永田 洋子


私はもはや死ぬことはできない、逃げることはできないことを痛感した。
(森恒夫が自殺した時の気持ち/十六の墓標・下)



永田洋子
永田洋子 この人の事を考えるといつも深く落ち込むというか、あまりの無邪気さゆえにあれだけの事件を起こしてしまったのかと、どうしようもない気持ちになる。
森と出会ってから彼の能力に引き込まれ、口調までそっくりになってしまう所(ぎこちない大阪弁を喋る)など、痛いなと感じる。

当時の報道や一審の判決などにあった女性同志に対する永田の「ヒステリックで横暴で、美しい仲間の女性に嫉妬」という記述や「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり…」など。これは普段の生活であっても誰にでも起こる気持ちであるし女性特有云々というのは酷いと思う。
だからと言って「同志粛清」の中心的な存在だった永田が悪くなかったなどという思いは全くなく、唯一森と対等に話が出来る存在だったのだから、もう少し建設的にものを考え、もっと森と話し合って欲しかったと私は思う。



1945年2月8日 東京都御茶ノ水生まれ
1967年3月 共立薬科大学卒業
1964年5月 社学同ML派加盟
1966年6月 「警鐘」参加
1967年4月 慶応大学病院無給の研究生として就職(のち職場を転々とする)
1969年4月 革命左派結成・党員になる
1970年12月18日 この日以降は、坂口弘「経歴」を参照のこと
1972年1月3日 C.C(Central Committee/中央委員会)を結成し副委員長になる
1972年2月19日 妙義山籠沢で逮捕
1984年7月 シャント手術を受ける
1982年6月18日 一審・東京地検にて死刑判決
1986年9月26日 控訴審・東京高裁にて死刑判決
1993年2月19日 最高裁上告棄却・死刑確定
2001年7月 再審申立
2011年2月5日 東京拘置所にて、誤嚥性肺炎の為死去 享年65



お上
一連の事件の流れを、ぼんやり知っていて他のメンバーの著書を読んでいない人が、永田の最初の著書「十六の墓標・上下」を読んだとしたら「本当に悪いのは森や周りの男性達で、彼女はそれに引きずられ加担した」という感想を少なからず抱くと思う。しかしこれは現実とはかけ離れていると思う。

元赤軍派で連合赤軍幹部だった坂東国男は著書の中で、こう言っている。
《永田同志の「十六の墓標」の中でも、比較的永田同志の本音の感情が書かれておりいろいろ動揺したことが書かれています。しかし、私や同志達に映っていた永田同志は、そんな人間的感情のひとかけらもない「鬼ババア」でしかありませんでした。私も当時は、恐ろしい人、動揺しない人と考えていたのですから、下部の人が、私たち指導部を「お上=神」と恐れたのも無理はありません。
(坂東国男著「永田洋子さんへの手紙」)



十六の墓標
彼女の最初の著書「十六の墓標(上)」は、事件後から10年目に当たる1982年に出版された。また「十六の墓標(下)」は翌年に出版された。このタイトルは彼女自身が付けたもので、殺害した14名の同志と、上赤塚交番襲撃事件で亡くなった柴野、連合赤軍事件後に東京拘置所で自殺した森を併せて「十六の墓標」と決めたということである。
彼女の著書は、現在までで7冊発売された。他に雑誌や「支える会」のお元気通信などに掲載された文章を含めると、相当な量になると思う。

非常に印象的だった部分。
《森氏の自殺は、七三年一月一日のことである。このことを知った時、私は、新党で同志の死に直面した時のあの重苦しい深いところにつき落とされるような思いがよみがえってきた。
押しつぶされてしまいそうな重圧感が一段と大きなものになった。それは、何故森氏が自殺したかを十分に理解させてくれるものであった。
同時に、森氏が死刑攻撃をはじめあらゆる非難、中傷に耐えながら、連赤問題を総括し自己批判しぬいていくという困難な闘いから逃げたと思い、卑怯だと思わないわけにはいかなかった。
私はもはや死ぬことはできない、逃げることはできないことを痛感した。》



永田氏は1971〜72年の
連合赤軍事件に於いて
現在死刑確定囚。
脳腫瘍により手術を受けた。
手術前には洗面器に大盛
二杯程の嘔吐物を吐き、失神、失禁を繰り返す。


 

 

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