現代に生きる芸術家は、かつてないほどの重要な課題を背負わされている。義務といってもよい。使命といっても良い。又、今日ほどの理想や美、善、正義という実体が貶められ恥辱されている時代もない。浅はかな相対的世界観による伝染病が人々の魂を犯し、それすら気付かぬほどに一般化している。
 それに気付かぬ者はまだよい。それに悟性的に気付いた者、知識として得た者すらその状況に甘んじている様相はまさに悲惨というほかない。クレーが、「時代が悲惨になればなるほど表現は抽象的になる」といった言葉は真実である。だがそれはあくまで「あらゆるもの」を公正に見るため、一切の偏見を排するための意識状態にすぎない。いわば「無知の知」あるいは哲学者ニーチェの「一切の価値の転換」を意味する。マルセル・デュシャンが便器を「泉」と題して他の芸術作品と同レベルに置いたのも同じ事である。
 相対的意識や相対的思考自体は悪しきことではない。それに人が囚われぬ限りにおいては。
──だが、人は悲しいかな、常に何かに依存している。何ぴともそれから逃げられぬ宿命を存在としてもっている。生存の意味を深く真剣に問えば問うほど身を焼く苦悩や苦痛、絶望、悲哀を味わう。──教義に囚われれば殉教し、方向を見出せぬ者は自滅、狂死する。あるいは生きながら死ぬ、眠る。そこまで自己を追いつめぬ者は不平、不満の虫と化す。ヘーゲル流に言えば「──自我がこの素材をとらえることによって、この素材は自我の一般性によって毒殺されると同時に浄化され、また、個別化された独立的な存在を失うと同時に精神的な現存在を獲得する。」と数行で片づけられる。我々が日常生活の中で日々体験していることを哲学者風の言葉を用いれば、ヘーゲルの言っていることは日常茶飯事のことなのである。その個人にとっての環境や社会に実用化されなかったり、意味や関係づけがなされぬ限り、個人は社会の中で無用な存在となる。ゆえにその個々人の能力や才能に応じて表現を、自己を守るためのバランス感覚を所有する。そこにすでに一般化した価値観や権威に依存するということが生じる。
 芸術家はそのことを十二分に踏まえていかなければならない。それを前提にした場合、すでに宗教的教義や哲学的体系すらも、もって言えば、神も悪魔も単なる一素材と見なす透徹した意識が自明のものとなる。百年前はこの意識を所有した者は「呪われた者」とか、悲劇的人物としてしか、存在し得なかった。ことごとく堪えきれず倒れるか、象牙の塔にこもり、人生を達観するしながら表現者として存在することしか出来得なかった。彼らは俗に象徴派と命名されている。二元論の深淵が大口を開けた。それと平行してあらゆる分野が枝葉のごとく別れ、細分化していった。かつてのバベルの塔のごとく。
 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」(マタイ伝・第22章)
この言葉の意味は現代においても力をもっている。人々はそれぞれが自己の尺度で、自己の気に入る感情でものをとらえる。さらに世界観すらそれによって色づけされている。それもその自己の能力に即した、もしくは体験のうちにおいて自己の見方の根底にひそむ、形成されている思考や無意識な感情に何が秘んでいるか厳密に探求せずに人を裁く。現代においても「自由」の概念は不当に乱用されている。相対的世界観のなかで、自由は犬のように首輪をつけられ一定の距離しか動けなくなった。いわゆる「物神思想」である。この状態で外からの法や倫理等々が無くなれば人々はかつての「ソドムとゴモラ」弱肉強食の時代に完全に退行するだろう。自分の利しか考えぬ魂が洪水のごとくあふれ出し、個人を圧倒する。かつてのゲーテが「芸術家でない者は信仰を持て」と言った。この真意は今でもあてはまる。
 美術の流れのなかでなぜ「抽象表現」という形式が生まれたのか? この意味を、由来を、必然性を何人の芸術家が答えられるか。ほとんどの芸術家はすでに存在しているものとして意匠として、流行として自分のものとしている。自らの内部の内的要求、それも止むに止まれぬゴッホのような情熱をもって身につけたわけではない。そこいらの芸術家と称する人物に問うてみるがよい。なぜ必要だったのか?その先にあるものは何か? と。ほとんどの芸術家は答える事は出来ぬ。せいぜい禅問答のような答え方をするのがおちである。
 すでに時代そのものが総合的なものを要求している。本来、宗教家が成すべき事が芸術家に託されている。高く登れば登るほど、深くなればらるほど、闇へ闇へ、下へ下へと移行、変容する義務が、責任が生じる。内発的にである。それを感じない者はまだまどろみのなかでたわむれているといわれても仕方がない。空間と時間がクロスした地点が抽象表現の空間であり、あらゆる関係が再生、復活する場所であり、それも日常の生活のなかで日々実践することであり、あらゆる素材を生かす事、努力であり、それが生きるこということ、創造的人間関係形成でもあり、何も芸術家というカンバンをもつということではなく、あらゆる分野、意識レベルに関係なく「創造精神」を日常生活に滲透させることである。それは土工かも知れぬし、実業家かも知れぬし、主婦かも知れぬし、何もしていない人々のめんどうをみる世話人だったり、種々である。要は単なる批評精神を超えて創造精神を日常化する事で、能力の問題や才能の問題ではない。ただその持続が多種多様な表現力を身につけなければならぬということが自明の事となる。それを無駄なエネルギーだとか浪費などと言っているようでは、世のため人のため確かな技術者となった方が良い。人はそれぞれの能力や才能に応じて成しうることを成せば良いのである。芸術家や創造精神を所有して生活する人間にとって捨身の覚悟は自明の事である。




                                                                                   1989年08月09日
                                                              梅崎幸吉

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