高野悦子「二十歳の原点」1


自分の本当の感情は底に沈ませて、装うぐらいの人でないと、
自分の信念を行動には移せない。
(高野悦子「二十歳の原点ノート」)



二十歳の原点
1969年、高野悦子は二十歳だった。立命館大学文学部史学科日本史専攻 の3回生。学生運動の嵐が吹き荒れている時代だった。

1月15日成人の日の日記に「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」と記す。

一時期、部落問題研究会(民青系)に入会するが、1969年になり、全共闘運動が起こると参加を決める。しかし、同じ運動のなかで敵対する党派が存在することを彼女は理解出来なかった。そのことが、他の様々なことに対しても向けられていき、結局は自分が未熟であるという認識に落ち込んでしまう。

学生であることに引け目を感じ続けた彼女は「労働者」になるべくアルバイトを始め、仕送りは家賃のみに使い、後はバイト代でまかなった。しかしこのバイト先で、彼女は失恋してしまう。やがて疲労は積もり、大学にも仕事にも疲れきってしまった。

そして1969年6月24日未明、線路に入り貨物列車に身を投じた。死後、下宿から10数冊にも及ぶ大学ノートに綴られた「日記」が発見された。父親によって整理され、同人誌「那須文学」に掲載され大きな反響を呼び、1971年新潮社より「二十歳の原点」として刊行された。



二十歳の原点、序章、ノート
左から「原点」「序章」「ノート」
全て新潮社から出版された
序章のみ「未熟な孤独の心」と副題が付いている
「二十歳の原点」1971年5月10日発行
1969年1月2日〜1969年6月22日(立命館大学3回生)

「二十歳の原点序章」1974年6月20日発行
1966年11月23日〜1968年12月31日
(宇都宮女子高校3年生〜立命館大学3回生)

「二十歳の原点ノート」1976年1月10日発行
1963年1月1日〜1966年11月22日
(西那須野中学2年生〜宇都宮女子高校3年生)

「二十歳の原点」文庫・1979年5月25日発行

「二十歳の原点序章」文庫・1979年12月25日発行

「二十歳の原点ノート」文庫・1980年4月25日発行



経歴

高野悦子 1949年1月2日 栃木県那須郡西那須野町 (現・那須塩原市)生まれ
1953年頃 心臓弁膜症と診断される
1955年4月 西那須町立東小学校に入学
1961年4月 西那須野町立中学校に入学
1963年1月 日記を付け始める
1964年4月 栃木県立宇都宮女子高等学校入学
1966年1月 奥浩平著「青春の墓標」に出合う
1967年3月 立命館大学文学部史学科入学
1967年5月 部落研究会入部
1968年4月 部落研究会退部
1968年5月 ワンダー・フォーゲル部入部
1969年1月 全共闘運動に参加
1969年3月 京都国際ホテルにウエイトレスとして働く
1969年6月24日 24日未明・鉄道自殺



生い立ち
高野悦子は1949年(昭和24年)1月2日、父三郎、母アイの子として栃木県西那須野町にて生まれた。一歳年上の姉と三歳下に弟の3人兄弟 (幼少の頃は祖父母と同居していて7人家族だった)。またシロという名前の犬を飼っていた。シロの後は次郎(ジロ)という名の犬を飼った。 4歳の頃、病院での検査で心臓弁膜症(先天性)と診断され、以後運動などを制限される。ニックネームは「カッコ」。



中学時代
二十歳の原点ノートに書かれている最初の日付は、中学2年の冬である1963年(昭和38年)1月1日となっている。書き出しは「今年の目標―自分を知る」という一文から。 犬のジロと初転びした詩も書いている。

中学3年になって彼女は生徒会の副会長になった。そして新学期から転入してきた倉橋さん(美紀子ちゃん)と、5月の修学旅行をきっかけに仲良くなる。ようやく自分の悩みなどを吐き出すことが出来る友人を見つけ 喜んだ。1963年6月24日の日記で、この「6月24日」を記念日として“倉橋さん”というタイトルの詩を書いた。
しかし数日後(6月27日)に、倉橋さんには自分より大切に思っている友人がいることを感じ淋しく思う。その倉橋さんが大切に思っている友人を彼女は人間的に好きではなかったため、更にがっかりしてしまった。

1964年1月1日には、「去年の元旦には、霜をザクザク踏んで、氷をバリバリ割って、ジロと散歩したっけ。そして転んでしまった。初ころびだった。二月には…(1964.1.1)」と一年前を振り返り、1963年の7大ニュースを選んだ。
・転校して来た倉橋さん(美紀子ちゃん)のこと。
・自宅の引越しにより、初めて自分の部屋が与えられたこと。
・気になる男子のこと。
・クラス会のこと。
・マラソンで一位を取ったこと。
・教会に通ったこと。
・生徒会の副会長になったこと。

そして新年の目標を、高校入試が終わるまでは勉強をもとにして生きよう、積極的に生きよう、自分に自信を持とうと決めた。

3月には第一志望だった宇都宮女子高校に合格した。



ジュディー
中学2年の1月1日から付け始めた日記を「小百合さん」と名付けた。 しかし吉永小百合を思い出してしまうということで「ジュディー」に変更した。彼女は「私はあなたに誠実さを持って接します(1963.11.3)」 と、心の友としてジュディーに語りかけ、今日あったことや悩みを打ち明ける。

日記を「誰かに話しかける形式」にした理由を彼女はこう書いている。
 
私は、今まで毎日続けて日記を書くということにとらわれすぎて、自分の考えを、他の人がみてもわかるように書くということをよく考えなかった。だから後でよんでみると、文章のまちがいや、表現のしかたがおかしい。それに毎日書くということにとらわれて、考えるのがおっくうになり、他の人に伝えにくいものになってしまっている。だからこれからは、日記を一人の人間として、話しかけるやりかたにしていこうと思う。(1963.11.3)

中学3年11月3日、彼女はジュディーに手紙を書くことにし、家族のことも合わせ自己紹介している。
今でもたまにオネショをしてしまうこと、自慰をしてしまうこと、自分に自信がないことなど。自慰行為について彼女は素直な気持ちを語っている。「私はこういうことを平気でいってしまうのですから、異常なのかもしれません。でもジュディー、私はゆうわくに負けず、しないように、と思います。私はこれらのことについても、正しい知識を持って正しくしていきたいんです。(1963.11.3)

その数日後に彼女はジュディーに詫びをいれている。友達のように呼び捨てで「ジュディー」と呼んでいたことをである。その時の彼女にとってジュディーは憧れの存在(理想像)であったからだった。日記を開けばいつでも話を聞いてくれる誰か(ジュディー)が必要だった。

だが生活が安定してくると日記を開いても、ジュディーに語りかけることが少なくなっていった。
時々思い出したように「ジュディー、しばらくごぶさたでこめんなさい(1964.7.27)」と書くが続かない。

やがて「8月30日以来君に会っていなかったね(1964.10.5)」と呼び名が“君”に変わってしまった。日記自体も8月30日から約一ヶ月間書いていない。その日を境にしばらくジュディーが出てくることはなかった。

そして「このノートが書かれていないと言うことは、内省がなされていないということなのです(1964.12.5)」と書いた。その期間はバスケットボールに夢中になっていた時期と重なる。

高校2年の秋、彼女は久し振りに「ジュディー」に話しかけている。 部活動と友人関係のちょっとした食い違いがあった。それを気にして、彼女はジュディーに「どう思う?」と聞きながらも、自分の中で消化しようとしていた。

1969年に書かれた最後のノートには「かるちえ」というタイトルが付いている。



下宿生活とバスケットボール

自宅のある西那須野から彼女の通う宇都宮女子高校までは遠く、毎日通学だけで3時間かかっていた。部活動もやっていた為、高校2年(1965年)の6月2日からに宇都宮の矢野宅 (大島宅)にて下宿生活を送り始めた。 一歳違いの姉も同じ高校に通っていたがやはり下宿生活を送っていた。翌年(1966年)3月からは下宿先を変更し、姉が下宿していた中島宅(大場宅)に移る。

高校1年の7月17日から バスケットボール部に入った。真面目に練習に通い活動するが、他校との試合の際に顧問の教師から「水戸遠征は来年も行けるかもしれないんだから、今回はやめてくれないか(1964.7.27)」と言われている。これは彼女の体が弱い為だった。そして彼女は自分を「アブラムシのような存在」と思い、皆の邪魔にならないようにしようと決める。また、雑用など進んでやることを決めた。

一年以上、 部活動に熱心だったが、厳しい練習や体力的にも皆に付いていけないこと、時間を有効に使えないなど、自分にいらいらした彼女は「部活をやめたい」と考えるようになる。1965年8月、心房中隔欠損と診断され、9月にバスケット部の選手からマネージャーに変わった後は、「マネージャー=奉仕」という図式に虚しさを感じ 続けた。
 
もう何もわからない
私をすっぽりつつんでくれる、
マシュマロのようなものが欲しい(1965.9.26)

後に部活を辞める。 心臓の方は、11月の検査で異常なしとの結果が出たが、バスケットボール部に復帰することはなかった。



受験―京都への憧れ―
高校2年の秋、修学旅行に2泊3日で伊勢、奈良、京都方面に行った。 京都では、バスガイドが京大の校歌を歌い、建物の説明をした。彼女はバスの中から、詰襟を着て歩いている学生達を見て「あそこの中で歴史でも勉強できたら(1965.11.20)」と、京都での学生生活に憧れを抱いた。

高校3年になり、五教科にしようか三教科にしようか迷っていたが、大学案内を読みながら大まかに志望校を決め始めた。「早稲田の反骨精神もさることながら、立命館の立命館史学、それに京都という場所、また早稲田に似た反骨精神を知り、立命館に行きたくなった。(1966.9.16)」と立命館大学を志望校に入れた。
 
消極的な意味にしろ、日本史に対しての興味を持っているのだから、それをのばして行こう。そしてやっぱり立命館大学へ行こう。京都は七九四年、桓武天皇が都を奈良から京都へ移して以来明治まで、日本の中心として栄えた歴史のある町だ。街が出きて以来、七、八十年ほどしか経っていない西那須野町にしか住んだことのない私には、歴史(の深さ)に実感を感じたことがない。立命館に入って歴史について考えてみよう。(1966.11.6)

その後、立命館、明治、立教、国学院大学を受験した。そして第一志望だった立命館大学に合格し、4月から京都での学生生活を送ることとなった。




 


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