「吉祥寺おばけ屋敷 1971 - 74」 吉祥寺を通りぬけて 右へ左へとほんの少し
そうさ今日は良い天気 とてもよい気分だから 君に会いに行こう 待つことの程もなくに ロングヘアーが疲れていた君は 寝不足気味乍らも やっと朝のごあいさつ そうご機嫌いかが 70年代の日本のフォークとロックの中で、個人的ではあるのだがベスト10に入れたいアルバムと曲がある。斉藤哲夫の『ばいばいぐっばいさらばい』、そしてその中の最後を飾る「吉祥寺」だ。 この歌詞の「通りぬけて右へ左へとほんの少し」、そこにアーリー・タイムス・ストリングス・バンドのメンバーの住む一軒家〈通称・おばけ屋敷〉があった。そして「ロングヘアーが疲れていた君」は、渡辺勝のことである。 おばけ屋敷は東京・吉祥寺の、つい最近まで近鉄百貨店だった建物の路地1つ裏手にあった。100坪近くの平屋。庭があり、現在も空き地になっているその場所を見ると、かなり広い家だったのだろう、と思う。 「最初は僕がその家に出入りしてたんだよね。そこは元々、作家になった青野聡が住んでいたんだ。それで青野さんがヨーロッパに行くということになって、じゃあその後に住んでたら、って鍵を預かったわけ」(渡辺勝) それが1971年頃。鍵を預かったといいつつ、住んでいた人間はほとんど鍵を見たことがない、と言う。鍵なんてかけたことがなかったからねと大笑い。 「みんなほとんど働いていないから、誰かしらいたしね。朝起きるとさ、住人以外にも知らないヤツが寝てたりして」(渡辺) と言いつつ、後で当時、斉藤哲夫と一緒にやっていた白井良明に聞いたところによれば「あー、家、行った、行った! なんか哲夫が用があるとかって行って、行ったら誰もいなかったんだよ。鍵かかってなくて、ガラッて開けて中にドンドン入ってくんで、ビックリした覚えあるよ、オレ」……で、仕方なく帰ってきた、と言っているので、やっぱり誰かいてもいなくても、鍵をかけなかったんじゃないだろうか。 もちろん、この家にはアーリーのメンバー以外の住民もいて、入れ代わり立ち代わり、誰かしら住んでいたのだ。たとえば玄関脇の部屋に住んでいたすけべことエイスケ、おばけ屋敷から傘をささずに駅まで行く壮大な計画の元に、庭に穴を掘ろうとしていたツジマルくん(この穴はその後、ゴミ捨て穴になったらしい。現在も庭だったあたりになんとなくへこみを感じるのは、この穴の名残?)などなど、それぞれのエピソードを聞くと、笑いころげながら1日は話を聞くことができる。 「同級生か誰かに誘われてぐわらん堂に行くようになったんだよね」と言うのは、当時、明星学園に通っていた今井忍だ。アーリーの最年少、渡辺勝言うところの「ルックス採用によるヴォーカル・ギター」は当時17歳。学校帰りに寄り道(?)をしているうちに終電を過ぎて家に帰れず、誰かのところに泊めてもらう。そんなことを繰り返すうちに「タダみたいな家賃で住めるところがある」と転がりこんできた。 キンちゃんこと竹田裕美子は、唯一、この家に住んでいなかったメンバーである。立教大学の後輩として渡辺勝に出会う。 「そのころはピアノやってます、っていう、フツーのお嬢さんだったから、なあんにも知らなくってね、なんだか岡林信康とやってるとか、その頃の勝はすでに音楽の仕事をしていて、ちゃんとそれで稼いでいるみたいな話で、うわー、すごいなー、って感じだったのね(笑)、私にしてみれば。で、ひっついて回っているうちに……」(竹田裕美子) そうこうするうちに、大阪から中川イサトとともに上京していた村上律がやってきた。律&イサトが解体し、中川イサトは大阪に戻り、村上律だけが東京に残った。 「まあ、せっかく出てきたし、大阪帰っても同じやしなあ。もうちょっと(東京に)居とこか思うたし、住めるとこある言う話もあったし(笑)」(村上律) と、おばけ屋敷の3畳ほどのサン・ルームに。 「シメタ!と思ったんだよ、僕は(笑)」と渡辺勝。「アテンション・プリーズの頃からファンだったんだ!(笑)」 村上律は大阪ですでにいくつかのバンドを経てきての、律&イサトでの上京であった。 律&イサト以前に、アップル・パミスというバンドを、そのさらに前のバンド、それがアテンション・プリーズである。 「ずっとアーリーみたいな音楽をやりたいなって思っていて、そこに律っちゃんがやってきて、これはできる!って。ここからはもう確信犯だったんだけれどもね」(渡辺勝) 渡辺勝は当時、すでに鈴木慶一らとはちみつぱいで活動している最中。 「どんどんアーリーがおもしろくなっちゃってね。ついに、ぱいのライブや仕事をサボって京都かどこかにアーリーで行ったんだけど、そしたらデパートの屋上かどこかでぱいがやっていて、バッタリ会っちゃってね(笑)」……どうも、いわば既成事実的(?)にアーリーへと移行してしまったらしい。 確信犯になった渡辺勝は、次に村上律に「ありちゃん(松田幸一)、東京に出てこないかな」と言った。アーリーの音にありちゃんがいたらもっといいな、と。 「梅田のバンビ、や。バンビで律っちゃんに会ったら『出てこんか、住むとこあるし』って言われて」(松田幸一) バンビは、中島らものエッセイにも登場する大阪の梅田にあるジャズ喫茶で、80年代に代替わりして改装してしまったので昔の雰囲気はないが、72年当時はとにかく自称アーティストからミュージシャンやら学生やら、いろいろな人間がたまっていた。 「それで何日かして、レンタカー借りて楽器と家財道具を乗せて」東京までやってきた。 行きがけに難波にあった喫茶店ディランに顔を出し「これから東京に引っ越してくるわ。誰か行くヤツおる?」と、ついでに何人か乗せてきた。夜通し運転して、早朝に吉祥寺に到着。 「ようやく着いた、って玄関あけて、うわっ、このまま帰ろうか、って思った(笑)」とは松田幸一の談。何しろ「おばけ屋敷」の異名をとる家。家の中はぐちゃぐちゃで誰も片づけていない。その上、苦手の納豆の匂いが充満していたのだそうだ。 「あの頃、みんな貧乏だからいつも納豆飯だったからなあ(笑)」(今井) そんな壮絶な場所に女の子でよく行ってたね、と竹田裕美子に聞く。すると 「そんなことより、もっとおもしろいもの、おもしろいことがあの家に行けばあったんだよね! それを越えても、っていう」……なるほど。 実は松田幸一の加入直前、アーリーは初ステージを踏んでいる。72年、五つの赤い風船の解散コンサート、日比谷野外音楽堂でのオープニングがそれ。山本コータローのナレーションが終わると同時に、風船が上がり、斉藤哲夫が「吉祥寺」を歌い始める。そのバッキングがアーリー、である。これはこの年開局のTVKによって作られたドキュメンタリーがあるので、その中に1分程の映像が残されている。(別の仕事でぐあらん堂の村瀬雅美に会って話を聞いていたところ、この時のベースは村瀬さんだと判明) 「とにかく東京の知り合いなんていなくて、その上バンドで大人数だから泊まるところに困ってね。そんなときに、はちみつぱいの和田(博己)くんが『勝んとこ泊まれるよ』って教えてくれて。行ってみたら、すごいボロ家(笑)なんだけどとにかく広くて。布団が壁に張り巡らせてあってね、夜中でも楽器鳴らせたんだよね」 と当時ごまのはえでこの家に泊まった伊藤銀次は電話で話してくれた。布団をめぐらせた部屋は、玄関あがって右手にあった10畳ほどの元リビング・ルーム。現在も使っている足踏みオルガンやドラムセットやアンプ類が置かれた「スタジオ」だった。もちろん、ここに泊まったのはごまのはえばかりではなく、後に鈴木茂のハックルバックに参加したドラムの林敏明などもいる。当時は加川良のバックをやっていて、東京に来ると「朝まで飲むか、アーリーの家に泊めてもらうか」だったと言う。 野沢享司はある日、斉藤哲夫と一緒にこの家に遊びにきて、住人の一人の女性がまるで錯乱したようになって大立ち回りをしている所に遭遇。なぜだかこの女性を説得することになってしまったとその時の話をしてくれた。いち早く吉祥寺に住んでいたシバは、この女性が美術予備校に通っている頃、同じ学校に通っていたというし、青野聡が住む前の住人、舞踏家の石井満隆の奇行と弟子らしき人たちがこの家に住み着いていたのも知っていたと言う。知り合いもその弟子の一人になってしまったんだ、と。 「だからみんながあそこに住んだって聞いて、ええっ、あの家なのー!!って驚いたんだよな、オレ」(シバ) 「いろんな人がいたんだよね」と中川五郎も言うように、まだまだこの家にやってきた人は大勢いる。今回の取材で集まった話はどれもこれもおもしろく、その当時の吉祥寺の空気が流れてくる。紹介しきれないのが残念だし、まだ話を聞いていない人たちもいる。いつかどこかにまとめてみたいものだ。ここには全員の話を聞いて、どうやらこんな家だったらしい、という図を載せるにとどめておこう(ただし、ご考慮頂きたいのは、なぜだか全員の話を聞いても、家の全体が分からないという不思議な家である) とにかく、ついにありちゃん登場でアーリーは本格始動となる。渡辺勝、村上律、松田幸一、今井忍、竹田裕美子、高橋至(現在、関西に在住)。当時の音は先に出ているシールズ・レコードからの、当時の自主盤の復刻CD(ボーナス・トラック入り)で聞くことができる。この新しいアルバム『ブレイク・タイム』と大きく違ってはいないと感じるだろう。けれどももちろん、それぞれのメンバーのそれぞれの音楽のキャリアの積み重ねと豊かになった分、今のアーリーの音色は更に洗練されて、楽しげに自由にそこにある。まるで時間をゆっくりかけて熟成した、美味しいお酒のようだ。 アーリーはメンバーが喧嘩別れしたわけではなかった。村上律が結婚して、おばけ屋敷を出たことや、取り壊されるということで、徐々にみんなが引っ越して行ったり、いろいろな理由が重なったのだ、という。前述の復刻CDのライナーノーツの巻末に、当時のキンちゃんの手帳の写しが掲載されている。73年12月3日に「CBS Recording、没、解散決定」と書かれている。アーリーは当時、ソニーからシングル「鐘が鳴る丘待ちぼうけ」をリリース(1973年7月21日)している。そのマーケティング調査では人気1位、期待の新人バンドだったのだという。 「僕が当時、アルバムを作るにあたってディレクターと喧嘩したんだよね。あんまりにもトンチンカンなんで『ヤメル!』って。で、解散を口実にしようって。だから、一応解散したことになってる」(渡辺勝) こうしてアーリーは1972年から73年(実際には74年まで少しスケジュールは残っていたので、活動している)という短い活動期間を終え、それぞれがそれぞれの音楽を続けていくことになる。松田幸一、村上律はラスト・ショーに参加。そして渡辺・今井・竹田はキリギリスとしてホーボーズ・コンサートにわずか2曲とは言え、その音を残している。 「2000年8月、小淵沢」 「夢のようなお家だった。いつでも音楽ができて、誰かしら音を鳴らしていて」 おばけ屋敷について、中川五郎夫人でありシンガー・ソング・ライターでもある青木ともこがこう話してくれたのは、アーリーのアルバム・レコーディングが行われている、小淵沢のスタジオに向かう車の中だった。 アーリーがレコーディングすると聞いたのは夏直前。あーさんこと青木ともこの歌が聞きたくて聞きたくて、3月についにライブをやってもらった。その時のバンドに今井忍がいて、今井忍から話を聞いたのだった。するとあーさんが「近くに泊まれるところがある!」と言うので、彼女と愛犬のまたさぶろうと連れ立って出かけたのだ。あーさんは料理がうまい。そして料理を作るのがとても好きな女性でもある。行く前から行くなら夜食作って差し入れしよう、という計画だったので、あれこれ材料や調味料を青木さんは持って出たのである。……が。 小淵沢アーリー録音初日。夜、電話が来る。「どうやらまかないを作ってくれるはずの女の子が来なくなったみたいなんだよね……」 そんなわけで急遽、夜食が夕食に切り上げられ、物見遊山だったはずの私たちはまかない隊に変身した。 小淵沢のスタジオは、一軒家のロッジ風の建物で、歯医者さんの持ち物だそうだ。周辺は牧草地に囲まれている。一階表は歯科医があり、裏にリビング兼キッチン、2階が録音スタジオ、3階のロフト部分は宿泊できるようになっている。メンバーが録音中、この1階キッチンで夕飯を作る。 大量のみじん切りをしていたところ「まないた中止!」伝達が来る。包丁の音が建物の中に響いて、一緒に録音されてしまうというのだ。包丁の音ばかりではなく、夜になると周辺の牧草地の虫の声が東京では考えられないほど高く、その音色も入りこんでくる。もちろん、録音はいろいろ重ねられているので完成した盤からそうした音は聞こえないだろうが、例え残っていたとしても虫の音も包丁の音もきっとアーリーの音色の一つとして溶け込んでしまったに違いない。アーリーの音楽の不思議は、なんでも音楽になっていってしまう自由さにあるような気がする。 レコーディングには京都で活動している、ふちがみとふなとの船戸くんがベース、そしてつの犬がドラムで参加している。二人とも、まるでなんの違和感もなく一緒にアーリーのメンバーと過ごしていたように思う。いつの間にか一緒に皿を洗っているし、部屋の片隅に布団にくるまって転がっていたし、多分、おばけ屋敷にいろんな人がやってきていろんな音楽を奏でてアーリーができあがっていったように、この小淵沢でも同じように音楽と人とが過ごしていたのではないだろうか。偶然にも一軒家のスタジオの中でアーリーの新しい音が刻まれた。17年の時間の流れの中で、再び出会ったアーリーの音は1軒の家の中で鳴っていたのだ。なるほど、今回もまた「家」なのだ。(蛇足ながら、トラック・ダウンとダビングが行われたのも、茅ヶ崎にある個人の家に作られたスタジオだった) だから。 この『ブレイク・タイム』は新しいアーリーなのに、まるで時間などたっていないかのようでもあり、なんとも言えない暖かさもあり、音楽の後ろで笑い転げているメンバーの顔が浮かぶ。何より素敵なのは、全員が現役で音楽を作り続けているということだ。 渡辺勝はアルバム『シルバラード』を発表したばかりだし、竹田裕美子は新生・五つの赤い風船を含め、あちこちのライブでその演奏を聞くことができる。ハモニカ奏者として世界的にも評価される松田幸一も新しいアルバムを録音したばかりだし、ザ・ブームのアルバムでひょっこり村上律がバンジョーを弾いているのをみつけたり、ペティ・ブーカのアルバムに今井忍の名をみつけるのも嬉しい(ちなみにこのアルバムの新曲「花から人へ人から花へ」は彼の別ユニット、ボーイ・ミーツ・ガールの尾上文との楽曲である)。そうした顔ぶれが揃って、なんと17年ぶりに初のアルバム・レコーディングである。そして互いの音楽の滋養をたっぷりと出してくる。アーリーの音楽は、何年たっても、いつやったとしても、それぞれの音楽経験が豊かになればなるほど、豊穣になっていくのだ。不思議の楽しい、唯一無二の音楽、である。 家をはるか 離れても 何にも、何にもはなさない ぼくの家がある (「ぼくの家」) こういう音楽が日本にもあることが、とてもほっとする。 (2001年2月 川村恭子 晩春改訂) |
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