高野悦子「二十歳の原点」4


恐がることはない。
私を圧迫し支配するものに、怒りのまなざしをぶつけてやれ。
すべては敵だ。
(高野悦子「二十歳の原点」)



しあんくれーる
しあんくれーる シアンクレール(Champ Clair)」は 京都市上京区河原町、荒神口の電停前にあった。 彼女が通っていた立命館大学広小路学舎から近い場所にあった。外壁はレンガで二階建て。 1969年に入ってから 頻繁に通うようになった。

彼女は、ここでコーヒーやウィスキーを飲みながら、本を読み、ジャズを聴いていた。最初はクラシックを目当てに来ていたが、次第にジャズに引き込まれていった。 彼女にとっては、自分のアパート以外で、唯一安らげる場所だったのかも知れない。バリケードからここに通い、そしてバイトの時間ぎりぎりまで粘るという日々を送っていた。5月13日付けのメモ「○学生であるあなたへ!私のAgitation より」も、しあんくれーるで書かれている。
 
午後買物と用たしに出かけ、あと「シアンクレール」に落着いてしまった。(1969.3.10)

 

給料をもらって久しぶりに金ができたので、シアンクレールに行った。(1969.5.7)

しかし路面電車も、立命館大学広小路学舎も、そして「しあんくれーる」も今はない。



リクエストなど

《しあんくれーるで彼女がリクエストなどをしていた曲の一部・1969年3〜6月頃》
 
Stave Marcus
TOMORROW NEVER KNOWS
Stave Marcus
Count's Rock Band The Lord's Prayer
THE SOUND OF FEELING
Spleen
スティーヴ・マーカス スティーヴ・マーカス2 ザ・サウンド・オブ・フィーリング
感銘を受けた(1969.6.19)
 
S&Gのスカボローフェア
他のアーティストの曲もカバー。
双子姉妹と男性のユニット(JAZZ)
 

 
MAHALIA JACKSON
 
ART BLAKEY'S
A NIGHT IN TUNISIA
ベートーベン
悲愴
マヘリァ・ジャクソン アート・ブレーキー ベートーベン
ゴスペルの女王。キング牧師の演説や
葬儀でも歌を歌った。
チュニジアの夜。
 
おまけ。しあんくれーるで聞いたかは
不明。彼女が好きだった一曲。

他にALBERT AYLERなども好きだったそうである。
マヘリア・ジャクソンは、以前マハリア・ジャクソンと呼ばれていた。



田川治子
1969年3月から4月にかけて、アルバイトを中心に生活を送っていた彼女だったが、再び4.28の沖縄デーあたりから、デモや集会に活発に参加するようになる。メーデーに関しては、一回生の頃は「メーデーを知る為に参加」した彼女だったが、この年は「労働者の団結を示す為」にメーデーに参加した。

その後、「学生との大衆団交を拒む教授会に対して、大衆団交権が確立するまで」授業料の支払いを拒否することを決めた。また権力に対する防衛として、田川治子という名前を使うことに決めた。

以下は5月後半の彼女の動き。

 
五・一九 恒心館にて全学バリ準備
五・二〇 六時ごろ恒心館着。七時機動隊乱入による国家権力の闘争圧殺。身一つで全バリ。
五・二一 立命抗議集会。 門で小ぜりあい。民青になぐられる。
五・二二 京大泊りこみ。京大全バリに向けて行動。
五・二三 労学総決起集会。機動隊乱入。投石してつかまるが帰される。
五・二四 京大にて文闘委の集会(1969.5.24)

5月には集会などで機動隊に殴られ、ケガを負う様になっていた。周囲も自分も段々過激になりつつあった。しかし闘争に参加しつつ、心のどこかで常に違和感を持ち続けていた。

傷の糸のぬける日だ。ウレシイナ。
…五・一のメーデー会場で民主化棒でなぐられた衝撃、五・二一の弾劾集会のときに足でけられた衝撃、さらに五・二三機動隊の棍棒で顔を殴られ、髪を引っぱられたときに私の肉体がうけた衝撃、署に連行される時のパトカーのうるさいサイレンの響き。(1969.5.27)

 

きのう鼻を機動隊に殴られて赤くはれている。人はまたどうしたのときくだろう。うるさい人たち。それにしても右ほおのアザと、赤い鼻と。まるでピエロのようで恥ずかしい。(1969.6.16)

大学に入ったばかりの頃は、「主体性」という言葉を大切にし、その後も自らの主体性について真面目に考えていたが、この頃になると、主体性という言葉を嫌うようになってしまった。

友人である牧野との意見の相違も気になりだす。彼女が必死に活動について話すが、二人の距離は平行線どころか離れていくように感じる。更に牧野から「困惑、軽蔑、恐れ、敵意」の表情を読み取ってしまう。
翌日、牧野は(恐らく心配して)彼女へ電話を掛けたが、「人間、偽善家―彼女にあっても何も話すこともないし、話しあう気も起らなかった。(1969.4.18)」と自ら友人を遠ざけようとする。しかし牧野とはその後も会って話をする仲だった。

授業料の支払いを拒否する彼女に、両親が説得するも頑張り続けた。



両親との訣別

5月下旬になると、 両親は運動にのめり込む彼女を説得しようと、東京に下宿している姉の所へ彼女を呼び出した。しかし彼女は上京する前から「今日、東京へ行ってくる。姉と話しあい、家族との訣別をつけるために。(1969.5.30)」と、あらかじめ家族との訣別を決めていた。やはり家族との話し合いは上手くいかず、彼女は姉の家を飛び出す。しかも、唯一の頼りである中村は電話に出ない。 彼女は、自分自身に自信をなくしかけていた。

家族からの言葉に聞く耳を持たない彼女に対し、母親は地元の友人を通して「好きなようにしなさい。もう意見を押し付けるようなことはしない」と伝える。その言葉に彼女は喜んだ 。

(しかしその後の彼女は、中村との関係や闘争に対して、疲れ果てぼんやりしてしまっていて、どこか遠くを見ている印象を私は受けた。)



アデュー
彼女は、部落研やワンゲル部、立命大全共闘、バイト先などで恋をするが、 あまり上手くいかなかった。ここでは最後の一人について触れてみたい。彼 (中村)とは京都国際ホテルで、アルバイトをしている時に知り合った。中村以前に彼女は、上司(鈴木)に恋心を抱いていたが、子ども扱いされていた。そんな日々だったが、たまたま4月27日に中村と二人で飲みに行き、性関係を持ってから、彼女の気持ちは鈴木から中村へと変わっていった。
その後、中村には恋人がいることを知ってしまうが、なかなか諦めきれなかった。
 
絶対自由なんて求めたのが
そもそもの間違いの始まりだったのでしょうか。
あなたは言った。
トウソウダノ コッカケンリョクダノ
ナンダラコッタラ イッタッテ
タバコダノ サケダノ ノミスギテ
カラダヲ コワシタラ
ナンニモナラン と。
絶対自由を求めれば求めるほど
自己は 破滅 堕落へと 進んでいく。
プチブルの存在である 私を
ぶっこわせ!
自己解体だ!!
(那須文学・9号/1969.5.17のメモ)

中村に対し、戦争や政治について真剣に語る彼女だったが、ある日「かっこは自分を見失っているのではないか」と言われたことがあった。 これを中村らしい突き放し方だと彼女は思う。

5月下旬に両親と訣別し、独りになった彼女だったが、唯一の頼りである中村が電話に出ることはなかった。
 
中村とのリレーション。四・二七、五.一五、五・一九、御所で二回あい、テレを数回。一体、彼との結びつきはどんな関係であったのか。彼との結びつきは単に肉体のみであったのかもしれない。とにかく訣別だ。中村についても、中村を含めた己れ自身についても考えるな。けっきょく中村にあいたいという願いは、彼を愛するからでなく、私自身を愛する醜いエゴイズムの復讐をうけているのだ。あまりにも辛く苦しい復讐だ。弱く、そして、甘い私には。…今はただ中村からのテレを待つだけである。(1969.6.2)

翌日の6月3日には、中村との訣別を決意し、中村が好きだったという「アデュー」を夜空に向ってひとり歌った。
その後、日記に「「結局は独りであるという最後の帰着点」に私はいる。(1969.6.3)」と書いてしまう。

中村との訣別を決めた彼女だったが、そう簡単に諦められるはずもなかった。服装やヘアスタイルを女らしくし、きちんと化粧をすれば中村は振り向いてくれるだろうかとか、交通事故で怪我を負って、もし新聞に載ったら中村は病院に来てくれるだろうかなどと考えたりする。しかし「(病院に)こないにちがいない」と決め付けることにより、彼女はそんな想像をしてしまう自分の虚しさを打ち消そうとしていた。

メモ

さようなら
まずこの言葉をあなたに言います。(私がこの言葉をいうのに大きな勇気を必要とするのに対し、あなたがこの言葉をきいて何の驚きも感じないこと、それそころか重荷を下ろした気持を抱くことを、私とあなたの関係がそれだけの事であるというくらいは、私はわかっているつもりです)
この一ヶ月半は私にとって非常に苦しい期間だった。あなたに会った回数は数えるほどしかなかったが、いつもあなたを中心に毎日が過ぎていた。ここ数日、ビヤガーデンであれほど会いたかったあなたの顔を目の前にみながら、私はむなしさばかり感じ続けた。(こんなことを書いたところでどうにもならないのだ。ただ、私は前より一層さびしい独りぼっちの甘えん坊の、バカなそしてつまらぬ女の子であることを今では感じているだけだ)
今、最後に私がしようとしていることは、あなたについて私が書いた言葉をあなたへおくることです。(1969.6.18)

いつまで経っても中村からは連絡が無く、バイト先で会っても、話しかけることすら出来なくなっていた。その状況に耐えられなくなった彼女は、中村に最後の言葉と本を贈ることにした。
 
その何とかいうやつにテレしたが、明日屋上に本をとりにくるということです。私は「本を渡したい」という、ただひとこと、それがいいたいことのすべてであった。相手に話をするひまも与えずに切った。その何とかいうやつへの伝言文に「これは私が信条としたいと思っているアナーキズムについて書いてある本です」と書いたが、この文自体にうそいつわりはない。(1969.6.21)

上記の文を書いた後、一変、「その何とかというやつに「アナーキズム思想史」を「これは私が信条としたいと思っている…」と書いたのは史上まれにみる嘘である」と書き記している。

また同じ日付の日記で、彼女は《昨日と今日とお酒は一滴も飲んでいない》と書くが《睡眠薬を飲んでみたい…明日買ってこよう》と本当に買ってきて飲んでしまった。しかし、あまり効かなかったらしい。



サビシイデスネ―

本当に独りきりになったと思った彼女は、運動にしがみ付こうとする。しかし淋しさを隠せない。
 
階級闘争において、学園闘争において学問をわが物にしなければならないということは重荷なことだが、私がまずやらねばならぬことだ。一切の人間を信用しない私が唯ひとつ信じているものなのだ。それは。(1969.6.19)

ノートを書くことの意味として、気持ちを書き綴ってきた「ノート」を誰かに見せて、自分を分かってもらいたいと何度か思ってきたが、ふと全てのノートを燃やしてしまおうと思い付く。 「燃やしたところで私が無くなるのではない。記憶という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。(1969.6.20)」として。だが、この時に焼却はしなかった。

ノートに関しては、22日の日記にも書かれている。“ノートに向かう時点で、生への未練がある”と書いた後の言葉。
 
私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。(1969.6.22)



6月22日の日記
1969年6月22日、最後の日記となったこの日は、一日に何度もノートに書き込んでいる。訣別として、中村に本を渡す予定の日だった。しかし日記の中には、中村と会った記述がない。
 
起床
11:30 のんびりしたい気持ちと、闘争参加の間で揺れ動く。
12:00 ラジオを聞きながら、放送されたニュースの内容をノートに書く。
13:00 日大全共闘の「生きてる 生きてる 生きている バリケードという腹の中で…」をもじって書く。
23:15 バイトから戻り、早速ノートへ向かう。
23:45 市販されている睡眠薬20錠を飲み始める。
23:46 経過報告
23:50 経過報告
23:52 経過報告、自分の本の背表紙を読み上げる。
00:05 6月23日になる。経過報告(20分経過)と 「シアンクレール」での話など。
02:30 雨が強く降りだす。睡眠薬が全く効かない。早く眠りたいと思う。

この後に、“旅に出よう”の詩が書かれる。詳細はこちらから



1969年6月24日未明
彼女が命を絶つ数時間前に、バイトで彼女に会った友人は「死にたい…」と虚ろな表情で繰り返す彼女をなだめ、午前0時過ぎにタクシーで下宿へと送り返したそうである。「何故死んだのか。ただ言える ことは、僕も自殺していたかもしれない。そんな日々だったということです。」

それから数時間後の1969年6月24日午前2時36分、彼女は線路に入り込み、列車に轢かれて亡くなった。

6月23日の天気は雨。24日午前2時半頃に雨が降っていたかは不明。24日は天気図によると晴れになっている。翌25日には大雨が降った。



1969年6月24日夕刊
京都新聞 1969年6月24日の京都新聞・夕刊に「娘さん、線路で自殺」の見出しが付いた小さな記事が載った。
「二十四日午前二時三十六分ごろ、京都市中京区西ノ京平町、国鉄山陰線天神踏切西方二十メートルで上りり山口・幡生駅発、京都梅小路駅行貨物列車=井本辰男運転手(四一)=に線路上を歩いていた若い女が飛び込み即死した。自殺らしい。西陣署で調べているが、女は年齢十五〜二十二歳、身長一.四五メートルで、オカッパ頭、面長のやせ型、薄茶にたまご色のワンピースを着ており、身元不明 。」
翌日、栃木から駆けつけた父親により高野悦子本人と確認された。



 


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彼女の友人達からの手紙 彼女と家族に宛てた手紙




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