| 連合赤軍・5 その後の連合赤軍 |
| 客観的事実は、同志を殺したということであり、 |
| 同志に写っていた「鬼」「おかみ」という姿こそ、 |
| 私達の姿、本当の姿であると思うのです。 |
| その革命的でも、美しいものでもない姿を、 |
| 自分の真の姿と認め、否定し、否定しぬくことによって初めて、 |
| 総括の第一歩が始まると思います。 |
| (坂東国男「永田洋子さんへの手紙」) |
| 同志殺害発覚 |
2月28日、人質を無事保護、犯人の連合赤軍5名を逮捕しあさま山荘事件は終わった。 |
| 自供 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 凄まじい報道 | ||
あさま山荘事件は当時としては前代未聞の実況生中継でテレビ報道された。逮捕後、赤軍派シンパの文化人などは「よく闘った!」「人質は絶対殺さないと思っていた。彼らは現代の英雄である」など言っていたそうだが一転、同志殺害があちこちで報じられ始めると「あいつらは人間ではない」「もうカンパしない」など一気に引き離しにかかった。
結局、彼らの思想、理念などはどうでも良かった。彼らの過去から起こしてしまった行動を分析するのではなく、ただ興味本位に面白おかしく書きたてていた。 |
| 総括と共産主義化 |
「総括」 |
| 最高指導者の死 | |
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| 連合赤軍公判など | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 結果 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
※1 森は公判開始前に死亡した。 |
| 革命戦士 |
| 連合赤軍メンバーの中で、現在も闘っている人物がいる。元赤軍派の坂東国男である。 彼は、1971年の「M作戦(金融機関襲撃)」の際、いくつかのグループがあったがその中の一つ「坂東隊」のリーダーだった。隊員は植垣(坂東と共に実行)、運転手には山崎など。 最初は「M作戦」の実行者ではなかったが、逮捕者がたくさん出た為、爆弾製造担当だった植垣らと共に銀行強盗などを起こすこととなる。しかし彼らの隊だけは、ほとんど失敗がなかった。 1971年12月、革命左派との新倉ベースでの共同軍事訓練後、彼と森は革命左派幹部と会議を開く為、榛名ベースへ入山する。その際、森から「坂東は、結婚しないのか?」と聞かれ、とんとん拍子に革命左派のある女性との結婚を勧められ、二人は話し合い、全員の前で結婚の報告をした。メンバーからは口々に歓迎されたがその後、別のメンバーに対する批判が始まり「山岳ベース事件」に繋がっていった為、二人の関係がどうなったのかは分からない。 あさま山荘で逮捕された後1975年8月4日、日本赤軍(当時はアラブ赤軍)による同志奪還闘争(クアラルンプール闘争)にて超法規的措置で国外に脱出した。この時、連合赤軍メンバーとして、共に指名された坂口は「武装闘争は清算した」・「獄中で総括を深める為」に出獄拒否をしている。 そして出国後の1984年、永田洋子著の「十六の墓標」の返信として、彩流社より「永田洋子さんへの手紙『十六の墓標』をよむ」を出版した。出版までに様々な障害があったということだ。 そして「返信」を受け取る側にも障害があり、出版後、拘置所には届いていたのだが、閲読不許可で、永田に渡されることはなかった。永田がこの本を手にしたのは、死刑確定直前の1993年2月2日だった。 日本赤軍に合流し、初めて重信房子(2000年国内潜伏中に逮捕)と話した時のこと。 「どうしても最初に言わなければならないことがあります。私は同志粛清という重大な誤りをおかしたのにどうして奪還してくれたのでしょう?私は同志達によって処刑されることも覚悟してきました。人民が直接私達を裁けない以上、あなた達で査問委員会を開いて下さい。それなしに話す資格は私にはありません。」 その言葉に重信は「私達は査問委員会などやるつもりも資格もないんです。連赤の敗北を日本段階闘争を闘うものの総体としての敗北として受けとめ、共にその敗北の責任を共有し、総括をかちとっていくために奪還したのです。」と答えている。 彼は「自分を処刑してくれてもいい」と言ったことを「ずいぶんカッコつけたものですね」と言い、口では自己否定しているが、実際は自己肯定の気持ちが多大にあり、自分自身にこだわり続け、自分もまわりの人をも傷付けていたと気付いたそうである。 1977年には、自ら実行者となって植垣らを指名し、同志奪還闘争(ダッカ闘争)を起こした。この時、植垣は自分が抜けたら赤軍派として「統一公判」を闘っていく者が居なくなるからと、出国を拒否した。 現在、日本赤軍は解散してしまっている。今彼は何処で闘っているのだろう。 今でも、街を歩けば派出所や警察の掲示板に、30年近く前の彼の顔写真が貼ってある。 彼が日本に戻って来るまでは、山岳ベース事件もあさま山荘事件も終わらないのだと、手配写真を見る度に実感する。彼は「連合赤軍」を振り返り、「弱者連合」だったと語っていた。 |
| あさまさん |
| 見沢知廉著「囚人狂時代」という本がある。「スパイ粛清事件」の実行犯として1982年秋に逮捕され、長く千葉刑務所に入っていた見沢氏から見た刑務所の日常を描いている。千葉刑務所は初犯・長期収容(殺人・強盗・放火など)の刑務所である。連合赤軍関係者では無期懲役の元幹部・吉野雅邦氏が入所している。彼は革命左派時代から主要な事件に関わっており、山岳ベースでは妊娠中の恋人を総括で亡くしている。そして最後のあさま山荘で銃撃戦を闘い逮捕された。 以下は、千葉刑務所でのあさまさんこと吉野氏についての記述。 《とにかくこの人、何をするにも全身全霊で打ち込んでしまうタイプなのだ。 野球好きなのはいいが、工場内の対抗試合で凄まじいすべり込みをしたことがある。一面に砂埃が舞い、皆、唖然となった。 これであさまさん、あばらを骨折した。……あとで聞くと、すべり込みをしたのは、足がよろけたのもあるという。》 その後、今度は腕を骨折し野球の出場停止になったそうである。 《新年の一月十五日には、毎年、所内の「囚人歌合戦」が開かれる。……各工場にはそれぞれ四〜五十人いるが、一つの工場で出場できるのは二人程度。……あさまさん、この歌合戦に出場することになった。中学か高校の時、コーラス部に入っていたというから、歌は好きらしい。とにかくマジメが限界値に達しているあさまさんのこと。何事にも最善を尽くさないと気がすまない。 出場を申し出た後、歌う曲の歌詞をコピーしてシャバから送ってもらい、休憩や運動時間になると一ヶ所にじっと立って、ひたすらブツブツと暗唱していた。しまいには疲れて、貧血でフラフラしているほどだった。「おい、あいつ、大丈夫かよ?」何人かが指差して心配した。 やがて一月十五日成人の日、工場は休みとなり、皆が講堂に集まって、歌合戦が始まった。……いよいよあさまさんの番だ。「ええ、次の歌は…『村の鍛冶屋』です。こういうのを歌合戦で歌うのはめずらしいなあ。普通コーラスとかだよね。…あれ、緊張してるの?」 あさまさん、舞台に上がった時から、まるで棒のようだ。マイクに近づこうとしてコードに引っ掛かり、一瞬、倒れそうになった。中央のマイクの前に立っても直立不動して、司会者の冗談がまったく耳に入っていないように見える。どことなく目がうつろだ。 ところが歌い出すと、これが実にうまい。「しばしも休まず槌打つ響き、飛び散る火の花…」 朗々と、テノールというよりソプラノに近い高い声が体育館に響き渡った。たちまち野次も止まり、シーンとなる。 ……あさまさん、堂々の二位(図書券一万円分)に入賞した。拍手、拍手。 フラフラと貧血気味でステージに出てきたあさまさんだったが、トロフィーを受け取ると、急に何を思ったのかトロフィーと賞状を両手に持って高く掲げ、観客に振ってみせた。途端に「コラッ」と職員の注意が飛ぶ。嬉しかったんだろうなあ…。 ただし、こんな緊張はもう嫌だと、あさまさん、それ以降、二度と歌合戦には出場しなかった。》 このような姿を見ると、あの事件の背景が少し見える気がする。責任感が強く真面目一直線な人ほど、物事をどこまでも突き詰めてしまい、取り返しの付かないことさえも無心にやってしまう。閉鎖された空間に、そんな人間が沢山いたら…。 その他にも沢山のエピソードがあり、あさまさんは新人に対して非常に親切だったことや、福祉に興味を持っていること、老人や障害者が中心となっている工場の計算夫(模範囚の中でも優れた者が選ばれる)として働いているということである。 そして吉野氏との会話の中でこんなやり取りがある。 《「僕もスパイを殺ったんですが…あれ(あさま山荘)は、皆仲間殺しだったんですか?」 「いや、スパイはいました。公安のね。それは報道されない。ただ仲間殺しとだけ糾弾される。悔しいですね…」》 見沢氏は獄中で書いた小説が新日本文学賞に選ばれるなど、現在も作家として活躍しているが「囚人狂時代」の中で彼は刑務所生活を振り返って、こんな言葉を呟いている。 《あの時代、俺は生きていた。そして今も生きていることが、俺はすごく楽しい》と。 |
| 大槻さん | |||||||||||||||||||||||||||||||
彼女は、革命左派側から連合赤軍に加わり1972年1月30日に迦葉山ベースで命を落とした。
《書き写しているだけで、私は懐かしさに震えるような気分になる。遠くまでいったのはまさしく連合赤軍に参加した人々であった。私はあの時代にこんなイメージを抱く。 多くの若者たちが、「革命」と行き先の書かれた、実は行き先不明の電車に乗っていた。多くの人たちがどんどん途中下車していった。もちろんそうしなければならない個別の理由があったからである。 だが行き着く果てがないのに最後まで列車に乗っていた一群の人々がいた。連合赤軍の人たちで、そのうちの一人が大槻節子であった。 時代の列車から最後まで降りなかったからこそ、時代の極北まで駆け抜けたといえるのだ。(解説より)》 アルバイトと学業と政治活動を上手くこなせず悩んでいる自分にカツを入れたり、恋に悩む姿は痛々しいが、それでも明るく未来に向かって一歩一歩歩んでいるように見える。 日記の中で、 自分のことを「弱い」と常に呟いているが、当事者達の事件後の手記を併せて読むと、彼女こそ強い人だと私は思う。 |
| 裁判闘争と夫婦関係 |
| 連合赤軍のメンバーは、それぞれの肩に背負いきれない程の、死者や苦痛を背負って生きているはずであり、一人になって冷静に自分を見つめた時に、後悔とやりきれない思いが押し寄せているものと思う。そんなやりきれなさが指導者(森)を失った時に決定的になった。 元々の路線の違いや動揺、ぐちゃぐちゃに糸が絡まった状態だったのではないかなと思う。 下部の兵士達はそれぞれ分離公判を取ったし、指導者達でさえ、裁判に対する方針が異なり、チリヂリになってしまった。 結局統一公判は、永田・坂口・植垣の3名だけとなり、永田が赤軍派に立って総括を展開していたこともあり坂口が永田を徹底的に攻撃したりして、一審は酷いムードだったそうである。裁判中、植垣が永田を支え続けたということだ。 しかし控訴審判決の頃には、和解をして「上告しない。このまま(死刑を)確定する」と言っていた坂口を、永田が励まし三人揃って上告することが出来た。 やはり、お互いの良い所も悪い所も知り尽くしている元夫婦・政治活動も常に一緒という関係の二人にとって、最悪の事態に襲われた時、ビックリする位に攻撃的になってしまうのは、身内意識があるから出来ることだと思う。 お互いに腹を立てながらも、それを乗り越えて和解できたというのは、全くの他人同士の男女だったら、まず出来ないことである。 連合赤軍事件のこの分裂を知った時、同時代に、三井重工などで連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線と対照的だなぁと思った。東アはダッカ闘争(日本赤軍による同志奪還)で出獄し、後に逮捕された浴田由紀子氏の裁判の際、同志愛というか互いを思いやる心が感じられる裁判であった。 (2002年7月判決・求刑無期懲役、判決懲役20年) 過ぎ去った年月が、そうさせたのか元々団結力があったのかは分からないが…。 この東アには「過激派」初の死刑判決を受けた、大道寺氏と益永氏がいる。連赤に対する死刑判決は「過激派」として2例目だった。 もしもこの先、坂東(国際指名手配)が逮捕され国内に戻り裁判になったとしたら、刑期を終えた者も含め、彼らはどういう対応をするのだろう。 |
| 食生活 ―感想「厳しいなぁ」― | ||||||||||||||||
当事者達の手記を読むと、食生活が貧弱で気力だけでもっていたのでは?と思わずにいられない。 文中に頻繁に出てくる「麦飯(押し麦)」を試しに食べてみた。普通に炊けば何とかいけるけれど「雑炊」はちょっとイタダケナイと思った。いくら食べても満足できず「おいしくないな…」としょんぼりしてしまった。 彼らのように、当時の価格で大袋入り50円で買った豚の脂身(安い・これを入れると栄養がつくし、肉の風味もするし良いということだ)や、インスタントラーメン(中国製)を入れたり試してみたが、パッとしなかった。 大勢の食生活を栄養面を考えつつ低価格で準備するのは、大変なことだと思った。 しかし総括中で、食事抜き極寒の中で縛られ亡くなった人々の辛さを思うと言葉が出ない。 一方、同じような食糧事情でも連合赤軍結成前の革命左派の山岳ベースでは、工夫して料理を作り楽しんで食べていたそうであるから、食事というのは質だけではなく、その場の雰囲気も大切なのだなと改めて思った。 |
| わからない |
| この中で「はっきり言って何にも分かってないじゃない」という部分が多大にあると思う。全くその通りで思想的にも実践的にも当時の学生達について分からない。知識も圧倒的に足りないし、時代的な雰囲気やあの時代に生き、闘った人々は自分よりずっと上の世代に当たるという事で想像もつかない。 十代の頃、周りの大人達に学生運動について聞いて回ったことがある。しかし口を濁し答えてもらえない事が殆んどだったのだ。 何故彼らは口をつぐんでしまったのか、何故尋ねても曖昧にしか答えてくれないのかずっと疑問だった。 その後、自分なりに調べ、掘り下げていって何となく分かったような気がする。学生達が自ら大学を変えたい、政治を国を、世界を変えたいと本気で考えていた。しかし無理だった。敗北してしまった。命をかけて闘った人、流行のものに飛び乗るように参加した人…やがて大多数の人が卒業し、それぞれ就職していった。敗北、若さゆえの汚点など言うべきことではないし言う必要もない、と。 違うかな、小さなところでそういう側面もあったのではないかなと思う。 |
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