「源氏物語」に由って紫式部の才名は世人の間に喧伝された。中宮彰子の周囲を飾るために藤原道長は一代の才女を多く網羅した中に、先づ誰よりも第一に招致しようとした紫式部は当時の教育ある婦人達が無上の栄誉とした宮仕を却って喜ばず、人中に立交って気苦労の多い生活をする事を好まなかった。
勿論紫式部の高く清く生きて行かうとする超俗的な性格にもよるが、一つは良人歿後の悲哀が其の心持を淋しくさせた。しかし又、兄を通して威圧的に来る道長の招きを強いて拒むこともならず、出来るだけ延ばし、終に中宮が土御門邸から新しい皇居へお還りになつた数日後、即ち寛弘二年十二月の二十九日の夜に押迫って初めて中宮の御用掛として宮中へ入った。
紫式部はその頃「不本意なことの決定されて行くのを嘆く」と云う意昧の詞書の下に「数ならぬ心に身をば任せねど身に従ふは心なりけり」と詠んでる。また宮中の栄華に接しながらも紫式部の心は慰まないで「身の憂さは心の内に慕ひ来て今九重に思ひ乱るゝ」と云う歌を詠んでいる。
中宮御用掛としての紫式部は中宮と道長とから特別の寵遇を受けたのみならず、父為時の才学を愛せられた一條天皇は同じく紫式部をお愛しになり、其の作品を御覧の後に「日本紀に精通した女であろう」と云う御褒詞をさへ下され、紫式部のあることが中宮の光輝をいやが上に増したので、それだけに同輩の侍女達の多くに嫉妬と憎悪とを以て対せられた。
清少納言とは反対の紫式部はその婦人達と敢えて争そうとはしなかったが、あまりに侮辱や批難を受けては「わりなしや、人こそ人と云はざらめ、みづから身をや思ひ捨つべき」と歌って自重し、親しき友への返歌に「挑む人あまた聞こゆる百敷の住まい憂しとは思ひ知るやは」と云って歎息を洩らし「紫式部日記」に於て宮仕の苦痛を細かに書き留めて居る。
寛弘四年の夏から中宮の望に由って「楽府」を講したりもしたが、それも同輩の目に触れる場合を避けてこっそりと講じた。
同五年の五月五日に道長の土御門邸で催された法華経三十講の五巻の講席へ中宮にお供して列なって、人は皆歓楽を語り藤氏の栄華を祝う日に、紫式部は自らの内心と周囲との対照に一しほ哀感の身を噛むのを覚えて眠り難く、夜明方に年下の気の合う友である小少将の局の格子を叩いて、共に廊へ出て池水に映る我が影を眺めながら手をとりあって泣いた。
藤氏栄華の裏面にこう云う天才婦人の冷い涙が流れて居ようとは誰が知ろう。
寛弘七年に紫式部はその日記の筆を置く。同八年六月に一條天皇が崩ぜられたので、四十九日の忌を終って一條院を退出する時、紫式部は「ありし世は夢に見なして涙さへ留まらぬ宿ぞ悲しかりける」と詠む。宮中にあって日夕親しく天顔を拝し参らせた紫式部の悲嘆は言外に深かったと思われる。
此年に兄の惟規が父の任地の越後国で歿した。紫式部は兄を悼んで「いづ方の雲路と聞かば尋ねまし、列離れけん雁の行方を」と嘆く。
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