連合赤軍・2 山岳ベース事件1


否が応でも、去る日は来る。
それが幸いとなるか、悲しみを呼ぶか、
一層の切実さを与えるか、全てを流す清水となるか、
それは今、私は知らない。
ただ素直でありたい、自然でありたい。
(大槻節子「優しさをください」)



連合赤軍・山岳ベース

革命左派 榛名ベース
(1971.11〜)15名
革左・共同軍事訓練の為、赤軍派のベースへ入山
(1971.12.3〜12.7)・9名→→→
赤軍派 新倉ベース
(1971.11〜12)・9名
↓↓↓ ↓↓↓
 榛名ベース(1971.12〜1972.1)・29名
 迦葉山ベース(1972.1〜1972.2.9)・21名
 妙義山ベース(1972.2.10〜1972.2.16)・12名
   山越え(1972.2.16〜1972.2.19)・9名
  若草山のかまくら(1972.2.19)・9名
 さつき山荘(1972.2.19・正午〜午後3時)・5名
 あさま山荘(1972.2.19・午後3時30分〜1972.2.28午後6時30分)・5名


11月下旬からの榛名ベースには、一度に全員が集まったわけではなく、徐々にベース入りし29名になった。



山岳ベースに集結した同志達

※過去数年の間に本名が通例になっている人物以外は仮名。

 
★妙義湖畔での逮捕(1972.2.16)《敬称略》
 奥田 修一(22)兵士・黒ヘル(赤軍派)・慶応大
 三崎ミサ子(24)兵士・革命左派(京)・横浜国大

 ★妙義山籠沢上流での逮捕(1972.2.17)
 森  恒夫(27)中央委員委員長・赤軍派・大阪市大
 永田 洋子(ひろこ)(27)中央委員副委員長・革命左派(京)・共立薬科大

 ★軽井沢駅での逮捕(1972.2.19)
 植垣 康博(23)兵士・赤軍派・弘前大
 青山 幹夫(22)兵士・赤軍派・弘前大
 寺森真喜江(23)兵士・革命左派(中)・市邨学園
 佐藤 和子(22)兵士・革命左派(京)・日大看護学院

 ★あさま山荘での逮捕(1972.2.28)
 坂口  弘(25)中央委員書記長・革命左派(京)・東京水産大
 坂東 国男(25)中央委員・赤軍派・京大
 吉野 雅邦(23)中央委員・革命左派(京)・横浜国大
 加藤 次兄(19)兵士・革命左派(中)・東海高校
 加藤 末弟(16)兵士・革命左派(中)・東山工業高校

 ・・・その後、山岳ベースより逃亡した者が自首。
 山本 恵子(28)兵士・革命左派(中)・主婦/娘も山へ【1972.3.10自首】
 前山 虎義(24)兵士・革命左派(京)・工員【1972.3.11自首】
 原田 平治(21)兵士・革命左派(京)・東京水産大【1972.3.13自首】
 中元 愛子(22)兵士・革命左派(京)・日大看護学院【1972.3.14自首】


 ★殺害された14名の同志達(赤字は組織名)

 【榛名ベース】1971.12〜1972.1
 (群馬県北群馬郡伊香保町大字湯中子字蛇ヶ嶽991−2番地 山林内山小屋)

 尾崎 充男(22)兵士・革命左派(京)・東京水産大・野上(71.12.31死亡)
 進藤隆三郎(21)兵士・赤軍派・秋田高卒・磯部(72.1.1死亡)
 小嶋 和子(22)兵士・革命左派(中)・市邨学園・水木(72.1.1死亡)
 加藤 能敬(よしたか)(22)兵士・革命左派(京)・和光大・(72.1.4死亡)

 遠山美枝子(25)兵士・赤軍派・明治大・岡田(吉村 )(72.1.7死亡)
 行方 正時(なめかた)(25)兵士・赤軍派・岡山大・朝田(72.1.9死亡)

 寺岡 恒一(25)中央委員・革命左派(京)・横浜国大・矢吹(72.1.18死亡)

 山崎  順(21)兵士・赤軍派・早大・弘田(72.1.20死亡)

 《上記8名は群馬県群馬郡倉渕村大字水沼字十二塚2854番地の一先山林内で発見》

 【迦葉山ベース】1972.1〜1972.2.9
 (群馬県沼田市上発知町字迦葉山丙350番迦葉山国有林14林斑い小斑の山小屋)

 山本 順一(28)兵士・革命左派(中)・会社員・鈴木(72.1.30死亡)
 大槻 節子(23)兵士・革命左派(京)・横浜国大・石森(72.1.30死亡)

 《上記2名は群馬県利根郡白沢村大字高平字小芝2253番地付近杉林内で発見》

 金子みちよ(24)兵士・革命左派(京)・横浜国大・並木(72.2.4死亡)

 《上記1名は群馬県利根郡白沢村大字高平字黒岩2179番地-1の山林内で発見》

 【妙義山ベース(籠沢洞窟)】1972.2.10〜1972.2.17
 (群馬県碓氷郡松井田町大字五料字中木4460番中木山国有林13林斑い内洞窟)

 山田  孝(27)中央委員・赤軍派・京都大・藤原(72.2.12死亡)

 《上記1名は群馬県甘楽郡下仁田町大字西野牧字上野出口申15264-3番地先杉林内で発見》

 【革命左派による印旛沼事件(小袖ベースより逃亡の2名を殺害)】1972.8.4・10
 (千葉県印旛郡印旛放水路堤防上及び東京小平市のアパート回田荘)

 早岐やす子(21)京浜安保共闘・日大看護学院・吉沢(1971.8.4死亡)
 向山 茂徳(21)京浜安保共闘・清稜高卒・黒木(1971.8.10死亡)

 《上記2名は千葉県印旛郡印旛村の印旛沼付近の山林内で発見》

 革命左派(京)=京浜安保共闘
 革命左派(中)=中京安保共闘



経過3

1971.12.18 12.18政治集会開催 (革命戦線と京浜安保共闘主催の1969年12月18日に行われた交番襲撃についての集会) しかし主催が公然組織ではなく赤軍派と革命左派になっていた 
1971.12.20 革命左派の榛名ベースにて「共同軍事訓練」と討論準備のため両指導部が集まる 
1971.12.21 革命左派 任務に出ていた山本が、名古屋から妻と生後間もない子どもを連れて榛名ベースへ戻る ※1
1971.12.23 赤軍派 山田が金子の案内で榛名ベースに到着 ※2
1971.12.25 革命左派 加藤、小嶋 総括のため皆と離れ2人で話し合う 
1971.12.27 革命左派 加藤、小嶋に対する暴力による総括始まる 
1971.12.27 新党結成 

※1 夜、任務に出掛けていた山本が、妻子を連れて榛名ベースへ来る。このことは誰の許可も得ずに、自己判断で行われたことだった。山本は榛名に入山する際、坊主頭にして気合を入れていた。

※2 榛名湖畔のバス停まで赤軍派の山田を迎えに行った金子だったが「夕方までには到着するだろう」という曖昧な森の発言により、午前中から夕方まで寒い湖畔で山田を待ち続けた。長時間待ち続けたため、寒くてお腹が空いたとして食堂と喫茶店に入っていた。そのことを黙っていたため、後に総括を求められた時に、自ら告白し自己批判することになった。



榛名ベース
1971年春から山岳を拠点にベースを作り生活をしていた革命左派だったが、メンバーの相次ぐ離脱や逮捕により、ベース地を転々としていた。そして11月中旬に新しい候補地調査を行った結果、次のベース地として群馬県の榛名山が選ばれた。

榛名山は、 群馬県群馬郡榛名町にある。夏はハイキングやボートが楽しめ、冬は榛名湖でのワカサギ釣りやスケートが楽しめる。主に夏がメインの観光地のため、冬場は閑散としている。都心からそう遠くはないし、観光地のため交通の便が比較的よかった。

ベース予定地は榛名富士の裏側にあたり(北群馬郡伊香保町)、更に山林の奥にあったから人に見付かる危険性が少なかった。付近には川が流れ、生活に必要な水も確保出来た。そこには潰れた温泉旅館(鉱泉 「白雲荘」)もあり、一冬越すことも可能な場所だった。

そして予定地からさほど離れていない場所に、半年程前に起こった「大久保清事件」で殺害された女性被害者が埋められていた場所があった。(当時は掘り返した大きな穴が開いていて、ロープで囲ってある状態だった)革命左派は、そういう場所なら人が近付くことも少ないだろうと考え、最終的に新しいベース地が榛名に決められた。

越冬出来るようにと、本格的な山小屋の建設が計画されていた。建設時、温泉旅館の扉やタンス、長テーブル、ストーブなども運ばれ使用された。風呂もそこを利用した。

12月15日、革命左派は立派な山小屋を完成させた。



榛名での指導部会議
12月3日からの共同軍事訓練を終えた革命左派は、再び榛名ベースに戻った。そして12月20日、赤軍派の森と坂東が、両派指導者の会議のため榛名ベースにやってきた。 本当は都内の赤軍派アジトで行うはずだったが、それが駄目になったため革命左派のベースで行うことになった。この時、森と坂東は営林署の職員に化けるため、グリーンの防寒服 (ドカジャン)を着て榛名へやってきた。湖畔のバス停までは、金子と小嶋が迎えに出た。

夕食時に歓迎会が行われ、革命左派はそれぞれ歓迎の言葉や決意表明をした。この時、小嶋は「私のなかにブルジョワ思想が入ってくることと闘わねばならないと思っています」と発言した。赤軍派からは坂東が発言したが何を話しているのか解せなかったという。その後、指導部会議が始まった。

会議中、森は「私のなかにブルジョワ思想が入ってくる」と発言した小嶋を批判した。 しかし革命左派は、その言葉に同意出来なかった。それをきっかけに女性問題の話になり、「任務に出かける時、どうして都会の女の格好をするのか。農民の格好をするべきだ」「何故、女はブラジャーや生理帯が必要なのか」を 唯一の女性指導者である永田に言った。それに対し永田は反論したが、パーマやカットは道具を購入して山岳ベースですべきという森の主張には賛成した。

翌日21日の会議で森が展開した「共産主義化論」に永田はすがりついた。しかしそれは「党建設の基軸を路線にではなく、“作風・規律に置き”両派の路線が“不一致のまま”路線問題の解決よりも、作風・規律問題を最優先課題とする」ことだった。そして森は「両派が別々に共産主義化を勝ち取るのではなく、銃と連合赤軍の地平で勝ち取っていくべき」と発言した。

そして「われわれになった」。新党の結成が確認されたのである。

23日に山田が入山した後は、赤軍派からは森・山田・坂東、革命左派からは永田・坂口・寺岡・吉野の計7名で指導部会議が行われるようになる。



暴力の介入
11月21日に是政アジトにて逮捕された加藤が不起訴処分で釈放となり、その後は合法活動にまわり、12.18集会の「意見書」を持って榛名ベースにやってきた。革命左派のメンバーは再会を喜んでいたが、やがて逮捕時に抵抗をしなかったことや、取り調べ中に刑事と雑談した事実が分かり 、自己批判するようにと命じられた。 加藤と恋愛関係にあった小嶋も、ちょっとした発言から自己中心的、自分に酔っているなど批判されたりと両者とも総括を求められていた。

兵士達が歌を歌い始めた際、加藤がリードをして楽しそうに歌っていた。それを見た森は「総括を求められた者の態度ではない。歌をやめさせろ」と批判。その後、加藤と小嶋は作業に加わらず、机をはさんで二人で話し合いながら総括を進めるように と指示された。

しかし森の「 あの二人はちっとも総括しようとしていない。小嶋は加藤に“あんたが悪い”と言っているし、加藤はニヤニヤしてそう言われるのを楽しんでいるようだ」という発言をきっかけに、加藤と小嶋は引き離され、ノートとボールペンを取り上げられ、正座をして総括をするように命令された。

26日、指導部会議中にトイレに立った永田が「外で嫌なものを見てしまった。加藤と小嶋が接吻しているところを見てしまった。神聖な新党の場を汚されてしまった」と激しく怒った。
(しかし永田の著書には、トイレに立った際、小屋の外に小嶋がおり「嫌になっちゃう。加藤が夜変なことをする」と相談。永田が「隣に寝るあなたにも問題がある」と批判。そして会議に戻り「神聖なわれわれの場を汚した」と言ったと書いてある。 森の記憶も永田と同様。永田の「嫌なものを見てしまった」という発言は、坂口、坂東、吉野の記憶である)

指導部は総括の全く進まない加藤と小嶋に対し、更なる批判材料を持ち出し、どう指導するか相談を始めた。そして森から「他にも隠していることがあるはず。殴ってそれを言わせよう」と「殴打による総括援助」が提案され、他の指導者達はそれを受け入れた。

27日未明、指導部による加藤と小嶋に対する「指導としての殴打」が始まった。まず森が加藤を殴り始めた。それから他の指導者達も加藤に殴りかかっていった。その後、永田は眠っているメンバーを全員たたき起こした。加藤は無抵抗で必死に耐えていた。 やがて追い詰められた加藤は任務中に小嶋と関係を持ったことを告白。すると坂東が「こいつも同罪だ」と言い、小嶋に対する殴打も始まった。やがて指導部以外のメンバーも殴打に加わることにな る。指導部の指示により殴打されていた小嶋が加藤を殴る場面もあった。

また永田は加藤次兄と末弟に対し、兄である加藤を殴るように言った。しかしなかなか殴れずにいると「あんたも殴りなさい!」と永田に強く言われ、加藤末弟は「早く総括しろよ」と泣きながら兄を殴った。その時、加藤次兄は、体を硬直させてながら何も言わずに涙を流していた。永田は加藤次兄の手を取り「これはあなた達にとっても必要なことだから」と優しく励ました。そして 加藤次兄は「総括しろよ」と兄を殴らされ、その後二人の兄である加藤は緊縛された。

加藤と小嶋は殴打されても気絶などしなかった。これに森は「素直に総括する態度ではない」と決め付けた。

この頃から、総括を要求された者を全て呼び捨てにし、緊縛された者はトイレに行くことを許されず、その場でするしかなくなり糞尿が垂れ流しの状態だった。 そして総括の進み具合によっては、食事も与えられないということも次第に決まっていった。



新党結成

指導部会議では、加藤・小嶋に対する総括の援助は「兵士の共産主義化」のために必要なものであると再確認された。そして森が、革命左派の最高指導者である川島豪の批判を始めた。森の批判に永田・寺岡そして吉野が次々と同調し、川島路線とは訣別すること(分派)を決めた。しかし川島の忠実な部下であった坂口は訣別を決めかねていた。森側に移った永田と寺岡が坂口の説得を始めた。やがて坂口は「分かった」と答え、川島路線と訣別することを表明した。

そして「川島と訣別するなら、新党結成を考えるべき。加藤と小嶋を殴ったことの責任を持たねばならない」と言う森の宣言で新党が結成された。そして永田の意見により、獄中の川島宛に手紙が投函された。しかしその内容は「川島さんの指示通りに、赤軍派とは合体しない」という現実とは正反対の内容だった。これは党派闘争を有利に闘うため、川島達を油断させる必要があったからだった。この夜の就寝時、「迎合していった自分が惨めに思え」坂口は脱走しようとする。しかし自分の過去を否定するようで実行出来なかった。



経過4

1971.12.29 尾崎への総括(尾崎VS坂口決闘)                                    ※5
1971.12.31 赤軍派・遠山、行方、進藤が榛名ベースに到着  尾崎死亡   
1972.1.1 進藤への総括 進藤死亡 小嶋死亡  
1972.1.2 遠山、行方への総括 
1972.1.2 赤軍派 新倉ベースから植垣、山崎が榛名ベースに到着
1972.1.3 C.C(Central Committee/中央委員会)を結成 
1972.1.4 加藤死亡 
1972.1.5 尾崎・進藤・小嶋・加藤の遺体を倉渕村にて改めて埋葬しなおす ※1
1972.1.7 遠山死亡 
1972.1.8 丹沢ベース発見される
1972.1.9 行方死亡 
1972.1.9 遠山・行方の遺体を埋葬

※1 ベース付近に埋葬されていた尾崎、進藤、小嶋の遺体を掘り返し、4日に亡くなった加藤の遺体と共に、倉渕村の十二塚に遺体を埋葬しに行った。4名は同じ穴に並べられるように入れられた。男女同じ穴に埋葬される場合は、互い違いに入れられた。 



決闘
加藤への殴打の際、尾崎は「俺のことをプチブルと呼んだだろ」と口走りながら殴りかかったが、その発言を問題にされた。他のメンバーは「総括しろ」だとか「お前のために殴るんだぞ」と言っていたが、森に尾崎の発言は明らかに個人的恨みではないかと決め付けられたのだった。

尾崎は12.18集会の後、尾行されている気がして銃の保管場所の地図を、合法活動をしているメンバーに渡して榛名ベースに戻った。銃の保管場所を勝手に教えたのは重大な問題だと批判された。

また上赤塚交番襲撃闘争では実行者に決まっていたが、実家に帰った際に足をケガしたという理由で、他のメンバーと替わった。その日和見主義的な態度も批判された。その総括も兼ねて、上赤塚交番襲撃闘争を再現することとなった。尾崎は射殺された革命左派・柴野役、敵の阿部巡査役は坂口だった。

メンバー達は「頑張れ!頑張れ!」と尾崎を応援していたが、体格からして(坂口は身長が176cmあり大柄だった。また心臓は弱かったが水泳をやっていて体が出来ていた)結果は見えていた。一時、坂口は尾崎に殴らせてやるが森に見つかり、また殴りかかった。やがて森がストップをかけ終了したが、長時間の決闘だった。
鼻血を拭くことも許されないままシュラフに寝かされた。

その後、尾崎がメンバーに鼻血を拭くティッシュペーパーを取って欲しいと頼んだが、その言葉を甘えととられ 、再度殴られた。立って総括するように言われたが、度々ふらふら歩き回ったり寝転んだりしていた。永田は見張りのメンバーに「総括を要求されている者に対して厳しくあたることが同志的援助だ」と言った。翌日、尾崎は入り口の鴨居にロープを渡し、シュラフごと立ったままで縛られた。



赤軍派・榛名ベースへ
赤軍派と革命左派による新党が結成された後、新倉ベースに残っていた赤軍派メンバーを榛名ベースへ呼び寄せることになった。坂東、寺岡、そして運転手として山本が、新倉ベースに向かった。
新倉ベースでは森の指示通り、昼は総括として、進藤、遠山、行方が銃を構える訓練をした。見張り役として植垣と山崎がいた。しかし夜は集まって、和やかに酒を飲んだりして過ごした。

赤軍派の総括を求められた3名は、何とか総括しようとしていた。「革命戦士としてふさわしくない態度である」と革命左派から批判された遠山は、ストーブのススで真っ黒になりながらも、それを気にせず 必死で作業をしたりしていた。そして植垣に髪の毛を切ってくれるように頼み、実際に髪を切った。

29日、 新倉に到着した坂東は「赤軍派と革命左派が新党を結成したこと、榛名では総括が進んでいて、援助として殴打があったこと」を話した。更に「新党に結集して総括をかちとろう」と呼び掛けた。しかし新倉のメンバーは、急なことで誰も積極的に賛成出来ずにいた。そして総括中の進藤・遠山・行方の進み具合を坂東が点検し、総括出来ているということで、榛名ベースに向かうことが決まった。

31日、進藤・遠山・行方は榛名ベースへ到着するが、小屋の異様な雰囲気に圧倒されてしまった。



最初の犠牲者「敗北死」
31日、坂口との決闘の後、殴られ縛られていた尾崎だったが、総括中に他のメンバーに話しかけたり、食事の準備をしていたメンバーに向かって「すいとん、すいとん」と言ったことで、総括しようとしていないと見なされ再度暴力を振るわれた。この時、指導部を中心に暴行が行われたが「気絶させるために、お腹を中心に殴ろう」と森は提案した。

尾崎は三日間食事を与えられず、ふらふらの状況だったが気絶しなかった。
夕方、坂東達に連れられて、赤軍派の進藤・遠山・行方がベースに到着した。その数時間後に尾崎は息をひきとった。

「尾崎が死んでいる」と吉野から報告を受けた指導部は、すぐに尾崎が縛られている所へ行った。指導者全員が驚愕して、まともに口も利けない状態になった。森は山田と何やら話し合いをした後、こう発言した。
「共産主義化の闘いの高次な矛盾であり、総括出来なかったところの敗北死である。革命戦士の敗北イコール死だ。もっと頑張る精神があれば死ななかった」尾崎の死は、自らの敗北死であるという責任転嫁を指導部は行った。

まず原田と前山を外に呼び出し「尾崎の死」と彼らが知らなかった1971年8月の向山・早岐の殺害の事実を明らかにした。そして吉野・原田・前山の3名が尾崎の遺体をベース付近に埋葬した。

全体会議を行い、メンバー全員に「尾崎の死」が報告されることになったが、その内容を加藤と小嶋に聞かれないようにと、二人を一時的に屋外に移すことが決められた。この時、加藤は一人で歩けたが、小嶋はかなり衰弱していて、もう一人では歩けなくなっていた。そして二人は外の立ち木に縛られた。

メンバーがショックを受けて、食事がとれなくなってはまずいということになり、会議にはパンとコーヒー、そしてコンビーフの缶が用意された。パンは病弱な永田のみ普段から食べていたが贅沢品だった。

会議が始まり、まず永田が「尾崎が死にました」と報告し、みなショックを受けた。そして「加藤・小嶋に敗北死をさせないように必ず総括させよう」と言うと、全員が「異議なし!」と答えた。次に森が尾崎の死を総括し、「死を乗り越えて前進しなければならない」と語った。



元旦の死
1月1日未明、 到着したばかりの進藤だったが森によって追及が始まった。榛名に着いてから落ち着きがなく、逃亡を考えているのではないかと疑われたことがきっかけだった。
そして森に過去のことなどを詰問された進藤は「金儲けのために赤軍派に入った、ある女性との逃亡も考えた、榛名に来る前も逃走を考えた」など、ひとつひとつ答えていった。しかし坂口の回想によると、それは森の詰問に対し苦し紛れで答えただけであり、ほんの一瞬頭をかすめたことかもしれないが、本心ではなかった。

「縛ってくれ、自分はその中で総括する」と進藤は誠意を見せたが、逆に森を怒らせてしまった。結局後ろ手に縛られ殴打が始まった。尾崎の死を教訓に「腹を膝で蹴らないように」と森から指示が出た。その際も、気絶するまで殴ることになっていた。早く気絶させるために、凄い勢いで指導部は拳で腹を殴った。すると失禁してしまった。「だらしがない」と全員から声が飛ぶ。

進藤は「革命戦士になるためになんでこんなことが必要なのか!」と叫んだ。しかし森は「自分で考えろ!頑張って総括するんだ!」と質問には答えなかった。そして殴打に耐えていた足ががくがくし始めた。皆で「頑張れ!」と励まし体を支え、更に殴打は続いた。やがて腹部が赤から緑に変わり、早く気絶させるようにと鳩尾を連発して殴った。

しかし進藤もぐったりするだけで、気絶しなかった。そして外の立ち木に縛られたが、「もうだめだ」の言葉を残し、約1時間後に亡くなった。内臓破裂だった。

その夜、屋外に放置されていた小嶋も息をひきとった。その際、森・永田などが人工呼吸をしたり、体をさすったりしたが蘇生しなかった。闇を恐れる小嶋に対し、 それを克服させるべくタオルで目隠しをしていたが、死後、タオルを外すと小嶋の目は見開かれ、宙を睨んでいるように見えた。このことに関して森が「永田さんを恨んで死んでいったのだ」と発言した。永田は訳がわからなくなった。



埋葬による総括
2日の全体会議で遠山と行方が批判の対象となった。遠山は進藤と同様に、榛名に来てから落ち着きがなかったこと、所持金をすぐに出さなかったこと、髪を短くカットしなかったこと(実際カットはしていた)などを批判された。また進藤の殴打の際に「私は殴れない」と言ったことも責められた。そして行動が消極的であり、男に甘えた態度を取るなど「ブルジョア的な女性体質」と決め付けられた。

責められ続けた遠山は、やがて「どうやって総括したらいいのか分からない。死にたくない、とにかく生きたい」と言うことしか出来なくなっていた。それらを克服すべく 永田の提案で「小嶋の死体を埋めることにより、死への恐怖を克服させ、総括を成し遂げさせること」が決定された。その際、総括を求められていた行方も手伝うことになった。

深夜、森と永田以外のメンバー全員は、二人の総括を見届けるために外に出た。 遺体の上半身を遠山が持ち、足を行方が持って、急な上り坂を運び始めた。他のメンバーは懐中電灯を照らしながら「頑張れ!頑張れ!」と励ました。埋葬地点に着くと、いきなり遠山が小嶋の顔面を殴り始めた。それを止めさせ、穴を掘るように指示が出た。その後、小嶋の衣服を脱がせた。しかしその時、寺岡が「こいつを敵だと思って殴れ」と言い出した。真っ先に遠山が馬乗りになって悲痛な叫び声を上げながら小嶋の顔面を殴り始めた。

更に寺岡は「こいつは死んでも反革命の顔をしている。こいつをみんなで殴れ」と他のメンバー達に殴打を指示したり、自らも遺体を殴り「だんだん死人の顔になっていく」という発言もした。
そしてこのことを後に坂東から森へ伝えられ、死刑への糸口になっていく。

小屋に戻った遠山は「埋葬をやり切った」と、ほっとした顔をしていた。埋葬についての総括要求された遠山は埋葬時に思ったことを話した。しかしそれ聞いた森は「そんなこと聞いてんじゃねえ!」と一喝した。埋葬はしたが、総括したとは思えない態度だとして、再び 追及が始まった。森と遠山・行方を残し、他のメンバーはシュラフにもぐりこみ横になった。森も時々横になっていた。

時間が経つにつれ、遠山は言葉が出なくなっていた。やがて遠山が「自分で総括します」と発言した。それを聞いた森は「今までは我々が殴って総括を援助してきたが、自分で総括すると言うのなら自分で自分を殴れ!」と指示を出した。



自分で自分を殴る

自己殴打することが決まった遠山を、全員が起き出して囲む状態で立った。遠山は自分の首を絞めようとするが森が止めた。そして自分の顔面を殴り始めた。30分ほど自己殴打は続き、森は「自信を持っている唇を殴れ」と指示を出したり、他の者が「額を殴れ」など指示していた。顔面がパンパンに膨れ上がり、唇を殴らされた時に出た血や鼻血が流れていた。遠山がふらふらすると「もっと続けろ!」などと罵声が飛んだ。森が終了させると、永田が鏡を遠山の顔に向け、醜くなった自分の顔をしっかり見るように(女を乗り越えるため)と言った。

30分も自己殴打をした遠山だったが、髪を切られ(丸刈り状態)目隠しをされ、更に緊縛されてしまった。血で汚れた服を着替えさせ、肩から毛布が掛けられたが、これは冷え性の遠山に対する森の配慮だった。



中央委員会

3日の全体会議の中で中央委員会(Central Committee=略してCC)が結成された。まず指導部の7名(森、永田、坂口、坂東、山田、寺岡、吉野)が立候補し、決意表明などを行った。

中央委員会・委員長に森、副委員長に永田、書記長に坂口、そして坂東、山田、寺岡、吉野と続いた。

新党について、森は「一に殲滅戦、二に他党派との分派闘争のための党建設であるから、党内での分裂活動は一切禁止する」と述べた。集団指導と、その中でのしのぎあいも重要だと強調した。

そして全員にCCの結成について意見を求めたが、行方の「CCの結成に異議なしです。CCを支持します。僕もすっきりしました。」などの発言に対し、森が「ちょっと待った!そんなことお前に言えるのか!」と批判が始まった。そして行方に闘争歴を話すように指示したが、それを聞き「総括がなっていない」とのことで行方も緊縛された。 その後、柱に緊縛されていた加藤に対して、永田が「仲間が出来て嬉しいだろう」と言った。

中央委員会結成は、当然のように全員から承認された。



誰も助からない

4日、総括を求められた中でも比較的元気で、総括を成し遂げるかも知れないと思われていた加藤が亡くなった。全員が驚きを隠せないまま、小屋の中心に緊縛されていた加藤の周りに集まった。真面目に総括をしようとしていると評価され、外の立ち木から室内に移された加藤だったが、4日朝、「逃げようとしていただろう」と決め付けられ、再度殴打されていた。それから少しして加藤は亡くなってしまった。

メンバーは口々に「さっきまで元気だったのに」と言った。永田は「この馬鹿、どうして死ぬのよ」と泣きながら言った。加藤次兄は、呆然としてその場に凍りついたまま立ち尽くしていた。
また加藤末弟は「こんなことをやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」と泣き叫んで、小屋から出て行ってしまった。

その後、加藤の死は「逃げようとしてばれたことに対するショック死(敗北死)」と決め付けられてしまった。



厳しい追及

6日、小屋の柱に緊縛されていた遠山は「ああ手が痛い、誰か手を切って。…美枝子頑張る」など独り言を言い始めた。それに対しメンバー達は「だらしがない!黙っていろ!」など冷たい態度をとった。

夜、緊縛されていた行方のロープを解き、再び追及を始めた。その際、遠山が「お母さん、幸せにしてあげるから待っていてね」と独り言を言った。行方に対して殴打が始まったが、薪を使って殴打は行われた。行方はぐったりし、最後には逆海老に縛られた。

その後、遠山に対する追及も始まった。まず森は「独り言」について追及をした。遠山は「父は労組の幹部だった頃、自殺をしてしまった。馬鹿な父だ。それから母が苦労をしながら育ててくれた。いつか母を幸せにするために階級闘争をやってきた」と答えた。しかし「父を馬鹿だという資格がお前にあるか!」という森の一喝で否定された。

また、重信房子や獄中にいる赤軍派の夫のこと、過去に好きだった男のことまで追及された。そして「おやじさん(森のあだ名)が好きだったの」という言葉に一瞬嬉しそうな顔をした森だったが、過去の男性関係まで言わせた。そして「好きだ」ということでロープを解いてもらおうとする態度に腹を立て「ハレンチだ」と言いながら殴り始めた。そして他のメンバーにも殴打の指示を出した。行方と同様に薪を使っての殴打だった。
殴打が終わり「逆海老に縛って足の間に薪を挟むように」と指示が出た。その時、寺岡が「○○にしたように股を開け」と言った。その言葉に男性メンバーの一部が笑ったが、女性達は嫌な顔をした。そして「そういうのは矮小よ!」と永田が叫んだ。この寺岡の言葉は、後に「女性蔑視」と言われ、小嶋埋葬時の言葉と共に死刑へと結びついていくことになる。

7日の全体会議中、遠山の容態がおかしくなった。指導部は急いで人工呼吸を始めた。そして「酒を飲ませ、蘇生させたらどうか」という森の提案により、慌てて坂口が一升瓶ごとストーブの上のバケツに入れた。すると永田が「一升瓶ごと燗するなんてナンセンスよ」と言い残し会議の場に戻ってしまった。その態度に坂口は怒り「お前の態度は真剣ではない。遠山が亡くなろうとしているのにお前はどこへ行く気だ!」と怒鳴った。しかしこのことは永田に森が味方したことで、逆に坂口が永田に謝れと言われ、坂口が自己批判する形で終わった。

遠山への人工呼吸は30分以上続けられたが、結局蘇生することはなかった。

食事を与えられても、少ししか食べられなくなっていた行方は、緊縛されたまま9日に亡くなった。




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