2005 11 23            
日本史上二百五十数年の泰平の世を実現した徳川幕府の始祖徳川家康の統治の根幹となった武家諸法度(ぶけしょはっと)と禁中並公家法度(きんちゅうならびくげはっと)を調べますと家康は現代でも遜色ない思考見識の類稀なる武将であるかが分りました。

特に日本国憲法と禁中並公家法度の付き合せや、武家諸法度と法人、企業の規則の相違など隔世の四百年が案外近くに在るのか遥か彼方なのか面白いので今回記載する事に致しました。
それでは二大法度の発布時の様子から始めますが何分読むのには苦労しますが悪しからずよろしく御願いいたします。

『元和元年(1615)七月七日、大将軍諸大名を伏見城に召し武家法度を頒てり、この法度は貞永、建武両式目に準拠せしものにして十三条を以って成り、この日、本多正純その制度の事由を説明し、金地院崇伝これを朗読す。
次いで関白藤原昭実と議し、禁中並に公家法度を定め、十七日を以って両伝奏及び公家を二条城に会してこれを頒ち、二十四日を以って五山大徳寺、妙心寺、永平寺、総持寺、故義新義浄土宗等の法度を定め、これを頒てり、これらの諸法令は、実に徳川氏が二百五十年天下を維持する所の心髄となりたるものなり。』
(大阪城誌巻第十二)

武家諸法度から始めます、元和元年(1616)徳川家康制定の13ヶ条、から三代家光の寛永十二年(1635)参勤交代などの条項追加、五代綱吉の天和三年(1683)軍役の事など加えられ八代吉宗以後は変化はありません。
当初の条文と238年後の徳川家定十三代将軍就任のさい嘉永七年(1854)江戸城で恒例によって諸侯に読み聞かせた条文を併記いたしました。


                           武家諸法度          徳川幕府制定 元和元年七月七日(1616)
徳川家康制定元和元年条文(1616) 十三代徳川家定就任嘉永七年条文(1854)

 、文武弓馬の道、専ら相嗜むべきこと。
   文を左とし武を右とす古よりの法なり。兼ね備えざるべか
   らず。弓馬はこれ武家の要枢なり。兵を号し、凶器となす
   は已むを得ずしてこれを用う、治めて乱を忘れず、
   何ぞ修練を励まざる事あらん。

 
、群飲佚遊を制すべきこと。
   令条に載るところ厳制殊に重し、好色に耽り博奕を業と 
   す、これ亡国の基なり。

 
、法度に背く輩を国々に隠し置くべからざること。
   法はこれ礼節の基なり。法を以って理を破り、理をもって
   法をやぶらず、法に背くの類その科軽からず。

 、国々の大名小名並びに諸給人は各々士卒を相构し、反逆
   をなし人を殺害する者あらば速やかに追い出すべき事。
   夫れ野心を挟む者は、国家を覆すの利器、人民を絶すの
   鉾釼をなす。豈jに允容すべきや。

 
、今より以後、国人の外、他国の人を雑置すべからざる事。
   およそ諸国、その風を異にし、或いは自国の密事を以って
   他国に告げ、或いは他国の密事を以って自国に告ぐ。皆
   侫媚の萌芽なり。

 
、諸国の居城、修補なすと雖も必ず言上すべく、況んや新儀
   の構営は、堅く停止せらるること。
   城の百雉に過ぎるは国の害なり。峻塁峻隍は大乱の本な
   り。     

 一、隣国に於て新儀を企て、徒党を結ぶ者これ有らば、早く言
   上いたすべきなり。
   人皆な党あり、而してまた達者は少し、これを以て或は君
   に順わず、また或は隣里と違い、旧制を守らずして何ぞ妄
   りに新儀を企てんや。

 一、私に婚姻を結ぶべからざる事。
   夫れ婚姻は陰陽和合の道なり。軽んずべからず。易の騤
   に曰く 「冠にあらざる婚講媾は、志将に冠に通すべく則ち
   時を失う」 桃の天に曰く 「男女正しきを以ち、婚姻時を持
   てば、国に?民なきなり」と、縁を以って党をなす、これ姦
   謀の本なり。

 
一、諸大名参觀作法のこと。
   続日本記に曰く 「公事に預からずして、恣に己族を集め
   得ず、京裏二十騎以上集行し得ず云々」 と、多数引率す
   べからず、百万石以下二十万石以上は二十騎を過すべか
   らず。十万石以下はその相応をなすべし。蓋し公役の時は
   其の分限に隋うべきなり。

 
一、衣装の品混雑すべからざること。 
   君臣上下、各々別をなすべし、白綾白小袖、紫袷、紫裏練
   無紋小袖、御免なき衆の猥りに着用あるべからず。
   近代郎従諸卒、綾羅錦繍等の服を飾る、甚だ古法にあらず

 
一、雑人恣に乗輿すべからざること。
   古来その人に依り御免無きに乗る家これあり、御免ののち
   乗る家これあり、然るに近来に及び家郎諸卒輿に乗る。誠
    に濫次の至りなり。向後に於ては、国主大名以下、一門の
   歴々、昵近の衆、並びに医陰両道、或いは六十以上の人、
   或いは病者等は乗るべく、家郎従卒を恣に乗せしめるは、
   其の主人の越度となすべきなり。
   但し公家、門跡、諸出家の衆は、制の限りに非ず。

 一、諸国諸侍、倹約を用いらるべきこと。
   富者弥々誇れば、貧者は及ばざるを耻じ、俗の凋弊これよ
   り甚だしきはなし。厳禁せらるる所なり。

 
一、国主は政務の器用を選ぶべきこと。
   凡そ治国の道は人を得るにあり、明らかに功過を察すれ
   ば、賞罰必ず当る。国に善人あらば、即ち其の国弥々盛
   殷、国に善人無ければ其の国必ず亡ぶ。これ先哲の明
   誠なり。

 右の条々堅く相守るべきもの也。


 、文武忠孝を励み、礼儀を正しくすべき事。

 、参勤交代の儀、毎歳所定の時節を守るべく、従者の員数、
   繁多に及ぶべからざる事。

 人馬、兵具等、分限に応じ、相嗜むべきこと。

 
、新規の城郭構営は堅く禁止し、居城の隍塁、石壁等敗壊の
   時は、奉行所に達し差図を受べき也。櫓屏門以下は、先規
   の如く修補すべき事。

  大船製造は言上すべき事。

 
、新規を企て、徒党を結び、誓約をなし、並びに私の関所、新
    法の津留は制禁の事。
   

 、江戸並びに何国にても、不慮の儀これ有りと雖も、猥りに懸
   集すべからず、在国の輩はその所を守り、下知を相待つべ
   き也。何所にて刑罰を行なうと雖も、役者の外、出向すべか
    らず
検視の左右に任すべき事。
  
 、喧嘩、口論は謹慎を加うべく。私の諍論はこれを制禁す。若
   し拠んどころなき子細これあるは、奉行に達しその旨を受く
   べし。何事によらず加担するは、その咎本人より重かるべし
   並びに本主の障りこれ有るもの相抱えざる事。
   附 頭これ有る輩は、百姓訴論はその支配へ談合せし
       めこれを済ますべし。滞儀有るは評定所へこれを
       差出、捌きを受くべき事。


 、国主、城主、一万石以上、近習、並びに諸奉行、諸物頭、私
   かに婚姻を結ぶべからず。惣て公家と縁辺を結ぶに於いて
   は、奉行所に達し差図を受くべき事。

 、音信、贈答、嫁娵の規式、或いは饗応、或いは家宅営作等、
   その外万事倹約を用うべく、惣て無益の道具を好み、私の奢
   りを致すべからざる事。

 、衣裳の品、混乱すべからず。白綾は公郷以上、白小袖は諸
   大名以上免許の事。
   附 徒、若党の衣類は、羽二重、絹、紬布、木綿、弓鉄
       砲の者は紬布、木綿、その下に至りては万々布、
       木綿を用うべき事。


 
、乗輿は一門の歴々、国主、城主、一万石以上、並びに国主
   大名の息、城主及び侍従以上の嫡子、或いは年五十以上に
   これを許す。但し医師僧家は制外の事。

 
、養子は同姓相応の者を撰び、若しこれ無きにおいては由緒を
   正し、存生の内に言上致すべく、五十以上十七歳以下の輩、
   末期に及び養子致すと雖も吟味の上これを立つべく、たとえ
   実子と雖も筋目違いたる儀は立つべからざる事。
   附 殉死の儀、弥々制禁せられし事。

 、知行の諸務、清廉これを沙汰し、国郡を衰幣せしむべからず。
   道路、駅馬、橋舟等、断絶なく往還せしむべき事。

 
、諸国散在の寺社領、古より今に至り付け来たる所は取り放す
   べからず。勿論新規の寺社建立はこれを停止せしめらる。若
   しよんどころなき子細これ有らば奉行所に達し、差図を受くべ
   き事。

 
、万事江戸の法度に応じ、国々所々において遵行すべき事。
 
  
右の条々堅く相守るべきもの也。



次に徳川幕府長期政権の第一の根幹、禁中並公家法度に移ります。
当時の日本史上初めて天皇を法規の下に規定した画期的な事件であり、朝廷は法度を公布した徳川幕府の実質的制約下に組み込まれた状況が幕末動乱の勤皇復古調期の前まで続きました。
この法規十七条のうち核心は第一条に尽きると思いますのでこの項を重点とした記載にいたします。

                       禁中並公家法度     徳川幕府制定 元和元年七月十七日(1616)
            條目                 本文 その他
 第一條 天子芸能の事を規定す。







 参考)
  芸能
学問、芸術のなどの技芸、礼、楽、御、書、
  数、のほか詩歌、書画、蹴鞠など。








 
 (原漢文)

   第一御学問也、        和歌自光孝天皇未絶、
   不学則不明古道、  
      雖為綺語、 
   而能政致太平、        我国習俗也、
   貞観政要明文也、       不可棄置去々、
   寛平遺誡、    
         所載禁秘抄  
   - - - - - - -  雖不窮經史、          習学専要候事、
   
第一御学問なり、学ならずんば則ち古道明らかならず、而して能く
   太平を致すもの未だ之有らざるなり。 
貞観政要の明文なり。
   寛平
遺誡に経史を極めずと雖も群書治要を踊習すべしと去々。
   和歌光孝天皇より未だ絶へず、綺語たりと雖も、我国の習俗なり。
   
棄て置くべからずと去々。 
禁秘抄に載せる所、御学習専要に候事。

 注)
 
貞観政要→唐の太宗の書(720)、歴代皇帝の必読書。
 群書治要→唐の太宗の書、古代の群書から政治要綱を抜き出した書。
 
禁秘抄 
承久三年(1221)順徳天皇著、宮中の行事、制度,、故事
        の書。
 (大要)
   天子の行うべき事は、唐の皇帝の書や日本古来の和歌、朝廷の
   有職故事などの学問を第一に専念する事。

   
 第二條 三公、親王の座次を規定す。   親王の位次は三公の下にあり。摂家の位次は ①三公。 ②親王。
 ③前官大臣。 ④諸親王。

 注)三公→太政大臣、左大臣、右大臣。
 第三條 清華の辭表の後の座位は、諸親王の次
      
  席たるべきことを規定す。 
 
 第四條 摂家たりともその器用無き者は三公摂
        関に任じらるべからず。況やその他を
        や。
 
  
 第五條 器用の御仁躰は、老年に及ばると雖も、
        三公摂関辭表あるべからず。但し辭表
        ありと雖も再任あるべきこと。 
 
 第六條 養子の規定。  
 即ち、同姓を用ふべし、女縁を以ってその家督を相続すること古今一切
 無きこと。
 第七條 武家の官位は、公卿當の外たるべきこ
        と。

 慶長十一年、家康参内して、武家の官位は幕府より推挙なくば叙任せら
 れざるべきことを奏し、公卿の外に置くこととし、慶長十七年よりは全く公
 卿補任より除いたが、今これを元和の令に明文を掲げたのである。
 第八條 改元のこと。  
 第九條 天子の御衣服以下諸臣下の衣服のこと
        を規定す。
 
 第十條 諸家昇進の次第を規定す。  
 第十一條 関白傳奏並に奉行等の申渡しに違背
         する堂上地下輩は流罪に處すること。
 
 第十二條 罪の軽重は名例律によること。  
 第十三條 摂家門跡は親王門跡の次座、摂家
           は、三公の時には親王の上座たり
           と雖も、前官大臣は親王の次座と
           定められたるによりこれに准ずる。
 
 第十四條 僧正門跡院家任命に関する規定。  
 第十五條 門跡院家の僧都、律師、法院、法眼、
 
         任叙の規定。
 
 第十六條 寺住持職の紫衣の規定。
 紫衣の寺住寺職、先規稀有の事也、近年猥りに勅許の事、且つは臈次
 を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於いては、その器
 用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば入院の儀申し沙汰有るべき事。

参孝) この条目では朝幕関係に重大事件を惹起した→幕府に諮らず
     に後水尾天皇が八ケ寺の住持職に紫衣を許し禁中並公家法
     度違反で勅許の無効処分を受け面目を失い譲位を決意する。
     多数の流罪者も出た紫衣事件は寛永四年(1627)三代将軍
     徳川家光、大御所秀忠の時代。
 第十七條 上人號の規定。  
                        可被相守此旨者也


上記両法度は徳川家康の信任厚い臨済宗本山南禅寺住職を務めた金地院崇伝
(こんちいんすうでん)が起草者で将軍家の政治では黒衣の宰相ともよばれ後水
尾天皇の勅許差し止め紫衣事件にも関っています。
なお徳川家康死去後の神号について崇伝は”明神”を主張するも通らず、二代将
軍秀忠は天海僧正の推す権現”東照大権現”として祀った。家康以来、三代家光
まで天海と共に将軍の信頼は深かった。
                 金地院崇伝→永禄12~寛永10年(1569~1633) 


引用文献1)   ”史料徳川幕府の制度” 小野清著 高柳金芳注  人物往来社
引用文献2)   ”日本文化史”       辻善之助著         春秋社