連合赤軍・4 あさま山荘事件


空気がこんなにも尊いものであったかと強烈に知らされた。
ふとここで飛び降りてしまえば、すべての苦しみは終わるな、と思った。
が、すぐ、いやこれは敗北的な考えだ、許されないことだ、と思って強く否定した。
(2.28・催涙ガスが撃ち込まれ、窓ガラスを破った時の心境/坂口弘「 あさま山荘1972下」)



あさま山荘事件への序章
1971年12月、榛名ベースにて新党を結成してから約2ヶ月間に、連合赤軍は、兵士の共産主義化を唱え「総括」と称し、総勢29名中12名のメンバーを殺害した。1972年2月4日、最高指導者であった森恒夫と永田洋子が上京すると総括は一時的に中断した。そしてこの隙に脱走する者が相次いだ。彼らが戻ってきたら間違いなく総括は再開されると思われたからだった。

2月1日に始まった指導者の一人でもある山田孝への総括は、2月12日に彼の死によって幕を閉じた。総括による最後の犠牲者だった。

1972年2月15日、2月4日からカンパ集めの為に上京していた最高指導者の森と永田は、新聞で少し前まで暮らしていた自分達の山岳ベースが発見された記事を読んだ。そして大急ぎで山岳ベースにいるメンバーと合流すべく、現時点でベースとして利用している「妙義山、籠沢の洞窟」へ向かった。

しかし妙義湖畔で私服刑事に職務質問を受けてしまう。何とか切り抜けベースに向かうはずが、刑事をまく為に森がむやみに山の中へ入り始め、結局メンバー達と合流することが出来なかった。この時点で警察の包囲網は近くまで迫ってきていた。

翌16日、次のベース予定地である「八溝山」の調査を行うため、植垣・青山・奥田・三崎と、上京した森に電話連絡をする坂口が車に乗り出発した。しかし妙義湖畔で私服刑事に会い「アベックを見かけませんでしたか?」と聞かれた。刑事が探していたアベックとは森と永田のことだった。彼らはまさか東京に居るはずの森らが妙義に来ているはずがないと思っていたため首を傾げた。

その時、何故か坂口は運転手の奥田に車を発進させるように言った。奥田は車を急発進させたが、刑事に追いかけられ、ぬかるみに車輪をとられ車が動かなくなってしまった。刑事が電話連絡に走ると、坂口は指名手配されていない奥田と三崎に車を預け、東京に行くように指示し、自分達3名はベースに戻った。

ベースに戻り、留守番をしていた坂東らに刑事と遭遇したことを話した。そして早急にベースを捨てて移動することが決まった。その夜、車に残された奥田と三崎は強引に森林法違反で逮捕された。



経過8

1972.2.14 榛名ベース跡発見される ※1
1972.2.15 森、永田 ベース発見の記事を読み、妙義山ベースへ急ぐ
1972.2.16 妙義湖畔にて奥田、三崎逮捕 その場に居合わせた坂口らは逃げる
1972.2.16 妙義湖畔で逮捕された2名と、森、永田以外の9名が山越えを開始する 
1972.2.16 迦葉山ベース発見される
1972.2.17 妙義山ベース付近にて森、永田逮捕 ※2
1972.2.19 山越え成功 しかし目的の佐久市には辿り着けなかった
1972.2.19 軽井沢駅にて植垣、青山、寺森、佐藤逮捕 
1972.2.19 さつき山荘からあさま山荘に逃げ込んだ坂口、坂東、吉野、加藤兄弟 銃撃戦開始      
1972.2.23 大井川ベース発見される
1972.2.28 あさま山荘銃撃戦、突入により終結 5名逮捕 

※1 坂東達がベース地を焼却した際、付近の住民が「不審火」として警察に通報していた。そして調査の結果、連合赤軍のアジトと確認された。

※2 前日に山狩りをしていた警官隊に見つかり上手くごまかしたが、今回はナイフで殴りかかるもののあっという間に逮捕された。当日の夕刊には「逃走中の2人逮捕」の見出しの下に逮捕時の写真が掲載されていたが、写真の下には「逮捕、連行される京浜安保の幹部らしい男と後ろは女性幹部の永田洋子」と記されていた。指名手配写真と逮捕時の容姿があまりにも違ったためだった。指紋の照合で翌日この男が森だと確認された。



山越え
残されているメンバーは9名、うち女性は2名。その中で指導者は、坂口・坂東・吉野の3名である。討議した結果、警察が追いにくいコースを選択した。

《決定したコース》
現在地(妙義山・籠沢洞窟)→妙義山頂(標高1,104m)→[尾根歩き]→谷急山(標高1,162m)→[麓に下りる]→和美峠→ハイキングコース→神津牧場→佐久市(ここで衣服を購入)→松原湖

事件終結後、妙義を調査した警察はあまりの難コースに驚きを隠せなかったという。切羽詰っていたとはいえ、そのようなコースを彼らは選び歩き始めた。

荷物は五万分の一の地図、磁石、懐中電灯を頼りに、銃器類を中心に出来るだけ運んだ。そのため生活用品はごくわずかしか運び出せず、食料も数日分しかなかった。昼はヘリコプターに発見される可能性が高いとして、山越えは主に夜間に行われた。

ひとつめの山場を越えた17日の早朝、缶詰などの簡単な食事をとって寝る準備をしていた。ところがラジオから「森と永田が逮捕された」というニュースが入った。午前9時のことだった。妙義山の籠沢の洞窟付近で、機動隊と格闘し逮捕されたという。メンバー全員がショックを受け、中には泣いている者もいた。

日が暮れるとまた起きて歩き始めた。

「急勾配の尾根を雑木に摑まってよじ登ったかと思うと、今度は岩場の崖を降りるなどして、前夜の雪の尾根越えより一層危険な前進を強いられたのである。特に岩場の崖下りが危険だった。紐で結んだ猟銃などの銃器を肩にかけ、暗闇の中の崖を一歩一歩足場を探りながら降りて行ったのだ。」
(坂口弘著「あさま山荘1972下巻」)

やがて山越えを達成し、平坦な道に出た。それまで皆を先導していた植垣が、肉体的に限界になってしまった。靴が壊れて足の凍傷が酷くなり、歩けなくなったのだった。

「 皆は、私が遅れていることに気づき、何度か待ってくれたし、坂口氏は、私のリュックを彼の軽いリュックにかえてくれたりしたが、私の遅れはひどくなるばかりだった。足はまるで丸太をかかえて歩いているようで感覚はなく、ただ激痛ばかりがしていた。私は、このままではかえって皆の足手まといになるのではないか、すでに最大の難所は突破したのだから私はいなくてもいいのではないかと思い、何度もその場で射殺してもらおうかと思った。しかし、皆が私に合わせて歩いてくれたので、とにかく歩けるだけ歩くことにした。」
(植垣康博著「兵士たちの連合赤軍」)

やがて包囲網を突破したが、地図に載っていなかった造成中の街(南軽井沢・レイクニュータウン)の存在に惑わされてしまった。彼らはレイクニュータウン付近に、かまくらを作りそこで休息 した。

2月16日の午後から19日の早朝までを山越えに費やし、歩ききった。



軽井沢駅での逮捕
2月19日の午前5時、坂口から「佐久市まで行き、食料、衣類、銃を入れるスキー用具を買ってくるように」との指示が出た。これには、凍傷の酷い植垣・青山・佐藤・寺森の4名が行くことになった。
登山靴の壊れた植垣は、坂口の靴を片方借りて出発した。

彼らはレイクニュータウン内を、佐久市に出る道を探しながら歩いたが見付からず、結局軽井沢に出て地図を購入し、そこから計画を練ることにした。
バスに乗ったが、何処で降りたらよいのか皆目分からず、結局終点の軽井沢駅についてしまった。しかし恐れていた警官はいなかった。そこで早く軽井沢から出るべく「小諸」へ行くことにして切符を買った。
午前7時59分・高崎発長野行き普通列車に乗車する予定だった。

列車が来る間、植垣は駅の売店(軽井沢駅弘済会)で煙草と新聞(新生一個、マッチ一個、朝日・毎日・読売の朝刊)を買った。
店員は「若い人のくせにいまどき新生を吸う人がいるんだな」と珍しく思った。お釣りを受け取る手が真っ黒に汚れており、プーンと鼻を突く臭いがした。その時、最近新聞を賑わせている過激派ではないかと思った。その店員はトイレに行く振りをして、助役室に飛び込んだ。報告を受けた助役は、時刻表を見上げる4名に注目した。近付くとやはりきつい臭いがした。結局、この駅員によって警察に通報されてしまう。

電車が来るまでいた駅の待合室でも、あまりの服装の酷さと異臭のため、注目を浴びてしまった。列車が発車する直前にホームへ出て、二組に分かれて来た列車に乗り込んだが、発車時間が過ぎても動かない。そこへ機動隊員や警官が集まってきた。植垣と青山は、3〜4名の警官に職務質問されたが、現住所をいう際ボロが出てしまった。

警官「現住所と名前を聞かせてくれ」
植垣「長野市内幸町の・・・」
警官「私は長野市に住んでいるが、長野市に内幸町なんてない」
植垣「なかったかなあ、おかしいなあ」
警官「列車から降りてくれ」

デッキに出た瞬間、向かい側に飛び降りようとし警官隊ともみ合う形になった。離れて座っていた佐藤と寺森も警官に囲まれながら列車を降りた。

そして4名は逮捕された。



さつき山荘へ
2月19日午前9時のニュースで若草山のかまくらに残っていた連合赤軍の5名(坂口・坂東・吉野・加藤次兄・加藤末弟)は、佐久市に着替えや食料を買いに出たはずの4名が、軽井沢駅で逮捕されたことを知った。どうして軽井沢駅に行ったのか残った彼らは理解出来なかった。しかし彼ら残留組は、このおかげで「まだ南軽井沢だ」と知ることが出来た。
後に佐久市郊外だと思い込んでいた場所が、地図に載っていなかった造成中の「レイクニュータウン」だったと知り、その存在に惑わされてしまったことを知る。

そのまま車を奪って都内のアジトへ行く 案が出たが、車を奪っても運転できる者は誰もいなかった。乗っ取る案もあったが、とりあえず次の待ち合わせ場所(茨城県の袋田の滝)を決めた。その時、頭上すぐ上をヘリコプターが巡回し始めた。「見付かったか」と焦り、急いでかまくらを壊してその場を離れた。昼間の移動は危険と感じ 、近くの空き別荘に入り込んだ。この空き別荘が「さつき山荘」(長野県軽井沢町大字発地レイクニュータウン・別荘番号1233号)である。

坂口と坂東は、ベランダに侵入して雨戸を外し、窓を少し壊して中に入った。他の者も後に続いた。
そして室内を物色し、マカロニを見付けた。台所でマカロニを茹でて調味料で味を付けて食べたり、お湯を沸かして、砂糖入りの紅茶を飲んだりして腹の足しにした。

食事が終わると、 悪臭や身なりの汚さで怪しまれた軽井沢駅の4名を教訓に顔を洗ったり、別荘にあった服に着替えたり、押入れにしまわれていた香水を振りかけたりした。

その後、坂口は吉野・加藤兄弟に、かまくらに置きっ放しの銃を取ってくるように指示したが、これに対し吉野は憤慨していたという。しかし、坂口は「靴を植垣に貸していたから頼んだだけで、両方揃っていれば自分が行くつもり」だった。そのため、いつも損な役回りの吉野の気持ちに全く気付いていなかった。

銃を取りに行った吉野らは、帰り道、適当にしか足跡を消さなかった。その時かまくらに残された銃器類は、ダイナマイト20本、手製爆弾1個、導火線3本、電気雷管116個、工業用雷管3個、散弾実包44発だった。
坂口と坂東は取って来た銃を分解し、土に埋める準備をした。それが終わるとしばらく休息をとった。



あさま山荘へ
午後3時、若草山辺りから足跡を辿ってきた機動隊員に見付かってしまった。皆がばらばらになった時の連絡先として東京のアジトが決定された。しかし森・永田が妙義山で職務質問された際、そこの電話番号を警察に 告げ、知られていたはずだから、墓穴を掘るようなものだったと坂口は後に語った。

しばらく銃で打ち合い、さつき山荘から脱出したがこのまま行っても襲撃されるだけだと感じ、一度山荘に戻り再度協議した。 脱出時、さつき山荘内に置いてきた銃器類は、散弾銃5丁、散弾実包37発、ライフル銃用実包2発、手製爆弾1個だった。

その後、改めて窓の外に飛び出したが、機動隊員は追ってこず、彼らは山の上へ上へと走って行った。この時、坂口は靴が片方しかなかったため、右足にタオルを巻いて走っていた。

そしてさつき山荘から0.6Km程先にある、「あさま山荘
」(長野県軽井沢町大字発地字牛道514-181番地/当時・河合楽器健康保険組合軽井沢保養所浅間山荘)へ逃げ込んだ。これは車が止まっていて、人の気配があるからだった。



籠城

午後3時10分頃、先頭を走っていた坂口は、あさま山荘の玄関ドアを蹴破って土足のまま中に入った。そして管理人室のドアをこじ開けた。中には、一人の女性がいた。管理人の妻であるMさんだった。坂口は、至近距離から散弾銃をMさんに向け、「静かにしろ!騒がなければ何もしない!」と大声で叫んだ。その後、怯えるMさんに「騒ぎさえしなければ何もしない」と今度は穏やかな口調で言った。

それから少しして坂東らが到着した。坂口が目を放したその隙に
Mさんは逃げようとした。坂口はMさんのセーターの裾を掴んで、「逃げるな!逃げたらぶっ放つぞ!」と脅した。

山荘内には
Mさんしかいなかった。Mさんの夫は犬の散歩に出掛けていて 不在、宿泊客はスケートに出掛けていた。山荘内の一番奥にある部屋( いちょうの間)をMさんに案内させて、ベッドのはしごに縛り付けた。

警察は午後3時20分頃から、あさま山荘の包囲を始めた。

坂口は
Mさんを人質として、警察に森・永田の釈放と、あさま山荘にいるメンバーの逃走を保障させようと思っていた。しかし吉野はそれに反対した。車を奪って逃げることを提案したが、車のキーは出掛けている 夫が持っているという 。吉野はそれならばと山に逃げることを提案したが、坂口と坂東に反対された。こうしてあさま山荘への籠城が決ま りつつあった。

車のキーは免許証と共に、バリケードを作っている時に発見されたが、彼らが車を使って逃走することはなかった。

3階にある「いちょうの間」(ベッドルーム)を拠点にすることになり、カラーテレビ、ラジカセ、置時計、冷蔵庫、灯油ストーブ、トランジスタ・ラジオなどを運んだ。その後、山荘内にあったもので着替えをした。
(坂口弘「あさま山荘1972」)
 
坂口 あさま山荘の管理人(以下M氏)のカーディガンを自分の青色のセーターの下に着込み、その上にこれもM氏の黒い色のスーツ上下を着込む。また、髪の毛が目の上に垂れてうっと 惜しかったからタオルではちまき。
坂東 黒色のスプリングコートを借用し、こたつの上掛けに使っていたカバーを引き裂いて、首にまいたり、目だけ出して頭からスッポリ被ったりした。
吉野 M氏の茶の地白線オーバーを借用し、緑色のマフラーを首に巻きつけたり頭から被ったりした。
加藤次兄 M氏のウグイス色のキルティングジャンパーを借用し夫人のあみかけの黄色いマフラーを首に巻きつけたり頭から被ったりした。
加藤末弟 M氏のえり付き草色ジャンパーを借用し、格子柄のマフラーを首に巻きつけたり頭から被ったりした。

1階から3階までと最後の バルコニーへのバリケード作りが終わると夕食にした。 冷蔵庫の中には、鶏のもも焼き数本、焼いたニジマス数匹、沢山の玉子、ハム、インスタントラーメン、干しくらげ、野菜類、レモン数個、瓶詰めのジャムなど沢山入っていた。先のことを考え、鶏のもも焼きは酢漬けにし、ニジマスは唐揚げにして保存食とした。他にも、酒類、漬物、お菓子や煙草(ハイライト)まであった。

メニューは、下準備されていた宿泊客用の白米とおでんにした。この時、
Mさんは食事をとらなかった(深夜、坂口はMさんに食事をとるように言うが、Mさんは拒否。箸で口元まで持っていくと、お義理程度に食べてくれた)。
そしてこの山荘に侵入した目的をMさんに話したが、Mさんは繰り返し解放するように要求するだけだった。このこともあり、人質を盾に逃走する考えを捨てることになった。

午後7時、久し振りに5名は電気炬燵に入り、カラーテレビを見た。テレビに映るあさま山荘は思っていたよりずっと、攻めにくく守りやすい立地だと思った。

結局「あさま山荘」に籠城し、
Mさんを巻き込んで10日間の銃撃戦を行うことになった。こうして彼らが目指した権力との殲滅戦は、意外な形で行われることとなった。最高幹部は逮捕される、一緒に闘うはずだった同志の三分の一を「総括」という名のもとに失い、様々なやりきれなさを抱え、既に山越えの時から、それぞれの気持ちがバラバラだった。



山荘内の補強と山の名前
《連合赤軍軽井沢事件》と名付けられたこの事件は、翌2月20日、 午前6時の呼び掛けから一日が始まった。
「こちらは軽井沢警察署長です。山荘内の学生諸君、いつまで卑劣な行為を続けるのだ。銃を捨てて出て来なさい」

坂口、坂東、吉野は、これからのことについて協議をした。そして「一日でも長く徹底抗戦を続けること、自分達からは絶対に警察に対して降伏しないこと」が確認された。その際、吉野が「徹底抗戦するのならMさんを人質にとっておく必要はない。解放すべき」と正論を言ったが、坂口は反対した。このことは加藤兄弟にも伝えられた。

坂東が責任者となって、山荘内の食料品をベッドルームに集め、計画を立てて整理をした。
食料は、米20キロ、砂糖4キロ、味噌1キロ、小麦粉1キロ、醤油、コンビーフ缶5個、味付け海苔半缶、みかん10個、りんご5個、カステラ、餅飴、飴玉、えびせん、羊羹、せんべい、角砂糖、水あめ、ウィスキー2本、人参酒1本、野沢菜と大根と白菜の漬物ポリ容器各1個ずつ、ビール20本、日本酒の一合瓶15本、コーラ・ジュース類50本だった。
坂東はメモをとり、「上手く使えば一ヶ月は持つ」と言った。山荘内の燃料類も確認したが、これは豊富にあった。

バルコニーを畳で補強し、Mさんに「人質ではない」と中立を誓わせ、彼女の縄を解いた。その後、山荘内に銃眼を作った。

21日、自分達の名前をニックネームに変えた。

以下は、あさま山荘内で彼ら自身が、盗聴や人質に身分が割れないようにと付けたニックネーム。
逮捕までこの山の名称で呼び合った。警官とのにらみ合いは続いていた。
 
坂口 浅間 今いる山荘の名前をそのままつけた。あさま山荘なので「浅間」
坂東 立山 さんざん悩み「立山」に決めた。
吉野 富士山 富士は日本一の山。呼ぶ時に自然と「さん付け」となる 。
加藤次兄 赤城 上毛三山(榛名・妙義・赤城)の中より、ベースに使用していない「赤城」を選択。
加藤末弟 霧島 メンバーの中で最後まで決めかねたが、霧島山から「霧島」

《例》「おーい、浅間さん。玄関先に妙な男が来ているぞ!」

 



呼び掛けと発砲
2月20日、Mさんが解縛された頃、Mさんの夫によるマイクを使っての呼び掛けが行われた。
「元気でいてくれ、一目だけでも姿を見せて欲しい」と訴え続けた。食事もほとんど口にせず、やつれ切っていた。傍らには事件発生時、Mさんの夫と共に散歩に出ていた犬の「チロ」がいた。

21日、さつき山荘などから見付かった指紋を調査した結果、あさま山荘内に吉野がいることが確認された。そこで警察は吉野の両親と、恐らく一緒にいるはずと睨んだ坂口の母親を呼び出した。そして、吉野の両親と坂口の母による説得が行われた。
山荘内のメンバーは、ベッドルームに集まり説得を聞いていた。

その後も、再度Mさんの夫や、吉野・坂口の親からの呼び掛けがあった。更にMさんの母や親戚、坂東の母、心理研究家や山岳ベースで亡くなった寺岡の両親までが、警察の要請であさま山荘前で呼び掛けを行った。

22日、吉野の母親が説得に当たった時、すぐに吉野が猟銃で発砲した。そして「お母さんが撃てますか」と呼び掛けた時にも再度発砲した。ベッドルームに戻って来た吉野の目が潤んでいた。

同じ22日、包囲網を越えて山荘玄関に立ち、連合赤軍に声を掛けた一般人(男性)が襲撃された。坂口は、なにやら怪しい動きをしていたため、警官と勘違いをして発砲した。その後「痛い、痛い」と言いながらも、自力で救急車まで歩いていった。警備陣は「弾がそれた」と一安心したが、収容先の病院で亡くなった。その男性は麻薬 を常用していた。



カップヌードル
厳寒の中で警備をする機動隊員の食事は、主におにぎりや弁当だった。しかしふもとで作り、急いで山荘付近まで運んでも寒さでカチコチに凍り、とても食べられる代物ではなかった。

そこで急遽、東京(警視庁警備一課)からキッチンカーを2台取り寄せ、お湯を沸かすことになった。その時、一緒に運ばれたのが「日清・カップヌードル」である。

日清・カップヌードルは1971年9月に発売された。当時ポピュラーだった袋麺とは外見が全く異なっていた。「どんぶりいらず、お湯を注ぐだけ」で、どこでもそのまま食べられるという斬新なアイデアだった。しかし知名度が低かった。おまけに値段も高かった。当時、袋麺が1個30円 だったのに対し、カップヌードルは1個100円だった。

カップヌードルは、機動隊員たちにとって貴重なぬくもりになった。その美味しそうに食べる姿を見て、報道陣もこぞって買い求めたという。仕入れ値の50〜70円前後で販売 された。
どこのテレビ局も「あさま山荘事件」の中継をしていたが、山荘内に動きがない時に機動隊員の姿を映していた。その際、カップヌードルを食べる姿も何度か中継され、思わぬ「宣伝」となった。


そして、その年の売上げが67億円となった。(1971年は2億円の売上げだった)その後も売れ続け、現在もカップラーメンの元祖として、堂々と棚に陳列されている。



2月28日
2月28日午前9時55分、長野県警本部長は連合赤軍に 対し「白い布を持って出て来なさい」と最後通告を突きつけた。しかし連合赤軍はこれを無視し何も答えなかった。
そして午前10時、行動開始の指示を発し、警官隊が突入を開始した。

ガス弾を打ち込み、クレーン車に据え付けた2トンの鉄球で山荘の壁を破壊した。その後機動隊の「突入隊」が後方から、発炎筒と放水の援護を受けながら山荘の1階と3階から内部に入り込んだ。3階の一室と屋根裏にこもった 連合赤軍メンバーは、ライフル、猟銃、手製爆弾で激しく応戦し、警官2名が死亡、5名が重軽傷を負った。



人質救出と犯人逮捕
警官隊が突入して8時間後の午後5時50分に、玄関東にある「いちょうの間」に突撃隊と機動隊がなだれこんだ。 連合赤軍メンバー5名は、管理人の妻で人質となっていたMさんと共に屋根裏に追い詰められた。屋根裏から再び「いちょうの間」に降り、布団の中にうずくまっていたMさんが無事救出されたのに続いて、午後6時15分に 連合赤軍メンバー全員が逮捕され、びしょぬれのまま報道陣の前に姿を現した。そしてその前を見世物のように歩かされた。それぞれ両脇をがっちりと抱えられて ており、首には番号札が掛けられた。1番・加藤末弟、2番・吉野、3番・加藤次兄、4番・坂東、5番・坂口。加藤兄弟は静かに歩き、吉野は抵抗、坂東も抵抗。坂口は抵抗しつつニヤニヤしていた。

この日、各テレビ局は大幅に番組を変更し、現場中継を夕方まで流し続けた。NHKの連続放送をはじめ、民放もCMを省いて放送した。視聴率は89.7%にも達したという。
アサマ タテヤマ フジサン
坂口弘 坂東國男 吉野雅邦



留置場にて
逮捕後、5名は軽井沢署に連行された後、長野県内にあるそれぞれ違う警察署に移された。坂口は臼田署、坂東は佐久署、吉野は上田署、加藤次兄は小諸署、加藤末弟は丸子署だった。 幹部は完全黙秘。

それぞれの様子。
[坂口]
両手首に切傷、右のスネにかすり傷を負っていたが、元気。フロにはいり、ぐっすり寝た。29日午前7時起床。ふとんをきちんとたたんだあと、毛布の上にあぐらをかき、考え込んでいた。朝食をむさぼり食い、お茶2杯、みそ汁を一気に飲んだ。ひとことも言わないが態度は素直。

[坂東]
額に打撲傷、くちびるに傷を負っているほか、からだの異常はない。11時すぎからフロにはいった。ふとんのしき方を看守に説明されると、素直に聞いていた。空腹を隠そうとせず、夜食をかっこみ、お茶をおかわりした。

[吉野]
医師の診断を受け、手足に少し切り傷があるだけで健康。看守が入浴などを伝えたが無言。無視しようとさえしているようだった。29日は朝7時すぎ起きた。所持品の預かり書に指印を押すよう促しても、そっぽを向いたまま。前夜、寝たフトンを留置所から出すようにとの、指示もまったく受付けなかった。朝食はメシ粒を一つ一つ、最後まできれいに食べた。よほど空腹だったらしい。その後、頭をかかえて考えこんでいたが、壁に寄りかかって居眠りしていた。

[加藤次兄]
小諸署で夕食。医師の診断では異常なし。入浴後就寝。ぐっすり眠った。29日朝7時、目がさめると、さっさとふとんを片付け、自分で房内を掃除した。毛布の上にすわり込み、うつむいて、じっと考え込んでいた。
朝食後、係官が交代の時、「眠れたか」と声をかけると「はい」と素直な返事。9時ごろから毛布の上で、あぐらをかいて居眠り。ふっと目をさまして、あたりを見まわす。「寒いか」と係官がたずねると「寒いです」。

[加藤末弟]
28日の夜から29日の午前中にかけての捜査員の問いに対して名前をはっきりといい、生年月日は「昭和○○年×月△日です」と答えた。「高校は1年生だけど、去年の10月か11月頃中退した。学校は名古屋のA高校です」と県立高校の名前をいい、「自分は五(?)男坊だ。おやじは小学校の教師だ。世の中や家庭がおもしろくないので家を飛び出した。スカッとしたかった」などと身の上話から家出の動機を語った。
また浅間山荘の中での生活については「暖房は使ったけど、フロはここ20日ぐらいはいっていない」といった。
なぜ、過激派の行動に身を投じたのか、については、まだくわしい供述をしていない。29日の調べの中で追求されるが、犯行についての全面供述も時間の問題とみられる。
(朝日新聞/昭和47年2月29日・夕刊)


 


連合赤軍・5 その後の連合赤軍へ 

 

 

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