P.R.サルカールの社会サイクル論とラビ・バトラ教授

 吉見道夫

 

はじめに

 私は、4年前、知人からラビ・バトラ教授(Ravi Batraラヴィ・バトラ教授)の「世界大恐慌」(総合法令)という本を紹介されてサルカール(P.R.Sarkar サーカー)を知り、サルカールを読むようになりました。サルカールを読み進むうちにバトラ教授の専門分野の経済論以外の領域では、ずいぶんバトラ教授は師であるサルカールと離れてきているのではないかという印象をもってきました。

 まず第一に、サルカールは、論理的で合理的な推論を重視していることです。サルカールは、彼なりの論理的根拠から資本主義の崩壊は避けられないことを述べていますが、ラビ・バトラ教授の予言にはどこか安易さを感じてしまいます。第二に、サルカールのスピリュアリティの考えは、超能力を求めたり、誇示することは悪への道であることを説いています。 実際、ラビ・バトラ教授の「神との対話」の中で出てくるサルカールは、彼のもっている驚くべき語学の能力を記者の目から隠そうとした逸話が書かれています。サルカールは、スピリチュアリティを追求する団体を判断するにあたって、超能力を宣伝したり、お金をたくさんとるところは避けるように述べています。サルカールの超能力を称揚し、自分でも「予言」をくりかえすことが、本当にラビ・バトラ教授の師サルカールの意にそっていることかは疑問です。第三にサルカールは、「人類は一つで分割されない」としてナショナリズムを批判しますが、ラビ・バトラ教授の著書では、逆にナショナリストの美化がみられます。第四に、ラビ・バトラ教授の経済学については専門家としての裏付けもあり、かつサルカールの考えとも合致しており、説得力を感じます。しかし、経済学以外のところでは、サルカールを語りながら、サルカールと似て非なる思想を語っているように思えます。

そこで、本論は、サルカールの社会サイクル論の紹介とラビ・バトラ教授との相違を中心にして検討します。

 

サルカールの著書「人間社会2」は、彼の社会サイクル論を解説したものです。その内容は、「クシャトリア時代」「ヴィープラ時代」「ヴァイシャ時代」「シュードラ革命とサドヴィプラ社会」からなっています。ラビ・バトラ教授の社会サイクル論(バトラの本の訳者たちは「社会循環の法則」と訳している)は、最後の「シュードラ革命とサドヴィプラ社会」論をまったく無視した上で議論を展開しています。したがって、サルカールの「シュードラ革命とサドヴィプラ社会」論を紹介しながら、ラビ・バトラ教授の論との異同を検討してゆきます。

 

1)社会サイクルは自動的には進まない

「ヴァイシャによる搾取の不可避的な帰結がシュードラ革命です。・・・好機が来たからと言って、 シュードラ革命が自動的に起きるわけではありません。場と人に関するふさわしい状況が必要です」P.R.Sarkar,Human society,Anandamraga Publications,Anandanagar,p.271

 

第一に、サルカールは、シュードラ革命についてくりかえし語っていますが、バトラにはシュードラ革命についての積極的な言及がみあたりません。サルカールが「プラウトの原理」として16項目を簡潔にまとめたスピーチの第6項目には、「シュードラ革命を含む完全なローテーションは『全周進化』(peripheric evolution)と呼ばれます」とあります。P.R.Sarkar, Prout Economics,Ananda Mraga Publications,Culcutta,p.3

 武勇の力をもつクシャトリアのリーダーシップのもとに打ち立てられた社会構造は、構造が安定してくると知力にまさるヴィープラが社会運営の面で優位に立つようになります。その安定の中で経済活動が活発になり、財力を蓄えたヴァイシャが統治の座にあるクシャトリアやヴィープラのメンタリティの持ち主を財の力で動かす時代がやってきます。このヴァイシャ優位の時代の末期には、彼らのもとに富が集中するために、一般大衆であるシュードラの貧窮化が生じます。ヴァイシャの僕となって自らの武勇と知力を売り渡すことを潔しとしないクシャトリアとヴィープラの生活水準はシュードラ化します。そのクシャトリアたちが一般大衆を率いて革命に立ち上がります。そしてその革命のリーダーとなったクシャトリアが新しい社会構造を打ち立てます。

 これがシュードラ革命を含む社会サイクルの全周進化です。ラビ・バトラ教授の議論は、このシュードラ革命の局面を社会サイクルからドロップさせているためにアメリカの戦争指導指者であるパウエル国務長官やブッシュ大統領を次の社会サイクルへの道を開くクシャトリアとして美化する言葉がでてきます。日本にかかわっては小泉純一郎、小沢一郎、石原慎太郎を現在のヴァイシャ支配にかわるクシャトリアとして美化します。彼らが危機深まるヴァイシャ支配を建て直すためにでてきたヴァイシャに奉仕するクシャトリアである側面がまったくドロップしています。

第二に、「シュードラ革命が自動的に起きるわけではありません」というサルカールの言葉に反して、ラビ・バトラ教授の周期説では革命の準備なしに自動的に社会回転が進んでゆく印象を受けます。サルカールは、インド独立の時の指導者を、一つには大衆を反搾取の経済的な闘争に導かなかったこと、もう一つは、全国隅々にわたる大衆的革命組織を作ることに失敗したこと、そうしたことのために独立後もヴァイシャによる支配を続かせてしまったと批判しています。サルカールによれば、ヴァイシャ支配を打ち倒すには徹底した準備が必要です。ラビ・バトラ教授は、銀行倒産の時にどのように自分の財産を守るかについては教えてくれますが、革命の準備の必要は説かず、神の書いたシナリオによるドラマとしてヴァイシャ時代の成り行きを興味深く見ておればいいと説きます。

 

2)革命をおこすのはシュードラ的状態のクシャトリア

「経済的な視点からは、社会がただ二つの階級、すなわち搾取するヴァイシャと搾取されるシュードラに分かれた時に革命はおこります。しかし、心理的な視点からは・・・経済的にはシュードラだけども、心理的にはヴィープラもしくはクシャトリアである人々がいないならば、シュードラ革命は不可能ですp.270

 

 サルカールによれば、一方でヴァイシャとその支配に仕えるクシャトリア、ヴィープラに対して、ヴァイシャにその武勇と知力を売り渡すことを潔しとせず、迎合しないクシャトリアとヴィープラの生活状態が悪化します。彼らの反抗がシュードラ一般大衆を巻き込んで、シュードラ革命を引き起こします。

 他方、ラビ・バトラ教授は、ブッシュ、小泉、小沢、石原たちを、次の社会サイクルのクシャトリア時代の萌芽として位置づけます。しかし、サルカールの観点からすると、たとえクシャトリアのメンタリティの持ち主であったとしても、彼らは決して一般大衆シュードラの経済状態に陥った指導者たちではありません。むしろ現在のヴァイシャと結ぶ人々であることは誰でも知っているのではないでしょうか。

  サルカールの指摘によれば、ヴァイシャ優位の時代は、政治の舞台で活躍するクシャトリアやヴィープラのメンタリティの持ち主をヴァイシャが財の力によって背後で操ります。ラビ・バトラ教授のように、ブッシュ、小泉、小沢、石原たちは、次のサイクルにつながるクシャトリアとして見るよりも、彼らは現在のヴァイシャ支配に奉仕し、それを長引かせることで一層、資本主義の矛盾を深化させて、よりシュードラの生活に危機的状態をもたらす役割を果たす人々と位置づける方がよりサルカールの理論に近いと考えます。 

 

3)シュードラ革命の道を妨害する考え方との闘いの必要

私がクシャトリアの心やヴィープラの心を持ったシュードラが人民の革命をおこすだろうと述べたのはこういう理由からです。そのため、そのようなシュードラは、徹底した準備をしなくてはなりません。彼らは多大な損害と大きな犠牲を払わざるをえないでしょう。彼らは敵対するグループ、その教義と闘わなくてはなりませんp.272

 では、どのような考えが、革命に敵対的な考え方なのか。サルカールは次の五つをあげています。

 一つは、シュードラの心をもったシュードラに革命の期待を託すことです。人民の革命をもたらそうとする人がそのように考えること愚かなことだと言います。シュードラの心をもったシュードラとは、もし、酒びたりの労働者だったら、賃金があがった部分は酒代に消えてしまうタイプです。この層は容易に反革命に動員されてしまいます。「シュードラの鈍的停滞的static性質がその運動を妨げます。彼らの臆病が時期尚早に革命の火を消してしまいます」と述べています。サルカールはクシャトリアやヴィープラのメンタリティをもった革命的シュードラのことをヴィクシュブダviks’b dh・シュードラ(不満を抱いたシュードラ)と呼び、高い精神性、道徳性をもった立場から社会のあり方に不満をもったシュードラを増やしなさいと述べます。

革命を妨げる二つ目としてサルカールは、ナショナリズム(民族主義、国家主義、愛国主義)の伝統をあげます。ナショナリズムは深まりゆく社会矛盾すなわちヴァイシャによる搾取の強化をおおいかくし、人々の目を外国との対抗意識にもってゆきます。現在、推し進められている靖国公式参拝問題、君が代の押しつけ、有事立法、憲法改正、反動的な歴史教育の試みは、ヴァイシャ支配に奉仕するヴィープラとクシャトリアたちが推進しているナショナリズムの現れです。これは社会サイクルの正常な展開を妨げ、私たちに重大な苦しみを与えることになるでしょう。サルカールと違って、ラビ・バトラ教授には、ブッシュや小泉、小沢、石原らを美化こそすれ、彼らにみられるナショナリスト的側面への批判はいっさいありません。日本ではこのような心に半径をもうけるナショナリズムとのイデオロギー闘争が重要となっていると思われます。

さらに三つ目としてサルカールは、「運命は定められている」という宗教的な伝統による考えが革命闘争の前進を妨げると指摘しています。「運命として定まっていることが起きているだけだ。闘争して何になるだろうか」「どうにかこうにか自分の人生を過ごせている。だからどうしてわざわざ面倒なことにかかわる必要があろうか」という考えをニシャカーマ・カルマヴァーダnis'ka'ma karmava'da [無願望の行いの教義]として批判します。ラビ・バトラ教授が強調する「神のシナリオが歴史のドラマを展開させているのだ」という議論は、彼の師の意に反して搾取者たちを喜ばせる議論ということになります。

四つめの考え方として、サルカールは、福祉国家論、民主社会主義、ガンジー主義などをあげています。それぞれの創始者の人間性は立派だったが、その哲学は、貧しい人々を解放するためには有害であると言います。

五つめの革命を妨害する考えとして輪廻論の解釈のあり方をあげています。サルカールは魂の生まれ変わりをみとめます。しかし、「この生であなたが飢えているのは、過去生であなたが多くの罪を犯したからです。だから、運動をはじめてみても利点はありません。運命は変えることができません」というような解釈は革命に敵対するものとして明確に退けています。

 

4)社会サイクルの中心核に位置し、回転を前進させてゆく精神性革命家集団(サドヴィプラ社会)の確立の必要

「もし、革命後のクシャトリア時代を定立(テーゼ)と呼ぶとすれば、搾取的になったクシャトリアに対して、サトヴィプラがとった措置が反定立(アンチテーゼ)です。この衝突から展開した革命後のヴィープラ時代が総合(ジンテーゼ)です。後の時期、すなわち、ヴィープラが低下して、搾取的になることを望んだ時、サドヴィプラが彼らに対してとった措置が、反定立(アンチテーゼ)です。それゆえ、ポスト・クシャトリアのヴィープラ時代は、その時には、総合(ジンテーゼ)と呼ぶことはできません。それは次の段階の定立(テーゼ)と呼ぶことができます。・・・今日、私は、理性的で、スピリチュアルで、道徳的な、すべての闘う人々に、早急にサドヴィプラ社会を築くことを心から求めます。サドヴィプラは、すべての国のために、すべての人類の包括的な解放のために働かなくてはなりませんp.278-290

 

 ラビ・バトラ教授の社会サイクル論でまったく欠落しているのが、このサドヴィプラ社会確立の必要性です。サルカールの言うサドヴィプラとは、どのような人でしょうか。「革命のパイオニアであるクシャトリアの心をもったシュードラやヴィープラの心をもったシュードラは、規律を身につけ、適切な革命の訓練をし、自分の人格を確立し、モラリストにならなければならないでしょう。一言で言えば、私がサドヴィプラと呼んでいるものにならなくてはなりません」

「サドヴィプラ」は、モラリストであり、スピリチュアリストである人、かつ不道徳に対して闘う人という意味です」

社会サイクルは永久につづいてゆきます。その回転の中で支配者が搾取的になったら、闘って次の時代に回転をすすめてゆくのが精神性の高い人間の任務です。ラビ・バトラ教授の著書にある自動的に社会が回転して、その回転を占ってゆくような社会サイクル論とちがって、サルカールの社会サイクル論は、きわめて実践的で革命的なものです。マルクスの「万国の労働者、団結せよ」に対して、サルカールのは「世界の精神性、道徳性の高い人物は団結して、搾取と闘い、社会サイクルを推し進めよ」です。「万国の労働者、団結せよ」は、シュードラ革命という社会サイクルの一局面で正当な相対真理であったわけです。

サルカールは次のように述べます。「革命後のクシャトリア時代の確立の後、サドヴィプラは、クシャトリアに目を光らせ続けます。クシャトリア社会の代表として彼らがただ統治のみをし、低下して搾取的な役割を果たさないようにするためです。彼らが搾取の始まりの兆候を示すとき、サドヴィプラはクシャトリア時代を終わらせるためにすぐに反定立(アンチテーゼ)を生み出します」 ですから、例えて言うとレーニンのあと、スターリンの独裁がひどくなり、搾取的になった時、サルカールの理論ではスターリンとそのグループと闘い、ヴィープラ時代を迎えるこことが任務になるわけです。クシャトリアの毛沢東が権力に固執し、文化大革命でヴィープラを抑圧した時、ヴィープラの闘いを援助し、早く文化大革命を終わらせ、社会サイクルを前進させることが任務になります。それができるだけの力をもったサドヴィプラ集団を社会に確立せよというわけです。

(サルカールは「サドヴィプラ集団group」でなく「サドヴィプラ社会society」という言葉を使います。ナショナリズムや宗教教団などを心に半径を設定してしまうものを人類(人間)を分かつグループ主義として批判し、その場合の集団にgroupを使っています、それと区別してスピリチュアリティの高い普遍的な広い心をもったサドヴィプラの集団には、社会societyという言葉を用いたのだと私は解釈しています)

2002年8月2日

(この中に出てきたサンスクリット語の読み方は後に専門家にチェックしてもらって書き直す予定です)