| 高野悦子「二十歳の原点」4 |
| 恐がることはない。 |
| 私を圧迫し支配するものに、怒りのまなざしをぶつけてやれ。 |
| すべては敵だ。 |
| (高野悦子「二十歳の原点」) |
| しあんくれーる | ||||
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| リクエストなど | ||||||||||||||||||
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《しあんくれーるで彼女がリクエストなどをしていた曲の一部・1969年3〜6月頃》
他にALBERT AYLERなども好きだったそうである。 |
| 田川治子 | |||
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1969年3月から4月にかけて、アルバイトを中心に生活を送っていた彼女だったが、再び4.28の沖縄デーあたりから、デモや集会に活発に参加するようになる。メーデーに関しては、一回生の頃は「メーデーを知る為に参加」した彼女だったが、この年は「労働者の団結を示す為」にメーデーに参加した。 その後、「学生との大衆団交を拒む教授会に対して、大衆団交権が確立するまで」授業料の支払いを拒否することを決めた。また権力に対する防衛として、田川治子という名前を使うことに決めた。 以下は5月後半の彼女の動き。
5月には集会などで機動隊に殴られ、ケガを負う様になっていた。周囲も自分も段々過激になりつつあった。しかし闘争に参加しつつ、心のどこかで常に違和感を持ち続けていた。
大学に入ったばかりの頃は、「主体性」という言葉を大切にし、その後も自らの主体性について真面目に考えていたが、この頃になると、主体性という言葉を嫌うようになってしまった。 |
| 両親との訣別 |
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5月下旬になると、
両親は運動にのめり込む彼女を説得しようと、東京に下宿している姉の所へ彼女を呼び出した。しかし彼女は上京する前から「今日、東京へ行ってくる。姉と話しあい、家族との訣別をつけるために。(1969.5.30)」と、あらかじめ家族との訣別を決めていた。やはり家族との話し合いは上手くいかず、彼女は姉の家を飛び出す。しかも、唯一の頼りである中村は電話に出ない。
彼女は、自分自身に自信をなくしかけていた。 |
| アデュー | |||||
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彼女は、部落研やワンゲル部、立命大全共闘、バイト先などで恋をするが、
あまり上手くいかなかった。ここでは最後の一人について触れてみたい。彼
(中村)とは京都国際ホテルで、アルバイトをしている時に知り合った。中村以前に彼女は、上司(鈴木)に恋心を抱いていたが、子ども扱いされていた。そんな日々だったが、たまたま4月27日に中村と二人で飲みに行き、性関係を持ってから、彼女の気持ちは鈴木から中村へと変わっていった。 その後、中村には恋人がいることを知ってしまうが、なかなか諦めきれなかった。
中村に対し、戦争や政治について真剣に語る彼女だったが、ある日「かっこは自分を見失っているのではないか」と言われたことがあった。
これを中村らしい突き放し方だと彼女は思う。
翌日の6月3日には、中村との訣別を決意し、中村が好きだったという「アデュー」を夜空に向ってひとり歌った。
上記の文を書いた後、一変、「その何とかというやつに「アナーキズム思想史」を「これは私が信条としたいと思っている…」と書いたのは史上まれにみる嘘である」と書き記している。 |
| サビシイデスネ― | ||
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本当に独りきりになったと思った彼女は、運動にしがみ付こうとする。しかし淋しさを隠せない。
ノートを書くことの意味として、気持ちを書き綴ってきた「ノート」を誰かに見せて、自分を分かってもらいたいと何度か思ってきたが、ふと全てのノートを燃やしてしまおうと思い付く。
「燃やしたところで私が無くなるのではない。記憶という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。(1969.6.20)」として。だが、この時に焼却はしなかった。
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| 6月22日の日記 | ||||||||||||||||||||||
1969年6月22日、最後の日記となったこの日は、一日に何度もノートに書き込んでいる。訣別として、中村に本を渡す予定の日だった。しかし日記の中には、中村と会った記述がない。
この後に、“旅に出よう”の詩が書かれる。詳細はこちらから |
| 1969年6月24日未明 |
| 彼女が命を絶つ数時間前に、バイトで彼女に会った友人は「死にたい…」と虚ろな表情で繰り返す彼女をなだめ、午前0時過ぎにタクシーで下宿へと送り返したそうである。「何故死んだのか。ただ言える
ことは、僕も自殺していたかもしれない。そんな日々だったということです。」
それから数時間後の1969年6月24日午前2時36分、彼女は線路に入り込み、列車に轢かれて亡くなった。 6月23日の天気は雨。24日午前2時半頃に雨が降っていたかは不明。24日は天気図によると晴れになっている。翌25日には大雨が降った。 |
| 1969年6月24日夕刊 | |
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1969年6月24日の京都新聞・夕刊に「娘さん、線路で自殺」の見出しが付いた小さな記事が載った。 「二十四日午前二時三十六分ごろ、京都市中京区西ノ京平町、国鉄山陰線天神踏切西方二十メートルで上りり山口・幡生駅発、京都梅小路駅行貨物列車=井本辰男運転手(四一)=に線路上を歩いていた若い女が飛び込み即死した。自殺らしい。西陣署で調べているが、女は年齢十五〜二十二歳、身長一.四五メートルで、オカッパ頭、面長のやせ型、薄茶にたまご色のワンピースを着ており、身元不明 。」 翌日、栃木から駆けつけた父親により高野悦子本人と確認された。 |
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最後の日記 |
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彼女と家族に宛てた手紙 |
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