連合赤軍・1 連合赤軍への道


それから わたしたちは 大きくなった
こどもだった わたしたちは みな大きく なった
わたしたちの うちの一人は 留学のために 羽田をたったばかりで
もう一人は 72年の年の2月の 暗い山で 道にまよった
(樹村みのり「贈り物」)



事件概要

「あさま山荘」左上・坂口/右下・吉野 1972年2月に軽井沢・レイクニュータウン内の「あさま山荘」(長野県軽井沢町大字発地字牛道514-181番地/当時・河合楽器健康保険組合軽井沢保養所浅間山荘)にて連合赤軍の生き残り5名が人質(管理人の妻)をとって、警官との銃撃戦になった。 10日間に及ぶ長期戦は、警官による「突入」で幕を閉じた。

しかし、その後のメンバーの供述により山岳ベースにて「総括」(総括援助という名の暴行)があり、14名の同志殺害(内2名は群馬県の山岳ベースに入る以前に革命左派による殺害)が明らかになった。



連合赤軍
連合赤軍は1971年7月15日、共産主義者同盟赤軍派中央軍(公然組織・革命戦線)と、日本共産党革命左派神奈川県常任委員会人民革命軍(公然組織・京浜(中京・関西)安保共闘)が合同して結成された。革命左派は、1967年の日本共産党と中国共産党の対立から、共産党を離れたメンバーを中心に「銃口から政権が生まれる」という毛沢東思想を背景に、結成直後から過激な実力闘争を開始。交番襲撃闘争などを繰り返す。一方、赤軍派はM作戦を展開し、郵便局や銀行などを襲撃した。

革命左派は「反米愛国」、赤軍派は「世界同時革命論」と革命理論上の違いは大きかった。しかし「銃によってしか党をつくれない」という点が一致した。都市での取締りが厳しくなると、南アルプスなどで山岳ベースを設営し、軍事組織の強化へと突き進んでいった。

そして両派は1971年12月3日〜7日迄、赤軍派の山梨県新倉ベースで、また12月中旬からは革命左派の群馬県榛名ベースで軍事訓練を実施する。しかし、後を追っていた群馬・山梨・埼玉・長野の各県警は大規模な山狩りを行い、1972年1月8日に丹沢ベースを発見、2月17日には最高幹部の森と永田を妙義山中で逮捕した。妙義山のアジト(洞窟)からは爆弾の材料や現金約100万円が見つかった。

2月19日には、残ったメンバーのうち植垣ら男女4名が軽井沢駅で逮捕され、さらに残りの5名は軽井沢・レイクニュータウン内の「さつき山荘」で発見され、警官隊との銃撃戦の後、数百メートル離れた「あさま山荘」に逃げ込み、6挺の銃を持って1,500名以上の警察官と、ようやく「銃による殲滅戦」を行う事となった。しかし10日間に及ぶ籠城と銃撃戦は敗北に終わった。

そして3月7日、森らの自供から、群馬県内の山林でリンチで殺害された男性の遺体を発見、連合赤軍が行った凄惨なリンチ殺人(山岳ベース事件)が明らかになった。連合赤軍結成直後の1971年12月から72年2月にかけて、「連赤兵士の規律に反した」として「総括」という名目で12名が次々に「粛清」されていった。中には、生後間もない子供を連れてきた者も居たが、父親は命を落としてしまった。また、幹部の妻だった女性は妊娠中だったが、総括の対象にされ命を落としている。

また1971年8月、千葉県印旛沼で革命左派による2名のメンバー殺害も明らかになった。同じセクトの「同志」に対する殺害は世間に大きな衝撃を与えた。



赤軍派

1969.6 ブント分裂
1969.9.4 赤軍派登場「赤軍派大政治集会」開催 議長塩見孝也、軍事委員長田宮高麿 大衆組織・革命戦線創設 
1969.9.22 大阪戦争・阪南交番襲撃
1969.9.30 東京戦争・本富士警察襲撃
1969.10.21 国際反戦デーでピース爆弾使用
1969.11.5 首相官邸突入の為、軍事訓練中「福ちゃん荘」にて全員逮捕 ※1
1969.12 一兵士として森復帰(→2月指導部に復帰)
1970.3.15 塩見議長逮捕
1970.3.31 よど号ハイジャック 
1970.12.26 「柴野同志虐殺弾劾抗議追悼集会」京浜安保共闘(革命左派)と初の合同集会  
1970.12.31 革命左派(永田・坂口・寺岡)と初会合
1971.1.25 革命左派と共同政治集会
1970.2〜6 中央軍M作戦(下参照)
1971.4.23 革命左派と会合(銃の隠し場所を教わる)
1971.6.17 明治公園で機動隊に鉄パイプ爆弾を投げ爆発させる
1971.7.6 革命左派と軍の共闘について話し合い合意する
1971.7.13 革命左派の小袖ベース跡地で革命左派と赤軍派の会合 軍の共闘について再度確認
1971.11 新倉ベース設営
1971.12.3 革命左派と共同軍事訓練(新倉ベース)
1971.12.27 榛名ベースで新党結成
1972.1.3 C.C(中央委員会)結成

※1 この軍事訓練での逮捕者が多数にのぼり、組織から離脱した森が、復活するきっかけとなった。また多くの上層部も逮捕されたため、数ヵ月後には森が政治局員になっていた。


M作戦(1971.2.22〜197.7.23)

赤軍派中央軍によるP、B、M作戦が計画されたが、実際に実行されたのはM作戦のみ。
(彼らから見るとこうなる。P作戦(ペガサス)=塩見議長奪還国際根拠地作り  B作戦(ブロンコ)=渡米し70年秋、日米同時蜂起(ペンタゴン、霞ヶ関占拠闘争)  M作戦(マフィア)=資金調達)
M作戦(連続金融機関強盗事件)が約4ヶ月間に7回も起こった。特に坂東隊(坂東がリーダー)が力を発揮し、およそ9,973,667円の活動資金を得た。米子市松江相互銀行米子支店で、赤軍派、第2部隊が追跡され全員逮捕。この時、 革命左派から渡った散弾銃が見つかる。一連の山岳ベース、あさま山荘事件のメンバー逮捕後の回収率は約90%。

1971.2.22 千葉県市原市辰巳郵便局  718,678円
1971.2.27 千葉県茂原市高師郵便局     94,900円
1971.3.4 千葉県船橋市夏目郵便局     15,350円
1971.3.5 神奈川県相模原市横浜銀行相模台支店 1,509,000円
1971.3.22 宮城県泉市振興相互銀行黒松支店 1,159,200円
1971.5.15 神奈川県横浜市南吉田小学校 3,216,539円
1971.6.24 神奈川県横浜市横浜銀行妙蓮寺支店 3,260,000円
1971.7.23 鳥取県米子市松江相互銀行米子支店失敗 6,051,600円




革命左派
革命左派については、前のページをご覧ください。



経過1

1970.12.18 革命左派 板橋区志村署上赤塚派出所(交番)にて銃奪取闘争  
1970.12.19 革命左派 上赤塚交番へ抗議デモ 獄中の赤軍派やML派より「闘争支持」のアピール文が出される
1970.12.26 革命左派 「柴野同志虐殺弾劾抗議追悼集会」革命戦線(赤軍派)と初の合同集会
1970.12.31 革命左派(永田・坂口・寺岡)と赤軍派(森・坂東)が初会合
1971.1.25 赤軍派・革命左派 共同政治集会
1971.2.17 革命左派 真岡市塚田銃砲店襲撃 
1971.2〜4 革命左派 永田・坂口と実行犯4名が逃走
1971.2〜6 赤軍派 M作戦を実行
1971.4.23 赤軍派・革命左派 会合(銃の隠し場所を教える)
1971.5 革命左派 赤軍派にカンパの要請(銃と金の交換になった)  ※1
1971.7.6 赤軍派・革命左派 新党結成について話し合い合意する

※1 革命左派の永田が赤軍派の森に、山岳ベース設営のためカンパを要請した。森はそれには答えず「(銃を)二丁欲しい」と言った。永田がほっとすると「これは交換ではないな」と森は念を押した。



きっかけ

革命左派、赤軍派とも色々な事件を起こしてきたが、この二派が結成されるきっかけとなった闘争。 革命左派は赤軍派の活動資金が、赤軍派は革命左派の銃が魅力的だった。

〔革命左派〕上赤塚交番襲撃闘争(1970.12.18)

革命左派(3名)により板橋志村警察署・上赤塚交番が襲撃された 事件。警官の発砲により柴野春彦死亡、他2名重傷。

1970.12.26 「柴野同志虐殺弾劾抗議追悼集会」が日比谷野音にて行われた。赤軍派と革命左派初の合同集会に1000人が集まった。

1970.12.31 赤軍派(森恒夫、坂東国男)と革命左派(永田、坂口、寺岡)が埼玉県蕨市の旅館で初めて接触した。革命左派は赤軍派から銃を譲り受ける目的で来た。しかしこの時の赤軍派は、銃を持っていなかったといわれている。赤軍派は 革命左派の「上赤塚交番襲撃」を高く評価し、接触した。

〔革命左派〕
真岡市塚田銃砲店襲撃(1971.2.17)

革命左派(実行6名)が真岡市の塚田銃砲店を襲撃し、散弾銃などを奪取。店主の左指に2週間の切り傷を負わせた事件。

〔赤軍派〕M作戦(1971.2.22〜1972.6.24)

M作戦についての経緯は「赤軍派」参照。



銃と金
赤軍派はM作戦で多額の現金を手に入れていたが、闘争のための銃器をほとんど持っていなかった。一方で革命左派は、銃砲店襲撃で豊富な銃器類を所持していたが、行動するための現金がごくわずかしかなかった。

そこで革命左派の指導者である永田が、赤軍派の政治局員である森に、カンパを要請した。革命左派は銃砲店襲撃後、地下に潜伏するだけで精一杯となり、政治活動がストップしている状態だった。そこで山岳に拠点をつくり、指名手配されている主要メンバーや、その他のメンバーを集合させ、計画を練っていこうと考えていた。しかし以前カンパしてくれていた人々も、銃砲店襲撃後からカンパを要請しても受け入れてもらえないことが多くなった。最後の望みの綱として、赤軍派にカンパを要請した。

結局、革命左派は銃を2丁譲り、赤軍派から現金30万円のカンパを受けた。



経過2

1971.7.13 赤軍派、革命左派「統一赤軍」結成を表明 
1971.8.6 広島の反戦集会で統一赤軍結成を伝えるビラが配られる
1971.7.23 四谷公会堂にて、統一赤軍結成集会開催 後に連合赤軍へ名称変更
1971.8.4.10 革命左派 2名処刑  
1971.11.21 革命左派 是政アジトにて加藤能敬ら5名が逮捕される
1971.11 赤軍派 新倉ベース設営 
1971.11 革命左派  榛名ベース建設 建設中は近くの温泉旅館(廃屋)「白雲荘」を利用し、そこにあったタンスなども拝借する 
1971.12.3 赤軍派・新倉ベースにて「共同軍事訓練」が開始される 
1971.12.7 共同軍事訓練最終日 永田、坂口は会議のため数日遅れて下山した



統一赤軍へ
1969年12月に逮捕された革命左派の最高指導者である川島豪から「赤軍派との新党設立」を提案された永田と坂口は、1971年7月6日に赤軍派の森に会い新党設立を提起した。しかし森は「当面、新党は無理だから、党の共闘を考えよう」と言い、そのための組織間の連絡手段の回復と、会議を開き党史を交換することを提案した。これに対し革命左派は了解した。

7月13日に革命左派の小袖ベース跡地で会議を開いた。跡地となっている訳は、小袖ベースから脱走者が出たためベースを移動した後だったからである。赤軍派からは森と坂東が参加。革命左派からは永田・坂口・寺岡が出席した。約束どおり党史の交換をしたが、革命左派は森の話す「赤軍派の党史について」理解出来なかった。また自らも革命左派の歴史をうまく説明できず、いまいちな結果となった。

それから森は新党結成を前提において統一革命軍を結成しようと提起した。革命左派は賛成した。更に森は名称を「統一赤軍」にすること、組織は赤軍司令部、政治宣伝部、組織部によって構成すること、「銃火」という機関紙を出すことなどを主張した。もちろん革命左派は賛成した。しかし坂東は「統一赤軍も銃火も名称がよくない」と言って森の意見に反対した。

そして7月15日に統一赤軍の結成が決定された。それは日本共産党が設立された日にちなんで決められた。これも森の案だった。

会議を終え、赤軍派のアジトに戻った森は「革命左派をオルグしてきたぞ」と言った。

後に「統一赤軍」の結成を知った革命左派の川島は、名称変更を求めた。それにより「統一赤軍」から「連合赤軍」に変更された。



痴漢問題
男女区別なく、ベース内で雑魚寝をする革命左派内において、見えないところで痴漢問題が起こっていた。報告を受けた永田は、今後このようなことがないようにと、男性メンバーにきつく注意した。

その後、赤軍派の植垣が爆弾を作成しに、革命左派の山岳ベースに来た際、夜眠る時に驚いてしまった。平気で雑魚寝をしているからである。そして自分の両脇に、永田と金子がシュラフを置いて、寝始めたことにもびっくりしてしまった。赤軍派ではあり得ないことだったからだ。

そしてついつい、横で眠っている永田と金子の顔を撫でてしまったという。翌日、家庭的な暖かい雰囲気で植垣に接していた革命左派の態度が、急によそよそしくなったと植垣は回想している。その後、植垣が総括を求められた際、このことも問題視された。



両派の脱落者
この時期、両組織とも離脱者や危険人物の対処に頭を悩ませていた。会合の際、永田がそのことを口に出すと、森から「こちらは殺るつもりだ。処刑すべきだ。」という言葉が出た。しかし実際は坂東、植垣が対象者を隊から外すことにより、処刑を回避していた。しかし革命左派は、処刑に踏み切った。

その時、処刑されたのが、向山と早岐だった。

 



共同軍事訓練へ
1971年12月3日から、赤軍派の「新倉ベース」にて、共同軍事訓練が行われることになった。新倉ベースは、山梨県早川町にあった。南アルプスの山深い森林伐採の山小屋を利用した。ふもとから山小屋までは、一日で到着出来るような場所ではなく、とても山深いところにあった。もともと赤軍派の訓練センターとして選ばれた場所だったからである。選ばれた理由は、武器を奪取する予定の米軍北富士演習所から近く、権力に包囲されても充分闘える立地だったから。

両派から共同軍事訓練に出席する人数は、あらかじめ「赤軍派9名、革命左派9名 」と決められていた。赤軍派からは、森、山田、坂東、遠山、青山、植垣、山崎、進藤、行方。革命左派からは、永田、坂口、寺岡、吉野、前山、原田、金子、大槻、三崎の9名が出席することになった。そのうち女性は、赤軍派は遠山ひとり、革命左派は4名だった。



共同軍事訓練

11月下旬、群馬県の榛名にベースを移した革命左派は、軍事訓練に参加する者を選び、その他の者はまだ未完成だった榛名ベースの建設を進めることに決まった。一方で赤軍派は11月中旬からメンバーが新倉にベース入りしていた。

赤軍派の「新倉のバス停付近にある派出所に指名手配書が沢山貼ってあり危険だから、ひとつ手前のバス停で降りるように」との言葉を受け、先陣として11月30日に、大槻と三崎が先に出発し、安全を確認した後、残りのメンバーが入山することになった。

当日、大槻と三崎が待ち合わせ場所になっている新倉の鉄橋に着くと、赤軍派の植垣が待っていた。そして大槻が残りのメンバーに連絡し、永田達は12月1日に榛名を発ち、2日に鉄橋に着いた。

鉄橋では、大槻と植垣が出迎えた。挨拶をした後、植垣から「水筒を持ってきましたか?」と尋ねられた。しかし革命左派は、赤軍派の森から「山が深い」とは言われたが、水筒を持参しろとは言われていなかったし、自分達の山岳ベースでは、常に沢があるところを歩き、その付近にベースを作っていたから必要ないと思っていた。そして「水筒がなくても頑張る」と答えた。

その後、会うメンバーごと、挨拶もそこそこに「水筒は持ってきたか?なぜ持ってこなかった」と批判された革命左派は「水がなくても頑張る」としか言えなくなっていた。赤軍派の植垣は、批判をする仲間に「もうやめないか」と注意をした程だった。

しかし実際は「革命左派が水筒を持ってきていない」と報告を受けた森が、革命左派を迎えに行くメンバー達に、水筒に対する批判をするように指示していた。これは、自分が優位に立とうとするものであった。

3日に新倉ベースに着いた革命左派に対し、ベース内にいた赤軍派は冷たい態度をとった。そしてまた「水筒問題」について批判を始めた。とても険悪な雰囲気で、共同軍事訓練どころではなくなっていた。そこで、革命左派の指導者である永田が、水筒を持ってこなかったことを自己批判することで、その場は収まった。



水筒問題から個人攻撃へ

夜、全体会議が行われ、一人一人自己紹介と決意表明を行った。その際、革命左派にとって、赤軍派の中に一人だけいた女性の遠山の態度が鼻についた。他の者が発言している時に、寝そべったり、髪をとかしたり、唇にニベアクリーム(青いふたの付いている缶入りの物)を塗ったりしていた。そして警察に知られているものと同じ指輪もしていた。決意表明も「革命戦士になる。今はそれしか言えない」と言っただけだった。遠山は獄中にいるTの実質的な妻であり、特別扱いされていた。森も遠山に対し強く言えない関係だった。

以前、森が永田に「すごいのがいる」と、ある赤軍派の女性を褒めていたことがあった。永田は、赤軍派のその「すごい」女性に対し期待を持っていた。その女性が遠山だった。

会議が終わり眠ることになったが、赤軍派はストーブの周りを囲むようにどんどん布団を敷いて眠ってしまった。仕方がないと、革命左派は部屋の隅にシュラフを置き、かたまって寝ることにした。その時、革命左派の女性が「期待していたのに(遠山に)失望した」と言い、全員でうなづいた。

翌4日、射撃訓練が行われた。森は永田を呼び「赤軍派は全員革命戦士としてやっていける。そして銃による殲滅戦を闘い抜く」と言い銃の要請をした。永田は銃の件は保留にし、「革命戦士としてやっていけるというが、遠山さんのあの態度や指輪は何なのだ」と批判した。それに対する森の答えは「気付かなかった」。永田が「そんなことは許されない」と言うと「分かった」と言った。

5日、射撃訓練と天気が悪いため室内で運動をした。まだ指輪を外していない遠山に対し、永田が「何故取らないの?」と批判したが、遠山は指輪を外さなかった。その後、革命左派から「合法の時と同じ髪型、同じペンネームだ」と批判された。これに対し、赤軍派の森・山田・坂東は長時間話し合っていた。

6日、赤軍派だけで討論を行った。討論終了後、森は革命左派に「(遠山に対する)批判を受け入れる。我々は責任を持って遠山さんを総括させ、作風・規律問題として解決していく」と言った。そして「総括出来るまで山を降ろさない。山を降りるものは殺すと確認している」と宣言した。そして射撃訓練が行われたが、遠山は射撃する際に誤って腹を打ち、小屋に戻ってしまった。ちょうど小屋には永田がいた。遠山は「お腹を打った」と言ったがシュラフに入らず、ストーブにあたって永田と会話を続けようとした。そこで永田が遠山を批判した。

夜、射撃訓練の総括が行われたが、その時に遠山の話が出た。そして革命左派だけではなく、赤軍派からも遠山に対する批判、追及が行われた。遠山が腹を打った際「小屋まで送っていく」と心配した行方までも、森に批判され総括を求められた。 革命左派が帰った後、進藤も批判された。



「諸君、この日を忘れるな!」

最終日の12月8日、赤軍派から坂東・植垣、革命左派からは大槻・原田の2名ずつが、代表として射撃を行った。その後の話し合いで、永田と坂口は革命戦士の共産主義化に対する話し合いのためベースに数日間残ること、両派のアジト設定のために赤軍派が物件を探し、革命左派がその費用を持つこと、革命左派の銃1丁を赤軍派に渡すことが決められた。

最後に共同軍事訓練の総括が行われた。みな感激したという意見を言った。森の発言で雰囲気が最高潮になり、まず森本人が泣き出した。そしてつられるようにほとんどのメンバーが感激して泣いた。

「諸君!この日を忘れるな!」と誰かが言い、革命左派の寺岡の提案で、その場で立ち上がり腕を組んで「インターナショナル」が歌われた。

その時のことを著書の中で、植垣と坂口が語っている。

「小屋に戻ると、ただちに共同軍事訓練の総括会議が開かれた。一人ひとりが意見を述べたが、感激した意見が続き、全体に団結の雰囲気が盛り上がった。最後に、全員でインターナショナルを唄って、共同軍事訓練を終えた。」
(植垣康博著「兵士たちの連合赤軍」)


「森君はこの後、自分の生い立ちを語り、さらにブントの総括も行った。かなり長い時間立て板に水の調子で演説していたが、突然調子が乱れ跡切れ跡切れになった。何事が起きたのか、と思って見ると、涙を流し、胸を震わせているではないか。全員シーンと静まり返り、やがて誰かが貰い泣きをした。すると釣られて何人かのメンバーもすすり泣きした。私も胸がジーンと熱くなってしまった。」
(坂口弘著「あさま山荘1972」下巻)


その一方で、永田と坂東は冷めた目線で語っている。

「(森が)途中から泣き出した。私は何か変だ、変だと思って下を向いていたので、泣き出したのを聞いて妙に気はずかしくなりよけいに下を向いて考えていた。」
(永田洋子著「十六の墓標」下巻)


「そうした中で、森同志が最後に発言し、泣き出しました。それにつられて、自分以外の全同志が感激して泣いていたように思いました。私の方は何故、森同志が泣いているのかわからず、逆に何か変な方向にいっているとシラーッとした気持ちになったり、泣かない自分の感性が悪いのではないかと思ったりしました。
誰かが、「諸君、この日を忘れるな!」というのが何か芝居じみていて、妙に恥ずかしくなりました。寺岡同志が「皆でインターナショナルをうたおう」と提起したあと全員で立ち上がって、腕をくんで歌い出したときも、とても歌う気ににならず、声も出なかったような状況でした。」
(坂東國男著「永田洋子さんへの手紙」)


“胸がジーンと熱くなった”坂口は、この森が泣いた理由を「“銃と人との結合による共産主義化論”の創造によって自分の過去を総括できると思ったのではないだろうか。」と判断している。

また違和感を感じた永田と坂東はその理由を「泣いて感激するほど団結したとは思えない(肝心な何かが抜けている)。まだ問題は山積みなのにと思った」からだった。



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山岳ベースとあさま山荘の図 永田洋子



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