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| さいとう・しょうじ (1851〜1937 享年86歳) |
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| 斉藤ご夫妻(昭和2年頃) |
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元庄屋・斉藤正治翁は、朝地町南部の上尾塚、坪泉地区を潅漑する上坪(かみつぼ)水路建設の発起人です。この地域は独立した3つの尾根から構成された標高300mの台地で、竹田市市街地より約80m高い位置にあります。明治40年代より水路建設の実現に向け準備が進められ、幾多の苦難もを乗り越え大正11年7月ついに通水の日を迎えました。翁は亡くなる前年の昭和11年5月7日、組合員と上坪水路への想いを込めた遺書を遺されています。
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| ・・・組合員と袂別(べいべつ)の辞となす |
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| ・・・将来に希望を遺すこと次の如し |
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| 遺書全文 |
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| 上坪組合に贈る『遺書』 齋藤正治 |
上坪井路組合に對して希望を遺す
上坪井路開鑿経過に就いては石文に残せる處あれど詳細を盡さざる点あれば之が補足をなすと倶に将来の希望を遺すこと次の如し
一、井路の起源
上坪井路の起工は大正十年三月となり居れど既に明治三十四五年の頃より、直入郡宮城村字市用蛇斬堰に水源を需め、或は明治村小中尾折立川に、或は宮城川松尾取入口等の踏査又は測量を為したるが後二十有余年に到り此の水源を発見、大正十一年七月漸く通水を見るに至りしなり
二、水源河川に就き
水源を川宇田、橋宇津に需め、井堰の認可を得んとして関係地方人の同意を経べく数多の関係者に集合懇望すれば意見區々泥々何れも上坪に不利なるのみか容易に纒まらず、斯る状態を繰返すこと幾度なるかを知らず、其際の如き事業遂行絶望なりと歎息せしこと幾度なりしかしらざりき
三、路線買収と開鑿
一、田畠
田畠を買収し通水すべく交渉に及べば種々なる苦情続出し、中には田圃の中に井路を掘れば田圃は皆旱魃となるなどのデマを飛語し全部の田圃の買収を迫られ、又実際開鑿するに至りても常に苦情頻々として続出、其辛苦困難到底筆舌の克く盡す處にあらず
二、山林原野
山林原野の底部を発掘隧道を貫通せんとすれば、其苦情又田畠に継ぎ開鑿の箇所の地主の土地なるや否やの疑わしき所にても、殊更に問題を醸し苦情を並べ到底手の附け様なき状態を繰り返したる事多かりき
三、道路の開鑿
道路関係の土地に井路を通ぜんには、其地の役場の同意を経べきものなるが故に之が同意を経べく幾度か関係地の役場につき交渉をなし其の骨折たる事幾ばくたるかを知らず、殊に明治村の苦情に至りては到底筆舌の盡す處にあらず、斯くの如くして隧道、明渠、樋等実に四千余間を貫通せり
四、地區内支線
地區内の支線五千余間に及ぶと雖も地區外の夫れに比し較ぶべきものなく易々坦々として進捗したり。而して大正十一年七月初め通水を見るや従来井路に反対し其同意書だに調印を拒める人々も初めて開田の成るを慮りたるか、大に歓喜して水路を迎えるに至りしなり
五、通水の後
されば堀家地区の如き一ヵ年後には強いて組合加入を希望され、遂に加入を見たり、茲に於て開田実に五十余町歩の廣さに及び美田穣々米麦を産すること無量なり。其他地區内の古田旱田にも灌水せられ、又家庭使用並に水車等に迄で用ひられて、其受益甚だ鮮少ならず、水量寔に豊富、資金償還の途も亦順調に其成績頗る挙がり、今となりては組合役員の如きも争ふてそれを希望せらるる者続出するに至りたるはまことに同慶に堪へざるなり
然るに予も亦八十有五歳の老齢を重ねぬれば、組合員諸彦と永遠の袂別を告ぐるの日遠からざるべし之を以て組合員諸彦、余の盡したる事業にして聊かなりと地方を裨益することあらば此の事業を永遠に記念すべく余の辞世の日を以て何事かを記念せられ上坪井路の地區内一般に及ぼせる恩恵を偲び、以て其由来を永遠に語り傳へられんこと庶幾うて止まざる次第なり。是を以て組合員と袂別の辞となす。
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昭和拾壱年五月七日齋藤 正治
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| 上坪事務所前にて(昭和27年頃) |
斉藤翁頌徳(しょうとく)碑 |
水恩祭の様子(平成14年) |
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