連合赤軍・5 その後の連合赤軍


客観的事実は、同志を殺したということであり、
同志に写っていた「鬼」「おかみ」という姿こそ、
私達の姿、本当の姿であると思うのです。
その革命的でも、美しいものでもない姿を、
自分の真の姿と認め、否定し、否定しぬくことによって初めて、
総括の第一歩が始まると思います。
(坂東国男「永田洋子さんへの手紙」)



同志殺害発覚

2月28日、人質を無事保護、犯人の連合赤軍5名を逮捕しあさま山荘事件は終わった。

警察の調査により、最後の山岳ベースとなった妙義山・籠沢の洞窟付近にて切り刻んだ衣服が見付かった。あさま山荘事件中、すでに逮捕されたメンバーはこのことに関して詰問されていた。

それから一週間後、最後に山岳ベース入りし、妙義湖畔にて逮捕された奥田が自供を始めた。



自供

1972.3.5 2.16に妙義湖畔にて逮捕された奥田が同志殺害を一部自供 ※1
1972.3.6 2.28にあさま山荘にて逮捕された加藤末弟が同志殺害を自供
1972.3.7 山田遺体発掘(3月12日までに全遺体が収容された)
1972.3.8 森、前橋地裁宛に上申書(同志殺害を認める文書)提出 ※2
1972.3.10 山本恵子自首
1972.3.11 前山自首
1972.3.13 中元自首 山本の子供無事保護
1972.3.13 原田自首
1972.3.17 全容疑者 殺人、死体遺棄容疑などで再逮捕
1972.3.25 吉野の証言に基づき、千葉県印旛沼付近の山林にて、革命左派が1971年8月4、10日に処刑した2名の遺体発掘
1972.4.11 永田 自己批判書執筆
1972.4.13 森 自己批判書執筆開始
1972.5.8 森ら15名 殺人、死体遺棄等で長野・前橋地裁に起訴される
1972.5.10 永田、坂口、吉野 印旛沼殺人、死体遺棄容疑で警視庁に再逮捕(5月30日起訴)
1972.5.11 森、青山 明治公園爆破(1971年6月18日)容疑で警視庁に再逮捕(6月1日起訴)
1972.5.12 坂東、植垣 M作戦容疑で神奈川県警に再逮捕(6月2日起訴)

※1 奥田が最初に自供を始めたと報じられているが、実は2月17日に逮捕された森が一番に自供を始めたとも言われている。当時あさま山荘では銃撃戦の真っ最中だった。森は自供したが遺体埋葬場所を知らなかったため、あさま山荘にいる犯人を何としても生きたまま逮捕し、埋葬場所を聞き出さなければならなかったと言われている。

※2 この「上申書」により、逮捕されていたメンバーのほとんどが自白した。また、逃亡していたメンバーも次々と自首した。



凄まじい報道

あさま山荘事件は当時としては前代未聞の実況生中継でテレビ報道された。逮捕後、赤軍派シンパの文化人などは「よく闘った!」「人質は絶対殺さないと思っていた。彼らは現代の英雄である」など言っていたそうだが一転、同志殺害があちこちで報じられ始めると「あいつらは人間ではない」「もうカンパしない」など一気に引き離しにかかった。
結局、全共闘運動を頂点とした学生運動はこの時を境に急激に衰退していった。

あさま山荘事件直後の週刊誌と、同志殺害発覚後の週刊誌を読み比べてみると捉え方の違いが大きく少し呆れてしまった。
例えば2月16日に発見された迦葉山のアジトについての記述。同じアジト写真に添えられた一文。

《発覚前》
杉丸太と板で組み立てらて、トタン屋根、ビニール窓、内部にはイロリまであり、ちょっとした別荘風。
《発覚後》
血の粛清、惨劇。陰惨たる迦葉山アジト。

結局、彼らの思想、理念などはどうでも良かった。彼らの過去から起こしてしまった行動を分析するのではなく、ただ興味本位に面白おかしく書きたてていた。



総括と共産主義化

「総括」
この言葉は、連合赤軍内においてよく使われた言葉である。
本来の意味は「全体を見渡してまとめる」という意味である。当時の学生達は闘争がひとつ終わる度に「この闘争をどう総括するか」というような使い方をしていたらしい。
運動をどのように評価するかということをめぐり、分裂や反発が起きた際には「総括」という名の評価を最重視していたということだ。

では連合赤軍内で「総括」が何故「死を意味する」言葉に変わってしまったのか。
彼らは総括を「自らを一段と飛躍させる為に、自らを厳しく見つめなおし自己批判する」という意味に使った。闘争に必要な精神などを身につけさせ「革命戦士」にふさわしい者として成長させようとした。
これを兵士の「共産主義化」と称した。

しかし総括を求められた当人自身では総括を成し遂げることが出来ないと判断したC.C(中央委員会)は、同志的な「援助」として、総括援助をしようと提案する。これは連合赤軍結成以前の革命左派内で、よく行われていた ことである。

初期の段階では、
同志達から「個々の弱い点を指摘される」

本人は自己批判をして、自分の行動や誤りまたは弱点を克服すべく総括する。

同志達が総括の援助として批判する。(相互批判)

本人は相互批判を真剣に受け止め、共産主義化された強靭な精神を獲得する。

という流れだったはずである。

しかし森恒夫の「これまでの総括要求の限界を乗り越え、真の総括をさせる為に殴る。殴ることは指導である。殴って気絶させ、気絶から目覚めた時には別の人間に生まれ変わって共産主義化を受け入れるはずである」という提案によって暴力が持ち込まれた。

最初に暴力を受けた加藤能敬は何度殴打されても気絶せず、倒れることもなく踏ん張っていた。その後、逃走を恐れた森らにより緊縛までされてしまった。そのことに関して森は「彼が気絶をしなかったのは、同志に心を開かず、自分を守ろうとしたからだ。縛ったのは総括に集中させる為だ」と発言した。
しかし このことで始まった同志による暴力的な総括援助によって、気絶する者など一人もいなかった。

やがて殴打された者は小屋の外に縛られ、ろくに食事も与えられなかった。糞尿は垂れ流しの状態で、逃走防止の為に、髪も切られた。

この状態であれば死の可能性も考えられるはずだったが、彼らは「何とか総括してくれ」と思うだけで死ぬとは思わなかったらしい。最初に亡くなった尾崎充男は「敗北死」とされた。「総括出来ない自分に負けて(敗北して)死んだ」というこじづけである。

殆んどの者は殴打による内臓破裂や屋外に放置された為、凍死で亡くなった。一方、寺岡恒一と山崎順は「死刑」を宣告され殺害された。

自らの手記の中で坂口は、
「われわれ多くの者は、加藤君を殴るのにためらいがあった。このため一度殴打に加わると自分もより厳しく総括しなければならないという意識に支配されるようになった。これが残酷無残な殴打に潔癖の装いをもたらすことになった。他人を殴打して自己の総括をはかるとは、何という倒錯した論理だったことだろう!」

(あさま山荘1972下巻)
と述べている。


結局、 総括をなしきって共産主義化され「革命戦士」になった者など一人もいない。
総括を要求されたら最後、それが死を意味するものになってしまった。



最高指導者の死

森恒夫

連合赤軍のメンバーが全員逮捕され、警察が追っていた残りのメンバーが土中から発見された後いよいよ初公判が始まるという1973年(昭和48年)1月1日連合赤軍の最高幹部・森恒夫が東京拘置所の独房で縊死(首吊り)した。
自殺である

拘置所では15分おきに巡回があるというがその隙を狙ったらしい。午後1時38分には、巡回の看守が静かに本を読んでいるのを目撃している。しかし、1時52分の巡回の際、廊下側の鉄格子にフェイスタオルを輪にして結び、そこに頭を突っ込み足をシャツで縛った姿で発見された。縛った両足を宙に向けて蹴り上げ、その反動でタオルに重力が加わり首が締まったらしい。その姿は「く」の字型だった。

彼は前年、同志殺害が発覚した後「14名の同志を親元にかえしてあげて欲しい」と上申書を書いた。これを見て獄中のメンバー達は黙秘していた者も含め憤慨し、次々に自供をしていった。最高指導者、殆んど独裁に近かった彼がそんな事を言い出したら、今まで自分たちの手で殺してしまった同志はどうなるんだ、何の為に闘ってきたのだと。

同じく最高幹部だった永田は、知らせを聞いて「森さんはズルイ!自分だけ死んで!!」と叫んだということだ。この気持ちは良く分かる。森自身生前は「全ては僕と永田さんの責任です」と公言していたからである。
そして彼女はもう「自殺」という選択を許されなくなった。何処にも逃げる事が出来なくなったのである。責任を負う為、全ての怒りを受け止め総括を深める為、生きて償う道しか残されていなかった。後日永田は「時代の雰囲気が森さんに自殺を強要していた」と振り返っている。

やはり一言で表すと「彼は逃げた」ということになるのだろう。死刑の重圧と、自己批判の毎日…。取調べ中「死刑になるんでしょうか、死刑が恐い」と口走ってしまう程に怯えていた。

後に一審で裁判長は「森の死は遅すぎた」と言ったらしいが、それは間違っていると思う。生きて償う方が、曖昧に自己批判して死んで逝くより、遥かにキツイ作業であるし、沢山の犠牲者のことを考えた時に彼らが少しだが救われると思う。彼らが生きて償っている間、犠牲者たちも風化しないから…。狭い独房の中でたった一人で生きていくのは、想像を絶する毎日だと思う。その様な生活を、永田と坂口は今も送っている。


以下は彼が最後に遺したメモである。

 御遺族のみなさん、十二名の同志はぼくのブルジョア的反マルクス的専制と戦い、階級性、革命性を守ろうとした革命的同志であった。
 責任はひとえにぼくにある。
 同志のみなさん、常に心から励まして下さってありがとう。お元気で。
 父上、ぼくはあなたの強い意志を学びとるべきだった。強い意志のない正義感は薄っぺらなものとなり、変質したのである。お元気で。
 愛する人へ、希望をもって生きて下さい。さようなら
 荷物は坂東君に

   一九七三年一月一日         森恒夫


彼は自殺の数ヶ月前から聖書を愛読し、キリスト教に深い関心を寄せていた。



連合赤軍公判など

1972.9.22 森、永田、坂口、坂東、植垣の統一公判決定(東京地裁)
1972.9.26 分離公判開始 ※1
1972.10.31 加藤次兄 統一公判への参加表明(併合却下)
1972.11 吉野 統一公判への参加表明(12月併合決定)
1972.11.18 東京地裁山本裁判長 統一公判・第一回公判を1973年1月23日とする
1972.12.4 東京地裁山本裁判長 統一公判・百回の公判期日を独断で決定する ※2
1972.12.20 統一組弁護団 百回期日指定に抗議「公判期日取消及び変更申立書」提出 各被告も抗議
1973.1.1 森自殺
1973.1.16 統一組弁護団 百回期日指定抗議を無視した山本裁判長に、第一回公判期日延期を申立てる
1973.1.18 東京地裁山本裁判長 第一回公判期日延期を却下
1973.1.18 統一組弁護団 山本ら裁判官の忌避を申立てる 各被告も出廷拒否する旨で決意表明
1973.1.22 東京地裁山本裁判長 忌避申立てを却下
1973.1.23 第一回公判 統一組弁護団 却下への即時抗告申立、不出頭を告知出廷拒否 各被告も出廷拒否 ※3
1973.2.13 第六回公判 事実上の初公判 こちらもどうぞ
1973.4.11 東京地裁山本裁判長 百回期日指定を全面取消
1975.8.4 日本赤軍による同志奪還闘争が起こる 指名された坂東出国 坂口出国拒否 ※4
1977.8 吉野 不出廷 分離公判申請(以後分離公判になる)
1977.9 日本赤軍による同志奪還闘争が起こる 指名された植垣出国拒否 ※5
1979.3.29 吉野 第一審判決 検察側求刑・死刑 判決・無期懲役 直ちに検察側控訴
1982.6.18 統一公判 第一審判決 永田、坂口死刑 植垣懲役20年
1983.2.2 吉野 控訴審判決 無期懲役(3月・千葉刑務所下獄)
1986.9.26 統一公判 控訴審判決 永田、坂口死刑 植垣懲役20年
1993.2.19 統一公判 上告審 最高裁 上告棄却 永田、坂口死刑確定 植垣懲役20年(甲府刑務所下獄)
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1998.10.6 植垣出所
2000. 坂口 再審申立
2001.6 永田 再審申立
2002現在 吉野 千葉刑務所在監 永田、坂口 再審請求中

※1 この日トップを切って、奥田が第一回公判を開いた。
前橋〔奥田〕1972.9.26〜 〔三崎〕1972.10.9〜 〔中元〕1972.10.21〜 〔前山〕1972.10.2〜 〔山本恵子〕1972.11.13〜
長野〔加藤次兄〕1972.9.27〜 〔原田〕1972.9.27〜 〔佐藤〕1972.10.4〜 〔寺森〕1972.10.4〜
東京〔青山〕1972.11.28〜
家裁〔加藤末弟〕保護処分→中等少年院送致

※2 東京地裁山本裁判長が指定した「百回期日指定」について。
1973年1月23日から1974年6月25日までの一年半限定の公判。毎週火曜日と隔週金曜日(月6回)を指定としたもの。全く話し合いは持たれず決定したと事後報告のみであり、前例のない形態でもあった。スピード裁判、スピード判決への近道だった。各被告からすると十分な検討をした上での裁判を保てなくなること、弁護団も曜日が指定されているため、他の裁判を抱えた弁護士などが出廷出来なくなると猛烈に抗議した。
後に百回期日指定は、取り消されることとなった。

※3 初公判当日、各被告人、弁護団も出廷拒否したが、公判は進められ写真による人定質問を強行した。東京拘置所では看守の強行連行に抵抗し、裸になり便器にしがみついたり、着ていく予定のスーツを濡らしたり、インターナショナルを歌ったりして出廷拒否をした。この時、永田は看守達に体を持ち上げられたが、自身が暴れたため、頭から床に落ち房に戻されている。その後も「百回期日指定」に抗議するため、永田、坂口はハンスト(食事を食べないなど)を起こした。

その後も永田が「出廷拒否」を申し出ると、看守は「テメー!貴様!」などと言いながら外に連れ出すが、肝心のマイクロバスが来ていないということもあったという。

※4 クアラルンプール米領事館、スウェーデン大使館を占拠し、要人53名を人質とした日本赤軍(アラブ赤軍)による獄中同志奪還闘争が起こった。

指名者は、西川純(24歳/日本赤軍/ハーグ事件/東京拘置所)、戸平和夫(22歳/日本赤軍/ハーグ事件/東京拘置所)、J.M(25歳/赤軍派/M作戦/病気により保釈)、松田久(26歳/赤軍派/M作戦/宮城刑務所)、坂東国男(28歳/連合赤軍/M作戦、連合赤軍事件/東京拘置所)、坂口弘(28歳/連合赤軍/銃砲店襲撃事件他、連合赤軍事件/東京拘置所)、佐々木規夫(26歳/東アジア反日武装戦線「狼」/連続企業爆破事件/東京拘置所)の7名。

選考基準は組織内での地位などではなく、実践に強い同志を集めたいとすることからだった。連合赤軍からは坂東と坂口が指名された。同志奪還に応じたのは5名。政府は超法規的措置として、指名された者を国外で解放することとなった。しかし、坂口弘とJ.Mは出国を拒否。

指名を受けてそれぞれの反応。
西川、戸平「日本政府の決定と日本赤軍の要求に従う」  松田「引き渡しを希望する」
佐々木「自分はゲリラ兵士だから、どこへでも行く用意がある。米大使館を占拠した日本赤軍の釈放要求名簿に自分の名前がのっているなら、どこへでも行く」
坂東「日本政府は、当然われわれを釈放すべきである。自分は革命のためならどこへでも行く」
J.M「行きたくない」と文書を発表。  坂口「何も言いたくない。オレはもう房に帰る」とすたすた帰っていった。
坂東の母親は、羽田にいる検事宛に涙声で「絶対に出国させないでください」と電話を入れるが坂東は出国。

※5 75年の同志奪還闘争に続き、再度日本赤軍による同志奪還闘争が起こった。日航機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させた。

この時の指名者は、奥平純三(28歳/日本赤軍/東京拘置所)、S.O(34歳/日本赤軍/京都拘置所(当時))、植垣康博(28歳/連合赤軍/東京拘置所)、城崎勉(29歳/赤軍派/府中刑務所)、大道寺あや子(28歳/東アジア反日武装戦線「狼」/東京拘置所)、浴田由紀子(26歳/東アジア反日武装戦線「大地の牙」/東京拘置所)、I.C(27歳/沖縄解放同盟/沖縄刑務所)、泉水博(40歳/強盗殺人/旭川刑務所)、仁平映(31歳/殺人/東京拘置所)の9名。

政治犯ではない泉水、仁平は刑務所・拘置所内での「待遇改善運動」で日本赤軍と知り合った。出国6名、出国拒否3名。拒否者は連合赤軍の植垣、日本赤軍のS.O、沖縄解放同盟のI.Cだった。ここでは、前回奪還された坂東らが実行者となっていた。



結果

名前 公判 求刑 判決 裁判所 判決予想 ※3
統一 ―― ※1 ―― ―― 死刑
永田 統一 死刑 死刑 東京地裁―東京高裁―最高裁 死刑
坂口 統一 死刑 死刑 東京地裁―東京高裁―最高裁 死刑
坂東 統一 ―― ※2 ―― 東京地裁 死刑
吉野 分離 死刑 無期懲役 東京地裁―東京高裁 死刑
青山 分離 無期懲役 懲役20年 東京地裁 10年〜無期
植垣 統一 懲役20年 懲役20年 東京地裁―東京高裁―最高裁 10年〜無期
前山 分離 懲役20年 懲役18年 前橋地裁―東京高裁 5〜10年
加藤 分離 懲役20年 懲役13年 長野地裁―(東京地裁)―東京高裁 10〜15年
三崎 分離 懲役15年 懲役12年 前橋地裁 8〜15年
寺森 分離 懲役15年 懲役9年 長野地裁 8〜15年
佐藤 分離 懲役10年 懲役7年 長野地裁 8〜15年
中元 分離 懲役10年 懲役7年 前橋地裁 5〜10年
奥田 分離 懲役8年 懲役6年 前橋地裁 8〜15年
山本 分離 懲役6年 懲役4年 前橋地裁 5〜10年

※1 森は公判開始前に死亡した。
※2 坂東は第一審裁判中に同志奪還闘争にて出国。現在公判停止中。
※3 事件発覚当時に各週刊誌にて判決予想をしていたが、その中より平均的なものを記載。



革命戦士
連合赤軍メンバーの中で、現在も闘っている人物がいる。元赤軍派の坂東国男である。
彼は、1971年の「M作戦(金融機関襲撃)」の際、いくつかのグループがあったがその中の一つ「坂東隊」のリーダーだった。隊員は植垣(坂東と共に実行)、運転手には山崎など。
最初は「M作戦」の実行者ではなかったが、逮捕者がたくさん出た為、爆弾製造担当だった植垣らと共に銀行強盗などを起こすこととなる。しかし彼らの隊だけは、ほとんど失敗がなかった。

1971年12月、革命左派との新倉ベースでの共同軍事訓練後、彼と森は革命左派幹部と会議を開く為、榛名ベースへ入山する。その際、森から「坂東は、結婚しないのか?」と聞かれ、とんとん拍子に革命左派のある女性との結婚を勧められ、二人は話し合い、全員の前で結婚の報告をした。メンバーからは口々に歓迎されたがその後、別のメンバーに対する批判が始まり「山岳ベース事件」に繋がっていった為、二人の関係がどうなったのかは分からない。

あさま山荘で逮捕された後1975年8月4日、日本赤軍(当時はアラブ赤軍)による同志奪還闘争(クアラルンプール闘争)にて超法規的措置で国外に脱出した。この時、連合赤軍メンバーとして、共に指名された坂口は「武装闘争は清算した」・「獄中で総括を深める為」に出獄拒否をしている。

そして出国後の1984年、永田洋子著の「十六の墓標」の返信として、彩流社より「永田洋子さんへの手紙『十六の墓標』をよむ」を出版した。出版までに様々な障害があったということだ。
そして「返信」を受け取る側にも障害があり、出版後、拘置所には届いていたのだが、閲読不許可で、永田に渡されることはなかった。永田がこの本を手にしたのは、死刑確定直前の1993年2月2日だった。

日本赤軍に合流し、初めて重信房子(2000年国内潜伏中に逮捕)と話した時のこと。
「どうしても最初に言わなければならないことがあります。私は同志粛清という重大な誤りをおかしたのにどうして奪還してくれたのでしょう?私は同志達によって処刑されることも覚悟してきました。人民が直接私達を裁けない以上、あなた達で査問委員会を開いて下さい。それなしに話す資格は私にはありません。」

その言葉に重信は「私達は査問委員会などやるつもりも資格もないんです。連赤の敗北を日本段階闘争を闘うものの総体としての敗北として受けとめ、共にその敗北の責任を共有し、総括をかちとっていくために奪還したのです。」と答えている。

彼は「自分を処刑してくれてもいい」と言ったことを「ずいぶんカッコつけたものですね」と言い、口では自己否定しているが、実際は自己肯定の気持ちが多大にあり、自分自身にこだわり続け、自分もまわりの人をも傷付けていたと気付いたそうである。

1977年には、自ら実行者となって植垣らを指名し、同志奪還闘争(ダッカ闘争)を起こした。この時、植垣は自分が抜けたら赤軍派として「統一公判」を闘っていく者が居なくなるからと、出国を拒否した。

現在、日本赤軍は解散してしまっている。今彼は何処で闘っているのだろう。

今でも、街を歩けば派出所や警察の掲示板に、30年近く前の彼の顔写真が貼ってある。
彼が日本に戻って来るまでは、山岳ベース事件もあさま山荘事件も終わらないのだと、手配写真を見る度に実感する。彼は「連合赤軍」を振り返り、「弱者連合」だったと語っていた。



あさまさん
見沢知廉著「囚人狂時代」という本がある。「スパイ粛清事件」の実行犯として1982年秋に逮捕され、長く千葉刑務所に入っていた見沢氏から見た刑務所の日常を描いている。千葉刑務所は初犯・長期収容(殺人・強盗・放火など)の刑務所である。連合赤軍関係者では無期懲役の元幹部・吉野雅邦氏が入所している。彼は革命左派時代から主要な事件に関わっており、山岳ベースでは妊娠中の恋人を総括で亡くしている。そして最後のあさま山荘で銃撃戦を闘い逮捕された。

以下は、千葉刑務所でのあさまさんこと吉野氏についての記述。

《とにかくこの人、何をするにも全身全霊で打ち込んでしまうタイプなのだ。
野球好きなのはいいが、工場内の対抗試合で凄まじいすべり込みをしたことがある。一面に砂埃が舞い、皆、唖然となった。
これであさまさん、あばらを骨折した。……あとで聞くと、すべり込みをしたのは、足がよろけたのもあるという。》
その後、今度は腕を骨折し野球の出場停止になったそうである。

《新年の一月十五日には、毎年、所内の「囚人歌合戦」が開かれる。……各工場にはそれぞれ四〜五十人いるが、一つの工場で出場できるのは二人程度。……あさまさん、この歌合戦に出場することになった。中学か高校の時、コーラス部に入っていたというから、歌は好きらしい。とにかくマジメが限界値に達しているあさまさんのこと。何事にも最善を尽くさないと気がすまない。

出場を申し出た後、歌う曲の歌詞をコピーしてシャバから送ってもらい、休憩や運動時間になると一ヶ所にじっと立って、ひたすらブツブツと暗唱していた。しまいには疲れて、貧血でフラフラしているほどだった。「おい、あいつ、大丈夫かよ?」何人かが指差して心配した。

やがて一月十五日成人の日、工場は休みとなり、皆が講堂に集まって、歌合戦が始まった。……いよいよあさまさんの番だ。「ええ、次の歌は…『村の鍛冶屋』です。こういうのを歌合戦で歌うのはめずらしいなあ。普通コーラスとかだよね。…あれ、緊張してるの?」
あさまさん、舞台に上がった時から、まるで棒のようだ。マイクに近づこうとしてコードに引っ掛かり、一瞬、倒れそうになった。中央のマイクの前に立っても直立不動して、司会者の冗談がまったく耳に入っていないように見える。どことなく目がうつろだ。
ところが歌い出すと、これが実にうまい。「しばしも休まず槌打つ響き、飛び散る火の花…」
朗々と、テノールというよりソプラノに近い高い声が体育館に響き渡った。たちまち野次も止まり、シーンとなる。

……あさまさん、堂々の二位(図書券一万円分)に入賞した。拍手、拍手。
フラフラと貧血気味でステージに出てきたあさまさんだったが、トロフィーを受け取ると、急に何を思ったのかトロフィーと賞状を両手に持って高く掲げ、観客に振ってみせた。途端に「コラッ」と職員の注意が飛ぶ。嬉しかったんだろうなあ…。
ただし、こんな緊張はもう嫌だと、あさまさん、それ以降、二度と歌合戦には出場しなかった。》

このような姿を見ると、あの事件の背景が少し見える気がする。責任感が強く真面目一直線な人ほど、物事をどこまでも突き詰めてしまい、取り返しの付かないことさえも無心にやってしまう。閉鎖された空間に、そんな人間が沢山いたら…。

その他にも沢山のエピソードがあり、あさまさんは新人に対して非常に親切だったことや、福祉に興味を持っていること、老人や障害者が中心となっている工場の計算夫(模範囚の中でも優れた者が選ばれる)として働いているということである。

そして吉野氏との会話の中でこんなやり取りがある。
《「僕もスパイを殺ったんですが…あれ(あさま山荘)は、皆仲間殺しだったんですか?」
「いや、スパイはいました。公安のね。それは報道されない。ただ仲間殺しとだけ糾弾される。悔しいですね…」》

見沢氏は獄中で書いた小説が新日本文学賞に選ばれるなど、現在も作家として活躍しているが「囚人狂時代」の中で彼は刑務所生活を振り返って、こんな言葉を呟いている。
《あの時代、俺は生きていた。そして今も生きていることが、俺はすごく楽しい》と。



大槻さん

彼女は、革命左派側から連合赤軍に加わり1972年1月30日に迦葉山ベースで命を落とした。
その後、発売された遺稿集「優しさをください」は、1968年から1971年4月迄の日記や手紙をまとめたものである。
彼女の日記が途絶えた1971年4月以降、革命左派は山岳ベースを設営し、彼女もまたベースでの生活を送ることとなる。

「優しさをください」新装版(1998年5月発売)では、「光の雨」の著者である立松和平氏が解説をしている。
その中で、彼女も日記に書き付けた吉本隆明氏の詩を自分の体験と合わせて解説している。
《一九六〇年代半ばから七〇年代はじめにかけて青春時代を送ったものにとって、革命はもしかすると現実化するかもしれない夢であった…》

涙が涸れる

けふから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うつくしくもなくなったから そうして
針のやうなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活の中からみつけ
つき刺す
ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
引出しからつかみだすように 心の底から
ひとつの倫理を つまり
役立ちうる武器をつかみだす
しめっぽい貧民街の朽ちかかった軒端を
ひとりであるいは少女と
とほり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ぼくらの武器を
かくしてゐる
胸のあひだからは 涙のかはりに
バラ色の私鉄の切符が
くちゃくちゃになってあらわれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである

とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによって
きみはぼくらによって ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ
(吉本隆明全著作集T「涙が涸れる」)

《書き写しているだけで、私は懐かしさに震えるような気分になる。遠くまでいったのはまさしく連合赤軍に参加した人々であった。私はあの時代にこんなイメージを抱く。
多くの若者たちが、「革命」と行き先の書かれた、実は行き先不明の電車に乗っていた。多くの人たちがどんどん途中下車していった。もちろんそうしなければならない個別の理由があったからである。
だが行き着く果てがないのに最後まで列車に乗っていた一群の人々がいた。連合赤軍の人たちで、そのうちの一人が大槻節子であった。
時代の列車から最後まで降りなかったからこそ、時代の極北まで駆け抜けたといえるのだ。(解説より)》

アルバイトと学業と政治活動を上手くこなせず悩んでいる自分にカツを入れたり、恋に悩む姿は痛々しいが、それでも明るく未来に向かって一歩一歩歩んでいるように見える。

日記の中で、 自分のことを「弱い」と常に呟いているが、当事者達の事件後の手記を併せて読むと、彼女こそ強い人だと私は思う。



裁判闘争と夫婦関係
連合赤軍のメンバーは、それぞれの肩に背負いきれない程の、死者や苦痛を背負って生きているはずであり、一人になって冷静に自分を見つめた時に、後悔とやりきれない思いが押し寄せているものと思う。そんなやりきれなさが指導者(森)を失った時に決定的になった。
元々の路線の違いや動揺、ぐちゃぐちゃに糸が絡まった状態だったのではないかなと思う。
下部の兵士達はそれぞれ分離公判を取ったし、指導者達でさえ、裁判に対する方針が異なり、チリヂリになってしまった。

結局統一公判は、永田・坂口・植垣の3名だけとなり、永田が赤軍派に立って総括を展開していたこともあり坂口が永田を徹底的に攻撃したりして、一審は酷いムードだったそうである。裁判中、植垣が永田を支え続けたということだ。
しかし控訴審判決の頃には、和解をして「上告しない。このまま(死刑を)確定する」と言っていた坂口を、永田が励まし三人揃って上告することが出来た。

やはり、お互いの良い所も悪い所も知り尽くしている元夫婦・政治活動も常に一緒という関係の二人にとって、最悪の事態に襲われた時、ビックリする位に攻撃的になってしまうのは、身内意識があるから出来ることだと思う。
お互いに腹を立てながらも、それを乗り越えて和解できたというのは、全くの他人同士の男女だったら、まず出来ないことである。

連合赤軍事件のこの分裂を知った時、同時代に、三井重工などで連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線と対照的だなぁと思った。東アはダッカ闘争(日本赤軍による同志奪還)で出獄し、後に逮捕された浴田由紀子氏の裁判の際、同志愛というか互いを思いやる心が感じられる裁判であった。
(2002年7月判決・求刑無期懲役、判決懲役20年)

過ぎ去った年月が、そうさせたのか元々団結力があったのかは分からないが…。
この東アには「過激派」初の死刑判決を受けた、大道寺氏と益永氏がいる。連赤に対する死刑判決は「過激派」として2例目だった。

もしもこの先、坂東(国際指名手配)が逮捕され国内に戻り裁判になったとしたら、刑期を終えた者も含め、彼らはどういう対応をするのだろう。



食生活 ―感想「厳しいなぁ」―

時期 常食 ちょっと贅沢 一言
1971年3月・革左銃奪取後の指名手配による逃亡生活 麦飯・味噌の少ない味噌汁など 刺身用の魚・ケーキ・肉など 札幌の六畳一間に6人で暮らしていた時。
1971年5月〜・革左山岳ベース 麦飯・パン・山菜のてんぷらなど お菓子・酒など まだアットホームな雰囲気。
1971年11月〜72年2月・連赤山岳ベース(榛名、迦葉、妙義) 麦の雑炊・肉の缶詰・ミルクなど コーヒー・パン・コンビーフなど 連赤による「山岳ベース事件」にあたる時期。

当事者達の手記を読むと、食生活が貧弱で気力だけでもっていたのでは?と思わずにいられない。

文中に頻繁に出てくる「麦飯(押し麦)」を試しに食べてみた。普通に炊けば何とかいけるけれど「雑炊」はちょっとイタダケナイと思った。いくら食べても満足できず「おいしくないな…」としょんぼりしてしまった。
彼らのように、当時の価格で大袋入り50円で買った豚の脂身(安い・これを入れると栄養がつくし、肉の風味もするし良いということだ)や、インスタントラーメン(中国製)を入れたり試してみたが、パッとしなかった。

大勢の食生活を栄養面を考えつつ低価格で準備するのは、大変なことだと思った。
しかし総括中で、食事抜き極寒の中で縛られ亡くなった人々の辛さを思うと言葉が出ない。

一方、同じような食糧事情でも連合赤軍結成前の革命左派の山岳ベースでは、工夫して料理を作り楽しんで食べていたそうであるから、食事というのは質だけではなく、その場の雰囲気も大切なのだなと改めて思った。



わからない
この中で「はっきり言って何にも分かってないじゃない」という部分が多大にあると思う。全くその通りで思想的にも実践的にも当時の学生達について分からない。知識も圧倒的に足りないし、時代的な雰囲気やあの時代に生き、闘った人々は自分よりずっと上の世代に当たるという事で想像もつかない。
十代の頃、周りの大人達に学生運動について聞いて回ったことがある。しかし口を濁し答えてもらえない事が殆んどだったのだ。

何故彼らは口をつぐんでしまったのか、何故尋ねても曖昧にしか答えてくれないのかずっと疑問だった。
その後、自分なりに調べ、掘り下げていって何となく分かったような気がする。学生達が自ら大学を変えたい、政治を国を、世界を変えたいと本気で考えていた。しかし無理だった。敗北してしまった。命をかけて闘った人、流行のものに飛び乗るように参加した人…やがて大多数の人が卒業し、それぞれ就職していった。敗北、若さゆえの汚点など言うべきことではないし言う必要もない、と。
違うかな、小さなところでそういう側面もあったのではないかなと思う。



統一公判・一審公判表 連合赤軍統一公判の一審・東京地裁の表を載せてみました。これは連赤関係公判の中のほんの一部。坂東氏は75年8月7日の公判以降いない為、現在でも実は裁判が完結していないという事になります。
統一公判・控訴審判決 連赤統一公判の控訴審での判決内容。
一審と変わらず「永田氏、坂口氏は死刑。植垣氏は懲役20年」でした。
統一公判・最高裁判決 連赤統一公判の最高裁での判決内容。
一審、控訴審と変わらず「永田氏、坂口氏は死刑。植垣氏は懲役20年」でした。



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