| 連合赤軍・1 連合赤軍への道 |
| それから わたしたちは 大きくなった |
| こどもだった わたしたちは みな大きく なった |
| わたしたちの うちの一人は 留学のために 羽田をたったばかりで |
| もう一人は 72年の年の2月の 暗い山で 道にまよった |
| (樹村みのり「贈り物」) |
| 事件概要 | ||
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| 連合赤軍 |
| 連合赤軍は1971年7月15日、共産主義者同盟赤軍派中央軍(公然組織・革命戦線)と、日本共産党革命左派神奈川県常任委員会人民革命軍(公然組織・京浜(中京・関西)安保共闘)が合同して結成された。革命左派は、1967年の日本共産党と中国共産党の対立から、共産党を離れたメンバーを中心に「銃口から政権が生まれる」という毛沢東思想を背景に、結成直後から過激な実力闘争を開始。交番襲撃闘争などを繰り返す。一方、赤軍派はM作戦を展開し、郵便局や銀行などを襲撃した。 革命左派は「反米愛国」、赤軍派は「世界同時革命論」と革命理論上の違いは大きかった。しかし「銃によってしか党をつくれない」という点が一致した。都市での取締りが厳しくなると、南アルプスなどで山岳ベースを設営し、軍事組織の強化へと突き進んでいった。 そして両派は1971年12月3日〜7日迄、赤軍派の山梨県新倉ベースで、また12月中旬からは革命左派の群馬県榛名ベースで軍事訓練を実施する。しかし、後を追っていた群馬・山梨・埼玉・長野の各県警は大規模な山狩りを行い、1972年1月8日に丹沢ベースを発見、2月17日には最高幹部の森と永田を妙義山中で逮捕した。妙義山のアジト(洞窟)からは爆弾の材料や現金約100万円が見つかった。 2月19日には、残ったメンバーのうち植垣ら男女4名が軽井沢駅で逮捕され、さらに残りの5名は軽井沢・レイクニュータウン内の「さつき山荘」で発見され、警官隊との銃撃戦の後、数百メートル離れた「あさま山荘」に逃げ込み、6挺の銃を持って1,500名以上の警察官と、ようやく「銃による殲滅戦」を行う事となった。しかし10日間に及ぶ籠城と銃撃戦は敗北に終わった。 そして3月7日、森らの自供から、群馬県内の山林でリンチで殺害された男性の遺体を発見、連合赤軍が行った凄惨なリンチ殺人(山岳ベース事件)が明らかになった。連合赤軍結成直後の1971年12月から72年2月にかけて、「連赤兵士の規律に反した」として「総括」という名目で12名が次々に「粛清」されていった。中には、生後間もない子供を連れてきた者も居たが、父親は命を落としてしまった。また、幹部の妻だった女性は妊娠中だったが、総括の対象にされ命を落としている。 また1971年8月、千葉県印旛沼で革命左派による2名のメンバー殺害も明らかになった。同じセクトの「同志」に対する殺害は世間に大きな衝撃を与えた。 |
| 赤軍派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
赤軍派中央軍によるP、B、M作戦が計画されたが、実際に実行されたのはM作戦のみ。
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| 革命左派 |
| 革命左派については、前のページをご覧ください。 |
| 経過1 | |||||||||||||||||||||||
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| きっかけ |
革命左派、赤軍派とも色々な事件を起こしてきたが、この二派が結成されるきっかけとなった闘争。 革命左派は赤軍派の活動資金が、赤軍派は革命左派の銃が魅力的だった。 〔革命左派〕上赤塚交番襲撃闘争(1970.12.18) 革命左派(3名)により板橋志村警察署・上赤塚交番が襲撃された
事件。警官の発砲により柴野春彦死亡、他2名重傷。 革命左派(実行6名)が真岡市の塚田銃砲店を襲撃し、散弾銃などを奪取。店主の左指に2週間の切り傷を負わせた事件。 M作戦についての経緯は「赤軍派」参照。 |
| 銃と金 |
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赤軍派はM作戦で多額の現金を手に入れていたが、闘争のための銃器をほとんど持っていなかった。一方で革命左派は、銃砲店襲撃で豊富な銃器類を所持していたが、行動するための現金がごくわずかしかなかった。 そこで革命左派の指導者である永田が、赤軍派の政治局員である森に、カンパを要請した。革命左派は銃砲店襲撃後、地下に潜伏するだけで精一杯となり、政治活動がストップしている状態だった。そこで山岳に拠点をつくり、指名手配されている主要メンバーや、その他のメンバーを集合させ、計画を練っていこうと考えていた。しかし以前カンパしてくれていた人々も、銃砲店襲撃後からカンパを要請しても受け入れてもらえないことが多くなった。最後の望みの綱として、赤軍派にカンパを要請した。 結局、革命左派は銃を2丁譲り、赤軍派から現金30万円のカンパを受けた。 |
| 経過2 | ||||||||||||||||||
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| 統一赤軍へ |
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1969年12月に逮捕された革命左派の最高指導者である川島豪から「赤軍派との新党設立」を提案された永田と坂口は、1971年7月6日に赤軍派の森に会い新党設立を提起した。しかし森は「当面、新党は無理だから、党の共闘を考えよう」と言い、そのための組織間の連絡手段の回復と、会議を開き党史を交換することを提案した。これに対し革命左派は了解した。 7月13日に革命左派の小袖ベース跡地で会議を開いた。跡地となっている訳は、小袖ベースから脱走者が出たためベースを移動した後だったからである。赤軍派からは森と坂東が参加。革命左派からは永田・坂口・寺岡が出席した。約束どおり党史の交換をしたが、革命左派は森の話す「赤軍派の党史について」理解出来なかった。また自らも革命左派の歴史をうまく説明できず、いまいちな結果となった。 それから森は新党結成を前提において統一革命軍を結成しようと提起した。革命左派は賛成した。更に森は名称を「統一赤軍」にすること、組織は赤軍司令部、政治宣伝部、組織部によって構成すること、「銃火」という機関紙を出すことなどを主張した。もちろん革命左派は賛成した。しかし坂東は「統一赤軍も銃火も名称がよくない」と言って森の意見に反対した。 そして7月15日に統一赤軍の結成が決定された。それは日本共産党が設立された日にちなんで決められた。これも森の案だった。 会議を終え、赤軍派のアジトに戻った森は「革命左派をオルグしてきたぞ」と言った。 後に「統一赤軍」の結成を知った革命左派の川島は、名称変更を求めた。それにより「統一赤軍」から「連合赤軍」に変更された。 |
| 痴漢問題 |
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男女区別なく、ベース内で雑魚寝をする革命左派内において、見えないところで痴漢問題が起こっていた。報告を受けた永田は、今後このようなことがないようにと、男性メンバーにきつく注意した。 その後、赤軍派の植垣が爆弾を作成しに、革命左派の山岳ベースに来た際、夜眠る時に驚いてしまった。平気で雑魚寝をしているからである。そして自分の両脇に、永田と金子がシュラフを置いて、寝始めたことにもびっくりしてしまった。赤軍派ではあり得ないことだったからだ。 そしてついつい、横で眠っている永田と金子の顔を撫でてしまったという。翌日、家庭的な暖かい雰囲気で植垣に接していた革命左派の態度が、急によそよそしくなったと植垣は回想している。その後、植垣が総括を求められた際、このことも問題視された。 |
| 両派の脱落者 |
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この時期、両組織とも離脱者や危険人物の対処に頭を悩ませていた。会合の際、永田がそのことを口に出すと、森から「こちらは殺るつもりだ。処刑すべきだ。」という言葉が出た。しかし実際は坂東、植垣が対象者を隊から外すことにより、処刑を回避していた。しかし革命左派は、処刑に踏み切った。 その時、処刑されたのが、向山と早岐だった。 |
| 共同軍事訓練へ |
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1971年12月3日から、赤軍派の「新倉ベース」にて、共同軍事訓練が行われることになった。新倉ベースは、山梨県早川町にあった。南アルプスの山深い森林伐採の山小屋を利用した。ふもとから山小屋までは、一日で到着出来るような場所ではなく、とても山深いところにあった。もともと赤軍派の訓練センターとして選ばれた場所だったからである。選ばれた理由は、武器を奪取する予定の米軍北富士演習所から近く、権力に包囲されても充分闘える立地だったから。 両派から共同軍事訓練に出席する人数は、あらかじめ「赤軍派9名、革命左派9名 」と決められていた。赤軍派からは、森、山田、坂東、遠山、青山、植垣、山崎、進藤、行方。革命左派からは、永田、坂口、寺岡、吉野、前山、原田、金子、大槻、三崎の9名が出席することになった。そのうち女性は、赤軍派は遠山ひとり、革命左派は4名だった。 |
| 共同軍事訓練 |
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11月下旬、群馬県の榛名にベースを移した革命左派は、軍事訓練に参加する者を選び、その他の者はまだ未完成だった榛名ベースの建設を進めることに決まった。一方で赤軍派は11月中旬からメンバーが新倉にベース入りしていた。 |
| 水筒問題から個人攻撃へ |
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夜、全体会議が行われ、一人一人自己紹介と決意表明を行った。その際、革命左派にとって、赤軍派の中に一人だけいた女性の遠山の態度が鼻についた。他の者が発言している時に、寝そべったり、髪をとかしたり、唇にニベアクリーム(青いふたの付いている缶入りの物)を塗ったりしていた。そして警察に知られているものと同じ指輪もしていた。決意表明も「革命戦士になる。今はそれしか言えない」と言っただけだった。遠山は獄中にいるTの実質的な妻であり、特別扱いされていた。森も遠山に対し強く言えない関係だった。 |
| 「諸君、この日を忘れるな!」 |
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最終日の12月8日、赤軍派から坂東・植垣、革命左派からは大槻・原田の2名ずつが、代表として射撃を行った。その後の話し合いで、永田と坂口は革命戦士の共産主義化に対する話し合いのためベースに数日間残ること、両派のアジト設定のために赤軍派が物件を探し、革命左派がその費用を持つこと、革命左派の銃1丁を赤軍派に渡すことが決められた。 |
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永田洋子 |
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