| 坂口 弘 |
| 苦しみ苦しみぬいて、真理をつかむ迄は、 |
| この自己批判はくり返しおこなわなければならない。 |
| いまは亡き多くの同志達の、革命戦士としての名誉を回復するためにも。 |
| (坂口 弘 1972年4月7日付「手記」) |
| 坂口弘 | ||||||||||||
その後の山岳ベースでも幹部でありながら発言権は無いに等しく、遠山が亡くなって、蘇生させようとした時、一瞥もくれずに永田がC.Cのこたつに戻ってしまった際、あまりの冷淡さを非難して「薄情だ」と罵倒したが、逆に永田に「謝れ」と言われてしまった。終わらない総括に嫌気がさしていた事もあって「C.C(中央委員)を辞めたい」と口にするが結局撤回し、更に謝ってしまう。また森と永田が東京にカンパを集めに行き不在だった際、責任者を任せられたが会議を開こうとしても、皆緊張感が無く結局止めてしまった。
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| 経歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
18歳で左翼活動家になる。東京水産大学1年の夏に課外実習で、ある養殖組合で働いている水産労働者と知り合い、彼らの劣悪な労働状態に接した事が、人生の転機となる。2年後に同大学を中退して労働運動に参加すると共に、政党組織にも加入する。 20歳の時から丸3年間、東京南部の工場街で労働運動に従事したが、ゼロからの出発で、それなりの苦労もあったが目に見える成果も上がって充実した毎日を送る。生涯を一労働運動活動家で終えても何の悔いも無かったが、所属していた組織の「左」寄りの闘争に参加してから、急激に転落の坂を転げ落ち、自分ばかりか多くの人をも一連の連赤事件に巻き込んでしまう。 性格は明るくて、人に優しく、ハッキリものをいうタイプ。気が短く神経質な一面もある。左翼活動家としては、慎重さに欠け、性急で、かなり濃厚な盲目性の欠点を認識している。(自己紹介) |
| オウム信者へ「早く目を覚まして」 | |
1996年4月24日、オウム真理教(現・アレフ)麻原彰晃こと松本千津夫被告の初公判に際し、朝日新聞社宛に坂口から手紙が届いた。朝日新聞では4月24日の夕刊で、彼の手紙を「手記」として紹介している。
林泰男へ宛てたこのメッセージは届いたのだろうか?この手記から約7ヵ月後(同年12月)林被告は逮捕された。逮捕されたのは遅かったが審理が異例の速さで進み、1999年12月に死刑を求刑され、2000年6月に死刑判決が出た。 オウム関連事件で3人目の死刑判決だった。 また坂口が「自分と似たような体験をしている」と述べた井上嘉浩は、1999年12月死刑を求刑され、2000年6月に無期懲役との判決が出たが検察側が控訴した。(これは連合赤軍事件の吉野雅邦のケースと同じである。吉野は控訴審で再び「無期懲役」の判決が出た) 最近では、2002年6月に、作務衣姿で法廷に訪れた元幹部・新実智光被告。彼は求刑通り死刑判決が出た。これでオウム事件での死刑判決は8人目となった。(新実被告・殺人26) 一連の事件に関与した被告のうち既に7人が一審で死刑判決を受け控訴。控訴審も死刑とされた一人は、最高裁に上告している。 坂口自身は1993年最高裁で上告棄却、死刑が確定している。 |
| 拘置所 | ||||||||||||||||||||
それでは坂口の居る「東京拘置所」について触れてみたいと思う。場所は東京都葛飾区小菅1-35-1。約2000名収容出来る。刑事被告人が9割、残り1割が受刑者となっている。収容人員1,700名、その内死刑囚は28名居る。(2001年現在)1930年に建てられた古い建物である。戦前に建てられた物の為、老朽化が激しい。現在、新しい建物が建設中である。セキュリティーが万全という事で塀が撤去されるそうである。これでますます閉鎖化されるのであろうか・・・。 ●東拘での一日
食事はきちんと三食食べられるが、彼は不就業の為一日1,700カロリーの5等食(1等〜5等まである)を食べている。小さな1リットルのやかんにお茶も出るが柳葉茶といって柳の葉から作られた味も香りも無い茶色い色が付いている代物。自分で食料を購入できるが、手続きが面倒。また、具合が悪くなっても勝手に横になる事は許されず「横臥願い」を出して許可を受けてからではないと横にもなれない。 拘置所には未決の人達が入っている。文字通り刑が確定するまで拘置する場所なのだが、この中には坂口のように死刑囚処遇の人達もいる。彼らは執行(日本では絞首刑)されて初めて死刑囚となる。 |
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| 友への手紙 | |
坂口は、刑が確定する以前の1986年に「日本死刑囚会議・麦の会」に入会している。麦の会は、死刑囚を会員とし、獄外の協力会員によって構成されている組織である。その協力会員であり、逮捕以前の活動仲間だった友人に向けて手紙を送っている。その中で、彼が今の生活の中で殺めてしまった同志の事を綴っている箇所があった。とても苦しく悲しい日々だが、貴重な本心として一部引用させてもらった。
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| 著書 | |
| あさま山荘1972・上 | あさま山荘1972・下 |
彩流社/1993 |
彩流社/1993 |
| 生い立ちから大学入学、運動への関わりについて。また学校をやめ労働者になったことなどが書かれている。 | あさま山荘事件から山岳ベース事件の一部。郵便配達中に原稿を紛失したということで途中で終わっている。 |
| 続あさま山荘1972 | 坂口弘 歌稿 |
彩流社/1995 |
朝日新聞社/1993 |
| 山岳ベース事件の続きから死刑判決を受けた後まで。これは原稿紛失後、改めて書かれ死刑確定後なので手紙形式で書かれたものだそうである。 | 朝日歌壇に度々登場していたが反響が多く一冊の本としてまとめられ発売された。 |
| 再審請求 |
| 同志殺害事件の影響で、まともに審議されなかった「あさま山荘事件」について、もう一度きちんと審議して欲しいと2000年に再審請求を行っている。これは支援者からの強い勧めがあったからということだ。ここで確定してしまうと他の死刑囚にも影響が出て来るという。 私自身は、そんな確定するか再審請求を行うかで他の死刑囚にも影響を及ぼすなど知らなかった為本当に驚いた。本人自身も確定当時はこのまま確定していくつもりだったが先の支援者からの説得と本人の「生きたい」という気持ちが合わさって「再審請求」という形になったそうだ。 連合赤軍のことを考える時にいつも心に引っかかる事がある。あさま山荘事件で死刑の判決が出た坂口なのに、あさま山荘事件の審議がまともに行われていなかったというのはどういうことだろうと…。 |
| 短歌 |
1986年春、控訴審が結審した頃に、坂口は短歌と出合った。しかし全くの自己流だったが、支援者の協力を得て作歌の手ほどきを受ける事が出来た。そして1989年5月に朝日新聞の「朝日歌壇」に掲載され、その後しばしば登場する事になった。「東京都・坂口弘」とあったが選者は「連赤の坂口」だと気付かなかったという。
窓壊し散弾銃を突きいでし写真の吾はわれにてありたり
総括は友亡くなりて過酷化し死を思うさえ敗北となせり
わが房の軒に止まりて啼く蝉は吾に代りて泣きいる如し そこのみが時間の澱みあるごとし通路のはての格子戸のきわ(坂口 弘著「坂口弘 歌稿」(朝日出版社・1993)より) 坂口は現在、再審請求中である。申請中は、執行されないという事になってはいるが、大臣がサインをすれば執行出来るという見解は依然として崩れていない。過去には再審請求中に執行された者も居た。彼には最期の日まで、歌を詠み続けて欲しいと思う。 |
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坂口弘 歌稿 |
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謝罪と闘争宣言 |
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更に坂口氏について |
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