自然環境保全のパースペクティブ[2009.1.1]
1970年代は市民運動としての自然保護の最初の興隆期であった。このとき、都市の自然環境保全運動はそれまでの原生林など希少性を第一にした自然保護運動とは違う「身近な自然」=ありふれた自然 を対象に独自の理論と運動を開始したはずであった。しかし、ふりかえると自然保護の主流は原生的自然、サンクチュアリ、ラムサール、レッドリストなど常に希少性すなわち質が主要なテーマだったのではないか?
希少性の保護、その重要性は否定しない、しかし、身近な自然を守る運動にとって重要なテーマは量である。市民運動の根本は平等であり、あまねくすべての人に自然の恵みが与えられるようにというのが動因のひとつである。
量の課題は十分に運動されたのか?一方で、身近な自然が次々と失われたために相対的に希少性を増したのは皮肉な結果である。
また運動の方法論も原生自然の保護から援用されたため、身近な自然を守る独自の運動論は成長しなかった。
量の課題が追求されなかったことは希少性の高い自然や動植物の保全にもマイナスである。「すそのを広げる」というが、生物プロパーはいつの世でも少数派である。脆弱な裾野の上に成り立つ自然保護活動が大きな果実を得るのは困難である。そうした結果残された自然保護地域は小さく分断され、絶滅の危険性が高まることになった。
しかし、現在「生物多様性」が自然環境保全の主役として脚光を浴びるにいたり、事情は変わってきている。生物多様性では「ふつうの生物」の重要性も捉えられているからである。今後どう展開するか見守っていきたい。
自然が破壊される中、身近な自然を守る運動はビオトープ運動に受け継がれた感がある。その一方で近郊地区では自然の破壊が継続している。かたや自然はコンテナであり、かたや自然は開発にあたって基幹部として扱われるものではない。いずれにしても自然が都市の属性として主役として扱われていない。
自然を都市の基幹部として位置づけなおすためのパラダイムの転換が必要である。もちろん、現時点でも自然活動を自然体験や農業、ファンタジーなどに幅を広げる努力が行われている。しかし、私はそこで生物派が主導的立場に立つべきだと考えるのである。生物派は行政の自然環境担当だけと話をしていらだちを覚えるのではなく、もっと広い世界で勝負すべきではないか?これからの世界の設計図を描く行動にもっと参加すべきではないか?
もはや生物保全の主張一本で得られる成果は限られている。様々な主体が協働する中でしか成果は得られない。
そこで重要になっているのが「合意形成」の場である。自然派市民が合意形成の場に望んで、主張を通していくには確固たる足場が必要である。その足場として私が構想しているのが「市民による調査活動」である。