坂口 弘 

 

苦しみ苦しみぬいて、真理をつかむ迄は、
この自己批判はくり返しおこなわなければならない。
いまは亡き多くの同志達の、革命戦士としての名誉を回復するためにも。
(坂口 弘 1972年4月7日付「手記」)




坂口弘
坂口弘 あさま山荘で逮捕 「坂口弘」と聞いて、何を思い浮べるだろうか。2002年は 連合赤軍事件・あさま山荘事件から30年に当たる年とあって連赤についての書籍、テレビ特集などが結構ある。賛否両論はあるが、事件の起こった頃まだ生まれていなかった私は彼らの書物を読んで当時の学生たちについて興味を持った。

連合赤軍メンバーの中で特に興味を惹かれた人物は坂口弘である。彼は1993年に死刑確定囚処遇になったが、現在も東京拘置所で生きている。私は左でも何でもないが、純粋に彼に興味を持って、彼の書物を読み始めた。読み進めるうちに「まっすぐで忍耐強いが、どこか弱い人だなぁ」と思った。

愛知外相訪ソ訪米阻止羽田空港突入闘争で逮捕され7年の求刑が出た際、激しく動揺し(7年を既成事実化し、刑期の1/3を務めれば仮保釈の対象になる事を知らなかったから)刑務所に入る前に女性を抱きたくなり、彼女だったら7年待ってくれるだろうと の想いで永田に求婚した。

その後の山岳ベースでも幹部でありながら発言権は無いに等しく、遠山が亡くなって、蘇生させようとした時、一瞥もくれずに永田がC.Cのこたつに戻ってしまった際、あまりの冷淡さを非難して「薄情だ」と罵倒したが、逆に永田に「謝れ」と言われてしまった。終わらない総括に嫌気がさしていた事もあって「C.C(中央委員)を辞めたい」と口にするが結局撤回し、更に謝ってしまう。また森と永田が東京にカンパを集めに行き不在だった際、責任者を任せられたが会議を開こうとしても、皆緊張感が無く結局止めてしまった。

東京の二人の所に行った時、内縁の妻だった永田に「あなたと別れて森さんと結婚する」と言われたが嫌だと言えず受け入れた。ナンバー3の立場に居ながら「次に総括されるのは自分だ」と思っていたそうだ。
恐らく生き残った人のほとんどが「次は自分が総括される」と思っていただろうけれど、もしあのまま森らと合流出来ていたとしたら次の標的は間違いなく坂口だったに違いない。東京のアジトで、坂口から「総括が出来たと思ったから、山田の縄を解いた」と報告を受けたことや山田が亡くなった際、非常に悲しげな様子で報告してきた事を、森が「山田の縄を解いた、坂口くんは問題だ」と永田に言い、永田も本人に「山田の縄を解いたことを必ず総括して欲しい」と言い、また「坂口氏の総括援助をしなければならない」と思ったそうである。
現在、連赤事件(山岳ベースでの同志殺害事件・あさま山荘事件など)で死刑という責任を負われている元幹部は2人しか居ない。しかし、実質的には坂口一人と言って良いのかも知れない。
 

1973年1月1日・東京拘置所にて自殺。
永田 死刑確定囚処遇だが脳腫瘍で闘病中。現在著しい記憶障害と闘っている。東京拘置所在監。
坂口 死刑確定囚処遇。東京拘置所在監。
坂東 1975年8月・日本赤軍による「獄中同志奪還闘争」超法規的措置で国外へ。
吉野 無期懲役・千葉刑務所在監。

こう見ると、自業自得とはいえ幹部は5人も居たのに全ての責任を負う事になった人生は辛いだろうなと思う。もちろん被害者側から見たら当然なのだと思うけれど、死ぬまで背負い続けるには厳しすぎる程の運命だと思った。



経歴

1946年11月12日 千葉県富津市生まれ
1962年4月 木更津高等学校入学
1965年3月 木更津高等学校卒業
1965年4月 国立東京水産大学・増殖学科入学(現・東京海洋大学)
1966年4月 東京水産大自治会委員長に就任
1967年6月 学業から離れ「警鐘」に参加。大田区本羽田の「Sネームプレート社」に就職
1967年秋 日本共産党神奈川左派に加わり「三国工業」に就職。王子野戦病院反対闘争
新宿米タン阻止闘争などに参加する
1969年4月 革命左派に加入、同派大衆組織・京浜安保共闘の一員になる
1969年9月3日 愛知外相訪ソ訪米阻止羽田空港突入闘争に隊長として参加
海を泳ぎ滑走路に入り、火炎瓶を投げる→逮捕
1969年12月24日 府中刑務所を保釈で出獄
1970年2月 7年の求刑
1970年12月18日 革左による上赤塚交番襲撃闘争(計画を立てた)
1971年2月17日 革左による真岡銃砲強取事件→地下潜伏
1971年7月15日 革左人民革命軍と赤軍派中央軍を合体した統合司令部を設置し、統一赤軍
結成集会(本人自身は塩山ベースにいた)
1971年8月 統一赤軍→連合赤軍に名称変更
1971年8月4.10日 印旛沼殺害事件(組織を離脱した2名を組織防衛の名のもとに殺害)
1971年12月4日 赤軍派新倉ベースにて「共同軍事訓練」に参加
1971年12月12日 榛名ベースに戻る(後に赤軍派も入山し、一連の山岳ベース事件を起こす)
1972年1月3日 C.C(Central Committee/中央委員会)を結成しナンバー3になる(書記長)
1972年2月28日 あさま山荘事件を起こす→逮捕
1975年8月4日 日本赤軍による「獄中同志奪還闘争」で指名されるが出国拒否する
1982年6月18日 一審・東京地検にて死刑判決
1986年9月26日 控訴審・東京高裁にて死刑判決
1993年2月19日 最高裁判決にて上告棄却・死刑確定
2000年6月2日 再審申立
2002年4月現在 再審請求中・東京拘置所在監

18歳で左翼活動家になる。東京水産大学1年の夏に課外実習で、ある養殖組合で働いている水産労働者と知り合い、彼らの劣悪な労働状態に接した事が、人生の転機となる。2年後に同大学を中退して労働運動に参加すると共に、政党組織にも加入する。

20歳の時から丸3年間、東京南部の工場街で労働運動に従事したが、ゼロからの出発で、それなりの苦労もあったが目に見える成果も上がって充実した毎日を送る。生涯を一労働運動活動家で終えても何の悔いも無かったが、所属していた組織の「左」寄りの闘争に参加してから、急激に転落の坂を転げ落ち、自分ばかりか多くの人をも一連の連赤事件に巻き込んでしまう。

性格は明るくて、人に優しく、ハッキリものをいうタイプ。気が短く神経質な一面もある。左翼活動家としては、慎重さに欠け、性急で、かなり濃厚な盲目性の欠点を認識している。(自己紹介)



オウム信者へ「早く目を覚まして」

1996年4月24日、オウム真理教(現・アレフ)麻原彰晃こと松本千津夫被告の初公判に際し、朝日新聞社宛に坂口から手紙が届いた。朝日新聞では4月24日の夕刊で、彼の手紙を「手記」として紹介している。

そこには片隅に「手記」の写真が載せてあった。私は初めて彼の直筆を見た。縦書きの便箋に、小さく角張った文字が綺麗に並んでいて女性的な印象を受けた。

以下は、ほぼ原文のまま<>内は新聞社が書き足した。段落部分は読みづらい為、こちらで一行空けた。

この手紙が、あなた<オウム信者のこと>を始めとする潜伏中の皆さんの目に触れることを念じつつ書いています。

かつて、重大な過ちを犯した人間である私は、地下鉄サリン事件など一連の事件に関与したオウム真理教信者の方々に対し、痛ましい思いで深い同情を禁じえません。

あなた方は、サリンをまくためにオウム真理教に入信されたわけではないでしょう。また、地下鉄サリン事件を立案し、計画したわけでもないようです。教団の中にあって、たまたまその地位や立場が悪かったために指名手配され、実行に関与することになったのです。私自身の経験から、組織の中にいて、そのような指示を容易に拒めるものではないことはよくわかります。

僧侶の林さん<泰男容疑者のことか>と左翼の私とは、住む世界が異なりますが、それにもかかわらずお互いによく似た傾向があることに気づかされます。それは、カリスマ性をもつ指導者への帰依です。かつての私は、この傾向が人一倍強い人間で、恋も及ばぬほど熱烈に指導者を愛し、忠誠を誓い、この人のためなら死んでもおしくないとまで思っていました。

この盲目性から私は、組織が始めた武装闘争に加わり、獄中にいた指導者の奪還を企てたのですが、これが武器のエスカレートを招き、その過程に脱落した仲間を口封じのために殺害し、さらに、目的を変じて、山岳ベースでの大勢の同志殺害からあさま山荘でのろう城発砲へと、命がいくつあっても足りぬ罪を重ねてしまいました。

過ちに気づいたのは逮捕されてからでした。国内外の激動した情勢に、どうも自分たちの武装路線は適合していないのではないか、という疑問が芽生え、この疑問をつきつめてゆく過程において、なおも路線を堅持する指導者と衝突しました。そして、激しい論戦を経て、ようやく武装路線から脱却できたのです。

この体験から私は、自らの行為に疑問や迷いが生じた時には、何にもまして実感を大切にしなければならない、と心するようにしました。自分の心に感じたものにこだわり、それがスッキリするまで、しつこいように追求してゆく、ということです。

教団の中で、求道のため、麻原さんの指示を率先して実行した井上嘉浩さんも、今私と似たような体験をされているようです。

彼は、麻原さんの指示を実行していても自分の心は解放されず、かえって暗くなってゆくのはなぜか、という疑問にこだわったそうです。逮捕後、これをつきつめていった結果、一連の事件は麻原さんのエゴの実践に過ぎなかったとの結論に達し、法廷で麻原さんと対決してゆく意志を表明されました。

手段が悪いのは目的が悪いからだ、という言葉があります。実感を大切にされ、ご自分の判断で運命をひらいて下さい。

林泰男へ宛てたこのメッセージは届いたのだろうか?この手記から約7ヵ月後(同年12月)林被告は逮捕された。逮捕されたのは遅かったが審理が異例の速さで進み、1999年12月に死刑を求刑され、2000年6月に死刑判決が出た。
オウム関連事件で3人目の死刑判決だった。

また坂口が「自分と似たような体験をしている」と述べた井上嘉浩は、1999年12月死刑を求刑され、2000年6月に無期懲役との判決が出たが検察側が控訴した。(これは連合赤軍事件の吉野雅邦のケースと同じである。吉野は控訴審で再び「無期懲役」の判決が出た)

最近では、2002年6月に、作務衣姿で法廷に訪れた元幹部・新実智光被告。彼は求刑通り死刑判決が出た。これでオウム事件での死刑判決は8人目となった。(新実被告・殺人26)

一連の事件に関与した被告のうち既に7人が一審で死刑判決を受け控訴。控訴審も死刑とされた一人は、最高裁に上告している。

坂口自身は1993年最高裁で上告棄却、死刑が確定している。



拘置所

それでは坂口の居る「東京拘置所」について触れてみたいと思う。場所は東京都葛飾区小菅1-35-1。約2000名収容出来る。刑事被告人が9割、残り1割が受刑者となっている。収容人員1,700名、その内死刑囚は28名居る。(2001年現在)1930年に建てられた古い建物である。戦前に建てられた物の為、老朽化が激しい。現在、新しい建物が建設中である。セキュリティーが万全という事で塀が撤去されるそうである。これでますます閉鎖化されるのであろうか・・・。

●東拘での一日

7:00 7:20 7:30 11:30 16:20 16:50 17:00 21:00
起床 朝点検 朝食 昼食 夕食 夕点検 安息時間 就寝
独房イメージ ★起きている時はトイレの脇に布団を畳み、座卓の前の
  決まった場所で過ごすらしい。
 書き忘れたがトイレの脇にはついたてがある。
 ←就寝中の図。(イメージ)

食事はきちんと三食食べられるが、彼は不就業の為一日1,700カロリーの5等食(1等〜5等まである)を食べている。小さな1リットルのやかんにお茶も出るが柳葉茶といって柳の葉から作られた味も香りも無い茶色い色が付いている代物。自分で食料を購入できるが、手続きが面倒。また、具合が悪くなっても勝手に横になる事は許されず「横臥願い」を出して許可を受けてからではないと横にもなれない。

確定してから面会・手紙は、親族・弁護士・教誨師に限られ、回数も決まっているという。衣服も数が決められており各3枚位らしい。運動、入浴は一人で行う。それぞれ週2回位。房はおよそ3畳で、畳敷き2畳にトイレと洗面所の付いている板の間があるだけ。最高裁判決直後から、彼が入っていると思われる「自殺防止房」は壁からゴムホースの蛇口が出ていて、水はボタンを押さないと出ない。窓も半分が鉄板で覆われている為、通気が悪く畳に黴が生える事もあるという。夜も電気は消えない。24時間監視カメラが付いている房である。監視孔からも常に監視されている毎日。そんな生活を彼は短歌にして詠っている。

戯れに房の角にて隠れおれば逃亡せしと看守ら騒ぐ
(坂口 弘著「坂口弘 歌稿」)


●拘置所と刑務所

「拘置所と刑務所」と聞くとイメージとして「拘置所=差入れ万歳・私服・中間地点」・「刑務所=オツトメ・坊主頭・キツイ」という様な感じがするのは私だけではないと思う。しかし実際は刑期を終えればいつか出られる刑務所の方が、格段にましなのだと、ふと思った。

拘置所には未決の人達が入っている。文字通り刑が確定するまで拘置する場所なのだが、この中には坂口のように死刑囚処遇の人達もいる。彼らは執行(日本では絞首刑)されて初めて死刑囚となる。



友への手紙

坂口は、刑が確定する以前の1986年に「日本死刑囚会議・麦の会」に入会している。麦の会は、死刑囚を会員とし、獄外の協力会員によって構成されている組織である。その協力会員であり、逮捕以前の活動仲間だった友人に向けて手紙を送っている。その中で、彼が今の生活の中で殺めてしまった同志の事を綴っている箇所があった。とても苦しく悲しい日々だが、貴重な本心として一部引用させてもらった。

S君へ

西早稲田からの死刑廃止リレー・ハンスト日報に貴君の寄せ書きが載っているのを見た。がんばっているようだね。ご苦労様。
最近Y君から元のメンバーの中で貴君が一番活発な活動をしていると聞いたことがある。組織のなかで最も活動歴の浅い貴君の今の活躍を誰が想像できただろうね。昔の仲間が次々に一線を退いていくのを見るにつけ、複雑な感慨を催さずにはいられない。

俺は、この四年余にわたる控訴審の期間に、M社での二年にわたる活動をよく思い出した。何といってもよく成功した活動だったからね。
あの頃T君の下宿でよく泊りがけをしたものだ。三畳の狭い部屋で、貴君を含む五、六人の若者が額を突き合わせて組合大会での発言内容や発言順位などについてよく作戦を練った。俺は人前では話も出来ない男なのだが、あの頃は組合大会でもけっこう喋れたのだから不思議に思う。きっとみんなの先頭に立っているとの気負いからそうなったのだろう。

短い期間だったが、仲間も次から次へと増えて活動にはりがあった。みんな口べただったが、純真で気持ちのいい諸君ばかりだった。俺は、はつらつとしたあの諸君のことを生涯忘れはしない。
M社での楽しい想い出にふけるのは、いうまでもなく事件の真相を把握する作業がきついからなのだ。

俺は事件後もかなり長い間、自分のことを忍耐強い男と思ってきた。それがこの作業をしている間に、それほどでもないことを悟らされた。孤独と自己嫌悪との闘いは実に厳しく、俺は数え切れないほど打ちのめされた。そんな俺にとって、M社での想い出はこの上ない慰めであり、砂漠のオアシスだったのだ。
しかしながら、多数の犠牲者のことを思うと、こうして想い出を綴ることさえも負い目を感ぜざるをえない。彼等はほぼ全員が中堅、下部の人たちで、歳もまだ二〇代前半の若者が大半を占めていた。彼等は真情を吐露することはおろか、われわれの理不尽な仕打ちに怒りをぶつけることさえかなわない。この不合理ゆえに、俺は事件いらい、折にふれて罪の意識に苛まれてきた。

風呂の湯水にひたれば、衣服をはいで裸体のまま土中に埋めたある人の顔が必ず想い出される。
別の犠牲者の顔によく似た職員に出会えば、心は一日中、重く沈んでいく。
本を読んでいて、犠牲者と同じ名前の活字にいき当たると、おのずから心は塞がっていく。暴力や殺人といった残酷な場面にいき当たれば、もう読めたものではない。
公判準備の合間に、教養のための勉強をすれば、無限の可能性を奪った犠牲者に対して、“申し訳ない”という気持ちになる。
夜、床につけば、必ずある犠牲者の顔が瞼に浮かんできて、容易に寝つけない。
夜中に眼覚めて全身に寒気が走ると、厳寒の立木に緊縛した犠牲者の苦痛がしのばれてならない。
朝の三、四時ごろには、決まって地の底に引き摺り込まれていくような激しい自己嫌悪に襲われる。

そして事件から一五年間、俺の心象風景はいつも変わらず群馬・榛名の山小屋なのだ。この風景は生涯、俺の脳裏から消え去る事はないであろう。
(1987.1.23/インパクト出版会「死刑囚からあなたへ」)
この手紙は、1987年時点での気持ちであるが今も同じような苦しみの中にいるのだと思う。



著書
あさま山荘1972・上 あさま山荘1972・下
あさま山荘1972上彩流社/1993 あさま山荘1972下彩流社/1993
生い立ちから大学入学、運動への関わりについて。また学校をやめ労働者になったことなどが書かれている。 あさま山荘事件から山岳ベース事件の一部。郵便配達中に原稿を紛失したということで途中で終わっている。
続あさま山荘1972 坂口弘 歌稿
続あさま山荘1972彩流社/1995 坂口弘歌稿朝日新聞社/1993
山岳ベース事件の続きから死刑判決を受けた後まで。これは原稿紛失後、改めて書かれ死刑確定後なので手紙形式で書かれたものだそうである。 朝日歌壇に度々登場していたが反響が多く一冊の本としてまとめられ発売された。



再審請求
同志殺害事件の影響で、まともに審議されなかった「あさま山荘事件」について、もう一度きちんと審議して欲しいと2000年に再審請求を行っている。これは支援者からの強い勧めがあったからということだ。ここで確定してしまうと他の死刑囚にも影響が出て来るという。
私自身は、そんな確定するか再審請求を行うかで他の死刑囚にも影響を及ぼすなど知らなかった為本当に驚いた。本人自身も確定当時はこのまま確定していくつもりだったが先の支援者からの説得と本人の「生きたい」という気持ちが合わさって「再審請求」という形になったそうだ。

連合赤軍のことを考える時にいつも心に引っかかる事がある。あさま山荘事件で死刑の判決が出た坂口なのに、あさま山荘事件の審議がまともに行われていなかったというのはどういうことだろうと…。



短歌

1986年春、控訴審が結審した頃に、坂口は短歌と出合った。しかし全くの自己流だったが、支援者の協力を得て作歌の手ほどきを受ける事が出来た。そして1989年5月に朝日新聞の「朝日歌壇」に掲載され、その後しばしば登場する事になった。「東京都・坂口弘」とあったが選者は「連赤の坂口」だと気付かなかったという。
その短歌は1993年11月に朝日新聞社より「坂口弘 歌稿」として出版された。作歌活動を始めてから、出版されるまで約1,500首余りを作ったそうである。

窓壊し散弾銃を突きいでし写真の吾はわれにてありたり

総括は友亡くなりて過酷化し死を思うさえ敗北となせり

わが房の軒に止まりて啼く蝉は吾に代りて泣きいる如し

そこのみが時間の澱みあるごとし通路のはての格子戸のきわ
(坂口 弘著「坂口弘 歌稿」(朝日出版社・1993)より)

坂口は現在、再審請求中である。申請中は、執行されないという事になってはいるが、大臣がサインをすれば執行出来るという見解は依然として崩れていない。過去には再審請求中に執行された者も居た。彼には最期の日まで、歌を詠み続けて欲しいと思う。



坂口弘著「坂口弘歌稿」 坂口弘 歌稿
坂口弘の手記「謝罪と闘争宣言」 謝罪と闘争宣言
坂口弘についての小さな事柄 更に坂口氏について



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