のハガキなど、ちょっこと「おまけ」も入るのが「ちょっと嬉しい」購入方法です。
本代 1300円(税込み)+送料210円 合計1510円を郵便振替(郵便局で申し込む)でお送りください。3〜4日で入金が確認できます。その後、こちらからお送りします。時々、郵便物が戻ることがありますので、住所は大きくハッキリ書いてくださいね。
写真展の準備が始まりますので、写真展終了まで、著者からの直接購入はおやすみです。
写真展会場でも本は購入できます。
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河田真智子の行動記録ブログ版と作りました。上のヤシの木の絵のところか、文字のところをクリックしてください。ブログに行きます。
河田真智子の行動記録(ブログ版)は毎日更新しています。
ブログ「海うさぎ」は最重度の障害児・者のための応援活動をするネットワークです。
これも、ほぼ、毎日書き込みをしています。
以下、本日のブログの書き込みより。久しぶりの更新です。
ブログの方が書き込みが簡単ですね。毎日書き込みをしています。
新しい名刺ができあがってきた。今まで使っていた名刺は「島旅作家・島旅カメラマン」という肩書きが書かれている。「作家」というのは、どうも生意気ではないか?と、40歳を過ぎるまで、自らは名乗らなかった。本を出す時などに編集者が「作家」と書いてくれるので、まあ、いいか。
と、次第になじんで来た。島旅作家として何冊かの本を出し、40歳代は「島起こし」の仕事にも関わってきた。なんとか委員とか、島に関わる国の審議委員などもして、次第に肩書きにも「実績」が積まれていった。
今日できあがってきた名刺の肩書きは「写真家」というもの。 いつも私のプロディーサーとなってくれる清水さんデザインの名刺である。
「写真家」というのは、偉そうすぎないか? と清水さんが言う。「カメラマン」と名乗ったら、ストロボ撮影を含めて何でも撮れないといけない。フォトグラファーというのは、ちょっと報道カメラマンっぽいけど地方の人や、お年寄りやに「日本語で言ってくれ!」と言われそうな気がする。それで、「写真家」というのは食えなくても、自分の作品をコツコツと撮り続ける人のこともさすらしい。これならぴったりだ。
しかし、清水さんの名刺のデザインは何とも素っ気ない。
「写真家」という肩書きは小さく、名前も住所もごくごく「ふつ〜〜〜う」の書体なのである。寂しいというか・・・孤立無援・・・な感じ。一人で戦えよ!と宣告されたような感じだ。 「島旅作家」の方は、トレードマークとしてなつのイラストが入っている。書体もかわいい、にぎやかだ。仲間がいっぱい、応援してくれる人もいっぱいという感じの名刺だ。
島に取材に行く時には、可愛い名刺の方が親しまれるのではないか?やっぱ、島旅作家の方が、喜ばれるのではないか?
イヤイヤ、そんな甘いことを言っていては写真家になんか成れないぞ!と心のなかのもう一人が言う。両方使い分ければいいのだ、ともう一人が言う。ややこしいではないか。ただでさえ、仕事名は旧姓で、なつの母としては本名で、と使い分け、それもすんごく面倒で、河田真智子に統一したはずであった。名刺の使い分けなんて器用なことはできない・・・
しかし、今、河田真智子の名刺の中から「島」を落としていいのか??? イヤ、それを未練と言うのでは?
島の人が言った。 「真智子さんが何やっても大丈夫よ〜〜〜、島が好きなことには変わらないんだから、島からは離れないでしょ〜〜〜〜」 島の人のこの感覚がいいよね。
06年5月7日(日) 切り捨てるもの
昨日、ニコンサロンで開催される写真講評会の見学に行きました。
自分の作品を持ち、ニコンサロンの審査員の先生に見てもらうことができます。
ただし、35歳までの若者枠です。だから36歳以上は見学です。
先生はポートレイトの名士(私が名付けた)大島洋先生。
写真は撮る力も大切だけれど、展示するためにまとめる力も大切。まとめるためには、何かを切り捨てなくては(他の人が見る時に)わからない。
人間、自分の持っているものを「切り捨てる」ということはなかなかできないものです。
しかし、どちらかを捨てなくては、両方が薄まってしまうのです。
と同時に、何もかも自分でやる必要はない、写真のセレクトが苦手だったら友達にアドバイスをもらう、プリントが下手だったらプロに依頼する、大切なことは「自分が何が苦手かを知っていること」助けてもらう力も才能の一つ。
大島洋という写真家は、学生の頃にトカラ列島に行き、撮った写真を次の旅で島の民家の塀に展示す写真展をし、写っている人持って行ってください、ということをしたかたです。
30年以上も前のトカラ列島に行くことは簡単ではなかったですよね。
「島にきて、多くの写真を撮って行ってくれるけれど、その写真をみせてくれるカメラマンがいない」と言った、沖永良部島の公民館長さんの言葉を受けて、ぶるーぷ・あいらんだあでは沖永良部島で写真展をしたことがあります。
それを、一人の写真家としてしてきた人がいると知り、感銘を受けました。
まとめるためには、あるいは表現するためには、伝えるためには切り捨てなければわかりにくいという話です。
06年4月22日(土) いろいろなことがひと段落→ダウン
この3年、片道1時間半かかる養護学校に通い、2回の入院がありました。
無事、高校を卒業し、医療的ケアを必要としない状態で、近くの通所デイケアに通うこと、これが大きな登竜門でした。
さらに、このことを最優先したために、断った仕事や断れないけれど、あとにしてもらった仕事ややりたいけれど我慢した仕事や、いろんなことがたまっていました。
健康管理にしても数年前から行かなければならない検査にもまだ行けてない状態で、今年はメンテナンスの年として、のんびり、行こう・・・
などと「表向きは」(表向きはと言うのは世間に対してではなく自分自身に対してです)、そう思っていたのですが、実際は貧乏性にも3つのことを同時進行でいました。
1,夏帆のこと
2,本の出版の準備
3,「海うさぎ」の立ち上げ
どれもこれも、おおよそめどが立ち、3年分の疲れがど〜〜〜と、きました。
しかもアポの入ってない、今週の後半です。
声帯ポリープで入院するはずだった空白の3日間、ホテルのような病室ではなくいつもの和室でぼ〜〜としていたのです。はあ〜〜^
やっと元気になってきたら、待っているのは夏帆の介護で、夫は会社に行きました。
お知らせです。
6月20日発売の『DAYS JAPAN』誌で夏帆の写真が12ページ特集で紹介されます。
これはドキュメンタリーの写真を撮る者にとっては「びっくり」で写真に関係ない人はへえ〜〜という程度の話です。
この雑誌は、本当の意味での、あるいはありのままの報道を求め創刊された雑誌です。
そこに12ページも(12ページというのは一人の作者で1回で掲載する最多ページ数だそうです)掲載されるのは、どういうことなのか・・・・
それは嬉しいとか、すごいでしょ、とかではなく何を求められているのか?
考えてしまいます。
ここにこんな障害児かいます、かわいいでしょ、こんなに豊かに育ってきました。いろんなところに旅行もしたし、七五三には着物も着ていいでしょ、と言うだけではない何かを伝えるために夏帆はメッセンジャーとなって登場するのだと思います。
夏帆は読者に何を言いたいのか?
私はそれを代わりに伝えられるか?
この3日間、ぼ〜〜としながら感じたこと。
『何かが、終わる」
(ここで、夏帆があ〜〜 口の中の痰をとってあげました)
いつもだったら「何かが始まる」と思うはずです。
でも、今回は自分が何かを捨てる予感がするのです。
それが、ちょっと怖い。
終わるのは「過去」かもしれないし、持っているものの何か、一つの項目かもしれない。
いくつものことをやってはいけないと、ずっと思ってきたはずなのに、仕事は増えています。
もうそろそろ肩書きを捨ててもいいようにも思えます。
06年4月5日(水) 新社会人
娘が月曜日から近くのデイサービス通所施設に通い始めました。
18歳の新・社会人です。
家のすぐ近くまでお迎えのバスがきてくれます。
巡回バスのため「行き」は所要5分、「帰り」は55分、合計1時間の往復時間になります。
養護学校へは片道1時間半かかっていましたので、楽になります。
それでも何事も最初の信頼関係をつくることが大切ですので、月曜、火曜と付き添いです。
今日水曜日は病院の定期診察で、明日はリハビリです。
「いつ、仕事をするんだあ〜〜〜?」
そろそろ、です。
でも、ありがたいことに、フリーランスなので、仕事をしてないようでいて、原稿を書くことはできるのです。
『島へ。』5月号が今、書店に並んでいるはずです。
カラー4ページで沖永良部島を紹介しています。
ご覧ください。
06年4月5日(水) 新社会人
娘が月曜日から近くのデイサービス通所施設に通い始めました。
18歳の新・社会人です。
家のすぐ近くまでお迎えのバスがきてくれます。
巡回バスのため「行き」は所要5分、「帰り」は55分、合計1時間の往復時間になります。
養護学校へは片道1時間半かかっていましたので、楽になります。
それでも何事も最初の信頼関係をつくることが大切ですので、月曜、火曜と付き添いです。
今日水曜日は病院の定期診察で、明日はリハビリです。
「いつ、仕事をするんだあ〜〜〜?」
そろそろ、です。
でも、ありがたいことに、フリーランスなので、仕事をしてないようでいて、原稿を書くことはできるのです。
『島へ。』5月号が今、書店に並んでいるはずです。
カラー4ページで沖永良部島を紹介しています。
ご覧ください。
06年3月29日(水) 声帯ポリープの手術延期
4月に声帯ポリープの手術を予定していました。
生まれて初めての手術です。しかも全身麻酔。
だから、術後どの程度オフ期間が必要かつかめず、仕事の約束もできないぞと思っていました。卒業後に通うデイケアも最初の間は付き添いだろうか・・・?
などと考えておりました。
そしたら、両方の声帯にできていたポリープの片方が自然消滅していました。
とりあえず、手術は延期です。
様子をみて経過がよければ手術は中止です。
ポリープは一度できてしまうと手術以外に方法はないと聞いていましたが・・・・
滅多にない幸運がやってきました。
かかっているドクターは、この手術の第一人者です。
とってもいい先生です。
何事も、開拓者には開拓者の風格のような空気があって素敵です。
いい先生との出会いの多いことを幸運だと思っています。
何かが一段落してくると、また、写真の虫がもぞもぞと動き出します。
撮影にも行きたいし、写真展もやりたい。
写真展は簡単ではありませんが、また審査に応募する準備を始めましょう。
06年3月23日(木) 卒業式パワーショット
卒業式の日の写真の現像があがりました。
2台のカメラを用意して、7本のフィルムを使いました。
この18歳の卒業の区切りまではフィルム撮影にこだわりました。デジタルは使用せず。
(今後はデジタルを導入のつもりです)
卒業予行演習の日に、感度の高いフィルムでテスト撮影をしてみました。
体育館のなかは映像を流すために黒幕カーテンが引かれていて暗いのです。
フィルムの感度を上げてもストロボの届く範囲は10メートルくらい。
さて、当日訪問着を着用の母親である私と、一眼レフカメラを2台持つカメラマンである私はミスマッチです。夏帆の育ての母でもある友人が撮影のヘルプをしてくれました。
それぞれの子が卒業証書を受け取るパワーショットのチャンスは一瞬です。
それぞれの子どもの動き、顔を向ける方向の癖など写真のポジションは変わります。
さらに母親が高い位置に昇ることも「式」ですから不可です。
壇上には撮影係の先生がいましたが、朝、他の先生にカメラを渡されて、オートで撮ってくださいと指示されているのを聞いてしまいました。ということは自分のカメラでを持たないカメラマンが壇上にいるわけで・・・・
証書を受け取るところは壇上からのポジションがベストのはずです。
(だから、その写真のなかに壇の下にいる私が入り込まないように隠れます。これはカメラマン同士の言葉なき仁義の様なものです)
でも、顔を右に向ける癖のある夏帆ともう一人の子は、そちら側からでは顔がしっかり写らないぞ・・・ 壇上のカメラマンは自分の立った位置を動かない。学校の先生ですから当然ですが、カメラマンとしては当然ですが素人です。
じゃあ、私が玄人かと言うと、この場合も素人です。母親ですから。
(でも、それぞれの子のパワーショットはこちらが撮らなくてはいけないな・・・とその時、思いました)
証書を受け取ったあと、子どもは参列者の方を向き、証書を見せてくれます。
このときがチャンスです。しかもクラス担任の先生には少しゆっくり動いてもらようにお願いしました。ストロボの充電時間も欲しいのです。その動きをゆっくりしてくれればシャッターチャンスは2回ありそうです。
ところが、壇上のカメラマンは「その位置に」立ったまま・・・
「どけよな!」
と、心のなかはカメラマンと化して、言葉には出さずに怒鳴っています。
「真智子さん、写真撮るのはなっちゃんだけにして、卒業式味わったら?」
と、後輩に言われました。
「どうせ、自分の子より人の子を一生懸命撮るんでしょう」
と。
どの子にも一度しかない卒業式。
至近距離まで近づいて撮ってくれた先生の写真がベストショットである事を願います。
さて、我が娘の夏帆はというと。
朝、5時半に起きて、「みんな、早くおきろ〜〜」とハイテンションです。
卒業式が始まる頃には眠りはじめ・・・・
どんなに頑張って撮ったって、眠ってるんじゃああねえ・・・
ところが、先生が言うには証書をもらう時だけ眼を開けていたというのです。
そして、写真の中の夏帆をルーペでじいい〜〜と見ると。
「なっちゃん、偉い!」
パワーショットの時だけ眼を開けて、決まり!です。
最後の卒業式を迎えた母親の気持ちってどんなものなのだろう・・・
画像は思い出せますが、ほぼ、音のない世界でした。
自分がカメラになっている感覚です。
だから、今日写真を見てやっと、卒業式があり、そこに参加していた自分を確認しました。
「真智子さん、カメラマンになってたね!」
と撮影を手伝ってくれた友人にいわれました。
やはり、私は写真を撮るのが好きです。
撮ることも母親の愛情表現の一つです。
06年3月22日(水) 無事、卒業
娘の卒業を無事迎えることができました。 「ほっ・・・」 何しろ、1週間前に「気管支炎!」になったので、入院になるか? 卒業式までに治るか? 「ハラハラ、ドキドキ」 でした。 いつものことながら、大人の気持ちを盛り上げてくれます。 毎晩、夜中3時に目覚まし時計をかけ、吸引したり・・・などなど。 家来は懸命の介護を尽くし、本人は、 「やっぱり・・・」 午前中の体育館行事は眠っていました。
でも証書と受け取る時は、眼をあけていたということでした。
今度は社会人として近くの「デイケア」に通います。
はあ〜〜〜
いそがしい〜〜〜
06年3月19日(日) 明日は卒業式
袴を履き、母親も訪問着を着て、また、夏帆の卒業式の姿を見に来てくれる人が、浜松からも含めて8人です。浜松から来る人は学生ボランティアをしていたお姉さん。
キャンセルは昨日までには伝えたい。
卒業式は朝、早いし、月曜日なので、私の方からのお誘いは特になしでした。
まあ、学校行事でもあるし。
来てくれる人は「親戚」ということで。
血のつながる親戚よりも、夏帆を抱っこしてくれた回数の圧倒的に多い「育ての親たち」です。
だから明日は絶対「出席!」
の構えです。
東京地方は今日は曇り、昨日は夕方雨でした。
痰がごろごろしています。
それに、左のほっぺがこすれて真っ赤。
いつもの姿勢で眠れず、本人も辛そう。
私も夜中に目覚ましをかけて、起きて、夏帆チェックをしています。
06年3月13日(月) 卒業式まであと1週間 それなのに・・
娘の夏帆の高校卒業です。
障害のある子の多くは高校を卒業すると「社会人」になります。
だから、高校卒業式は「成人式」以上に大きな意味を持ち、区切りでもあります。
成人式以上におしゃれもさせてあげたい。
と親たちは、あれやこれや用意をします。
家の場合は、とにかく「無事、卒業!」
が最大目標で半年前からその「目標」に向けて頑張ってきました。
週に1回訪問看護師さんにもきてもらい「予防医学」につとめ、
親は感染予防に毎日マスクをして出かけ、
夏帆自身も病院の定期診察には行かず、病気の子からの感染を防いできました。
インフルエンザの予防接種はもちろんのこと、
夏帆の通う養護学校では「インフルエンザ」発症生徒がゼロという快挙です。
先生方もホントに気をつけ、気をつけ卒業に備えました。
この1月、クラスメイトが風邪気味と学校をお休みした翌日に亡くなってしまったこともあり、
親の緊張感は高まるばかりでした。
そう・・・それなのに、なのです。
昨日の大風、花粉舞い散る辛い日の翌日である今朝、
「夏帆、熱」
です。
熱だけならば、あっさり下がるのですが。
呼吸音がひゅ〜〜
喘息っぽい音。
大学病院を受診するか?
でも喘息なのに、インフルエンザをもらってきたら卒業式はアウトです。
月曜日は主治医の先生がいない・・・
やや、近いクリニックに。
「気管支炎、ですね」
と、説明を受けまして。
「最低3日は学校休ませた方がいいですよね」
と、母。
「そうですね」
この辺になると、本人の病気の成り行き次第とはわかっていても、取り引きのような質問になってしまいます。
「先生、来週の月曜日、卒業式なんです」
先生の返事は、
「出たい、ですよねえ」
う〜〜〜〜〜
微妙だあ〜〜〜
この返事。
温かくなって、仕事もオン・シーズンです。
こんな日に限って新しい仕事の依頼が入る。
〜月号でよろしいですね、と伸ばし伸ばしになっていた仕事の確認の電話が入る。
沖永良部島から原稿チェックの電話が入る。
奄美大島から、新しい情報FAXが入る。
1週間後の卒業式、今週は学校を全日休ませて、「本番」に賭けてみます。
本番に強い夏帆、袴をはいての卒業証書、自分で受け取れるか・・・
応援してください。
06年3月6日(月)「春の風」
今日の温かな風。
東京で春一番ですね。
天気予報の発表で、今日のが春一番と言ったあとにもっと強い風が吹いて、「春一番情報」を訂正したりすることがあるけれど、私の言う「春一番」は、心のなかで感じる「旅の風」です。
風の中を歩いて、春の匂いを感じ、旅立ちたいと思う、心のざわめきを言います。
さあ、シーズン入りです。
今まで、インフルエンザを家庭のなかに持ち込んではならぬと、唯一の映画さえガマンの冬でしたから。
島に行きたくなりました。
沖永良部島の原稿を書いていて、島の人に電話をするたび、「今度はいつ来るの?」と、聞かれます。
ありがたく、嬉しいです。
06年3月5日(日) 「アイリッシュバー」
きのう、雑誌の編集者が休日出勤してくれて、自宅まで来てくれました。ページ構成などを写真を見ながら相談。この頃の仕事は原稿も写真もメールで送っておしまい・簡単が多いのですがやる気のある編集者とは会うに限ります。
打ち合わせのあと、自由ヶ丘に繰り出し、アイリッシュバーに行きました。
自由ヶ丘は地元なのでいくつかの「お勧め」はあるのですが、せっかくだから新規開拓です。
ヘルパーさんに教えてもらったお店を覗き、いい感じ!
でも、ホームページででみつけたアイリッシュバーに行きました。
それで、意外のも「もどき」ではなく、アイリシュっぽかったのです。
まず、窓辺にアイリッシュらしき、初老のおじさんが座ってビールを飲んでました。
その景色が何ともよくて入るました。
私たちが行ったのは早い時間だったらしく、10時を過ぎるとバーのカウンターには若者が大勢並んでビールを注文しています。その場でお金を払って、もあちら方式です。
立って飲んでいる人もいます。アイリッシュっぽい!
私たちもたくさん飲んで、たくさん食べて来ました。
最重度の障害を持つ子のお母さんとこの日、電話で話したことも「アイリッシュ!」
だったのです。
その呼吸器をつけたこのお姉さんが今大学一年生、学校の伝統で、毎年先生が生徒を連れてアイルランドに行くのだそうです。約1ヶ月の旅の半分はホームスティをするのだとか。
障害のある兄弟に莫大な医療費がかかるので、旅費を親に頼るわけにはいかないのです。
彼女はアルバイトをして、その旅に参加したそうです。
アイルランドもスコットランドも大好きな国です。
アイルランドのアラン島に渡った旅を思い出します。
アラン諸島は三つの島からなるフィッシャーマンセーターの発祥地と言われます。
石でできた島で、土さえも深い地中から掘り起こさなくてはならなかった。
その地は本当に荒涼としています。離婚を決意した女性が一人旅をしていて同じ宿の泊まり合わせました。民宿の奥さんが若い彼女の話の聞き役をしています。
私はそんな時、こんな寒い厳しい島に旅すると心がもっと辛くなりませんかと聞いてみました。
島を一人で歩いていると、その荒涼とした景色が自分の心のなかと一致しているので落ち着くと言っていました。
私もその風景のなかを歩き、悲しみは決して「マイナス」な感情ではない、と感じました。
それ以前にスコットランドの島々を歩いた時に霧にかかった北の島の美しさのなかで「悲しみは美しい」と感じていました。
寒い時期には北の島への旅もいいものです。
06年3月1日(水)「風立ちぬ」
3月、そろそろ「春一番」が吹く頃です。
毎日、この風が春一番かな?
と思いながら春を確かめる日々、それが子どもが生まれる前の習慣だったように思えます。
花粉症が発症して3回目の春、風が吹くのは迷惑のような気持ちになってしまいます。
娘の夏帆も花粉症のようで、訪問看護師さんに鼻水などの分泌物が多い日は、そのことによる「窒息死」に注意してください、と言われ。
風を楽しむ余裕もない日々です。
でも、とりあえず、この冬は元気いっぱいに過ごし、越冬できそうです。
入院のない日々も2年になりますから、厳しい時期を越えてくれた感もあります。
この2年、島の仕事は優先できず、子どもの体調を最優先に過ごす日々を送ってきました。
でも、それも楽しいですよ。
いま、島の原稿を書いていますが、若い頃のような取材の仕方ではなく、
何か一つのことを書いても時間の積み重ねによる島の人の生活の「歴史」のような部分に触れながら原稿を書けるようになってきたので、すごく充実しています。
経験の浅い頃はやはり、その時見えることばかり書いていたように思います。
今は、どの年齢の人のことも書けて、すごく楽しい。
子どもがいるから書けることもあって、それもいい感じ。
文章がうまいとか下手とかそういうことではなく、こういうことを伝えると島に住む人に喜んでもらえるかなと考えながら書いています。
もうすぐ、娘の高校卒業。
当日は私が訪問着を自分で着て、娘も袴です。
大きな一区切りです。
2006年2月22日(水)「忙しい」
美学として、「忙しい」という言葉は極力使わない。
書くのも2回目くらいかもしれない。
20年で2回くらい書いたかもの確率です。
実は、原稿を書いている。
まだ企画も通ってない原稿を書いている。
書かねばならぬ・・・
きのうなど、歯医者さんの治療台に座ったまま、
「先生、すいません」
と、メモを出して原稿を書いてしまった。ことばが来てくれた時にメモしておかなくては・・・
書かねばならぬ締め切りは4月、生まれて初めて小さな手術を受けることになっていて、
それが大きな手術になる可能性だってあるわけで。
それまで1冊分。
さて、その原稿書きはまだ、非公式なもの。
本来は冬バージョンの冬眠生活の「ひま〜〜」な時期ではあるが、
雑誌の島原稿をカラー4ページ作らなくてはならぬ。
写真雑誌に出す、写真の準備がある。
それより何より、娘の卒業式に向けて、この1ヶ月は母親に徹したい。
今日は、着物の着付け練習に行く。
明日は学校の保護者会。
あさってはお客様が来て、着物の準備。
翌日は、区役所にも行かなくては。イヤ、土曜日は区役所がやってない。
月曜日は学校の校医の診察、
区役所はいつ行けば良いだろう?
「いつ? 原稿を書くのだ?」
昨日、あいらんだあの編集作業が校了したところ。
いつ、パソコンの前に座れるのだ?
今だ!今、
「仕事、します!」
2006年2月14日(火) 「風立ちぬ」
私の仕事は季節商売で、「夏」と「冬」に分かれます。
オン・シーズンの夏は3月から10月くらいで、残りは冬眠の冬です。
冬には冬で、冬バージョンの作業がいろいろあります。
3月1日になると、「さあ、今年もはじまるぞ〜」
という感じなのですが。
今年は休みます!
と年賀状に書いたこの冬、すでに忙しく、その流れに水をかけているのですが。
3月1日のシーズン入りを待たず、昨日スイッチを切り替えました。
娘の卒業と、障害児を取り巻く制度の変換、4月からの自立支援法。
そういえば確定申告もあった、あいらんだあの発行も。
難しくはないのですが、物理的に時間のかかる作業がたくさんです。
ゆっくり「お母さんモード」から、スイッチ、ぱっきり。
「河田真智子モード」に切り替わりました。
まだ寒いし、インフルエンザも怖いし。
「なっちゃん、今年はもうインフルエンザ、なしよ」
2006年2月7日(火) 「鹿児島帰り」
今、鹿児島から戻ったところです。
今回は鹿児島だけの滞在3泊4日でした。
1日目 鹿児島大学多島圏センターのシンポジウムを聴講
2日目 鹿児島大学で別の会が主宰する太平洋の「ツバル」のシンポジウムがあることを知り、聴講。
3日目 これが本来の用事で、県庁で行われる県政100人委員会に出席。
2年任期の最後の会議のため、夜は懇親会があり、
4日目の朝の便で東京に戻った訳です。
夏帆は土日は父と過ごし、
月曜日は、放課後いつもはヘルパーさんなしなのだけれど、
お願いして。
そして、今日火曜日はヘルパーさんのお迎えの時間までの戻るというのが旅の裏側の日程です。
本で読んだり、知識として知っていたことや、その発祥となる人、その本人に東京ではなく「鹿児島で」会うことができました。
鹿児島は島の「センター」かもしれないと感じましたし、島の活動をしたいなあと、心の底の方にたまっているマグマがぐらぐら煮えてきました。
太平洋の島々にも行きたいなあ。
次号の「あいらんだあ」に鹿児島大学の長嶋先生に原稿を書いていただきました。
その長嶋先生が議長のシンポジウム、久しぶりに「すっごくおもしろかった!」
話が深いところまでつっこんでくれたし、それぞれ立場の違う人、科学者、研究者、ジャーナリストが真摯に本音を語っていました。
久しぶりに、と言うのは5年に一回くらいの確率です。
「勉強する」楽しさ、勉強するために鹿児島に行く、ってそういう旅、いいなあ。
と、思ったのでした。
尻切れトンボですが、資料をホテルから送った小包に入れてしまったので、詳細はまた描き込みます。
この頃、自由時間を使って、鹿児島でショッピングを楽しみ、荷物は送り、手ぶらで帰ってきます。
今回は、屋久島の工芸品(数珠)、お葬式があると行けないので、と、屋久島の染め物、種子島の包丁を買ったのです。(主婦!) |