友人からの手紙


「那須文学/9号」(同人誌)にて発表された「高野悦子さんの手記」(後に新潮社より「二十歳の原点」として発行)に対する反響として、翌月号に載せられた手紙より。



I氏(立命館大生/高野家宛)
日記より
高野が死んで一年である。去年の日記を読み返してみる。六月二七日「六・二四、高野悦子鉄道へ飛び込み自殺。二十年と少しの生命を自らの手で断ちきった・・・。」正確な時間は忘れたが、二時半ごろの真夜中、あのほほえみを心深く浮かべていたかもしれぬ。あの当時のショックを忘れてもいいものであろうか?

六月二八日へと日記は続く「高野の死から一週間、七月一日に告別式・・・。」結局、高野一人で死んだ。誰にも悩みを打ち明けられず、誰一人とめることもできず、孤独に一人で死んでいった。高野らしいやり方で死を先取りしてしまった。たった一人で人間自体も自分自身もを結局わからず、生きることに疲れはて死んでいってしまった。

七月七日「五日から山小舎にきた。高野のこともここ二、三日忘れている。あれは二回生後期の全回生コンパのときだった。四三・十一・二九の旧人合宿参加名簿にサインをしておきながら突然やめると言いだした。彼女は合宿を止めることによって、パーワンを止めることによってワンゲルを、自分自身をみつめようとしたのだ・・・。」彼女は何のために生きるのか?といつも真剣だった。四四年度のワンゲルリーダー会長選挙のとき一人の候補者に質問した。「ナゼ イッショウケンメイ ワンゲル ヤッテルンデスカ?」同じような言葉をあと一回聞いている。ワンゲルではパーワン合宿に行きたい会員はメンバー募集期間に名前を書いて申し込むことになっている。四三年最後の旧人合宿が計画されパーティーが十ちかくできたが、俺はその時どこへ行くか決めていなかった。友の一人がためらっている自分を見て俺の名前を書いてしまった。俺としては行くつもりだったから何とも思わずにいたら、丁度そばにいた彼女が「ナゼ書カヘンノ!自分デ書キ!」短い言葉だった。何のために生きるのか、何のためにワンゲルをやっているのか?俺は答えることなく、答える努力をせずにこの告発に対し忘却という名で捨てさってしまってよいのであろうか。

悦子さんのことで印象に残っていることを書き始めてみましたが、冷静にペンを走らせている自分のシラジラシサにいや気がさして止めてしまいました。私の日記から抜き書きしてお送りいたします。その他の思い出として曾爾高原、鈴鹿山脈、夏合宿の南アルプスなどありますが、やはり彼女の死に裏づけされた一連の行動、一連の言葉が、いまだに一番強い印象です。
(一九七〇・六・二四 AM五・三〇)



S氏(立命大生ワンダーフォーゲル部/高野悦子さん宛)
――何を話しかけても何も応えはしない君だが、それでもいい。ひょっとすると君が僕のすぐ傍で聞いているかもしれない。
ところで、高野君、君という人は、ひどい人だ。なぜなら、君が自分でこの世界から離れることは、僕や、ワンゲル、大学そして、この世のすべてを君が一方的に総て拒否した事になるのだ。もちろん君をそこまで追い詰めた者への絶対的な完全拒否という勝利は得ただろうが、僕等のような小心者には永久に克服できえぬ悔悟を残していった。それは僕のこの一年の生活に色々な影響となって現れてきたが、君の行動や考えには、足下にも及ばなかった。君は男性コンプレックスを懐いていたと聞くが、君の考え、行動のどこにそんな点を見い出せようか。君は、男女間の差という幻想を完全に打破り実証したではないか。なにも、全共闘運動をもちだすまでもない。ワンゲルにおいてもまさにそうであった。二回生の前期から夏合宿に至る君のあの陶酔ともいうべき自然活動。あの頃の君とは、直接話しはしなかったが、純粋なまでのあの何かを追い求むる姿に我々は心密かに畏敬の念をもっていた。それは我々にはそう容易すく到達できえぬ姿であった。

君は五月の「山の清掃デー」の日の事を覚えているかな。芹生までのゴミを沢山拾って小舎へ帰る途中新道で雨が降ってきた。新しく我々で作った道なのでまだまだ藪である。皆、上から下までビショビショである。その時、先頭をズンズン歩いていた僕は、君がすぐ後にピッタリと付き、ちょっと俯き加減に黙々と歩いているのに驚いた。君のイメージではずっと後に遅れて来ているのだろうと思っていた。そしてどうやら新道を貫き通せてこの谷の出合いまできた時に「体が冷えたから、小舎まで走れ!」と僕が皆に大声でいうと、君もニコニコして、弾むように駆けていった。その日以来僕は男女の差という幻想を完全に捨てざるをえなくなった。そして、立派なワンダラーに君が成長することを祈った。

しかし君にも僕等にも、ワンゲルに集中できえぬ新聞社事件、そして寮闘争、中川会館封鎖という僕等の存在を問うところの一連の運動が起った。君はどんどんワンゲルを離れ、闘争に入っていった。そんな君に、煮えきらぬ僕は引け目を感じ、君と話したいと思いながらも、話しかける勇気を持てなかった。すでにその時は、君にとって、ワンゲルも僕等の存在もなかったと思うがそれでも僕は一言でもいいから話したかった。

今、会員名簿の君の名は、二本の黒い線で消されている。しかし、同様に消されている他の会員とは全く質的に異なった重厚なる重みをもって僕におおいかぶってくる。それは、この世に存在している者への絶対的な問いかけであるから。

君は今、どこかで、何の苦しみも迷いもなく、こんどは心の底からニコニコと笑っていることだろう。今度こそ、ぐっすりと安らかに眠られんことを祈って、ここらで筆を置く。
(四十五年暮春)



Mさん(嵐山での下宿が一緒/高野家宛)
ここ数日急に寒くなりました。日も日一日と短くなり冬も間近かという感じがします。久しぶりでポカポカと好いお天気なので高雄まで行ってきました。紅葉が往く秋を惜しむように輝いていました。もみじも薄紅いのやら黄色いのやら一つずつ違いますね。ゆるやかな清流に散る黄色いもみじを見ると何だかそこに止っていて欲しくなります。北山杉は緑が濃くなっていましたが、観光シーズンでハイカーや観光客が一杯、静かな北山も繁華街なみのにぎわいでした。

いただいた悦子さんの蔵書は全部読みました。私は知らないことが多すぎました。読んでいると次々に読む本が出てきます。でも買うばかりで積んどくになりがちですけど――。牧野さんに言ったら叱られそうです。「淋しさが日常的なものになってしまった」と葉書にありましたが、私も彼女のように強くなれたらと思います。多勢の友達に囲まれていても寂しさを感じるこの頃です。

八月か九月にそちらにお伺いするつもりでいたのですが学校のことで都合がつかず、どうも済みませんでした。私達の大学も立命より遅れて斗争に入りましたが、それでも九月中旬には封鎖が解除され十月中旬まで学内整理のため自宅待機、そして再開と同時に前期試験が行なわれ、現在はまた、もとの活気のない正常(?)な大学に戻っています。

悦子さんが死を選んだ理由として「学生運動の挫折感」ということを聞いたけど、私にはそれがどうしても理解できませんでした。でも今になって彼女の気持ち―挫折感―がよく分かります。でも私は大学を止めることも死で抗議することもできません。彼女は純粋すぎました。

悦子さんの思い出を何かということですが、いくら書いても、彼女の可愛らしさ、純粋さ、そしてガラスのようなスキ透ったもろさを言い表すことはできません。先日からいろいろ思いつくまま書き留めてみたものの、どうしてもピッタリときません。最初に会った頃の彼女のふっくらした顔と六月頃のやつれた顔が重なって思い出されます。私の断片的な記憶を綴ってみましたが、どうぞ読みやすいように手をお加え下さい。

雪が降った日のこと、多分四三年の冬の初めて雪が降った夕食後のことでした。窓の雪を見て彼女は、彼女の幼い頃のメルヘンを語りました。とても幸せでロマンチックな話でした。みんな「高野の十八番が始まった」と思いながらも耳を傾けていました。感受性の強い彼女は、すべてを美しいものステキな言葉に変えてゆきました。

彼女は詩人でした。感受性も強く想像力の豊かな詩人でした。映画を見るにしても自分で創造してしまいます。それだけに自分思った内容と違うとトテモがっかりして映画のパンフレットをマジックで真黒に塗りつぶしてしまったりします。

ワンゲルにいた頃、彼女とOさん(光華女子大ワンゲルOB)と私の三人で花背にある立命の山小屋に行こうと話していました。例の調子で彼女が「静かでそれはステキなんだから――」。とたんに「無計画で無鉄砲なんだから危険よ」と水をさされて、彼女はニガ笑い。私達が見ていてハラハラするような事を彼女は何度かしています。でも私は、彼女の無鉄砲さが好きでした。

詩人というのは感じたことはズバリ行動してしまうのでしょう。夏の合宿でアルプスへ行くとか言っていたとき、お母さんに電話で「・・・大丈夫よ、大勢で行くんだし経験済みの先輩も一緒なんだから」と説得しているのをきいて「ウマクいった?」と尋ねると、彼女はニヤリ――。

彼女は山が好きでした。部屋には山の写真と山の詩がいつもはってありました。冬でも独りで山へ出かけたものです。下宿の狭い階段で身体より大きなザックをウンウン言いながら引きずり下ろしていた姿が目に浮びます。「ハイッ山のおみやげ」といって名も知れぬ野草を採ってきては原田のおばあちゃんを喜ばしていました。

彼女は頼まれてイヤと言えない人でした。同宿のTさんが私に引越しを頼んで帰省してしまったことがありました。私の身にあまり、彼女に相談したところ、即座に立ち上がって荷造りをし、原田さんの子供用の自転車でメモを頼りに下宿先を尋ねあててくれたこともありました。夜などダベリに部屋を訪れると、彼女はどんなに忙しくても快くむかえてくれました。だから彼女の部屋には人がよく集まりました。

よく散歩をしました。フラリと自転車で出かけますが、いつも大覚寺の大沢の池でした。よほどあの池が好きだったのでしょう。部屋にいないと思うと松尾公園の芝生に寝ころんでいました。ブランコにゆられているのがとても似合う人でした。下宿の大きなコリー犬「ジョン」をつれて歩いたり、走リッコをしてジョンがじゃれて洋服を泥だらけにされても平気でした。夕暮、芝生に寝ころんで童話の本「ネ、お話よんで」を大きな声で読んでいた姿、とても純粋で可愛くて忘れられません。

三月の少し寒い夜、彼女の室で遅くまで話したことがあります。お腹がすいて少し固くなったパンをヒーターで焼いて二人でかじりながら。学校の斗争のことが中心で、アチコチから本や資料を引出して教えてくれました。社会、大学の矛盾について激しい言葉でした。恋愛論についてはあまり記憶がありませんが、高校が女子高だったので「男の人がこわい」といっていたのが印象に残っています。

やはり私は何も書くことができません。私が何を言っても何を書いても誠意に欠けているようにしか思えません。それに私は、高野さんの素晴らしい人柄を何一つ知らないのかもしれません。どうぞお許し下さい。
(一九六九・一一・二〇)



Y氏(立命館大生/高野家宛)
・・その後僕はいわゆる反日共系といわれる部分に行き、高野さんは日共系の方に行き、ただそんな人もいるんだという程度の印象です。(というよりも選営委員等にも立候補され注目していたといった方が正確かもしれません)その後会って親しくした印象というものは全くないのです。それでも当時すでに敵対関係として存在した日共=民青の日本史クラス内に於ける動向については気を払い、そのエピソードとして高野さんの名の出て来たことはよく覚えています。

・・一九六九年四月下旬。彼女との出逢いがまさかここで起きようとは思ってもみませんでした。――恒バリの中で――自己の思想的立場を貫くことは、その思想(理論)に絶対の自信と確信を持っていても現在の状況の中では極めて困難なことだと思います。日共―離脱―挫折―反日共。この図式があてはまるほど簡単なものでも安易なものでもなかったと思います。それ自身「勇気」のいることではないでしょうか。思えば彼女は自己に対して正直ずぎるくらい正直であったのだと思います。

・・「お前たち同じ学年だろう。もっと彼女と話しをしなければ・・・」バリケードの中で、多分御存知だと思いますがKさんからいわれました。決して話をしなかった、そんな間柄ではありませんでした。むしろ雑談ならよくしました。――雑談だけ――常時(四月―五月上旬の段階で)恒バリにいるのは二、四回生が殆どであり三回生(日本史)では僕とMだけでした。皆自分のことで精一杯だったんです。高野さんも交えて三人で深夜キャッチボールをしたこともありました。最初Mと二人でしていた時に高野さんが犬をつれてみにきたのです。

・・高野さんはいつも殆ど一人で淋しそうでした。でも、どうすることも僕にはできませんでした。僕自身どちらかといえば人見知りする性格かも分かりませんし、何よりも仮にそうしていたとしても今回のようにならなかったとはいえないと思うからです。(と書いても免罪にはならないのですが。)

・・そのときが最後であったかどうかも知りません。四月二十八日の御堂筋突破のデモにゆきタバコがなく、すぐ後ろにいた高野さんからピースの一本をもらった時か、或いはバリ内で犬や猫の話をしていた時か・・・こんなことはどうでも良かったのかも分かりません。彼女の最後の出逢いが何時だったかなんてことは。

・・その後僕にとっては暗黒の五月、六月を迎えるわけです。今は暗黒のなどと図々しく書けるほど落着いてきているのですが。僕にとって外的な、内的なショックがあったわけです。こう書くと何か白々しく感じざるをえない表現なのですが。

・・斗争(狭義の全共斗運動)をやめようとし、そして事実故郷の方へ帰ってしまっていたのです。六月の下旬、京都だけには戻ろうとし帰ってきたのです。生活は乱れていました。高野さんの死を知ったのはそんな時でした。知人に「お前たち、しっかりしろよ」といわれ彼もまた酔っていた時にです。どうしようもないといえば、どうしようもない僕でもありました。その時のショックは察知していただけるとは思いますが。

・・何か余りにも簡単な表現なのですが、そんな自分に高野さんがオーバーラップし、彼女を死においやらせたのは俺たちなんだ。その歯止めをなし得ないどころか、俺たちの斗争のもっている表裏一体のものとしての死、彼女にはそれを助長させていたんだ。死んだって・・じゃないか。死ぬことのできる奴は幸せだ。どうして人間は生きなければいけないなどといえるんだ。じゃあ、一体、今の俺は何のために生きているんだ。等々、支離滅裂なる文章を書きなぐり、死のうと思って、深夜京都の街中歩いた時もありました。「高野さんは死んじゃったなあ・・」何度呟いたかしれません。

・・現在もまだ正直言って「本当に死んじゃったのか」という愚問ですけれども疑問を発せざるを得ません。その「死」「高野さんの死」をというものを僕の内部でどのように受け止めていいのか解りません。またそれには斗争というものを根底からもう一度把えなければいけないのだということは感じるのですが・・ただ現在は自己を省みるその争いでいっぱいだといって過言ではない状態です。再度仲間のいるところへ行こう。そう感じたのはごく最近のことなのです。(以下略)

追伸。一人の女性の死が、何よりも高野さんの死が、何でもない関係にありながらもこれほど大きく伸し掛かってくるとは全く夢想だにもしなかったのです。高野さんに対し正直な人といっていいのか解りません。またその御両親にも。僕はただ高野さんに、高野さんの死に恥じない。「生」を送りたいと思っているだけなのです。書式も踏まず、自己紹介もせず、その他失礼に亘る各種の文面、どうぞお許し下さい。
一九六九・八・一記。



K氏(西那須野町)
あなたへ僕等の独白

一九六九年四月二十八日
戦慄の群衆の中に居た
横顔と後姿のあなただった
郷里に来てみればあなたのシルエットだけが なおも鮮烈に残っている
知った者の運命をあなたは背負い
小さくあまりにも小さかった情熱の帆は精一杯の叫びを張らんで出航してしまった
あなたの流れ髪に
あなたのぎこちない関西言葉に
あなたのたった一本の煙草に
あなたの眼鏡の内に
あなたの歩調と手の仕草に
そして
あなたの誰も知る事のない笑みの中に………(略)




高野悦子「二十歳の原点」1へトップページへ