2005 04 23         

        
            王子稲荷神社





音無川渓谷





               飛鳥山公園



王子飛鳥山と言いますと私は落語"王子の狐"で人に騙される狐の噺や,花見の余興の仇討ちを本気にした助っ人が乱入し大騒ぎになる"花見の仇討ち"を思い出します。
お江戸の残滓を求めて散策してみますと明治維新の戊辰戦争後、僅か数年で官営富岡製糸場や王子製紙工場の立ち上げに着手近代工業を発祥させ、又日本に銀行や株式制度を導入した近代経済の始祖渋沢栄一と深い縁の場所なのが解かりました。  

それでは最初に狐の巣穴が残る王子稲荷神社へ参りたいと思いますが、やはり"王子の狐"の噺の概略を東京落語地図朝日文庫 佐藤光房著から

……ある男、王子に遊びに行って、田んぼの稲むらの蔭で狐が若い女に化ける現場を見てしまう。
化かされる前にと、男の方から「お玉ちゃん」と声をかける。「あら、お兄さん、お久しぶり」という狐を誘って、王子の料亭扇屋の二階に上がる。
狐はてんぷら、男は刺身で飲んでいるうちに、狐は酔って寝てしまう。男は「近くの伯父のところに顔を出したいので、土産に卵焼きの折を三人前、勘定は二階の婦人が心得ているから」と、あとを狐に押しつけて行ってしまう。
しばらくして女中に起こされた狐、「お勘定を」といわれた途端にびっくりして通力を失い、正体をあらわす。店のもの総出で、棒切れを持って狐を追い回す。進退きわまった狐は、最後っ屁を放って窓から逃げる。そこへ主人が帰ってきて「うちが繁盛しているのは王子のお稲荷様のおかげだぞ。そのお使い姫になんて事をする」と店のものをしかり、王子稲荷へわびに行く。一方、狐をだました男、伯父に「狐は執念深いから、お前の一家は取り殺されるぞ」とおどされる。
怖くなった男は翌日、手土産を持って謝りに行く。狐の穴を見つけ、子狐にわけを話して土産を渡す。子狐が開けてみて、「やあ、ぼたもちだ、食べてもいいかい」というと、けがをしてうなっていた母狐が「およし、馬のふんかもしれない」。……


と落語の面白さを存分に盛り込んだお噺です。駅前に戻り公園になった音無川の渓谷わきには舞台になった扇屋がビルになって営業しており今も卵焼きが売り物です。渓谷をしばらく遡り音無橋脇に上りますと明治通りの向側が江戸花見の名所飛鳥山です。

地形的には荒川上流にむけて連なる丘陵地帯の落ち込む崖の部分と音無(石神井川)渓谷が形成されて飛鳥山と見立てたようです。
この一帯も整備され桜など樹木に蔽われた飛鳥山公園ですが林立するビルが遮り昔の眺望は難しいようです。

更に園内を駒込方面に歩くと三つの瀟洒な博物館があり、紙の博物館、北区飛鳥山博物館、渋沢資料館、と続きます。
紙の博物館は王子製紙工場の資料をもとに発祥し、図書室には創業時の物も在るそうです。
この付近は旧渋沢邸「曖依村荘」(あいいそんそう)跡で一番奥が渋沢資料館です旧邸内の建物は戦災により多くは焼失しましたが晩香廬(ばんこうろ)と青淵文庫(せいえんぶんこ)が残り東京都の歴史的建造物です。

大正初期の洋風建築で調度品、内外装とも補修され当時の重厚な雰囲気を保ち質の高さを感じさせ共に公開、見学が出来ます。
渋沢資料館に戻ります。館名の通りまさに渋沢栄一の生涯にわたる資料が充実しており今も日本近代社会の礎的な存在である事実とその人物のスケールの偉大さには驚かされます。ここを訪れ、多くの人は彼の残した業績に対する知識が断片的であったと気が付くのではないでしょうか。

それでは、山を下り王子駅前の都電線路を歩道橋で渡った右奥に大きな石碑があり"洋紙発祥の地"記念碑です、現在の王子製紙の社名の発祥の地でもあります。
明治の初期洋紙工場が当地に創られる必然性があったのでしょうか?。工業用水の確保、平坦な用地、製品原料の運搬の利便、など立地環境を石神井川と飛鳥山下の土地、隅田川の水運利用で当時としては最も優れた場所でありました。

更に最も重要な条件が在ります。驚かないで下さい当時の製紙の原料は”ボロ"木綿で古着などを収集するにも適していたのです。
その後原料はボロから木材パルプに代わり原料の確保、海運の利便、広大な用地と進化を求めて明治41年には北海道苫小牧に主力工場の操業が始まり会社でも江戸の延長、王子の時代は終わったのでした。
ここに来て私はなにやら場末的な雰囲気の街、王子と日本の代表企業の社名とのイメージのギャップが面白く感じました。
王子飛鳥山界隈はどうやら渋沢栄一さん抜きでは語れない土地の様です。

既に皆様ご存知の事とは思いますが武州の一青年農民が表舞台に登場するドラマチックな過程を、このテーマの締めくくりにしたいと思います。

渋沢栄一(栄治郎)の生家は埼玉県の深谷市の在、利根川近くの血洗島村で農業と藍玉を商う近郷屈指の豪農の長男で父の代から苗字帯刀を許される家柄でした。十四五歳から仕事の傍ら剣術修行もし幕末を生きた若者たちが情熱に命を賭けた様に彼も壮大な計画の実行を練っていたのです。

この時期はと『お断りします』が熱烈な攘夷論者であった彼は近郷の若者、同士を糾合し高崎城を襲撃しここを拠点にして挙兵し横浜居留地を急襲、異人を大殺戮する事で幕府を攘夷に踏み切らせる計画を持っておりました。
そこで水戸藩出身の一ツ橋家の当主慶喜(のち十五代将軍)に縁故を求め家臣である平岡円四郎に面会、計画を披露します。知力胆力を認められ元治一年(1864年)一ツ橋家に取り立てられました。



渋沢資料館





旧渋沢邸晩香廬





旧渋沢邸青淵文庫







洋紙発祥の地記念碑
徳川慶喜が征夷大将軍就任の翌年慶応三年(1867年)には幕臣として徳川昭武(慶喜の実弟、最後の水戸藩主)に従いフランスに渡航しパリ万博、西洋諸国を歴訪中幕府崩壊、大政奉還で急遽帰国します。
 
新政府は渋沢栄一がヨーロッパで見聞した経済システムの先進知識などを評価直ちに招聘したのをきっかけに彼の目を見張るような活躍となります。
ところで渋沢栄一を初め明治新政府の面々は命をかけた攘夷から開国西洋文明至上主義に時を経ず一大変身を成し遂げた事になりますが、……過ちを改むるに憚る事なかれ……と昔の教訓を早速実践したという事なのでしょうか!







 王子駅付近略図







 渋沢資料館施設案内パンフレット地図略図より

渋沢資料館HP
http://www.shibusawa.or.jp/museum/index.html

青淵文庫と晩香廬公開日はHPの
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